第4話 知った、彼の秘密。
X年9月11日:相沼優志
「あ」
9月。夏服と冬服の入り交じる季節になった。僕はブレザーを着て登校したのだが、下校しようと席を立つとブレザーが無いことに気づいた。
小学生の頃は脱いだパーカーを隠されたことがあった。確か、あれも秋だった。泣きながら教室を探しているとへーちゃんが「仕方ねぇなぁ」と言って探すのを手伝ってくれた。結局クラスメイトのお兄ちゃんが持っていて、へーちゃんが取り返してくれた。殴り合いの喧嘩をして2歳年上のクラスメイトのお兄ちゃんは泣いていたし、へーちゃんも涙目だった。
「ありがとう」と伝えるとへーちゃんは「別に」と言って、それから「俺は強ぇから大丈夫だったろ?」と笑って見せた。その姿が本当にヒーローのようで格好良かった。
恐らく、今回は単に6時間目が移動教室だったから忘れてきたのだ。音楽で歌のテストだったが、あまりにも音痴な僕は恥ずかしくて体温が上がっていた。変な汗も出ていたからブレザーを脱いだのだ。
「取りに行かないと……」
面倒臭いが置いておく訳にもいかない。僕はリュックを背負って音楽室に向かう。音楽室は教室の1つ上の階なので、僕はのんびりと階段を上がりながらさっきの授業を思い出す。
夏休み明けにへーちゃんと喧嘩……というか心配したら怒られてしまった日から、へーちゃんとはそれまで以上に話さなくなった。それでも授業とかは何かと気にかけてくれて、誰ともペアを組めない僕を誘ってくれたりはしたが、事務的なこと以外で話すことはなくなった。
理不尽に怒られたとも思ったが、でもへーちゃんには僕の心配が「見下されている」ように感じたのだと思う。基本的にお節介で優しいけど、何でもできるが故にプライドも高く、「できない」だとか「自分の方が劣っている」と思われることが許せないのだろう。だから、そういうつもりじゃなかったということをしっかり伝えたい。でも、何て言えば伝わるのだろうか。
そんなことを考えていると件の音楽室に着いた。ドアがほんの少し開いている。僕はドアの前に足を止め、ドアノブに手を掛けた。
「なぁ、くすぐったい」
「あー、悪い」
「!?」
部屋の中から声がした。ビックリして手を引っ込める。心臓がバクバクとうるさかった。
へーちゃんの声だった。それと、副担任の糠部先生の声だ。
「今、何か物音したか?」
「さぁ? それより、こんなとこですんの?」
「いいだろ? 先生の特権だ。学校でしてみたかったんだよ」
「相変わらず趣味悪いな。絶対AVもそーいうの見てるんだろ。キモ」
「うるさいなぁ、いいだろ? それよりはやく」
「ハイハイ、お好きにどーぞ」
なんの話だろうか。よくわからないが、もしかしたら僕はとんでもない場面を目撃しているかもしれない。
このまま帰るのが正しい判断だと思った。なのに、僕は無意識に息を殺してドアの隙間をゆっくりと覗いていた。好奇心、だったのかもしれない。僕の知らない双郷平和を見れる好機なのだと、彼のことを知りたいと無意識に体が動いたのだと思う。
「っ、痛い」
「……力抜いて」
「んっ」
「お前、やっぱりキレイだなぁ。美人だわ」
ただ、衝撃だった。
それを見た瞬間、僕は声を出さないように手で口を覆い、すぐに目を反らした。
彼らがしていたのは、性行為だ。
音が出ないように座り込み、肩で息をする。まさか、僕の憧れていた彼が、学校の……同性の先生と肉体関係にあるなんて想像もつかなかった。
見間違いかと思い、そう信じたくて、僕はもう一度ドアの隙間を覗いた。でも、それは見間違いではなかった。へーちゃんの聞いたこともないような甘ったるい吐息も、先生の激しい動きも、ありありと現実として僕の視覚と聴覚を支配した。
「あ」
「!」
へーちゃんの目がこちらを捉えた。バチリと目があった。
僕はその瞬間、何も考えず立ち上がった。そして音を出さないように静かに走る。
鼓動がうるさい。息もうるさい。
完全に目があった。気付かれた。
僕はこれから彼とどんな顔をして会えばいいのだろう。そもそも、へーちゃんは糠部先生と付き合っているのだろうか。
