第6話 滴る、血と涙。
X年9月14日:相沼優志
「マジであり得ねぇ」
「いや、ベッドで寝始めたの君だからね……」
「普通拒むだろ。めちゃくちゃ身体痛てぇ」
翌日、やっぱり寝ぼけていたへーちゃんは夜中のことを覚えていなかった。朝起きると一緒にベッドで寝ていたものだから驚いて僕を枕で叩いてきて、挙げ句寝返りが打てなかったから身体のあちこちが痛いと文句を言っている。
「へーちゃん、告別式行くの?」
今日は糠部先生の告別式がある。確か9時からだったはずだ。今は7時だから十分に間に合う時間だ。
「家に帰る。今日は行かねぇ」
へーちゃんはそう言って、大きく伸びた。肩がコキコキとなっており、痛そうだった。
「ねえ、へーちゃん……これからどうするの?」
「どうって何だよ」
「君が自首するつもりがなくても、いつかバレるかもしれないよ」
僕は自分でも驚くくらい冷静になっていた。昨日はあれだけ現実味のない話に翻弄されていたのに、もう頭の中はへーちゃんのこれからのことでいっぱいだった。
へーちゃんは昨日僕が貸したTシャツを脱いで、丁寧に畳む。
「お前にこれ以上話すつもりはない」
「どうして?」
「どうしてって? 逆に、どうしてお前に話さねぇといけねぇんだよ」
確かにその通りだ。彼の力になりたいっていうのは僕の都合だ。へーちゃんが気にする必要は一切ない。
「優、お前には心配してくれる家族がいる。お前が一番優先するべきなのはそっちだ。わかるだろ? 俺とお前は他人だ。お前は俺に救われたって言うがそれだって結果論だ。気にすることなんてねぇんだよ」
制服に身を包みながら、彼は早口で言う。僕はパジャマを脱ぎながら、彼の寝起きの低い声を聞いていた。
「いい加減、過去のことに縛られてないで今のこと考えろって。お前、勿体ないんだよ。こーやって普通に話せばダチの一人くらい作れるだろ」
「僕、気持ち悪いらしいから友だちなんてできないよ」
「周りが言うことが全てじゃない。そりゃあ、キモいって思うことも正直あったけど。でも、そんなの誰だってあるだろ」
「僕はへーちゃんをキモいって思ったことないよ」
「そーいうところはキモい」
僕の正直な言葉に、正直に引きながらへーちゃんは僕を呆れた目で見た。僕はそんな彼を見て、つい笑みが出てしまった。
そっか、へーちゃんはもう「キモい」って言うのも我慢しないんだ。そう思うと、嬉しい。僕に遠慮していないということだ。
僕が笑うと、へーちゃんは益々怪訝な顔をする。
「お前ってやっぱり普通じゃないよな。変わってる」
「そう? そうじゃないといじめられないか。自分ではよくわからないや」
「人と笑うところが違う」
「それはへーちゃんもだよね」
君は人を殺したことを、笑顔で伝えてきたじゃないか。
それはさすがに口にはできなかったが、それでも言いたいことは伝わったのか、へーちゃんは「そーかもな」と笑った。
びっくりするくらい穏やかな朝だった。昨日のことがまるで夢だったのかと思うくらいに、清々しくて気持ち良かった。
「へーちゃん」
朝御飯もいらないと言って、へーちゃんはすぐに玄関に向かった。僕も特に引き留めることなく、一緒に玄関に向かう。
「いなくならないよね?」
「さあ、どうだろうな?」
意地悪そうにニヤッと笑い、彼はドアを開ける。
あんなに口が悪いのに、それでも他人の家を出るときはやっぱり「お邪魔しました」と丁寧にお辞儀した。
へーちゃんを見送った後、僕はリビングに向かった。
お腹が空いたので冷凍庫から食パンを2枚出した。両親はすでに出勤しているようで、リビングは静かだ。
「お兄ちゃんおはよ!」
「おはよう、心春」
妹の心春が朝から元気にぴょんぴょん跳ねてリビングに来た。彼女はこれから学校だ。
「あれ、何持ってるの?」
「あ、これお兄ちゃんの? 落ちてたよ?」
「うん。ありがとう」
心春が手渡してきたのは、古びたお守りだった。夏休みにへーちゃんが渡してきたものだ。
