第5話 過ぎる、秘密の夜。
X年9月13日:相沼優志
糠部先生が亡くなった。
音楽室での件から3日後のことだった。
学校の屋上からの飛び降り自殺だ。飛び降り現場には遺書があり、「反省してます」とだけ記載されていたようだった。それ以上のことは生徒には知らされていない。
副担任のお通夜にクラス全員と、先生が顧問を務めた剣道部の部員が行った。先生の最期に、何人かの啜り泣く声が聞こえる。糠部先生の奥さんは泣いていなかった。小学校低学年くらいの息子さんも現実が受け入れられないのか終始口をポカンと開けていた。
糠部先生と肉体関係を持っていたへーちゃんは平然としており、真っ直ぐに遺影を見つめていた。いつもと違って腰パンもせず、ネクタイもしっかりと着けている。彼は瞬きも忘れているようだ。僕は葬儀中、それをずっと見ていた。
「へーちゃん」
「何だよ」
葬儀が終わり、みんながまばらに帰路に立つ。僕は、お母さんの迎えを待っている間に、へーちゃんに声を掛けた。へーちゃんはどうやらバスで帰るようだ。バス停の方向に足を進めていた。
僕に声を掛けられ、仕方なしに彼は足を止めた。睨んでくる彼の顔色があまり良くないことは知っている。葬儀中、僕はずっと彼の方を見ていたから。
「糠部先生、どうしたのかな……」
「俺が知るかよ。嫁さんいるのに生徒に手出したことでも後悔したんじゃねーの?」
「でも、死ななくたって……」
「家族を蔑ろにしたのに、死ぬことはないって?」
「え?」
へーちゃんは目頭を吊り上げた。口がワナワナと震えており、怒っているのは明らかだった。
でも、だからこそ違和感が生まれてしまう。
何故、君が怒るんだ? 妻子があると知りながら遊びだと言って肉体関係を持っていたのは、へーちゃん自身だ。
「ねぇ、へーちゃん。本当に遊びだったの?」
「あ? 言っただろ、そーだよ、遊びだよ」
「じゃあ、どうして糠部先生は死んで当然みたいに言うの? たかが遊びだって言うなら、そんな風に言わなくたっていいじゃないか」
バスが、僕らの横を通り過ぎた。へーちゃん以外にもバスに乗るクラスメイトはたくさんいる。クラスメイトたちはこちらに目もくれずにバスに乗り込んでいった。へーちゃんは乗るばずだったバスを一瞥することもなく、僕を睨んだままだ。
「俺は」
へーちゃんは、声を震えさせた。そして、彼の表情がどんどん歪んでいく。
その顔はよく知っている表情だった。泣きそうなのを我慢するときの、苦しそうな顔だ。小さいとき、年上にいじめられた僕のために喧嘩をしてくれたときと同じ、「つえーから泣かないんだ」と言っているときと同じ表情だ。
バスが発車してしまった。それでも、へーちゃんはバスの方を見ることはなかった。あのバスに乗らなければ次に来るのは30分後だというのに、それでも彼は僕との会話を放棄しなかった。
「俺は」
もう一度、繰り返す。本人も声が震えていることに気付いているのだろう。思いっきり唇を噛み締めて、ギュッと目を閉じた。
僕は何も言わずに彼を見つめていた。沈黙は辛かったが、何か言ってしまえば彼が本音を話してくれない気がしたのだ。
多分、ほんの数秒の沈黙なのに、まるで何時間も経ったような感覚だった。それだけ気まずい沈黙だった。
「俺は、糠部が嫌いだった」
ゆっくりと目を開きながら、へーちゃんはそう言った。そして、無理矢理口角を上げる。
「死人の悪口を言うのって良くないかもしれねぇけど、アイツ本当にしつこかったんだ。マジでうぜぇなって思ったんだよ。奥さんいるんだろってこっちが気遣ってやったのに、そんなのどーでもいいとか言ってやがる。俺が言うことじゃねーけど、人として最悪だろ」
「へーちゃん、君は」
「ウケるよな、奥さんだけじゃねぇ。アイツには子どももいるじゃねーか。なのにこんな男子生徒に遊ばれて。挙げ句に家族にバレたんだろ。こんな生涯だけは送りたくねーよな」
