第10話 叫べ、僕の思い。

目が覚めると、僕はベッドの上にいた。

飛び上がるように体を起こし、掛け時計に目を向けると9時だった。

 辺りはすっかり暗かった。時計が見えたのは豆電球が点いていたからだ。恐らく、へーちゃんが僕をここまで運んだのだろう。

 古積海斗のベッドから降り、急いで部屋を飛び出した。階段を早足でかけ降りると、リビングから明かりが漏れているのが見える。僕は迷わずリビングに向かった。

 ソファにはへーちゃんが体育座りしていた。テレビに映る音楽番組をぼんやりと眺めていた彼は、僕に気付くとゆっくりと顔をこちらに向けた。

 「帰ってきたの? お父さん」

 「ああ」

 帰ってきたというわりには、この家の主がいる気配はしなかった。いや、僕もそこまで鈍感ではない。

僕はソファに座る彼に歩み寄る。へーちゃんは脱け殻のような顔で僕のことを見つめていた。

 僕がへーちゃんの前でしゃがむと、へーちゃんは力なく笑う。

 「殺した」

 「だろうね」

 恐らく、彼は昼御飯のときに出したお茶に睡眠導入剤でも入れたのだろう。僕の記憶は、彼と談笑したところで終わっている。

 へーちゃんは、何故かべちょべちょに濡れていた。全身ずぶ濡れで、体が小刻みに震えている。寒いのだろう。

 僕は着ていたパーカーを脱いで彼の肩に掛けた。へーちゃんは青空のように綺麗な青い瞳を細める。

 「やっぱりはじめから殺すつもりだったんだよね? 殺しそうだったら通報してって言ってたけど、はじめから寝させる気だったでしょ。どこで睡眠薬なんて手に入れたの?」

 「施設にいるとき、病院に連れていかれたときにもらった。いつか使えるかもと思って取って置いたんだ」

 へーちゃんがぶるりと震える。僕がタオルを取りに行こうと立ち上がると、彼は冷たい手で僕の手首を掴んだ。

 「行くなよ」

 「ダメだよ、風邪引いちゃう。何で濡れてるの? もしかして血流そうとしたの?」

 へーちゃんは唇を噛んで黙った。僕は、彼の返事を待つ。本当は直ぐにでも温かくしてあげたかったが、へーちゃんが強い力で僕の手首を掴んでいるので、動くこともできない。

 「浴室で殺しただけ」

 「そう……なんだね」

 じゃあ、死体は浴室か。

 それ以上は彼を待てなかった。力では負けるとわかっていても、彼の手を引っ張って無理矢理にでも立たせることにする。意外にもあっさりと彼は立ち上がった。そして、僕と一緒にお父さんの寝室まで来た。

 僕は彼のお父さんのタンスを勝手に漁り、タオルを見つけて彼の髪をわしゃわしゃと拭く。乱暴に拭いていたが、へーちゃんは文句を言わずになされるがままだった。

 「お父さんとは、話せたの?」

 「……まあまあ」

 「そっか」

 話の内容を聞こうとは思わなかった。結果がわかっているのだから、恐らくいい話ではなかったのだろう。僕はへーちゃんのリュックから着替えを取り出し、差し出した。へーちゃんはやっぱり文句も言わずに受け取る。

 「……優、後ろ向いて」

 「え?」

 「着替えるから、後ろ、向いて」

 「あ、うん」

 へーちゃんは、小学生の頃から他人の前で着替えるのを嫌った。正確には、下着まで下ろすのを見られるのを嫌がる。プール授業のときは絶対トイレで着替えていたし、修学旅行とかの行事も温泉に入らず先生方に許可をもらって部屋風呂に入っていた。パンツを下ろさない着替えなら、更衣室でも問題なくやっている。

 「終わった?」

 「……おう」

 濡れた衣類から着替え終わったへーちゃんに向き直ると、彼の目には生気を感じられなかった。

 いよいよ、へーちゃんの生きる目的はなくなったのだろう。お母さんも、お父さんも殺した今、もう未成年の彼にすがるものはなかった。いや、元々すがるものなんてなかったのだ。ただ、無理矢理生きる理由をこじつけてここまで来たのだろう。