「そのお守りボロボロだけどごりやくあるの?」
「うーん、信じればあるんじゃないかな」
妹の指摘に適当に答えながら、僕はお守りを何となく見つめた。お守りの紐が解れていて、いかにもご利益が無さそうだった。
「ねぇ、お兄ちゃん! お守りの中って何入ってるの?」
「え? わからない……紙じゃない?」
「見せてよー! どうせボロボロなんだし!」
「ええ!?」
小学生の好奇心とは凄いものだ。
心春は見たい見たいとぴょんぴょん僕の周りを跳び回る。
折角へーちゃんがくれたお守りなのだからそんな罰当たりなことはしてはいけないと思う一方で、心春の知りたいモードに困り果ててしまった。心春は納得がいかなければきっと登校せずここでずっと僕の周りをとび跳ね続けるはずだ。彼女はそういう人だった。そうなれば、親に怒られるのは僕だろう。
僕は諦めて、紐を解いた。紐はすんなりとほどけ、中からやっぱり紙が出てきた。
「ほら、やっぱり紙だよ」
「なんて書いてるの?」
「えっと」
思っていたよりペラペラの安そうな紙には文字が書いてあった。平仮名ばかりの文字が並んでいる。
おとうさんへ
へいわのこときらいになっちゃったの?
ゆるして
ごめんなさい
へいわはおとうさんといたいよ
おかあさんにころされちゃうよ
へいわより
「お兄ちゃん! こはるにも見せてよ!」
「……」
お父さんから貰ったんじゃなかったんだ。いや、お守り自体は貰ったものかもしれないけど、でも、そうじゃなかった。
お父さんに渡すつもりだったんだ。
お父さんに助けてもらいたかったんだ。
「……南無阿弥陀仏って書いてある。漢字だから心春が見てもわからないよ」
「えー、それだけ?」
「うん、それだけ。ほら、もう学校の時間だよ」
「えー、見せてよー」
「僕ももう家出るから、帰って来たらね」
「ケチ」
「ほら行くよ。僕も出掛けるから早く出て」
「でも」
「心春!」
珍しく僕が強めの口調で言ったからか、心春はようやく諦めをつけ、つまらなそうにランドセルを背負った。僕は心春が家を出たのを見送ってから、すぐに家を出た。
食パンを食べ損ねたが、もうどうでもよかった。
僕は、へーちゃんに会いたかった。
彼は、どんなつもりであれを書いたのだろう。
そもそも、お守りと交換したあの手紙の内容は何だったんだ?
もしかして……彼はずっと誰かに助けを求めていたんじゃないのか?
なら、あの手紙は本当は貰ったあのときに読むべきだったんじゃないのか?
今、彼はどんな気持ちなんだろう。
昔、彼はどんな気持ちだったんだろう。
おばさんと住んでいると言っていた。恐らく、小学生の頃から家は変わっていない。
僕は必死で走った。足が遅い自分を恨みながら、走った。息が上がるけれど、それでも走った。
10分ほどで彼の家に着いた。築うん十年の一軒家は僕が小学生の頃と変わらず屋根が少し曲がっていた。ただ、名前は明星から双郷に変わっている。
ごくりと唾を飲む。それから、恐る恐るインターホンを押した。へーちゃんの家に来ただけなのに妙に緊張して指が震えている。
「はい」
すぐに男性の声が返ってきた。他所様使用の、地声より少し高くしたへーちゃんの声だ。僕はへーちゃんがちゃんと家に帰っていたことに胸を撫で下ろした。
「相沼です」
「……優?」
「話したいことがあるんだ」
ガチャン。受話器を置く音がした。そして、すぐにドアが開かれた。
へーちゃんはTシャツに学校のジャージを着ていた。髪からはポタポタと水滴が落ちており、風呂上がりなのはすぐにわかった。
「あ、ごめんね。お風呂入ってたんだね」
「いや、丁度上がったところだったから。それより、何の用だよ」
「これ」
僕はお守りに入っていた幼き日のへーちゃんの手紙を彼に手渡した。へーちゃんは怪訝な顔をしてそれを受け取り、内容を見る。目が、大きく開いた。
「こんなもん、どこで……」
「お守りの中に入ってたんだ。覚えてなかったの?」