「君、糠部先生を自殺に追い込んだんじゃないの?」
考える間もなく、僕は無意識にそう聞いていた。それは、まさに反射というやつだ。
へーちゃんは僕の言葉に口をポカンと開ける。そして、すぐに威嚇するように睨む。
「何の根拠もなく人殺し扱いかよ」
「ごめん、そういうつもりじゃないんだ。ただ、僕には君がしつこいからってやられっぱなしでいられる人間には思えないんだ」
「は?」
負けないのだと、言っていた。それは、糠部先生に負けないということではないのだろうか。
「糠部先生がしつこいから……君は彼を死に追い込もうと考えた、とかじゃないのかなって」
「で?」
「例えば、あえて肉体関係を持っていることを糠部先生の君が家族にバラしたとか」
根拠なんてものはない。僕はただ思いつくことを言っただけだった。でも、それを聞いたへーちゃんは、目を大きく開く。明らかに動揺したのがわかる。その表情が、僕の言葉を肯定しているようだった。
「優志!」
「あ、お母さん……」
母の車が僕らの隣に停車する。車の窓を開けて母が心配そうに僕を見た。
「アンタ、会場の前にいるって言ったわよね? 何でバス停の方まで歩いてるのよ」
「ごめん……」
僕は母から視線をへーちゃんに移した。へーちゃんは俯いている。肩が小刻みに震えていた。
「あら、へーちゃんじゃない。もしかしてバス乗り過ごした? 乗っていきなさい」
「……いや、俺は……」
「いいから! ほら、優志も!」
お母さんはそう言って車から降り、後部座席のドアを開けた。そして、僕とへーちゃんの背中を押した。
へーちゃんもお母さんには反発することなくすんなりと車に乗り込んだ。僕も彼の隣に座り込む。へーちゃんは顔を一切上げない。
「お家、どこら辺だったっけ?」
「……」
お母さんの質問に、へーちゃんは答えなかった。制服のズボンを掴んで体の震えに耐えようとしている。
「お母さん。へーちゃんさ、おばさんと喧嘩したんだって。だからさ、今日は家に泊めてあげれないかな?」
「え? でもそれならお家に電話しないと」
「後でへーちゃんに連絡させるから。ね、お願い」
僕の嘘にお母さんはバックミラー越しに目を細め怪しんでいたが、へーちゃんが何も言わなかったからか「仕方ないわね」と言ってアクセルを踏んだ。
「お前は何で俺にそんなに突っかかってくるわけ?」
僕の部屋に入った瞬間、車内では一切話をしなかったへーちゃんが口を開いた。へーちゃんはドアの前に胡座をくみ、乱暴にネクタイを取って床に投げつけた。
「気になるから」
僕が短く答えるとへーちゃんが鼻で笑う。僕は彼と目を合わせたくて、彼の前に胡座をかいた。
「君にとって僕はただの他人だろうけど、僕にとって君はヒーローだから」
「は?」
「僕、いじめられてて本当に辛かったんだ。小学生のとき……本当に辛くて、死にたくなったときもあった。でも、そんな僕が頑張ってこれたのは、君が助けてくれたからだよ」
「俺は何もしてねぇ」
「君にとっては当たり前のことだったかも知れないけど、些細なことだったかも知れないけど、君が声を掛けてくれたり、仲間に入れてくれたりして嬉しかったんだ。僕が何もできなくても嫌な顔しないで付き合ってくれたし、一緒に遊んでくれたし。僕は、本当に嬉しくて……」
僕の言葉を、へーちゃんは静かに聞いていた。何を考えているのかわからない硬い表情だったが、それでも僕は今までのことを話さなければいけないと思った。
「君に、本当に感謝してるんだ。だから、君が困っているなら力になりたい。僕にできることなんて本当に小さなことかもしれないけど、それでも君にお返しがしたい」
これは、揺るぎない僕の本心だ。
いじめられた体験は、忘れられるものではない。訳も分からずバカにされ、仲間外れにされ、物を盗られて、叩かれる。
あの日々を形容するのは難しいけど、地獄というのがしっくりくるだろうか。いっそ消えてしまいたいと思う日もあった。
