第9話 向かえ、新たな場所。

X年9月14日


 「優、起きろ」

 「ん……?」

 耳元で僕を呼ぶ声がした。

 僕は、いつの間にか寝ていたらしい。ゆっくりと瞼を開けると、真っ暗だった電車は明るくなっており、隣で寝ていたへーちゃんは青い瞳に寝ぼけている僕の間抜け面を映していた。

 電車は乗客が増えていて、知らないうちに全ての座席が埋まっていた。前に座っていたカップルは既に降車したようで、そこにはおじいさんとおばあさんが静かに座っていた。

 「おはよう……。今、何時?」

「7時45分。あと15分くらいで着くぞ」

「うん」

大きく体を伸ばすと、左肩が重かった。それは、昨日へーちゃんが寄りかかっていたからだろう。ポキポキと鳴る肩に僕は苦笑しながら、窓の外を見た。

見たことのない風景が広がっている。色んな高い建物があちこちに見えて、何だか都会という言葉がぴったりな場所だった。空気はさぞかし美味しくないのだろう。

「へーちゃん、寝れた?」

「ああ」

へーちゃんは首肯する。そして、相変わらず僕をじっと見つめている。

「僕の顔に何かついてる?」

見られることが恥ずかしくて、僕はつい作り笑いをしてしまう。それでもへーちゃんは僕から視線を外さなかった。

「……いや、お前は本当に損な性格してるよなって思っただけ」

「そんなことないと思うよ。それに、僕は損得で動いてるわけじゃないから」

「……」

「へーちゃんじゃなかったら、僕は一緒に来てないよ。誰にでもやるわけじゃない。それに、わかってるんだ。君を本当に思うなら、止めるべきだったんだって。それでもここまで来たのは、僕のエゴ」

「俺は、そのエゴに救われてる」

ポツリと呟く彼の意外な言葉に、僕はつい驚いてしまった。

救われているのだと、彼が言った。それは、彼が僕に気を遣っているのかもしれないけれど、それでもこんな僕でも彼の役に立てていることが嬉しかった。

「何で泣きそうになってんだよ」

「ごめん……だって、へーちゃんにそうやって言われると思ってなかったから」

僕が笑うと、へーちゃんは「大袈裟だな」と呆れるように笑った。へーちゃんは相変わらず顔色が悪かったが、それでも昨日よりは随分表情が穏やかだった。まるで、覚悟を決めたかのようだった。

「行くぞ」

「うん」

僕らは到着予定時刻の8時ぴったりに目的地である向江市に着いた電車を降りた。ホームはたくさんの人で溢れている。僕らは慣れない人波に飲まれながら何とか改札を抜けた。

外に出ると恐らく出勤のためなのだろう。たくさんの車が走っていた。歩いている人も制服を纏っている人が多く、そういえば今日は金曜日だったなと他人事のように感じた。

「はじめてきたけど、向江市って都会なんだね」

「みたいだな。空気が不味い」

「うん、本当に……」

住んでいた場所が恋しくなるような都会の賑やかな雰囲気に、僕らは既に疲れを感じていた。僕は元から人混みが苦手だった。へーちゃんも疲れがあるからか、顔を引きつらせた。

「おい、腹減ったか?」

「え、あー……ちょっとね。でも、大丈夫だよ。へーちゃんは食べないんでしょ?」

「俺のことはいいんだよ。何か食ってくか?」

「でも」

「昨日は余裕なさすぎたな、悪かった。何か食おうぜ」

昨日は僕のお腹事情なんて気にもとめていなかったへーちゃんは、言うや否や駅前のファーストフード店まで歩き出していた。僕は慌てて彼を追い、隣を歩く。僕よりも少し背の高い彼はポケットに手を突っ込んだまま前を向いて歩いた。

ファーストフード店に入ると、へーちゃんは僕に何も聞かずに激辛チキンバーガー1つとコーヒーを2つ頼んだ。僕に財布を出させる間もなく会計を済まし、飲み物だけもらって店の一番奥の席まで進む。

椅子に座ってから僕が財布を広げると、へーちゃんはギロリと僕を睨んだ。

「いらねぇ」

「でも、僕のご飯でしょ?」

「いいから黙って奢られろ」

「あ、ありがとう」

僕が財布をリュックにしまうと、へーちゃんは「ふん」と鼻を鳴らしてそっぽ向いてしまった。僕も無言になってハンバーガーを待った。

5分も待たずに店員さんが笑顔でハンバーガーを持ってきてくれた。チキンは赤く、いかにも辛そうだった。僕は、店員さんが去ってからへーちゃんに「いただきます」と言ってかぶりつく。ちなみに、僕は朝からガッツリ重いものも食べられる。かつて世間話程度でしたその情報を、へーちゃんが覚えていたのが驚きだ。