「……」
へーちゃんは小さく首を横に振った。
「置いていったんだ……あの人」
「え?」
「これ、お父さんがいなくなる前の日に渡した手紙。……あの人、ハナから女と蒸発するつもりだったから、お守りの中に入れてご丁寧に手紙を返品しやがったんだ」
声が震えている。目を無理矢理開いて、顔に力を入れて、泣かないように我慢している。
どうやらへーちゃんが大好きだった一人目のお父さんは、女の人と一緒にどこかへいなくなってしまったようだ。幼いへーちゃんの謝罪と助けを求める声を無視して。
「へーちゃん」
「何なんだよ! 俺が何したんだよ!! わかんねーよ!!」
へーちゃんは大きな声を出した。枯れた声、フルフル震える身体。僕の中で完璧な超人だった彼の像が崩れていく。
彼は、僕と同じ世界に生きる人間で、完璧ではなかった。いや、もしかしたら僕よりも地獄を這いつくばって生きていたのかもしれない。それでも、その辛さを周りに見せないようにして生きていたのだ。ある意味、上手にやり過ごしていたのだろう。
それは、決して幸せなことではない。
誰も頼れないということは、孤独ということだ。
「いっそ、俺が死ねばよかった……本当に、糠部と死ねばよかったんだ……無駄だ、こんな人生、全部無駄だ……」
「へーちゃん」
「もう、どこにも、行くところがない……いる場所がない……何だったんだろう……何してるんだろ、俺」
我慢していた涙がポロポロと、髪から滴る水と一緒に落ちていく。それと一緒に、彼の気持ちもどんどん堕ちていく。項垂れた彼は、もはやいつもの自信に満ち溢れたへーちゃんとは別人だった。
「君は、お父さんの所に行くつもりだったの?」
「……」
今は外に近所の人もいないが、へーちゃんが声を張り上げるとかなりの声量があるので、僕は近所の目が怖くなっていた。だから、僕はへーちゃんの腕を引っ張り、彼を家の中に連れ込んだ。彼は抵抗なく玄関に入り、力なく立ち尽くしす。
「施設から出て、お父さんに会いたかったの?」
「……もしかしたら、迎えに来てくれるかもって思った。あの、変な女がお父さんをたぶらかしただけだって。お父さんはきっと間違いに気付いて戻ってきてくれるって……」
幼い子どものようにポロポロと大粒の涙を落とす。彼はそれを拭うことすらしなかった。
「来るわけないって、わかってたけど、諦められなかった……」
へーちゃんがゆっくりと顔を上げる。無理矢理口角を上げるが、口が震えて笑顔が歪だった。
「もう、いいだろ……」
「何もよくないよ」
「いいんだよ、もう、いいんだ。終わりだから……あーあ、無駄なことしたわ。さっきさ、あの、クソババァ殺したばっかりで気分良かったのに。あーあ、本当についてねぇなぁ。俺、何してるのかな」
「え?」
へーちゃんはさらりと言ったが、僕は反応しないわけにいかなかった。
僕の間抜けな声に、へーちゃんの震えがピタリと止まった。そして、先程の作り笑いから一変して愉快そうに笑う。
「家帰って来たら、あのババァが寝てたからさ。思いきって殺したんだ。だから、リビングには行かない方がいいぞ?」
「えっと」
「本当はたくさんいたぶって殺してやりたかったけどさ、騒がれたら面倒だったから寝てる間に脳天刺してやった」
悪戯が成功したときと同じ顔をして、へーちゃんは笑う。その目は完全に正気ではなかった。
ハッキリと殺したと言った。その表情は本当に愉しそうで、嬉しそうだった。
背筋に冷たいものが伝う。空気が重い。へーちゃんがあまりにも嬉しそうなので、僕は怖くなって体がバイブレーションのように震え出した。
「……ああ、お前、俺の力になりたんだっけか? じゃあ、リビング見てきてくれよ。そんで、お前の中にある理想像をぶっ壊してこいよ。俺は聖人じゃない、ヒーローじゃない。なぁ、俺の役に立ちたいんだろ? なら、本当の俺を知ってくれよ、優」