それでも乗り越えられたのは、僕が独りではなかったからだ。へーちゃんが、助けてくれる。へーちゃんが、味方になってくれる。それがどれだけ救いだったのか、きっと彼には想像もつかないだろう。
へーちゃんは大きな溜め息を吐いた。そして胡座をかいていた姿勢を体育座りに座り直す。顔を見られたくないのか、顔を膝の間に埋めた。
「お前には呆れるわ、本当に」
「うん……」
「力になるだって? 何するんだよ。自首の手伝いか?」
「自首?」
突然、話の雲行きが怪しくなる。僕が首を傾げていると、へーちゃんは顔を上げた。
彼は、不敵な笑みを浮かべていた。
「糠部は自殺じゃない。俺が殺した」
「は――」
キーンと耳鳴りがした。彼が何を言ったのか、脳が理解するまでに時間が掛かった。
僕の顔は一体どんな風になっていたのだろうか。僕の顔を見たへーちゃんは一層楽しそうに声を弾ませる。
「アイツのいない時間にポストにDVD入れてやって、奥さんに俺らの関係を教えてやった。わざわざ録画したやつをDVDにして準備してやる俺、スゲェ優しいだろ? で、奥さんと揉めたみてぇなんだけど、糠部の奴、俺のこと怒るかと思ったら泣きついてきてよぉ。なんて言ったと思う? お前が本命だってよ。離婚してもいいって。マジで笑えるわ」
言葉が記号のように流れていく。彼は一体何を話しているのだろうか。もしかして、これは夢なのだろうか。
「じゃあ、俺のために死んでくれって言ったんだわ。一緒に死にたいって。もちろん俺は死ぬ気なんかなかったけどな。そしたらアイツ本気にしてさぁ。一緒に屋上まで行ったんだよ。でも、いざとなったら怖くなったんだろうな。やっぱり駆け落ちしようとか抜かすから、背中押してやったんだ」
まるで、子どもが親に楽しかったことを話すときのように無邪気な様子だった。作っているわけではなく、自然体の笑みだ。そんな彼の姿が、彼の言葉を事実として僕に伝えている。
僕は、落ち着くために息を吐いた。それが、僕が話す合図だと思ったのだろう。へーちゃんは口を閉ざして黙った。
「どうして、糠部先生を……殺そうと思ったの?」
「アイツが俺のことを好きって言ったから」
「好きって、言ったから?」
僕の弱々しい声に対し、へーちゃんははっきりと答える。車内で顔を伏せていたときに覚悟を決めたのだろうか。もう迷いは微塵も感じなかった。
「転入してすぐにアイツから告白された。好きだって。その時に、気持ち悪いって思った。返事もしてないのにそのまま抱き締めてきて、キスし始めるし。妻子がいるってのは後から知ったけど。マジでコイツはダメだなって思った」
「誰かに相談したら……」
「男に犯されてますってか? 誰に言うんだよ。俺が気持ち悪い奴だと思われて終わりだろ。世の中そんな甘くねぇんだよ」
やっぱり、あの関係は彼の意思ではなかった。でも、誰にも相談もできずに悩んでたんだ。それは、どれだけ孤独なことなのだろうか。
「ごめん……僕、全然君のことわかってあげられてなかった……」
「テメェが謝ることじゃねぇ。非があるなら、俺と糠部だけだろ」
「……自首するの?」
へーちゃんは首を傾げた。僕は変なことを聞いたつもりはないが、へーちゃんは不思議そうにしていて、何だかおかしかった。
「君は悪いの?」
「悪いだろ。人を殺した」
「でも、僕は君に自首してほしくない」
自分でも、無責任で身勝手なこと言っているのはわかる。それでも、僕は社会的に許されないとわかっていても、へーちゃんに刑務所へ行ってほしくなかった。
僕はへーちゃんを逃がしたくなくて、彼の肩を力いっぱい掴んだ。へーちゃんは驚いて少し肩を震わせる。
「僕は、自首してほしくない」
「……お前が誰にも言わなければ自首なんて考えてない」
「じゃあ、言わない」
「やべぇな、お前も」
へーちゃんが眉を八の字にして笑った。