 「優」

 へーちゃんは自分のリュックの中から封筒を差し出した。その茶封筒の中身に検討がつかず首を傾げると、へーちゃんは無理矢理笑った。

 「帰りの電車代。……帰れよ、自分の帰るべき場所に」

 へーちゃんは泣きそうな顔をしていた。なのに、精一杯泣くのを我慢して笑っていた。

 自分の帰るべき場所。

 へーちゃんは、恐らく家族というものに強い憧れがあるのだろう。だからこそ、僕の家族のことを考えて、家族に愛される僕の為に、僕を元いた場所に戻そうとしてくれている。

 僕はへーちゃんから茶封筒を受け取り、中から札束を取り出した。中には5万円が入っていて、明らかに電車代を超えている。

 そのお金を見ていると、悲しくなってくる。結局、僕は彼に頼られてはいないのだ。

 僕は取り出した大金を、へーちゃんの目の前で破った。彼は驚いて目を丸くしていたけど、僕は構わず万札を破り捨てる。

 きっと、彼がアルバイトで必死にためたお金なのに、それでも受け取ることはできなかった。

 「何、してんだよ……」

 「君がはじめからお父さんを殺す気だったのと同じだよ。僕は帰らない。君が帰らないなら帰るつもりなんてない。君といるって決めたんだ」

 へーちゃんは口をワナワナと震えさせた。目に涙が溜まっているが、それを流さないよう袖で乱暴に拭った。

 そして素早く右腕を動かすと、迷うことなく僕の胸ぐらを掴んだ。それは、いつだかと同じような光景だったが、へーちゃんは怒っているわけではないようだ。どうしていいのかわからず、困っている。まるで迷子の子犬のようだった。

 「どうしてだよ……。お前が、俺に必要以上に恩を感じてるのはわかったけどよ……でも、そこまでする必要ないだろ? このままだったら、お前の人生滅茶苦茶だ。何もしてねぇのに、お前まで悪いって言われるんだぞ? 帰れよ。お前のこと守ってくれる人、いるだろーが」

 「僕はもう守られなくていいんだ。僕は充分、君に守ってもらったんだよ」

 「わかんねぇよ……全然、お前の考えてることがわかんねぇ」

 へーちゃんが、僕の胸ぐらを掴んだ手を放す。そして、力なく手をダランと下げた。彼は泣くのを我慢して、とても怖い形相をして僕を睨んでいる。

 「約束を破ったら殺すと言った」

 「殺してもいいよ、そういう覚悟で来た」

 「だから、そーいうところがキメェんだって!!」

 へーちゃんはそう言って、僕の左頬を力いっぱい殴った。口の中が切れたのか、血の味が広がる。僕が無様に床に倒れるとへーちゃんは馬乗りになってもう一発、同じところを殴った。

 「俺の為に死ぬのかよ!? バカじゃねーの!? お前こそ自分のこともっと大事にしたらどーなんだよ!? 人のこと言えたもんじゃねぇだろ!!」

 「僕は僕のしたいことをしてるんだ! 君にあれこれ言われるつもりはない!」

 バシン!

僕は無意識に右拳を握り、へーちゃんの左頬を思いっきり殴っていた。

へーちゃんは、はじめてやり返した僕を唖然と見下ろしている。

 今まで、何でも耐えていればいいと思った。誰かに悪口を言われても、叩かれても、自分が悪いから仕方ないのだと思って諦めていた。

 でも、そうじゃない。へーちゃんを諦めていいわけがない。

 「僕だって、本当は君を守りたかったんだ! 君が望んでいなくても、僕は君が笑ってくれればよかった! 君が僕にそうしてくれたから!!」

 「そんなの、頼んでねぇ! 何なんだよお前は!! ただのダチのために全部捨てる気かよ!? 俺といたいなんておかしいだろ!! 家族だっているのに!! お前のこと、心配してる人がいるのに、何で!?」 

 「おかしくたっていいんだよ! 僕は、家族よりも君と一緒にいたいんだ!! それに、ここまで来たのに今更引き返すわけないよ!!」

 へーちゃんの怒鳴り声に、僕も大声で応じる。そうするとへーちゃんは顔を歪めて僕を力いっぱい殴った。

 「それが意味わかんねぇんだって! 俺といたって後は警察に捕まるだけだろーが!!」

 「それでもいいんだって言ってるんだよ!!」

 僕も抑えられなくて、彼を殴り返す。そうすると、僕の拳よりも大分強い力でへーちゃんから報復がくる。

 「お前がよくても俺がよくねぇんだよ!! いつまでもガキの頃の思い出に浸ってんじゃねぇよ!! どうして俺のことで関係ねぇお前まで犯罪者にしなきゃいけねーんだよ!!」