へーちゃんはそう言って廊下の突き当たりのドアの前まで歩いた。へーちゃんの家の中に入ったのは今日が初めてだった。いつも、彼の家の前までは来たが、招き入れてはもらえなかった。でも、恐らくあそこがリビングなのだろう。
「無理だよな、できるわけないよな。わかってる。それでいいんだ。お前は、このまま何も知らないうちに家に帰ればいい。俺のことなんか見なければいい」
「見るよ」
「は?」
僕の返事に、へーちゃんは目を丸くした。僕は、身体の震えを止められないまま、それでも一歩、彼に近づいた。
「へーちゃんは、僕がどれだけ苦しかったかわかる? 何もしてないのに、ちょっと他の人と何かが違うだけで罵られて。僕は、本当に辛かったし、死にたかった」
「……」
一歩。一歩。ゆっくりだけど、確実に彼に近づいている。
僕にはわかっていた。へーちゃんは嘘を吐いていない。彼は本当に糠部先生を殺したし、おばさんも殺したのだろう。
でも、彼から逃げたくなかった。足は震えて情けないけれど、それでも僕は、逃げたくはなかった。
「へーちゃんは、僕を唯一助けてくれた。君は、僕を仲間外れにしないし、いじめられていたら手を差し出してくれた。僕を、唯一存在してもいいって認めてくれた」
「そんなの、普通のことだろ」
「普通じゃないよ、僕にとっては。だって、クラスで浮いてる僕を唯一班とかペアに誘ってくれた」
「そんなの、誰かは絶対なるから……だから手っ取り早く誘ってるだけだろ」
「君だけが暴力から僕を庇ってくれた」
「そんなの、俺がたまたまお前より腕っぷしが強かっただけだろ」
「僕にとってはそれが救いだったんだよ。僕は、君がいたから生きて来れたんだ。誇張してるんじゃない、本心だ」
へーちゃんの前まで来た。廊下なんてそんなに長い距離ではないはずなのに、ここまで来るのにかなりの時間を費やした気分だった。
相変わらず、足は無様に震えている。まだ何も見ていないのに、胃が締め付けられるように痛かった。
それでも、僕はそのドアを開けなければならない。へーちゃんにはわからないと思うけど、僕はそれだけのことをしてもらってきた。それだけいじめは苦しかったし、そこから救ってくれた彼が、大切だった。
「見せてよ、君のこと」
「何で……」
「僕は、君のことを知らなかったから……教えてほしいんだ。もう、遅いかもしれないけど、でも、見せて」
へーちゃんがドアノブを掴む。へーちゃんは、僕をじっと見ている。戸惑っているのだろう。ドアはなかなか開かない。
僕は彼の手の上からドアノブをしっかり握った。それから大きく深呼吸をして、ドアを開けた。
「っ!」
入室して、たったの一歩で動けなくなった。
覚悟してはいた。でも、その衝撃に僕は耐えきれなかった。その場に座り込み、込み上げてきた胃液を吐き出した。
へーちゃんの母は、ビールの缶などと一緒にリビングの床に転がっていた。頭は何度も刺されたようで血がたくさん流れており、何か血ではないものまで顔を覗かせていた。身体もたくさん刺されたへーちゃんの母は胸からもお腹からも赤いものを出している。
無惨なおばさんの死体からは、へーちゃんの憎しみが強く感じられた。恨んでいなければこんなにも人を刺したりしないだろう。へーちゃんは自分の母親を、明確な殺意の元で何度も何度も刺したのだ。
「幻滅したかよ」
僕の横を通って、へーちゃんがリビングに入った。そして、躊躇うこともなく母親の頭を蹴る。僕はその光景に怖気ついて、床に視線を移した。
「幻滅したよな? これでわかったよなぁ? 俺はお前が思ってるような人間じゃない」
「……」
「可哀想だなぁ、優。俺なんかに恩なんて感じるから、無駄に気を遣うから、だから今こんな思いしてるんだぜ?」
「……わないで」
「聞こえねぇ」
僕の振り絞った声は、掠れて言葉にならなかった。気持ちを伝えるなら、僕は顔を上げてへーちゃんを見なければいけない。でもそうしたら僕はまたあの死体を見ないといけない。