ごちゃごちゃした思考を整理できないまま、僕は帰路を無我夢中で走った。
家に帰ってからも、音楽室でのことが頭から離れなかった。目を瞑ればへーちゃんと糠部先生の性行為をありありと思い出した。
へーちゃんや糠部先生に対し、不思議と嫌悪感はそれほど沸かなかった。別に、同性だから愛し合ったらダメだとかそういう考えは持っていなかった。ただ、それでも衝撃が大きかったのは事実だ。
「お兄ちゃん」
10歳年下の心春が僕の部屋のドアを開けた。僕はベッドで掛け布団を頭まで被りながら答える。
「何? ごめん、今日は疲れたから遊べないよ……」
「へーちゃん、きてるよ?」
「へ?」
勢いよく布団をぶっ飛ばし飛び起きると、来訪者は心春だけではなかったのだと知る。
小さな心春の後ろにはへーちゃんが立っていた。いつものように制服をだらしなく着崩した彼は、鞄を左肩にかけて右手には紙袋を持ち、僕をただ無表情で見つめている。
「心春、ありがとよ」
「うん! こんどはコハルとあそんでね」
「ああ」
へーちゃんが優しく心春の頭を撫でる。心春は嬉しそうにぴょんぴょんと跳ねながら部屋を出ていった。
ガチャン。
へーちゃんがドアを閉める。そして、ベッドで座り込む僕に大股で寄ってきた。
変な汗が背中を流れる。こんなにもへーちゃんと対峙するのが怖かった日はない。
「見たよな」
「何を?」
反射的に僕はとぼけた。背筋が凍るとはこのことだろう。今、へーちゃんが何を考えているのか全くわからず、不安が心を支配する。
「セックス」
「んんっ」
直球に言われるとは思わず、僕はへーちゃんに背中を向けた。僕が見られたわけでもないのに恥ずかしかった。
「あのね、そーいうつもりじゃなくて」
「ブレザーだろ。持ってきた」
「あ、ありがと……」
へーちゃんが紙袋をベッドの上に置く音がする。多分、そこに僕のブレザーがあるのだろう。わざわざ袋まで用意してくれたのだ。
「あの、僕、誰にも言わないよ」
「別に言ってもいい」
「……口封じに来たんじゃないの?」
「言われて困るのは糠部だけだろ。俺は退学になろうが、どうだっていい」
「……」
意を決してへーちゃんの方を振り返ると、彼は恥ずかしがることもなく冷めた目をしたまま僕を見下ろしていた。本当に、僕が言いふらしても何とも思わないであろう、そんな顔だ。
「ねぇ、へーちゃんは糠部先生と付き合っているの?」
「いや」
「じゃあ、なんでああいうこと……」
「別に、お互いに暇潰しだろ。遊びだ」
「自暴自棄になってるわけじゃないよね?」
「は?」
僕の質問に、へーちゃんは眉間にシワを寄せた。明らかに不機嫌になった。
ただでさえ体調を心配しただけで怒られたのだ。こんなことを言えば絶対にへーちゃんは怒るのだろう。
でも、彼が怒るのを承知で、これだけは言わなければと大きく深呼吸をした。
「自分の体だよ、もっと大事にしてよ。痛がってたじゃん」
へーちゃんの瞳がカッと見開いた。
そして、彼の腕が素早く動き、僕の胸ぐらを強引に掴む。その手は、怒りで小刻みに震えていた。
「自分のこともろくに助けらんねぇテメェに言われたかねぇんだよ!」
「っ」
「何でテメェに心配されねぇといけねぇーんだよ!? なぁ!?」
「いや、でもだって」
「俺はテメェに心配されるほど柔じゃねぇ! こんなん、何てこともねぇんだよ!」
「どうしてそんなに必死に……」
「俺は負けねぇんだよ!!!!」
誰と戦ってるって言うんだ……。
へーちゃんは唇を強く噛むと、そっと僕の胸ぐらを放した。きっと、怒りを抑えるのに必死なのだろう。
「いいか、今日はブレザーを届けに来た。それから、気持ち悪ぃの見せた詫びだ。用はそれだけだ。無駄話する気はねぇ」
そう言うと、へーちゃんはベッドに置いた紙袋をわざわざ持ち上げ、僕の顔面に投げつけた。
「痛っ!」
「いいか? お前が見たことを誰かに言ったりバカにしたりするのは自由だ。でも、心配はするな。俺は自分のしたいことをしてるんだから。わかったな」
有無を言わせないような早口で、へーちゃんは言った。それから、返事も待たずに音を立てず部屋を出て行く。
