第35話 真苗の心境

「そうなん ?」

 と真苗は包丁を握っていた。そのまま突き刺せば、包丁は刃のない方は切れなくて下向きに浅くなる。だから此の持ち方はまな板に載せた物を切るときに使うものだと教えて、人に向けてはいけないと云って聞かせた。

「お父ちゃんはそれで下に下ろしたの?」

「そう、真苗ちゃんを見て躊躇ためらう何かが働いたのね」

「どうして?」

「さあ、それはこれから明らかになると思う」

 ふ〜ん、とまた板に置かれた野菜を眺めてる。

「さあ、手伝ってくれるんじゃなかったの」

 ウンと頷いて黙々と野菜を切り始める真苗は何を思ったか。

「それでよく包丁を持たせたね」

「ジャガイモの時は持ち方が違った。今度はしっかりと包丁の柄を握らしただけで、そこまで考えるとは思わなかった」 

 あの時は、お父さんから一緒に死んでくれと言われて、断った話を聞いたが包丁をどう持っていたかは聞いてない。八歳の子がそこまで考えるものなのか。でもそれでお父さんの話に結びつけるなんて、そこまで考える子も珍しい。

「気にしないかでなく、気にならないんじゃないか。何せあの子の母親はその方面では肝が据わっていてビクともしない」

「その話は聞いたけど。まるで鉄火場の姉御じゃないけど、そんな人が下村に幾ら妊娠した啓ちゃんのためとは謂え、割り切れるのかしら」

「そうだなあ」

「ここのところ店も真苗も任せっきりだが、馴染み客ばかりの店の方はともかく、初めてやって来たあの子と可奈子は上手く疎通が図られてるのか」

「あの子は一生懸命に此の家に取り入れられるように、小さい子供ながら気を使っているのが実にいじらしいくて、母を亡くしたばかりで不憫にも受け取れるわよ」

「そうか、それでいつもどんな話をする」

「そうね、案外ませたとこもあるのよ」

「ホ〜ウ、たとえば」

「啓ちゃんと深詠子さんとの事は薄ぼんやりとしか頭の中には今はないけど、そこを色々と訊かれても、あたしも知らなくて困ってるのよ。それで此の前に話してくれた深詠子さんの実家での話をしたの」

「あの話ならあの子も聞いていただろう」

「あたしはまだ啓ちゃんと深詠子さんの詳しい話は出来る状態じゃないでしょう。特に子供の扱いに慣れない啓ちゃんはまるで異星人みたいに扱うから、真苗ちゃんもどう突っ込んで良いか迷ってるわよ」

「それでもあの子は突拍子もない事も喋るから面白みがある、もっともそれも深詠子の躾の一環かも知れないが」

「そこは少し大人びて頼もしいわよ」

「それでお母さんの実家の話をして真苗はどうだった」

「彼女の実家に近いと云うだけで初めて行った啓ちゃんを案内したのが藩主細川家のお墓と草枕の舞台を深詠子さんは案内したけれど、その説明をせがまれてもあたしに解るわけないから困ったわよ」

「彼女が別れるなんて思ってもいないから、その時はそれほど印象に残らなかったが彼女の思いを知る努力の一環として初めて彼女の実家に帰郷した印象をそれからじっくりと追求した」

「それで答えが出たの?」

「出ても、それがどうなんだと、今も心中で燻っている。ひょっとして下村に嫁いだのもその辺に何か隠された真実が有るのか。でもそれを受け容れる要素がなければ、深詠子もじっくりと育てれば良いのに、どうして別れたんだろう」

「あたしが、もし、三つも年下の男の子がそんな風に呑気に構えられると苛つくけど。美深子さんはそれ以上にえきれなかった。磨美さんを見ているとそんな気がする」

 そうかと藤波は思いあぐねた。

「間違いなく下村は真澄と孝史をあやめてから、二階に逃れた深詠子を完全に殺そうと上がって来たが、目の前に真苗が居たのか」

「そこで下村は持っていた包丁をだらんと下げたのよ。その隙に体ごと打つかったって」

 思案の揚げ句、話はそこに戻ったのかと可奈子はため息を吐いた。

「そう云ったのか」

 此の時、下村は何を考えたのだろう。下村は前から真苗を余り可愛いとは思えない行動を取らせたのは深詠子だ。その深詠子に今生の別れを告げようと振りかざした包丁の前に立ち塞がる真苗を前にして「俺は何を考えてるんだ」とふと我に返った。

「そんなん無理、無理。真苗ちゃんは『そんな事を考える人じゃないって、いつもお仕事お仕事って突き放すもん』だって云ってるわよ」

「そうか、小学生には無理か。それで、今がチャンスだと思い切り打つかって一階まで転げ落ちた父の上を駆けて抜けて行ったのか」

「所詮、下村はそれだけの男なんでしょう。でも真面に見つめ直しているところが可愛いと謂えるわね」

 仕事と家庭を両立できない。そんな男は普通は刑が軽くなるためなら弁護士の話に乗って多少は現場の状態から許せる範囲に事実を歪曲する。が下村は自分の犯した罪と真面に向かい合っている。その内に検察側の尋問がきつくなれば、今まであがめていた深詠子さんを、独りの人間として愛おしく思えるのか、前言をひるがえすかも知れない。下村が心を寄せたあの頃の深詠子を思い出させれば、真苗ちゃんを見て包丁を下ろした真意に迫れる。起業家ほど甲斐性のない者を見下す。そんな男ほど改心を認めない気がする。下村の考えが柔軟なうちに真意を導き出せれば、深詠子の死も生きてくる。果たして仕事しか頭にない男の隙間に、どれだけ詰まっているか。

 案ずることはない、人の脳は無限に発達する、ただし良い方にも悪い方にも。それは受け入れる改心の素地が有ればだ。藤波に何処まで追及出来るか。次からそのつもりで下村に会わないと水泡に帰す。






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