どちらを選ぶか。悩んだのは一瞬だった。ドアノブを掴んだ時点で、僕はもう逃げられないのだ。
「俺なんかって、言わないで。可哀想なんて、言わないで!」
「あ?」
顔を上げてハッキリと言うと、へーちゃんは眉間にシワを寄せた。僕は、それに構うことなく、胃液のついた口を拭う。
「僕は、僕の意思でここにいるんだ。だから、可哀想なんかじゃない。それに、君が何て言おうと、思おうと、君が僕を助けてくれたのは変わらない。幻滅なんてしないよ」
「……」
へーちゃんが大股で座り込んでいる僕に近付く。ドカドカと大きな音を立てていて、不機嫌なのは明らかだ。
彼は躊躇うことなく僕の首に両手を回し、絞めた。僕は突然の苦しみから逃れようとへーちゃんの手を掴むが彼の力には敵わない。
「お前がいじめられる理由教えてやるよ……そーいうところがフツーじゃねぇし、キメェんだよ! お前、俺の何見てきたんだよ!? あんなに一緒にいたのに、どうして昔も今も何一つ理解しねぇんだよ!!」
ギリギリと首の絞まる音が耳の奥から聞こえる。酸素が欲しくて必死に手でもがくけれど、小さい頃からスポーツで鍛えていたへーちゃんの力には敵わない。
「俺は、お前に助けられたいわけじゃねぇ! 俺は!」
彼の手から力が抜けた。僕はいきなり身体中に入ってきた酸素に噎せながら、呼吸を整える。
向かい合わせに座り込んだへーちゃんは、目を充血させながら僕を睨んでいる。笑ったり、怒ったり、泣いたりと彼は忙しい。それだけ情緒が不安定なのだろう。それだけ追い込まれていたのだろう。
「俺……もう、どうしたらいいのかわからねぇよ……死ねばいい? それとも自首して、したくもねぇ反省したらいい?」
「へーちゃん……」
「俺が何したんだよ……、なぁ、教えてくれよ……何もいいことなんてなかった。なのに、どうして俺はここまで生きてきたんだ? 俺だって、選べるならこんな家に生まれてきたくなかった。いや、そもそも生まれてきたくなかった。なぁ、俺の何が悪くてこんなことになってんだ? 俺が悪いから糠部みてぇなのも出てくるんだろ? 会う奴はこんな変な大人ばっかりだ。なぁ、俺の何が間違いだった?」
僕を見ているようで見ていない彼は、完全に自問自答を繰り返していた。彼が僕に問いかけていることは、全て僕には答えられないし、彼しか答えを持っていなかった。いや、彼にも答えなんかわからないのだ。
「へーちゃんは、悪くないよ。君は、精一杯頑張って生きてきたんだ」
「お前は本当に節穴だな……やっぱり俺のことなんて見ちゃいねぇ。精一杯生きてたらこんなことになってねぇ」
「そうだね、僕は君を見てなかったと思う。僕にはそんな余裕なかったのかもしれない。でも、君が頑張っていたことは、わかるよ」
「……」
「ここにいたら捕まる。逃げよう? 君の答えが見つかるまで」
「……行けない」
僕が立ち上がっても、へーちゃんは座り込んだままだった。彼の顔は真っ青で疲れきっていた。
「もう、どこにも行けない」
ポツリとへーちゃんが呟く。へーちゃんの背中が小さく見えた。
生きる目的も意味も無くなってしまったのだろう。彼は、もう一人では立ち上がれないのかもしれない。それは仕方の無いことだった。ここまで、彼は一人で頑張り過ぎたのだ。
「行けるよ、一緒に行こう」
「……お前を共犯にはできない」
「じゃあ僕が君を誘拐したらいい?」
自分でも突拍子の無いことを言ってしまった。へーちゃんも誘拐というワードに反応して力なく笑った。
「発想がヤバイな」
「ありがとう」
「褒めてねぇよ」
彼の眼前に手を差し出す。
苦しいとき、いつもへーちゃんが僕にしてくれたことだった。
「行こう、へーちゃん」
「……」
「いいんだよ、君だって弱音を吐いたって。泣いたって。僕は、君がどれだけ弱い姿を見せたって、そんなこと気にしないから」
「……知ってる」
「そっか」
へーちゃんは溜め息を吐いて、そして僕の手を取った。