彼の困った顔を見て、僕はへーちゃんの言葉を思い出していた。
――俺はスゲェんだってテメェが決めたんじゃねぇか。
僕の見ているへーちゃんは、平和くんっていう人間の一部なのだろう。へーちゃんにとって、僕は彼の凄いところしか見ていない人間、ということだろうか。
でも、僕にとっては凄いヒーローなのだ。
それは、彼が罪を犯したのだと告白してもなお揺るがぬ事実だった。
結局、へーちゃんは僕の家に泊まった。
ベッドを貸すと言ったのにあっさり断った彼は、僕のベッドの下に布団を敷いて寝た。疲れていたのだろう、布団に入って10秒もしないうちに寝息を立てていた。
僕は、なかなか寝付けずベッドの上でゴロゴロしていた。ここ数日でへーちゃんの色んな顔を知った嬉しさと、今まであまりに何も知らなかったことへの悲しさがせめぎあっていた。
「……優?」
「あ、目、覚めた? まだ2時だよ?」
目が覚めたらしいへーちゃんが身体を起こし、こちらを見つめている。へーちゃんの希望で豆電球をつけていたため、彼の八の字になった眉がはっきり見えた。小さな頃は真っ暗でも寝ていたはずなのに……いつの間にか彼は変わったようだ。
こんなにもへーちゃんが小さく見えたことはなかった。いつでも自信に満ち溢れているように見えた彼が、こんなにも弱々しい表情をするなんて知らなかったし、知ろうともしなかったのだろう。
「やっぱり、ベッドで寝る?」
「ん……」
短い応答をして、へーちゃんがベッドに入り込んでくる。僕が床に移動しようと身体を起こすと彼が僕のパジャマの裾を引っ張った。
「へーちゃん?」
「……」
「狭くない……?」
「昔、お前の家に泊まったことあったよな」
「うん」
へーちゃんは僕の質問に答えずに身体を横にした。僕のパジャマの裾を掴んだままだった。それが答えなのだろう。僕も彼の隣に寝転んだ。
「あのときも、こーやってお前のベッドで寝た」
「そうだね」
「……あのとき、俺は心配だったんだ。お前は知らないと思うけど、俺、小学生のとき……おねしょがまだあって……」
「うん……」
「でも、あのとき、お前が盛大に漏らしてて……俺のパジャマまでベチョベチョにしてて、安心した。ああ、俺だけじゃないんだって」
「うん……」
何が言いたいのか、わからない。恐らく、へーちゃんもよくわかっていないのだろう。
眠いのか呂律も回らないまま、へーちゃんは懐かしい思い出をなぞった。僕はそれを静かに聞くことにした。
「誰も、怒らなかった。お前が漏らしても……。だから、それが、羨ましかった……。ご飯も暖かくて、羨ましかった。俺は、ずっと、お前が、優が、羨ましかった。嫉妬してた……俺の欲しいもん、たくさん持ってたから……」
「……」
そんな風に思っていたなんて、僕も知らなかった。
君の家庭のことも知らなかった。施設に入所していたと言うなら、相当の事情があったのだと思う。それなのに、君が僕の家族に焦がれていたのだって知らなかったから、君に楽しげに家族の話をしていた。
きっと、あのときへーちゃんは複雑な気持ちだったのだろう。それを僕は微塵も感じ取っていなかった。
「お前は……優は、俺のこと、すげぇって、感謝してるって言うけど……そんなんじゃねぇんだ……俺なんて、本当は……」
「へーちゃん?」
静かな寝息が横から聞こえる。また眠りについたようだ。
寝ぼけて話していたから明日には覚えていないかも知れない。でも、僕は彼が思いの丈を伝えてくれたのが嬉しかった。
だから、僕は君に恩返しをしたい。
僕はいつだって逃げてきた。自分でいじめに立ち向かうこともなかった。
君が助けてくれたのだ。だから、今度は君が彼のために勇気を振り絞る番なのだ。
僕に、何ができるだろうか。
僕は幼い頃と変わらない寝顔のへーちゃんを、しばらく見つめていた。
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