第38話 真苗の意欲
翌朝、目が覚めると二人とも下のカウンター席で朝食を済ませて、可奈子は真苗と本を読んでいた。先日二人は一緒に買い物に出た帰りに、真苗ちゃんが本屋さんに行きたいと誘われた。子供向けの児童文学の本でも読みたいのだろうと大手スーパーの書籍売り場に行った。
「何読みたいの」と訊ねても黙っているから「ごんぎつね」って云う本は知ってる? と聞くと五歳の時に読んだと聞かされてへえーと驚いた。お母さんの深詠子さんがそう謂う童話集を幼稚園の前から読ませていたと知った。美澄と孝史が生まれると深詠子は一人でも楽しめるようにその手の童話集を与えていた。小学校に行く頃には真苗はたいていの童話集は読み終えて児童文学を読ませた。この深詠子さんの育て方に偉く感心した。真苗が書店で買い求めたのは何と此の前、深詠子が藤波を実家へ連れて行って聞かされた「草枕」だった。
「真苗ちゃん、これ読むの?」
「ウン」と頷くから買ってあげた。あたしも知らないからと同じ文庫本を買ってこの日も一緒に読んでいた。
昨日は真苗はともかく可奈子は、一度下に来たものの長老を中心にして賑やかに議論を交わせていれば女の出番はない。逆にせっかく啓ちゃんが知ろうとした心中事件の動機があやふやになれば困ると階段の途中から引き返した。お陰でぐっすり眠れて朝は真苗ちゃんと一階の店の調理場でいつものように朝食を作って済ませた。藤波が起きたて朝食を摂ったのは十時近かった。
朝食を終えると可奈子と二人で珈琲を飲んだ。流石に立花喫茶店の娘だけあって淹れた方が上手い。真苗は端の席で本を読んでいる。
「何読んでるんだ?」
エヘヘと笑って何でしょうと可奈子に言われた。
「小学校の低学年で読む本か?」
見当も付かずに可奈子を問い詰めて、夏目漱石の「草枕」と聞いてぶったまげた。藤波でも読んだのは深詠子と別れてからだ。真苗は、彼女なみにお母さんの胸の内に迫ろうとしていると、胸がジーンとして来る。良く見ればカウンターの隅に同じ文庫本があった。
「なんだ可奈子も読んでるのか」
「だって真苗ちゃんが読んでるのに、知らなけゃあ後で訊かれたら困るでしょう」
「それもそうだが」
二人とも熊本での話を聞いて直ぐ実行に移している。だが藤波は何もしなかった。あの時に気が付いていれば深詠子も尽くしてくれたかも知れない。それにしてもこの子は今でも亡くした母を逐っている。まだ自立できない子供にすれば当然だろう。それでも下村の行動は間違ってる。それを「ごんぎつね」のように分かりやすく説明すればいいが、あいつに童話の話をしても外国語を教えるようなもんだ。良くそんな相手を深詠子が受け容れたもんだ。
「本当にちゃんと読んでるのか」
「どうして」
「夏目漱石は難解な漢字もあるだろう」
「あたしも、買うときにそれを心配したけど、結構あの子は漢字知ってるのよ。それに、ほとんどの漢字にふりがなが振ってあるから」
「それもそうだが、漢字は小学校で習うが、その前に深詠子が教えたのか」
何の為に。ひょっとして真苗が大人になれば俺の所へ「こんな立派な子になったけどあなたはどうなの」ってひけらかすために育てたのか。これに可奈子は考えすぎと言うが、深詠子ならあり得る。
「何処まで読んでるんだ」
「もう半分は読んでる」
「ほ〜う、それで何回、分からない箇所があったんだ」
「それが漢字じゃなくて言葉の意味」
「それをいちいち説明してるのか」
「啓ちゃんも読んだのでしょう」
「深詠子と別れてから必死で読んだが、小学生には難解な本だ」
「小学生でなくても、あたしでも苦手な本ですぅ」
実家で深詠子さんが紹介した前田家別邸にあった風呂場の入浴場面を読んだが、どうしてあれだけ難解な文章を四ページも、これでもかと並べて読み解くのに可奈子は苦労したと言って退けた。
「あれを読むと、なるほど千円札の肖像画に納まるのも頷けるんじゃないか」
「でも、全体があんな文章の連続ですから。余程あの作家に凝らないとついていけないわね」
どうやら可奈子は、真苗ちゃんに引っ張られるように読んで、向こうのカウンター席で一人読みふける真苗の姿に感心してる。
「よーし、あの子にもっと別な刺激を与えるか」
「じゃあ遊園地でも行くの」
「この前行っただろう。今日はこれから中央市場に食材の仕込みに真苗ちゃんを連れて行こう」
「大丈夫? あそこはうかうかしてたら蹴っ飛ばされるよ」
「だから刺激が有って良いだろう」
「今日は下村との面会はいいの?」
留置場の面会は一日何件と制限があって、今日は申し込んだが頻繁に弁護士の面会が詰まっていて日延べされた。
市場へ行くかと訊けば、真苗は嬉しそうにウンと頷いた。
軽トラ助手席の可奈子の膝に乗せて出掛けた。車が動き出すと真苗に「草枕」と「ごんぎつね」を比較して解るか訊いて見た。するとそんな童話は随分と前に卒業して、少年少女向きの本を読んで戸惑いも少ない。どうやら小学生の頃から児童文学を深詠子は与えてる。それでも「草枕」では内容にかなりの差がある。
「お母さんも、あの本の女性みたいに、あんな突飛押しもない事をするから面白い」
「あら、そうなの」
とこれには可奈子が驚いている。
市場に着くと、先ず駐車場の混雑をみて、真苗は目を白黒させてる。可奈子がしっかり手を握って市場に入った。真苗は可奈子を初めて連れてきたときより落ち着いて熱心に見入ってる。最初は気が抜けないと思った可奈子も、あまり物怖じしない子だと安心して同行させる。藤波には益々、深詠子の存在感がヒシヒシと真苗を通じて伝わって来た。
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