2-2 彼の見た花火
週末日曜日、花火大会の日の朝。
妻がベッドから出てこない。
「大丈夫?」
「うん、ちょっとダメかも」
「熱測った?」
「熱出ちゃってる」
「お粥食べれる?」
「うん、ありがとう」
食欲もあるし完全にダウンしているわけではなさそうだけど、花火はだめかな。
今日に向けて、随分楽しそうに準備してたから本当に行きたいのだろうけど。
彼女がいつ地元に帰ってくるだの、待ち合わせ場所はどこだの逐一話してくれた。
おかげで本日の花火大会スケジュールをすっかり憶えてしまっているほどだ。
天気も快晴、絶好の花火日和なのだが、体調ばっかりは仕方ない。
でも、いけないなら彼女にも早く伝えておいてあげないと可哀そうだ。
「花火無理だな」
「うーん、そうだよね」
「連絡しときな」
「うん、わかった」
どうしても行く、と言い張られたらどうしようかと思ったが大人な対応でほっとする。
妻は壁にかかった朝顔の浴衣を見て、ふっとため息をつくとスマートフォンに入力し始めた。
本当に花火行きたかったんだな。
そんなに楽しみなら今度連れて行ってあげようか。
そんなことを考えていると、妻が頭を上げて言った。
「あのね、私の代わりに花火大会行ってくれないかな?」
「え?」
予想外の提案に驚く。
「だって、あの子わざわざ花火のためにこっち戻ってきたのに可哀そうだよ」
「まあ、確かに」
「でも、地元に一緒に行ってくれる人いないだろうし」
言ってることはわかる気もするが、これはどうするべきなんだ。
いきなり思い出の箱がガタガタと動き出し、胸がざわつく。
「いや、浴衣とかないし」
「甚平でいいんじゃないかな、この前買ったやつ」
「ああ、買ってたね」
似合うといって妻が買ってくれていたまま、一度も着る機会のなかった甚平がある。
というか、花火大会なんて別にTシャツでいいじゃないか。
なんで服装とか気にしだしてるんだ、俺は。
内心、動揺している俺に妻は続ける。
「じゃあ、いってくれる?」
「わかった、いくよ」
「ありがとう、楽しみにしてるって伝えておくね」
答えて妻はスマートフォンに入力を続ける。
楽しみにしているのは本当だが、言葉に出した記憶はない。
しかし、確かに彼女と久しぶりに会えるのは楽しみだ。
よくわからない感情に揺れていると、話がついたらしい妻が再び顔を上げた。
「行くって。あの子も楽しみにしてるって」
「そう」
「あ、待ち合わせ場所はわかる?」
「コンビニだよな」
「ありがとう、ごめんねって伝えておいて」
「わかった」
まさか、十年前妻といった花火大会に彼女といくことになってしまった。
結婚式までは会わないと思っていたので、全く予想していなかった。
平然とした振りをしながら、買ってすぐしまってしまっていた甚平を引っ張り出す。
とはいっても後ろめたいことは何もない。
何しろ、俺は結婚式を控えている身で妻帯者だ。
久しぶりに会う後輩と、ただ花火に行くだけだから大丈夫だし。
途絶えてしまった交友を再開するのであれば、むしろ良い機会じゃないか。
「うーん」
いい大人が、男女二人で浴衣着て花火大会。
どう見ても友人関係の絵面ではないのだが、まあ単純に再会するだけと割り切ろう。
妻の頼みだし、妻の親友をがっかりさせるわけにもいかない。
少しの後ろめたさに気づかないふりをして、夕方の花火大会に向けて準備をはじめた。
その日の夕方。
集合時間よりもかなり早く待ち合わせ場所のコンビニに到着。
記憶に残る彼女だったら、こんな時混雑をケアして早すぎるくらい早めに集合場所につくはずだと思ったからだ。
「三十分前は早すぎたか」
さすがに早すぎたかとひとり呟くと、コンビニに入って飲み物を購入。
買い終わって、ふと外を見ると紫菖蒲柄の浴衣を着た彼女が歩いて来るのを見つけた。
「変わってない」
思わずつぶやいてしまう。
早くついてしまうことも、その姿も。
昔を思い出しながら、コンビニの自動ドアから入ってこようとする彼女の前に出ていく。
「あ、久しぶり」
「……」
左手を上げて挨拶をすると、彼女はぽかんとした表情を見せて止まってしまった。
よっぽど驚かせてしまったのか、本気で固まっている。
昔と同じように見える彼女だが、かなり長い時間会っていない。
もしかすると俺のことも忘れてしまっているかもしれない。
そんなに変わったつもりはないんだけど、少し不安になってしまう。
「どうした? 大丈夫?」
「あ、いえ、お久しぶりです先輩」
恐る恐る確認すると、昔と変わらず小さく笑って挨拶を返してくれた。
当然、年相応に大人になっているが、昔からの大人びた雰囲気にようやく年齢が追いついた感じだ。
落ち着いた雰囲気でしっかりした彼女が、申し訳程度にちょっとだけ笑う笑顔が好きだった。
話しているうちに、少しずつ心を開いてくれるのがうれしかった。
なつかしさに浸りつつ、花火へ向かうべく促す。
「んじゃ、行こうか」
「はい」
他愛無い雑談しながら花火会場へ向かう。
「何年振りだっけ?」
「私卒業して十年くらいなんでそれ振りじゃないですかね」