「……お父さんの住所以外に知ってることってあるの?」

口の中にピリピリと刺激が走った。僕は、その美味しさをしっかりと味わいながら、コーヒーにバカみたいにシロップを入れているへーちゃんに聞く。へーちゃんはそのいかにも体に悪そうなコーヒーを一口飲んだ。

「知らねぇ。俺が知ってるのは、本当に住所だけだ。……これも3年前のだから変わってるかもしれねぇけど」

「会えなかったら、どうする?」

「どうもしない。これで終わりにする。だから、お父さんがいてもいなくても、今日でお前とはさよならだ」

「え」

パンとパンの間からチキンが落ちそうになり、僕は咄嗟に手でチキンを受け止めてしまう。それを見たへーちゃんが「汚ねぇなぁ」と言ってテーブルにあった紙ナプキンを渡してくれる。

「えっと、ありがとう……じゃなくて、何で?」

「何で? お前、約束しただろ。俺が帰らなくてもお前は家に帰れって。電車ん中で色々考えたけど、俺はやっぱりもうあの家には戻らねぇよ。戻ったところで意味ねぇし」

「でも、ここにいてどうするの? 住むところないじゃん。まさかホームレスにでもなるつもり?」

「まだ考えてない。でも、少しの間なら安いビジネスホテルくらい泊まれるし、それで少し考える」

へーちゃんは眉間にシワを寄せながらそれだけ言ってコーヒーを一気飲みした。僕も慌ててハンバーガーにかぶりつくと、へーちゃんは汚いものでも見るようにますます眉間のシワを濃くした。

「ゆっくり食え。待つから」

「でも」

「マジで食い方汚すぎ」

へーちゃんに言われて手を見ると、いつの間にか手にはトマトの汁やらマヨネーズやらがベットリとついていた。僕が凹んでいると、へーちゃんは大きく溜め息を吐いた。


僕がハンバーガーの最後の一口を口に入れるのとほぼ同時に、へーちゃんが立ち上がった。僕はもう店を出るのだろうと思い、慌てて飲み物で口の中の物を流し込もうとすると、へーちゃんが首を横に振った。

「便所行くだけだから」

「え、大丈夫? 具合悪い?」

明らかにさっきよりも顔が真っ青で、お腹を左手で押さえている。

「大丈夫……吐けばスッキリする気がする」

「え」

戸惑う僕をよそに、へーちゃんはゆっくりとトイレに向かった。僕を置いてく気はないのだろう、彼のリュックは椅子に置いたままだ。

「……」

それから10分待ったが、戻ってこない。トイレの方をガン見して監視していたが他の人の出入りがあるだけでへーちゃんは来なかった。

ゴミを捨て、トレイを指定位置に置いて、僕は二人分のリュックを持ってトイレに向かった。

個室トイレは2つあり、1つが閉じている。そこにへーちゃんが入っているのだろう。中から彼のえづく声が聞こえる。

「へーちゃん、開けてくれないかな?」

僕はドアを優しくノックした。無視されることを覚悟していたが、ドアは数秒待つと遠慮がちに少し開けられた。

「まだ出そう?」

座り込みながらドアを開けたへーちゃんは僕を見るとすぐにぐったりと便器に頭を置いた。どう考えても汚いが、そんなことを気にする余裕がないのだ。口にはべったりと胃液がついている。