 「僕のことまで勝手に責任持つなよ!! 僕はただ君に一人になってほしくないだけなんだよ!!」

 「気持ち悪りぃ!! やめろ!! 本当にやめろ!!!」

 「やめるならはじめからこんなところまで来ないよ!!」

 「やめろやめろやめろおおおおお!!!!」

 掠れた声で、へーちゃんは叫んだ。

その悲鳴のような叫び声に、僕はようやく冷静さを取り戻す。

気付けば、お互いの左頬が腫れ上がっていた。肩で息をしながら、目の前にいるへーちゃんを見ると、彼もまた肩を大きく上下していた。大粒の涙が、ポロポロと落ちていく。

「……お前も、糠部と同じなんか?」

「え?」

へーちゃんの言っている意味がわからず、思わず聞き返してしまう。へーちゃんはもはや涙を拭うことなく、不安げな様子で僕を見る。

「母さんと同じなんか?」

「どういうこと?」

「お父さんと、同じなんか?」

僕は、決して成績のよくない頭を必死で働かせた。へーちゃんの言っている意味を、必死で考えた。

「俺の何が欲しいんだ? 優も、糠部みたいに俺が好きって言うんか? 母さんみたいに恋人ごっこがしたいんか? お父さんみたいに、そーいう遊びがしたいんか? 俺、そんなの求められたって……もう……俺……」

へーちゃんは怯えたような顔で僕の答えを待つ。目は充血していて、痛々しい。

彼の言葉の真意を理解した途端、血の気が引いた。

考えてみれば、へーちゃんが僕と価値観が違うのは当たり前だった。そんなこと、当たり前に知っているはずなのに、何故か僕はそこに考えが及ばなかったのだ。

へーちゃんにとっての好意は、要するに肉体的な繋がりを求めているということだったのだろう。

糠部先生が彼の体を求めたように。彼のお母さんが色んな男と関わりを求めたように。恐らく、彼のお父さんがあのダブルベッドで誰かを求めたように。彼の周りにはあまりにもそういう風に好意を示す人間が多かったのだろう。

へーちゃんは僕が向ける憧れにも似たこの好意を、肉体関係を持ちたいという好意として捉えているのかもしれない。彼は僕が向ける感情がどういうものなのか理解できないのだ。

でも、実際には僕も自分の気持ちをうまく形容することができない。家族ではない。友だちが1番近い存在だと思うけど、でも、僕と彼が対等かと言われたら違う気がする。なら恋人になりたいかと言えばそれもしっくりこない。

いや、ぶっちゃけて言えば僕はへーちゃんが世界で1番キレイだと思う。好みのタイプを聞かれたら間違いなくへーちゃんと答えるだろう。なら、僕はへーちゃんをそういう意味で好きなのかもしれない。

そんな僕の気持ちを感じ取っているからこそ、心底気持ち悪いと思うのだろう。

なら僕が言うべきなのは、友だちとして側にいたいと言うことだろうか。

「違うよ、僕はただ君と普通の友だちでいたいだけ」

「……わからねぇ……フツーって何……」

「僕は、君とどうこうなりたい訳じゃないよ。ただ、一緒に笑い合える……そんな友だちになりたいんだ」

へーちゃんは、本当に訳がわからないと言いたげにポカンと口を開けた。その姿は、ひどく幼く見えた。

「……俺は、人殺しだ」 

「うん」

「俺は、もう普通の生活なんてできない」

「うん」

「俺は、もうお前に何もあげられねぇ」

「いいんだよ、それで」

「それでも、一緒にいるのか?」

「いるよ。君を独りにしないから」

僕が笑うと、へーちゃんは玩具を買ってもらった子どものように笑った。でも、それはきっと、僕が笑ったのを見て無意識に作られた笑顔だった。

へーちゃんは強引に涙を拭うと、すくっと立ち上がった。そして、穏やかに笑ったまま、僕に手を差し出した。

「じゃあ、付き合えよ。最後まで」

「望むところだよ」

僕は力強く頷いて、その手を取った。

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