残された僕は顔面にぶつけられた紙袋の中身を見た。僕が忘れていったブレザーと一緒に、コンビニに売っている辛いお菓子か入っていた。僕の大好きなお菓子だった。このお菓子が、一応彼なりのお詫びなのだろう。高校生になってから好物の話なんてしてないので、僕の好きなものを覚えていてくれたのだ。
「気持ち悪いとか、そういうのじゃないんだ……」
僕は、ただ、へーちゃんが心配だった。
心配するなと怒る彼が、先生に無抵抗に体を預ける彼が、とても弱っているように見えたのだ。
最近のへーちゃんは、何だか強がりな気がする。
彼は一体何に怯えているのだろうか。
X年9月11日:相沼優志
僕は、へーちゃんのとんでもない事実を知ってしまった。へーちゃんは、僕らの副担任である糠部壮介先生と肉体関係を持っている。
僕は昨日、彼らの行為を見てしまった。
へーちゃんは口止めをしなかった。ただ、心配はするなと苛立った様子で言った。それが焦りに感じたから、僕は不安で仕方がなかった。
正直、僕はへーちゃんと糠部先生の関係が健全なものであるのなら何も言う気はなかった。同性同士の恋愛に対しては僕は何とも思っていなかったし、当事者が幸せなら第三者が口出しするのもお門違いだろうと思う。でも、へーちゃんが「遊び」と言っていたことや、糠部先生に妻子がいることを考えると何とも言えない気持ちになった。それに、性別よりもまず先生と生徒という立場的には不適切だ。
どれだけ考えても落ち着かなかった。気持ちの整理がつかなくて授業にも全く集中できない。
放課後になり、僕はリュックを背負ってチラリと教室の後方にあるへーちゃんの席の方を見た。
へーちゃんは席を立ち上がり、スクールバックを肩に掛けている最中だった。
彼が、僕の視線に気付いた。僕の方を見ると明らかに不機嫌そうに目を細める。
何故か最近は加山くんや近衛くんとは一緒に帰らず一人で帰ることが多い。前までは3人で話しながら教室を出て行くことが当たり前だったが、9月に入ってからその光景は見なくなった。
へーちゃんは加山くんと近衛くんと一言別れの挨拶を交わすと、大股で僕の方に近づいてきた。僕が咄嗟に目を逸らしても、逃れられはしない。
「優」
「あ、えっと、何?」
「そりゃこっちの台詞だ。ジロジロ見て鬱陶しいんだよ。用件はなんだ。昨日のことか」
気まずいと思いつつ、へーちゃんの顔を見ると、へーちゃんは呆れた顔をしており、肩を竦めた。撫で肩の彼のスクールバックが、ズルズルと下がる。
「言いたいことがあるならハッキリ言えよ。気持ち悪いでも何でも、お前には言う権利がある」
「そんなこと思ってないよ! 言いたいこととかはないんだ!」
食いぎみに反論すると、へーちゃんは益々嫌そうに顔をしかめた。
「じゃあジロジロ見るな」
「ご、ごめんね」
「いちいち謝んな、うぜぇから」
へーちゃんはそう言うと、一人で帰路に向かおうとする。
「へーちゃん!」
僕は、そんな彼の背中に何故か声を掛けてしまった。
へーちゃんは、まだ用があるのかと苛々を剥き出しにしていたが、それでも無視することなく振り返って僕と目を合わせる。
「その、今日は一人で帰るの?」
「悪いかよ」
「そう言う訳じゃないけど……えっと」
「もう行くからな」
「あ、うん。バイバイ」
「おう」
へーちゃんは、今度こそ教室を出て行った。
あれだけ嫌な顔をしても、彼は僕を無視しない。そんな、変わらないへーちゃんに安心しているはずなのに、やっぱり胸のモヤモヤは消えなかった。
僕も家に帰ろうと、教室を出た。僕自身は、常に一人での帰路だ。最後に他人と帰路に立ったのは、小学生の頃で、へーちゃんと一緒だった。卒業式の前の日、2人でゲームの話をしながら歩いていたのが懐かしい。
僕が虚しさを感じながら廊下を歩くと、職員室の前で糠部先生を見かけた。彼は職員室に入る手前だった。
「ぬ、糠部先生!」
「相沼か。どうした?」
考えもせずに、咄嗟に彼を呼んだ。糠部先生は顔に笑みを貼り付けて僕に向き直る。