「あと……あと、少しだけ……げほっ、すこ、ゲホゲホ、まっ……オエッ」

「待つから、大丈夫だよ」

便器に顔を突っ込んで吐いているへーちゃんの背中を、ただ擦ることしかてきない。へーちゃんは肩で荒い呼吸を繰り返しながら苦しそうにしていた。

それから5分ほどで、へーちゃんが便器に突っ込んでいた顔を上げた。余程苦しかったようで、目には涙が溜まっている。

「汚ねぇ」

「汚くないよ」

ポツリと呟くへーちゃんに、僕は首を横に振った。そんな僕を、へーちゃんは怪訝そうに見ていたが、何も言わずにゆっくりと立ち上がり水を流した。

手を洗い、口をゆすいだ後は、へーちゃんは僕からリュックを取ってトイレを出た。まだ下腹部を擦っている。

「少し休んだら?」

「いつもだから問題ねぇ」

いつもお腹が痛いなら、それが問題だと思うが。そう言いたかったが、不機嫌になるのはわかりきっていたので、僕はもう何も言わないことにした。


ファーストフード店から出て、僕らは駅のタクシー乗り場に行った。へーちゃんは特に節約する気はないようで、僕はそれが心配だった。この知らない土地で彼が本当に逃亡生活を始めるようにはどうにも思えないのだ。糠部先生やお母さんを殺したことを自首するのか、それかへーちゃんが自身の人生に終止符を打つのか。恐らく、彼の中ではその二択しかないのだと思う。もし逃亡生活をするのであれば、タクシー代やら僕の食費やらは節約するはずだ。

へーちゃんはタクシーの運転手に住所を言った。タクシーの運転手は、「そこまで乗ったら1万越えるよ?」と気遣ってくれたが、へーちゃんは「大丈夫です」と答え、背もたれに体を預けた。

運転手は、僕らを困った顔で見ていたが、やがて車を発進させた。僕もなるべくリラックスしたくて、へーちゃんと同じように背もたれにもたれる。

「君たち、高校生?」

運転手は、まだ僕らを怪しんでいる。前を見ながら質問をしてきた。へーちゃんはそれに対してゆっくり頷いた。

「はい。今日は高校開校記念日で休校なんです。それで、3連休使って旅行してます」

スラスラと嘘を吐くへーちゃんは、いたって冷静だった。運転手はそれでもタクシーで移動する物珍しい若者をバックミラー越しに睨んでいる。

「どこから来たの?」

「帆上町です。親に許可もらって、夜に電車乗ってきました」

必要なことだけ繕うへーちゃんを横目に、僕は敢えて口出ししないことにした。僕がヘマをしたらへーちゃんに迷惑がかかる。

「でも、旅行って言ったって、君たち住宅地に行くんじゃないか」

「そこに僕の親が住んでるので、泊めてもらうことになってるんです。タクシーの乗車料も、親が後で返してくれるんです」

「そっかい」

運転手はそれ以上追求することはなかった。その代わり、世間話をダラダラと始めた。へーちゃんは、それに適当に相槌を打っていた。苛々しているのが貧乏ゆすりで伝わるが、気付かないふりをして僕はスマホを取り出した。

スマホの電源は切れていた。僕はオフにした覚えはないし、家を出る前は充電していたから、充電がなくなったわけではないだろう。電源を入れようとしても、入らなくなっている。

チラリと横に視線を移す。へーちゃんは冷めた顔をしつつも、運転手さんの会話相手をしっかりと行っている。僕の視線に気付いて一瞬こちらを見たが、すぐに目を逸らした。

彼が、僕のスマホを壊したのかもしれない。電車では先に起きていたし、それくらい彼には容易いだろう。考えてみれば逃避しているのにスマホの電源を入れている僕も僕だ。

タクシーが停まったのは豪勢な住宅地の中の一軒家の前だった。へーちゃんは一万円近くの大金を運転手に支払い、僕と並んで一軒家の前に立った。

タクシーが去ったのを見送ってから彼は迷うことなくこの家の住人の名前を確認する。古積海斗。へーちゃんのお父さんの名前だった。

「いるかな?」

「平日の昼間だ。いねぇだろーな」

へーちゃんは吐き捨てるように答えて、インターホンを鳴らした。案の定、誰も出ては来なかった。

誰も出てこないことで、へーちゃんは安心したように息を吐いた。それから、リュックを地面に置き、中を漁る。

「おい、周りに誰かいないか見張ってろよ」

「何する気?」

「ピッキング」

短く答えると、彼はリュックの中から針金のようなピッキング道具を取り出した。僕は慌てて彼を隠すように立ち、辺りを見渡した。幸いにも誰一人歩いていなかったし、車も通らなかった。

 へーちゃんはものの数秒でドアを開けた。それから無言で家の中に入っていく。僕もそれに倣ってそそくさと中に入った。

 家の中に入ると、甘い臭いが鼻をさす。あまりの臭いの強さに思わず顔をしかめたが、どうやら玄関に置いてある芳香剤の匂いらしい。

 玄関には、きれいに靴が並べられていた。男物の革靴だけで、女性のものは見当たらない。

 へーちゃんは靴を脱がずに土足で豪華な家に上がる。僕は躊躇いつつ彼に倣うことにした。

 廊下の突き当たりの部屋のドアを開ければ、広いリビングだ。大きなテレビや、革のソファーは高そうで、先日お邪魔したへーちゃんの家とは大違いだった。そんな、今のお父さんの生活環境にへーちゃんは何を感じているだろう……。それが知りたくてへーちゃんの横顔を覗いたが、彼は意外と落ち着いた表情をしていた。怒りだとか悲しさだとかは表情からは一切感じられない。