へーちゃんはもう学校にも行く気はないと話した。殺人を犯したのに学校で何を学んでも無駄だと自嘲する。僕も彼のその言葉を素直に聞き入れた。多分、殺人を隠蔽して登校したところで、バレるのも時間の問題だろう。
僕らは床に死体が転がっている中で、ソファに並んで座りながらテレビの再放送番組を見ていた。もちろんテレビ番組の内容は1つも入ってこなかったが。
時間が経つと、僕もへーちゃんも冷静さを取り戻していた。いや、もう冷静ではないのかもしれなかったけれど、お互いにお互いがおかしいと思っているのだから気にも止めなかった。
「学校じゃないなら、他に行きたいところとか、やりたいことはないの?」
「そうだな、特に思い付かないけど……」
へーちゃんはそう言ってソファに座りながら床に落ちておる母親のお腹をボールのように蹴っている。
「……お父さんが、今、どんな生活してるのか知りてぇかも」
へーちゃんは視線を死体に向けながら少し考えた後、僕の質問に答える。
彼にとってお父さんは、とても大きな存在だったのだろう。希望の光だったのだと思う。だから、はじめから捨てられていたとわかった今でも、お父さんのことを求めているのだ。
「どこにいるかわかるの?」
「施設にいたときに園長が教えてくれた。引っ越してなければそこにいるはずだ」
へーちゃんが視線を僕の方に向ける。目の下は泣いた跡がはっきりとついており、顔は血の気を失って真っ青で疲弊しているのが痛々しいほど伝わる。
「じゃあ、一緒に行こうよ」
「……行っても、何もない」
「行かなくても何もないよ」
へーちゃんはずっと死体を蹴っていた足の動きを止めた。そして、苦笑を浮かべながらその足で僕の足を蹴った。
「お前の言う通りだな、どうせ他に行く宛もねぇんだったわ」
「因みに遠いの?」
「電車で8時間か9時間くらい」
「長旅だね」
僕が時間の長さについ笑ってしまうと、やっぱりへーちゃんは僕の足を軽く蹴る。
「本気で、俺を警察に突き出さないで着いてくるつもりか?」
「うん、そうだよ」
僕は、へーちゃんのお母さんの無惨な姿を見てから迷いはなくなっていた。実際に彼が母親をどれだけ憎み、今まで苦しんできたのか知ったからこそ、僕だけでもへーちゃんの弱いところを受け止めたかった。それは完全にエゴだけど、求められているわけではないかもしれないけれど、僕にとってはそれがへーちゃんに対する恩返しだ。
僕が変な顔でもしていたのか、へーちゃんは呆れたように口を曲げた。そして、僕の足を何度も蹴る。
「本当にどうしようもない奴だな」
「自分でもそう思ってるよ」
「どーだか」
おもむろに、へーちゃんは僕の足を蹴るのを止めた。そして、ソファから立ち上がり僕を見下ろす。
「お前は、俺に無理矢理連れていかれた」
「え?」
突然、意味のわからないことを言われ首を傾げた。へーちゃんはそんな僕に冷たい目を向けながら続けた。
「お前は、俺のことを心配して家まで来た。そんで、たまたま俺が母親を殺したことを知ってしまった。俺は、口封じのためにお前を連れて逃亡した」
「何それ」
「こういう設定でなら、連れていってやるよ」
へーちゃんは、いつもの意地悪そうな笑みを浮かべた。その設定は要するに彼が捕まったときに僕が共犯にならないようにするためのものだった。
こんなときまで僕に気を遣わなくてもいいのにとは思ったが、そんなことを言えば彼が不機嫌になるのは想像できたため、ここは素直に従うことにする。
「わかったよ、誰に何て言われても僕はそう答える」
「本当かよ」
「そこは信じてよ」
へーちゃんが怪訝そうに僕を見るので、僕は小指を立てて右手を差し出した。
「じゃあ指切り。約束しよう」
「ガキかよ……」
そうは言いつつ、へーちゃんは律儀に右手を差し出した。指切りなんて何年ぶりなのだろう。指を絡め、僕が「ゆびきりげんまん」と言うとへーちゃんが「嘘吐いたら殺す」と物騒なことを唱えた。