僕は糠部先生が以前から得意ではなかった。授業自体は分かりやすく、授業中にはお気に入りの生徒を指名するが成績はしっかりテストの点数で決める人ではある。それでも、彼が心の底から僕の様な出来損ないを嫌っているのは薄々気付いていた。現に、僕に呼び止められた糠部先生の表情は明らかに作られたものだ。
それに加え、へーちゃんとああいう関係なのだと思うと、何とも言えない気持ちになる。糠部先生には守るべき家族がいるはずなのだ。
「あの、へーちゃん……」
「へーちゃん?」
「えっと、平和くん……」
「双郷がどうした?」
「あっ、えっと」
僕は、何を言えばいいのだろう。
そもそも、僕が何か言う資格があるのだろうか。 これは、明らかにへーちゃんと糠部先生の問題だ。たまたま知った僕が口を突っ込んでもいいのだろうか。
それでも、黙って見逃すのも嫌だった。へーちゃんへの心配でいっぱいの思考から解放されたい。
「最近、へー……双郷くんが、元気ないように見えて。その、先生何か知りませんか」
真正面から向き合う勇気が出なくて、僕は遠回しに尋ねてみた。糠部先生は貼り付けた表情を崩さないまま「うーん」と唸る。
昨日、へーちゃんとはバッチリ目が合ってしまったが、糠部先生とは目が合っていない。恐らく、糠部先生は僕が見たことを知らないだろう。へーちゃんも言った様子ではなかったし、何より今話している雰囲気は以前と変わっていない。さすがに、僕が見ていたと知ったら糠部先生は焦るだろう。
「私にはよくわからなかったが、そうだったら大変だ。今度、双郷にもそれとなく聞いてみるよ」
「はい。……あの、でも、もしかしたら僕のせいかもしれないんです」
「どういうことだ?」
「僕、その……ここでは言いにくいんですけど」
「ああ、職員室でいいか?」
「ありがとうございます……」
糠部先生に促され僕は職員室に入り、端にあるソファに座わった。僕の向かいに糠部先生が座る。人と話すだけで緊張する僕は、汗が涌き出る手をズボンで拭いた。
「その、僕、双郷くんとは小学校が一緒で、昔から凄く良くしてもらって……だからもっと仲良くなりたいと思って、いつもジロジロ見てしまって。彼を不快にさせてるかもしれないと思って」
「そうなのか? なら、素直に仲良くしたいって言えばいいじゃないか」
「先生はその、」
どうにかして糠部先生からへーちゃんのことを聞きたい。
でも、何をどう聞けばいいのだろう。
糠部先生は教師らしく、僕の言葉を待ってくれている。しかし、表情は浮かばない。糠部先生が僕に向けているのは、嫌悪だ。自分への嫌悪感なんて、人生で一番向けられた感情だ。わからないはずがない。
彼が話を聞く気でいるうちに、へーちゃんのことを確認しないと……。
「失礼します」
僕がモゴモゴと口を動かしていると、先程帰ったはずの金髪の少年が職員室に入ってきた。
へーちゃんは僕と糠部先生が2人でいるのを見て、ほんの一瞬だけ目を細めた。でも、すぐに笑った。
へーちゃんの姿が見えると、糠部先生の顔はコロリと変わった。へーちゃん以上にわかりやすく、露骨に喜んでいる。
「どうした?」
「昨日の授業のことで質問に来ました。お話中のようですので、後でまた来ます」
へーちゃんはそう言うと僕の方をチラリと見る。笑みは崩さないままだ。
笑っている双郷平和は、まるでテレビの向こう側の芸能人のようだった。キレイ、という言葉がピッタリと合う。
へーちゃんは、僕に何も言うことなく職員室を出て行った。
このタイミングで糠部先生に話に来たのは、僕への牽制だろう。
余計なことをするな。そう言いたいのだ。
きっと、へーちゃんは僕がへーちゃんを心配していることを察知しているから、「余計なこと」だと思っているのだ。
本当に、そうなのかな。
「相沼?」
「……先生、双郷くんはとても優しい人なんです。見返りも求めずに僕を助けてくれた」
「……?」
「だから、僕は彼に傷ついてほしくないんです」
伝われ。伝わってくれ。
直球に聞けたらどれだけいいのだろう。
糠部先生、へーちゃんを傷つけてませんか?
糠部先生、貴方は先生としてそれでいいんですか?