 「すげぇな」

 一言、それが彼の感想だった。僕はそれに頷くが、へーちゃんは特に僕を見ることなくリビングを出て階段を上がる。僕も黙ってついていった。

 へーちゃんは2階に上がると、階段に一番近いドアを開けた。そこは、ダブルベッドと棚があるだけだった。へーちゃんは大股で部屋の中に入り、棚の引き出しを開ける。中には大人の玩具だと思われるものがゴロリと入っていた。

 「これって、その、あれだよね」

「……」

へーちゃんは何も言わずに静かに引き出しを閉める。そして、そのまま次の部屋に行った。

そこがお父さんの寝室なのだろう。クローゼットやベッド、机等がある。机の上には50代くらいの男性と、周りに小学生くらいの子どもたちが笑顔で写っている写真があった。

「お父さん?」

「ああ」

「お父さんって何の仕事してたんだっけ?」

「一緒に住んでたときは塾の講師やってた。今は知らんけど」

へーちゃんはゆっくりと写真を取り、驚くほど穏やかに笑った。もはや、彼が何を感じているのか全く理解できなかった。

「へーちゃん、大丈夫?」

「不思議なもんだな。もっと、腹立ったりとか、辛くなったりとかするかと思ったんだが別にそんなことなかったわ。なんて言うか……やっぱりそっかって感じ。納得したって言うか、そんなん」

写真を元の位置に戻すと、へーちゃんはお父さんの部屋にリュックを下ろした。それからジャンパーを脱ぎ、大きく伸びをする。ジャンパーの下には、見たことのないジャージを着ていた。胸の場所には彼の名前が刺繍されており、恐らく学校の指定ジャージだろう。

「それ、どこの学校のジャージ?」

「ああ、前通ってた曙高校のやつ」

僕の質問に答えると、へーちゃんは後ろを向いて背中にある高校の名前を見せてくれた。曙高校は、聞いたことがある。僕の家からも通えない距離ではないが電車で1時間半ほど掛かる場所だ。

「そっちの高校、楽しかった?」

「別に。フツー」

へーちゃんはつまらなそうに言うと、お父さんの机の引き出しを勝手に開け始める。彼は引き出しの中を確認すると、今度は本棚を見始めた。

「何してるの?」

「物色してる」

 「何か探し物?」

 「いや、ただ見たいだけ」

 へーちゃんは本棚の本を取っては表紙を見て床に乱暴に投げる。たまに中身を数分読んでいたが、それも最後まで読むことなく結局は床に投げつけた。それを無言で繰り返す。 

 僕は、へーちゃんのよくわからない行動をただ見ていた。多分だけど、へーちゃんはお父さんのことを知りたくてこういうことをしているのだと思った。だから、止めようとは思わなかった。

 「あ」

 「?」

 へーちゃんの手が止まる。本棚の奥に置いてあったそれは黒い表紙で分厚い。本ではなく、恐らくアルバムだろう。

 へーちゃんは、それを凝視したまま固まっていた。開くか否か迷っているのだろう。

 「開かない方がいい気がする」

 僕は、へーちゃんに声を掛けた。そのアルバムに何が写っているのかなんて見当もつかないが、何故だか嫌な予感がしたのだ。僕にとってはへーちゃんのお父さん――古積海斗は名前や顔しか知らない他人だが、さっきのわざわざ寝室と分けてあるダブルベッドの印象が強すぎた。そこにしまわれた玩具のことも思うと、何だが嫌な予感が強まった。