「卒業間際も会ってなかったかな」
「私、受験勉強に集中してて」
「寂しかったよ。俺のいってた大学に来るのかと思ってたから」
つい本音が口に出てしまった。
今更こんなことを言われても困るよな、とひとり反省しながら人混みの中を歩く。
しかし困った。
妻との想い出の花火大会なのに、昔好きだった女性と歩くというシチュエーション。
彼女への想いがどんどん強くなってしまい心が落ち着かない。
穏やかなはずの時間が息苦しい。
十年前も彼女と話すときはよく見られたくて緊張していたことを思い出す。
当たり障りのないことしか言えず、気の利いたことも言えない自分だった。
高校生のときから成長してないんだな、と軽くいやになる。
「でも、大人になったよな。浴衣も似合ってる」
「あ、ありがとうございます」
このままでは情けないと先輩としての余裕を見せると、彼女は少しだけ笑ってくれる。
すぐに表情がもどるが、一瞬の笑顔が見れたことにうれしくなってしまう。
もっと長く彼女と一緒にいたい気持ちが歩みの速度を落とす。
彼女を人ごみにさらしたくなくて、人混みの反対側に誘導した。
やっぱり、彼女の隣に立つと余裕がなくなる。
思えば、高校生のころから彼女との時間はいつも穏やかで余裕がなかった。
後輩なのに大人っぽくて、でも時々子供っぽい姿を見せてくれる彼女にどぎまぎしていた。
恋していたあの頃を思い出し、噛み締めながら歩く。
しかし、会場付近は大混雑。
なかなか会場に近寄ることができない。
そうこうしているうちに花火が始まってしまう。
「ここで見よっか」
「そうですね」
ちょっと歩いて、なんとか座って花火が見える場所を発見した。
少し下の方は見えないが十分花火が楽しめるポイントだ。
二人で並んで座り、花火を眺める。
次から次へと花火が打ち上がる。
夜空に向かって鯉のように登っていく光と風を切る音色。
それを追いかけるように期待に満ちた人々の顔も夜空を見上げる。
大輪の花が咲き、花火と人の音が入り混じる。
束の間の何もない空間と余韻に浸る人々。
隣には、紫菖蒲の浴衣をまとった彼女。
彼女の隣で花火を見続ける時間に浸っているとつい声が漏れてしまう。
「やっぱいいな」
「そうですね」
彼女も、呟いた。
彼女との時間はいいな。
やっぱり俺は今でも彼女のことが好きなようだ。
長年の想いが一つ一つの花火に合わせてはじけていく。
光が音が、大きくなって私の中を思い出でうめていく。
俺は十年間何をしていたのだろう。
想いにふたをして、彼女のことを気遣っているふりをして連絡を取ることすら避けていた。
でも、二人の時間はこんなにも変わらない。
俺が一歩踏み出していれば、もっと別の関係になれたかもしれないのに。
花火に彼女と来たかった。
そんなことを思っていると、最後の花火らしい大掛かりな花火が打ち上がる。
とても高く、遠いところまで俺の想いを乗せて飛んでいく。
夜空を埋め尽くさんばかりに光が広がり、一際大きな爆発音と歓声がなる。
俺は、顔を花火に向けながら彼女に向かって呟いた。
「ありがとう、好きだったんだ」
「ーー」
彼女も何か呟いていたような気がするが、聞こえない。
俺の呟きも多分聞こえてないんだろう。
でも、いい。
聞いて欲しくて言ったわけじゃない。
過去との思いでに区切りをつけて、俺は妻と進んでいく。
帰ったら妻と話そう。
今度花火を見にいって妻とも浴衣で出かけよう。
今の幸せを大事にして、未練がましく過去の思い出にすがるのはやめなければ。
後ろめたい幸せな気持ちに区切りをつけるように花火が終わる。
彼女との久しぶりの時間は夢のようで、幸せな時間だった。
でも、そろそろおしまいだ。
「終わったかな」
「そうですね、現実に帰りましょうか」
彼女に心を見透かされたようで、焦るが花火のことだと気づく。
俺一人が浮ついていたみたいで、気が抜けてしまった。
「そうだな、帰ろう」
「はい、帰りましょう」
花火で混雑する人混みを抜けて、彼女の実家の前に着く。
あとわずかな時間をかみしめるように歩いたが、すぐ着いてしまった。
「ありがとうございました」
彼女は頭を下げてお礼を言った。
礼を言いたいのは俺のほうだけど、ここで礼をいったらよくわからないことになる。
軽くうなずいて別れの挨拶をしようとするが、この時間を失うのが惜しくて未練がこぼれた。
「また、会えるかな」
「はい、ぜひ。今度は三人で会いましょう」
帰ってきたのは、十年前の花火大会で俺が妻に返した言葉でびっくりした。
思わず軽く笑ってしまって、やっとうなずく。
危ないところだった。
二人で会いたいと言っているようなものだったじゃないか。
彼女が、今日の楽しかった時間を愛情ではなく親愛で締めてくれた。
彼女に救われた。
「それじゃあな」
「はい、また今度」
紫菖蒲の浴衣を着たとても綺麗な彼女が見送ってくれる。
指輪をつけた左手を振って、思い出の彼女の元から立ち去った。
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