そう言えればいいのに、勇気のない僕は言うことができない。
「先生、双郷くんがもし何かで傷ついていたら、先生として助けてあげてください」
情けない。
糠部先生は、僕の「先生として」の言い方に違和感を覚えたのか顔が強張った。でも、本性を表すことなく頷いた。
「当然だ。先生方に任せなさい」
糠部先生の薄っぺらい言葉に、僕は頷くしかない。
適当に挨拶を交わし、何の成果もないまま僕は職員室を後にした。出たところにへーちゃんが古典の教科書を眺めながら立っていた。
「へーちゃん」
「よお、糠部に言いてぇことは言えたかよ」
へーちゃんは教科書を閉じながら、青く澄んだ瞳に僕を捉える。先生がいないからか、もうあのキレイな笑みは浮べない。
「……言いたいことは、言えて……ない」
「ふーん。代わりに言っといてやろーか?」
「何て言うの?」
「糠部先生とへーちゃんってデキてるんですかとか、キモいですねとか?」
へーちゃんが、ハハッと馬鹿にするように笑う。こういう意地悪な顔も何故かキレイに見えるのだから、顔がいいというのはズルいものだ。絶対にイケメンは顔で社会生活も得していると思う。
「……自分でそう言うの……嫌じゃないの?」
「別に?」
「やめてよ、僕、そんなこと思ってない」
「だろーな。お前は俺のことを見てねぇんだから」
ずっと、気持ち悪いと言われるくらい見てるのに。
それでも、へーちゃんは僕が見ていないと言う。
「自分で言うのもアレだけど、ジロジロ見過ぎてるくらいだと思うけど……」
「それなのに、お前は俺のことを見えてねぇんだ」
へーちゃんはそう言うと、職員室の中へ行ってしまった。本当に授業のことで質問があるのだろうか。今日も当てられてしっかり正答をしていたけれど。
へーちゃんと糠部先生の話が気になりつつも、これ以上ここで僕にできることはなかった。
無力感を抱きながら、僕は下駄箱に向かった。周りが友だちと仲良く話しているのを羨ましく思いながら、外靴を取り出す。
かつては靴に画鋲を入れられり、隠されたこともあった。その度に僕は立ち尽くして笑うことしかできなくて、へーちゃんが「仕方ねぇな」と画鋲を取り出したり、なくされた靴を探してくれた。
「懐かしいな……」
「何一人で喋ってんの?」
「!?」
まさか、へーちゃん以外に僕に話しかけてくる人間なんていないと思っていたので、声をかけられたことに飛び跳ねるように驚いてしまう。手にしていた靴が音を立てて落ちていった。
そんなオーバーリアクションを素で取っている僕に、声の主である近衛くんは怪訝そうに眉をひそめた。
彼の後ろにはいつのもように加山くんもいる。こちらもまた、浮かない顔をしていた。
「こ、ここ、近衛くん……ドウシタノ?」
「何でカタコトだよ」
近衛くんはすっかり僕という人間をわかってくれたのか、僕の挙動不審さにヘラっと笑う。
「相沼って、双郷と長い付き合いなんだろ?」
「う、うーん……まぁ、そうかも?」
「アイツって昔からあーなの?」
「どういうこと?」
近衛くんの言いたいことがわからず首を傾げると、近衛くんは「うーん」と言い淀む。まるで、言葉を選ぶように慎重に考えている様子だ。
そんな近衛くんの後ろにいた加山くんが、硬い表情で口を開いた。
「やっぱりやめようぜ、近衛。良くないって」
「でも……ちょっと、心配じゃん」
「ごめん、何のこと?」
二人が普段話さない僕に話しかけるのだから、よっぽどのことなのだろう。
近衛くんは観念したように溜め息を吐いた。
「この前、3人で帰ったときに車に轢かれた猫の死体があったんだよ。んで……双郷さ、その猫の死体を……笑って解体し始めてさ。なんか、もう、別人みたいにゲラゲラ笑ってて……止めたら今度はビックリするくらい泣き出して、終いにはごめんなさいしか言わなくなったんだ」
何、それ。
新しく知らされる双郷平和の姿に胸がザワつく。ブルリと身体が震え、サブイボが立つ。
僕は、小学生の頃起きた事件を思い出していた。
猫の生首が発見された事件だ。数ヶ月かけて何件もあったその事件は、警察のお父さんに聞いたところ、へーちゃんの継父が犯人だったらしい。
「あのときの双郷……マジでおかしかったんだ。昔から、そーいうことあったのか?」
近衛くんは、不安そうに眉を寄せた。その表情から、近衛くんがへーちゃんを心配しているのがヒシヒシと伝わる。