 へーちゃんは、僕の言葉に小さく頷いた。が、頷いたにも関わらずそのアルバムを開いた。

 「……」

 ペラペラとアルバムを開く音だけが響く。へーちゃんは、眉間にシワを寄せたまま、ゆっくりとアルバムを見ている。苦虫を潰したようなひどい表情だった。

 「やっぱり……そうなんだよな」

 「何かあったの?」

 「いや」

 明らかに嫌悪感を出して、彼はアルバムを閉じた。そして、それだけは床に投げることなく元の位置に戻す。僕には彼の考えていることが少しも理解できなかった。

「へーちゃんの写真もあった?」

「まあ、そうだな」

何故か曖昧に答えた彼は、首を横に振った。話すことはないと言いたいのだろう。僕は黙って頷いた。 

「もう昼だし、お前飯食うだろ? 冷蔵庫のもん食べようぜ」

彼が本棚を漁っている間に、すっかり時間が経っていたようで部屋の掛け時計は12時を指していた。僕は、その数時間何もしないでぼんやりへーちゃんを見ていただけだったので、自分がこんなにボーと時間を費やせることに無駄に感心した。

「もうそんな時間なんだ……。でも、勝手に食べていいのかな?」

「不法侵入しといて今更んなこと気にすんなよ」

「それもそっか」

「てか、いつまでリュック背負ってんだよ」

「あれ、確かに。気付かなかった」

「バカ」

へーちゃんのリュックの隣に僕のリュックを下ろし、二人で1階に降りた。それからへーちゃんと一緒にダイニングキッチンへ向かい、冷凍庫を開ける。冷蔵庫にしなかったのは、二人とも料理をする気もなかったからだ。冷凍食品があればそれを食べたかった。

「へーちゃん、最後にごはん食べたのいつ?」

「一昨日」

「ちゃんと食べなよ……」

冷凍庫の中には冷凍食品が豊富に入っていた。僕はその中からスパゲッティーを取り出す。へーちゃんは少し悩んでから何も取らずに冷凍庫を閉めた。

「食べた方がいいよ、さすがに」

「わかってる」

わかってるとは言っているが、へーちゃんは冷凍庫を開くこともなく、僕の手から冷凍食品のスパゲッティーを取り、電子レンジの中に入れた。

「半分こしよう」

「……本当に少しでいい」

「わかった。でも、少しは食べてね」

「ああ」

食欲が沸かなくなるのもわかるが、昨日今日何も食べていないのは心配だ。せめて少しでも食べてほしい。

二人で電子レンジを眺めている間、僕らは無言だった。クルクル回る電子レンジの皿を見つめながら、まさかこんなにのんびり食事をする時間があるなんてと僕はどこか安心していた。

ピーと加熱終了の合図が鳴り、へーちゃんがすぐに電子レンジを開けた。その時点で美味しそうな匂いが漂っている。それに反応して僕のお腹がぐぅと鳴った。それを聞くと、へーちゃんは僕の方を見ておかしそうに笑った。僕もつられて笑ってしまった。

僕がへーちゃんの分を高そうな皿に移している間、へーちゃんはお茶を淹れてくれた。スパゲッティーの加熱を待つ間にお湯を沸かしてくれていたのだ。

「いただきます」

二人で挨拶をして、他人の家で他人のスパゲッティーを頬張る。僕がすぐにスパゲッティーの消化に取りかかったのに対し、へーちゃんはのんびりとお茶を飲み始めた。

「お前はよく食うな」

「へーちゃんが食べなさすぎなだけだよ。体力もたないよ」

「わかってるんだけどな、どうしても喉を通らないっていうか……腹も減らねぇし、というかずっと気持ち悪いし、食いたいって思えねぇわ」

「気持ちはわかるけどさ」

こういう状況下でも、僕はペロリとスパゲッティーを平らげた。お茶も全部飲み干し、お腹を擦っていると、まだ一口も食べていないへーちゃんはやっぱり僕を見て笑った。

穏やかな時間だった。他人の家に不法侵入しているはずなのに、僕らは食卓を挟んで小学生の頃の話をしていた。

楽しい話だけをした。僕とへーちゃんで近くの山を探検してカブトムシを捕まえたことや、公園でブランコをして高さを競ったこと。僕の家でゲームをしていつもへーちゃんが勝っていたこと。心春が赤ちゃんのときに一緒にあやそうとして心春を泣かしたこと。

へーちゃんは、僕がはじめて見る顔で笑っていた。いや、ずっと忘れていた顔だ。無邪気で、元気な彼の笑った顔を、僕は何年ぶりに見たのだろうか。

嬉しかった。既に人を二人も殺してしまった後だったが、それでもへーちゃんがようやく僕の知っているへーちゃんに戻った気がした。

たくさん笑っていると、僕は何だか眠くなってしまった。へーちゃんは眠そうな僕を見て優しく「お休み」と言う。

僕は、そのまま眠ってしまった。

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