第33話 下村談義

 下村が留置されている警察署を出てタクシーに乗った。乗務員から歩けと言われる距離だが、考え事をしながら歩く彼には、周囲は見えていても殆ど視野に入っていない。脳が危険判断をする余地が無いほど、下村との面会状況で占めている。それでも脳細胞を通る回路が別々なのか、降りる場所は的確に捉えていた。

 磨美さんは前回と同じように待機して直ぐに迎えてくれた。自殺もそうだが、一家心中は周囲には悟られない様にする。その一方では何とか止めて欲しいと内面には一抹の期待も抱く。今日の下村からはそんな兆候は、突発的だったのか窺えない。

 今回は予定していただけに、磨美さんは事前に子供は遠ざけていた。通されたリビングで紅茶を呼ばれた。

「どうだった。初対面の前より下村は落ち着いていたでしょう」

 彼は営業マンとして人心を把握するのには心得たもので、今まで直ぐに商談に引き込んでいた。

「でもね、ビジネス抜きだとお茶に誘うのもまどろっこしい人なのよ」

 なるほど、さっきの面会でも直ぐにこっちのリードで話が進んだ。肝心の殺意云々さついうんぬんではまだ整理が着いていないのか踏み込めなかった。

「それで磨美さんには検察、弁護士どちらからもお声は掛かりませんか」

「まだ初動捜査の段階で、もう少し全容が掴めてからじゃないかしら。それよりよく下村が弁護士でもないあなたに、事件を喋る気になったのは凄いじゃん」

「彼奴は深詠子に犯した罪を俺に懺悔ざんげしてるんだ」

 下村は深詠子をった後悔に苦しんでいる。下村にとって彼女は憧れだった。彼女に依って自分の価値が高めらて、誇れる存在だった。それを失うぐらいなら存在そのものを自分と共に永遠に消し去りたい。そんな想いがなければ、手を掛ける事は絶対にない。そんな人をあやめて俺は生きている。そこに深詠子を良く知る男がガラスの向こうに現れたのだ。この男に胸の支えを話せば、深詠子も俺に恨みを残さず成仏してくれと許されない罪を乞う。

「でもそんなん下村が望んでも、藤波さんは神職に仕えたこともないし。第一牧師でもない人に縋ってもしゃあないでしょう。ただ深詠子をよく知ると云うだけで、彼奴あいつの罪が報われるはずもない」

「あの男は、深詠子が来る前は、磨美さんに積極的に誘って来たんでしょう」

「下村は外見的に目立つ人がお望みなのよ」

「社交的な人がいいんですか」

「周囲に積極的に働きかけなくても、存在そのものが、見る者を引き寄せてしまう人かしら」

 でも深詠子は気に入らない人には、徹底的に相容れない性格で、頭から相手にしない。でも機嫌を損ねず上手くスリに抜けるこつを会得している。あれには感心した。ああ謂うふうに接しておけば問題ない、と深詠子は相手が厳つい男でも退けてしまう処が絶妙だ。面識がない相手がちょっかいを出そうとしても、邪険に扱わずに彼女の凜とした出方で相手には尊厳がある存在に写る。

「藤波さんは、深詠子と付き合っていて、そんな経験はありませんか?」

「繁華街で彼女と待ち合わせをした時にありました、絡んできた相手も彼女の一言でアッサリ行って、彼女と一緒なら変に絡まれることはなかった」

 あたしに冗談を言ってる時でも、直ぐに切り替えると、相手も愛想笑いを浮かべて行ってしまう。何処にそんな威厳があるのか少し驚いた。

 あんな人達は、あんな風にあしらえば直ぐに行ってしまうって言われても、誰でも真似は出来ない。深詠子の持つ独特の雰囲気が有って始めて気圧けおされる。

「でも下村にはそんな小細工は要らない。彼奴は彼女のそんな性質まで仕事に利用していた」

 どうしても落ちない商談相手には、下村は深詠子を同伴させて料亭に誘って、相手にこの人が奥さんならばと商談をまとめた事も有った。

「余り使わない奥の手なのよ。だから真苗ちゃんを認めるなんて、下村にすればどうってことないのよ」

 下村にとって深詠子はアイドル的存在だ。結婚した当時、彼女をものにした下村は、仕事一筋でもなかったと社内で見直された。まさか深詠子が別な男の子を宿して、それで結婚出来たとは誰も知らない。周囲では気に入った人と結婚した下村も仕事同様に恋も極められると評判が持ち上がったほどだ。下村にすれば此の人気を天秤に掛ければ、真苗が誰の子供でも気にならず、それ以上に深詠子の計り知れない魅力を感じていた。

「そんな人を手放すぐらいなら一緒に死んで欲しいと願うのも下村なら当然でしょう。でもただ一人生き残り、我が身にやいばを向けた時、一瞬にして全てが覚めてしまった。あれがあの男のみじめったらしいところよ」

 事業家は世の中に必要なものを揃えるだけじゃない。いや、そんなものは二の次だ。人がいかに生きていけるか。それを抜きにして築いた男ほど挫折感にはもろい。深詠子のそんな一面にしか惹かれなかった男に、彼女を道連れにする資格はない。

「じゃあ、磨美さんは下村について証言台で、もしも、もしもですよ。意見を言われればどっちにするんです」

「どっちって?」

「検察側か弁護士側か」

「さあ、まだ分からない。それで、これからも現在の下村の心境は常に把握しておきたいのよ」

 それでどうかと聞かれたが、まだ下村は、自分の気持ちの整理に混沌としている。

「そうなの。改心の余地はあるのかしら?」

「改心って?」

「深詠子を慎み深い人間として扱ってくれるのか。憧れやアイドルではダメなのよ。あなたも真苗ちゃんをそんな風には育てないでね」

 そう云われても自信がない。今まで人に対してああせいこうせいと仕事以外で考えを押し付けてないが、放任主義でもダメだ。何がその人にとって良いのか自ら悩んでいる彼にとって難しい注文だ。



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