それでも僕は約束をした。僕の「指切った」の声でへーちゃんは勢いをつけて腕を上下に振り、僕の手を振り払った。
「マジでキメェな」
「え、ゆびきりげんまんが? それとも殺すって言われたのに約束したこと?」
「どっちも」
そりゃあ、殺人犯に殺すと言われれば怖いけど……。
「でも、そうしないと連れていってくれないんでしょ?」
「そうだな……でも、約束は約束だからな。絶対に裏切るなよ」
「うん」
「あと、1つ約束しろ。俺が万が一こっちに帰って来なくても、お前は絶対に家族の所に帰れ」
「……わかったよ、約束する」
「もう一度指切りする?」と聞くと、へーちゃんは「やらねぇ」と答えてお母さんの両腕を持ち上げた。
そして、そのまま死体をズルズルと引きずる。
「何してるの?」
「解体する。このままここに置いておくわけに行かねぇだろ。ここに帰ってくるのはいつになんのかわかんねぇんだ」
「それはそうだろうけど……」
「ババァは無職だったし、最近付き合ってた男とも別れてる。恐らく暫く誰にもバレやしない。でも、臭いがあればすぐに気付かれるかもしんねーし。俺一人ならともかく、お前がいるならなるべく気付かれないようにした方がいいだろ」
へーちゃんは早口で言うと、お母さんの死体を浴室まで運んだ。僕は運ぶのを手伝うことができず、黙って彼の後を追う。
「お前、暇だろ。ネットでここから向江市までの電車の時間調べろ」
「向江市……」
僕は地理が苦手だったが、向江市と呼ばれるそこは僕らが住むこの場所からずっと離れたところにあることだけは知っている。
僕がポケットからスマートフォンを取り出すと、へーちゃんは黙って浴室を出た。
死体と二人きりになれるほど死体に慣れていなかった僕は、へーちゃんがいなくなった瞬間に浴室から出て、脱衣場で検索の続きをした。予想到着時間が9時間50分と書いてあり、本当に遠いようだ。
へーちゃんはすぐに戻って来た。手には斧が握られている。
「えっと今日の夜がいい?」
「ああ、夜でいい」
「えっと、朝方着くやつなら22時15分発があるよ。8時着で……10時間くらいかかるけど」
「それでいい」
へーちゃんはそう言って浴室のドアを閉め始めた。閉めきる前に僕が慌ててそのドアを抑えると、大きな舌打ちをした。
「解体するから、お前は帰れよ」
「でも」
「22時に駅で待ち合わせ。お前の気が変われば来なくてもいい。お前が信じるかは別だが、俺は絶対その時間に駅に行く」
へーちゃんはそれだけ言うと、ドアを閉めようと腕に力を入れた。僕はドアに手を挟めるのが怖くて、咄嗟に手を放してしまう。
バタン。大きな音が響いて、僕らはドアで隔たれた。
へーちゃんの影がしゃがみこみ、作業を開始した。僕は、どうしてもその作業を見る勇気は出なかった。
「絶対に来てね!」
僕はドア越しに大きい声でへーちゃんに言った。浴室の中からは「うるせぇ」とお怒りの声が返ってくる。
僕は、彼を信じることにしてへーちゃんの家を出ることにした。何日間出掛けることになるのかはわからないが、とりあえず必要最低限の荷物を用意しなければならない。
足を進めようとしたとき、浴室から楽しそうな笑い声が聞こえる。
「あはは、お母さん、キレイだねぇ……よかったねぇ……あははは……あはははははははははははは! お母さん、大好きだよ、ヘイワ、ずっとお母さんのこと大好きだよ。あははは、ははははははは!」
へーちゃんは、もう僕の存在なんて関心もないのだろう。
無邪気に笑うへーちゃんの声は普段の彼より無邪気で、まるで母親に甘えているようだった。
怖い。
この声だけで、はっきりわかる。へーちゃんはもう、おかしくなっている。今までの双郷平和に戻ることはできない。
後戻りは、できない。
僕は震える足で双郷家を出た。
そして、逃げるように走って家に向かった。
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