第37話 酒巻の人生訓

 此処にやって来る馴染み客の負け惜しみに近い愚痴は、藤波啓一朗の父が作った此の店の屋号に近い。父はどん底でなく、這い上がるのを諦めた客を見ると、どん詰まりにするつもりだったのか。まあ、高度成長期を生き延びた連中の反骨精神の気持ちだけは持たせて、此処から立ち上がれ、と「どん底」にしたのだ。息子の藤波もその一員の要素はあった。それより過酷な下積みを送った酒巻が、連中の言い草にちゃんちゃら可笑しいと、冷やの日本酒を呑みながら鰯の丸焼きを咀嚼している。

「あの心中事件の何がおかしいのですか」

 ざわつく周囲をよそに藤波が真っ先に訊ねた。

「わしらの時代、終戦前後の二十年と比べればそれゃあ、可笑しい」

 酒巻以外は背開きのぐじの塩焼きやメバルの煮付けだが彼は鰯の丸焼きを食べていた。

「今のお前らは恵まれすぎてる。何でも苦労せんと手に入るさかい何とかして、ものにしたいというもんがない。根性がすたれきってる」

 椅子まで替えて、と言って直ぐ上を見上げ、まあ、これはしゃないと訂正した。酒巻さんはスッカリ真苗ちゃんにメロメロなんだ。

「それで酒巻さんの時代はどやっちゅうんです」

「あんたらは戦後、今の上皇さんと美智子さんの御結婚式前後に生まれたんやろう。わしが生まれた昭和十年代はきな臭い時代で、米国相手にするともろに苦しくなった。最後は悲惨やけど、戦後はそれに輪を掛けてもっと悲惨やった。裸電球にラジオしか使ってへんのに電気代が払えんと止められそうになったことが何回かあった」

「それでみんな何とかやりくりしてたんでしょう」

「当たり前や、そやさかい今日こんにちのわしが居るんや。お前らクリスマス以外に蝋燭ろうそくの灯りで飯食った事があるんか。今はええ時代で何でもあるが、わしらの頃は肉ちゅうたら鯨や、あれをよう食べさせられた」

「贅沢やなあ」

「なに言うてんね。あの頃は鯨しかなかった。ぎゅうなんて高値の華で給料日にしか家族は食べられへん、今はどやねん。スーパーで近所の主婦が毎日買い物しとるし、牛丼も町に溢れてる」

「酒巻はん、今更そんなんぼやいても、これが今の世の中でっせ」

「そやさかいや。こないだの一家心中のニュースはなんや、無職になれば子供の面倒よう見られんさかい、今は子供を預ける施設があるやろう。まったく世間を見る目が狭いやっちゃ」

「あの事件はバリバリ働くやり手なだけに、そんな世間の裏側を見る余裕のない人でっしゃろ」

 源さんは箸で煮物を突きながら喋るから、何処まで気持ちが乗ってるか分かりにくい。

「子供を預かる養護施設が世間の裏側やて言うのかッ」

 矢張り年金の足らん山崎のじいさんに突っ込まれた。

「そうでなく、社会の先頭切ってバリバリ働くやり手の人から見たらそうなる。少ない給料だけでやりくりしていたわしらが失業したときには子供の面倒見てくれる。わしらにすれば有り難い存在で、世間の裏側なんてとんでもない。堂々とした前途を悲観せんでもええ立派な福祉施設や」

「そうや、あのニュースの家を見たら、そこまでして世間の世話は受けたくないちゅうプライドがある。そやさかい自分の家族は自分の手で道連れにしょうとなったんやろう」

 やっさんが少し弁護した。

「別に家族を養えなくなれば預ける施設はある。そこまで頭が回らんのは社会の最先端で働いていると謂う自負があるさかいや。まあ誇りを持つのもええが、それに溺れて救いの手まで払い除ける。そんな負けん気は学校で頑張れ。社会ではそんなもん捨てて福祉にすがればええのや」

 戦中戦後を生き抜いた酒巻だけに説得力がある。 

「そやけど、あんなええ家に住んでる人が施設の世話になる。そんなみっともない事はしたくない。ようするに世間に晒されたくないんや」

 やっと郊外の家のローンが終わったやっさんがしみじみと言い聞かせた。

「しかし命と引き替えられる物でもないやろう。命あってのものだね。やり直せば良い。復活して世間を見返せば良い。まあそう言う気概のある人は一家を道連れにせんわなあ」

 戦中を乗り切った酒巻は、戦後復興の立役者ではないが、資本主義の底辺を支えた自負があった。

 ぐじの塩焼きが終わりホッケを注文した源さんが、また他人事ひとごとみたいに、

「みんなごちゃごちゃ言うてるけど、結局は自分の限界を知ってるさかい言えるんや。起業家精神なんてこれっぽっちもみんな持ち合わせてないさかい、能力に応じた仕事に甘んじているさかいそんな講釈をたらたらと垂れられるんや」

 とのたまう。これには酒巻も呆れ果てた。

「今宵の酒に酔いしれれば本望や、こうしてエリート社員の愚痴を肴にして年金生活に酔いしれて余生を過ごせばええんや」

 源さんにやっさんが合わした。

「そやそや、我々は上を見たら切りがないが、下まで落ちる手前で何とか頑張ればええ」

 何とか足らん年金を補填している山崎のじいさんも合わした。

 起業家に失敗は付きものだが、問題は人生に終止符を打つような大失敗の時に真価が問われる。大きな間違いほど直せば大きな進歩になる。その大きなチャンスを潰した。それを土台から根こそぎ取っ払ったニュースの男は、そこまでの人間だ。

「じゃあ、あの男に何が欠けてるんです、酒巻先生」

 源さんが襟を正した。

「先ず失敗の原因を探り、間違いを正して、試行錯誤を繰り返し忍耐力を養うこっちゃ。その上で起業家精神の根本を見直すこっちゃ」

「どう見直すんでっしゃろ」

 やっさんが合いの手を入れる。

「簡単なこっちゃ。猪突猛進は間違いに気付きにくい、そやさかい起業家精神の論理にも気付かへん」

なんですか、その論理は」

 藤波が気になった。

「経済主義では見落とされる弱者の救済や。利潤を求めてもそこから上がる利益の一部を常に社会福祉に回していれば、挫折した時にあんな一家を道連れにするようなことは思いつかんやろう」 

 これが酒巻の人生訓だ。




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