第36話 父の店
考えが
「可奈ちゃんは余り店には出へんさかい、立花のおやっさんがえらい心配してなあ」
「可奈子の話ではまだ照れくさいようです」
さよか、と源さんは勝手知ったる馴染みの店に、ずかずと入る。そうなると後に腰を屈めて続く藤波ではどっちが店の
椅子と壁のお品書きが紙からホワイトボードに変わった。もっと変わったのは出て来るメニューだ。今までは簡単な揚げ物とか焼き物が中心が、煮ものに南蛮漬けが加わった。
早速カウンターの肘掛け椅子に座る。
「やっぱし慣れは恐ろしいなあ。先代から何十年と親しんだあのガード下の靴磨きの丸椅子が、こうして座り出すと此の居酒屋には場違いな椅子も様になって来た」
それも出し物のメニューが変わった
「なんや、可奈ちゃんは初日だけで今日も出ずじまいか、それに真苗ちゃんもか。あの八十の長老があの子のお陰で
ここへ来る常連客はほとんどが還暦過ぎの六十代だ。そこからあの長老は一回り上らしいが歳は分からない。
「あの人はほんまに八十ですか?」
「そやなあ、幾つに見える。いつも来る連中もハッキリした歳は知らん。わしらは戦後派やけどあのじいさんだけは戦中の話からみんなそう思ってる。そやさかい、知らんのはわしらだけで、あのじいさん他に此の近辺のこともよう知ってる。亡くなったあんたのお父さんのことも詳しいで」
鰯にモロコにワカサギ、ニシン、ホッケーなど、ほとんど簡単に焼くか天ぷらのどっちかが、可奈子が来てから酢醤油に漬け込んだり、煮出して出すようになった。よその店へ行った者まで此処に来だした。
「近所にわしの知ってるじいさんで豊田さんやが、この人はもう直ぐ八十五や。その人とあの長老とは知り合いなんや」
「それであの長老は何て云うんです」
「やっと聞き出して、
豊田が言うには立花も藤波もえらい恋愛して一緒になった。両親はもう亡くなって今は息子しかおらへんが可奈子の両親はまだ元気だ。
「あんたのお父さんは駆け落ちまでして一緒になって此の店をやらはったんや」
「可奈子の両親は?」
「あっちはそこまでやってないが。親に逆らって一緒になったんは変わらへん」
それだけ必死で頑張った。もうひと世代前の豊田と酒巻の時代は戦後の混乱期で、あの頃はみんな一家心中の手前までいった家もあった。
「その長老の酒巻さんは何処に住んでるんですか?」
「わしかて生き字引と
「そやかて源さんは長いんでっしゃろ」
「当たり前や。わしは可奈子の親の代から知っとる。そやさかい二人一緒になったかて別に不思議やないでィ」
「でもこればっかりはそうはいかんのが普通でしょう」
「そやなあ、相性って言うもんがあるわなぁ。そやけど二人とも子供の頃からよう一緒に遊んでたがなあ」
「まあ、家が近いしね」
「そやなあ、新しい店が出来てみんな引っ越したさかい。わしもあんたのおやっさんの藤波はんと立花のおやっさんとで、そろそろあの二人一緒にしたらどうやて云うた尻からあの
「ちょっと二階で休んでる」
「そうか、幼馴染みちゅうのは今更って思うわけやなァ。それでよそへ嫁いで慣れ親しんだ実家がええちゅう訳で、戻って来た時はみんなどやねんって思ったそうや。まあ、あんたの過去は知らんけど今まで女と出来てないことはないやろう」
そうですねと返事に困ってると、どやどやといつもの連中がやって来た。
「オッ、今日は源さん一人か」
「長老の御大将も来たか」
さっそく真苗ちゃんが用意した付き出しを、手際よくカウンター席に出した。これにはみんな手を拭きながら、オッと目を見開いた。今までの藤波一人ではこうはいかなかった。
「立花の娘が来たお陰や」
もう酎ハイを呑みだした長老が言った。
そこでやっさんと山崎のじいさんが、長老と呼んでる八十の爺さんの名前を聞いた。
「余計な事を訊くな」
「そやかて、その歳でなんぼ酒好きでも毎日は
「肝臓の為にちゃんと週に一回は休肝日を設けてる」
「それって此処の定休日やろう」
「ここのおやっさんの代から来てるんや」
「それや、豊田はんから聞いたが、長老は酒巻さん、ちゅうって言うんでっしゃろ」
「
何でも戦後の苦しい時代を豊田も酒巻も知ってる。以前有ったあの丸椅子をガード下の靴磨きの丸椅子やと言ったのは長老の酒巻だった。
「あの頃は一家心中まで行きかけた家が多かったとか訊いたんですか……」
「それも豊田が言うたんか。しょうもないやっちゃ」
「こないだテレビでやってたあの事件か、今時どやねん」
と騒ぐと酒巻は、あんなもん昔と比べるなと言い出した。
戦後と違って物が有り余る時代に、まだそんな事件が起こってる。それでみんなは急に関心を持って酒巻に訊ねた。
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