加山くんもまた、じっと僕を見ている。
「小学生までのへーちゃんは、そんなことなかったよ。そもそも、性格ももっと明るかったし……色々あったんだと思う」
へーちゃんは施設で過ごしたと話していた。施設で過ごしていたことよりも、そうせざるを得なかった理由があったことが問題だ。
でも、施設で過ごしたと聞いてなるほどと納得することもあった。やっぱり、お父さんの言う通り、へーちゃんの継父は決して良い人ではなかったのだ。彼が猫を殺すのをへーちゃんも知っていたのだろう。
それが、今、彼の歪みになっているのだと思う。
「普通じゃねぇよ、アイツ」
加山くんがボソリと呟いた。
悲しいけど、彼らが最近一緒に帰らなくなった理由はこれなのだろう。残念だが、確かに死体を弄る人と一緒に帰りたくないと思っても仕方がない。
「まだいたのかよ」
「あ、双郷」
僕らが話し込んでいると、糠部先生との用事が終わったのかへーちゃんが下駄箱に向かってきた。
仏頂面のへーちゃんの対し、近衛くんが眉を八の字にして笑う。加山くんは、俯いた。
「双郷こそ、腹痛いって言ってたじゃん。はやく帰って休めよー」
「今から帰るんだよ」
近衛くんが努めて平然を装うのに対し、へーちゃんは本当に澄ました顔をしている。へーちゃんはまるで何もなかったように平然と下駄箱を開けた。
「へーちゃん」
「んだよ、しつけぇな」
近衛くんを邪険にはしないが、僕のことは露骨に嫌がって舌打ちをした。やはり、性行為を見られたというのは、へーちゃんにとってかなり苦しかったのだろう。
「小学生のとき、猫の死体が頻繁に出てたの覚えてる?」
近衛くんと加山くんが、僕の顔を見た。その顔がどちらも歪で、不思議だった。
へーちゃんは僕を睨む。だが、すぐに口角を上げた。
「覚えとる。……俺がやったとでも?」
「違う。お父さんに犯人、教えてもらったんだ」
「あー……そう。で?」
「君は、違うよね?」
どういう言葉を使えばいいのかわからなかった。
でも、僕を守ってくれたヒーローが歪むことを認めたくなかった。
糠部先生のことも、猫のことも、きっと理由があるはずだ。
だから、それを……知りたい。
「父さんは、車に跳ねられた」
「え?」
へーちゃんは「はぁ」と深い溜め息を吐いて、靴を履き替える。
「猛スピードで車が来て、ぶつかったと思ったら、簡単に身体が吹き飛んだ。頭から色んなモン撒き散らして、身体がビクビク跳ねてんの」
「へーちゃ」
「猫の死体を見てたら、そんときのこと思い出していた。訳わからなくなって、しちゃいけねぇことしてた。……近衛が声かけてくれなかったら、ずっと、してたのかもな」
履き替えた上靴をしまうと、へーちゃんは近衛くんと加山くんに視線を向けた。その顔には、なんの感情も浮かべていない。
「お前らの反応は正しいと思う。だから、俺なんか気にしなくていいから」
「いや、俺等ビックリしただけで……てか、そんな事情あったのもはじめて知ったし……」
「ごめん」
へーちゃんは消え入るような声で謝ると、僕には見向きもせずに学校を後にする。
「アイツ、やっぱ何か無理してるよな」
加山くんが下駄箱から自分の外靴を取り出し、放り投げるように乱暴に床に投げる。近衛くんも上靴を下駄箱にしまってから外靴を取り出した。
「だよなぁ、まぁ、何とかするんだろーけど」
近衛くんの言う通りだ。へーちゃんはきっと、自分で何とかするのだろう。
それができる強さを持っている。
なら、こんなに嗅ぎ回るのは余計なお節介だろうか。
「相沼、変な話に付き合わせて悪かったな」
「ううん、話してくれてありがとう」
じゃあ、と近衛くんと加山くんがいなくなるのを見届けてから僕も歩き出した。家にはバスで帰るが、今バス停に行けばへーちゃんと鉢合わせてしまうので気まずい。でも、それを逃せば今度は30分待たないといけない。
また嫌な顔をされるのだろうと思いながらバス停に向かったが、先に学校を出たへーちゃんはいなかった。彼も、僕と鉢合わせるのが嫌だったのだろうか。
避けられているようで悲しいが、仕方ない。
僕は晴れない気持ちのまま、バスを待っていた。
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