第31話 磨美の下村の話

 警察署を出るとそのまま三沢磨美の家に行った。さっき留置されている下村と面会してその帰りだと言って立ち寄った。此処には幼稚園に通う里香と遼太が居る。此処も真苗と同じように夏休みで、此の二人の子供も一日中、家に居る。玄関に出た磨美さんも大変だが、そこは躾が行き届いていた。

「お母さんお話があるから、あっちで遊んでなさい」

 と言うと居間のリビングから奥へ行ってくれた。こう言うところは真苗にも共通する。それだけにますます深詠子と磨美さんの違いが見分けにくい。とにかく深詠子は妊娠していなければ下村のような男は選ばない。肘鉄を喰らわせた磨美さんがその良い例だ。

「下村は何か言ってました」

 面白い話を聞いた。深詠子が下村のプロポーズを受けるのに、磨美さんが彼から受けた日頃の鬱憤を晴らそうとした。最初は深詠子も此の話に乗ってくれたがあまり効果がなかった。深詠子自身の真剣さが足らなくて、何が不満なのか頓挫してしまった。よくよく聞くとお腹にあなたの子が居ると判った。それを隠して一緒になるのはあんな男でも具合が悪い。ここはひとつそれを承知の上で、承諾するように磨美が細工をして話を持って行った。

「さっき下村と会ったが、彼奴あいつはビジネス以外では特に恋愛感情が絡むとからっきしダメだ。だからそこまでしなくても良いんじゃなかったのか」

「ダメ、ダメダメ。取っ掛かりはそうだけれど、一旦ものにすれば弱みにつけ込んでくるのよ」

 そこで磨美は深詠子に、此処で安売りしちゃダメと、とにかくあたしの云うとおりらせて、向こうの気を惹けるだけ惹いて最後に条件を呑み込ませたのよ」

 先ずは下村には絶対に気があるように見せる。その上で色々理屈を付けて引き延ばさせる。今日は絶対あなたと一緒に食事をしたかったのに、磨美がどうしても今日のコンサートに申し込んだチケットが手に入ったとかですっぽかす。これに似たような事で三回に一回はすっぽかしたり、デートの時間に間に合わなかったりさせた。でもそのあとには必ずこれだけあなたにゾッコンだと、ここぞとばかりにアピールポイントを振りまいた。段々調子に乗って来ると、深詠子の下村へのラブコールが凄くなった。もうその頃には一時間待たそうが、深詠子の姿を認めると、それだけでもう下村はメロメロになっていた。此処が勝負所とお腹の子を承認させてそれと引き替えに結婚を承諾した。

「ここまで焦らされたら、もうお腹の子供なんて眼中にないのよ。認知処が自分の子として扱ってくれた」

「それは今も変わらなかったのか」

「勿論、それどころか幾ら離婚を持ち掛けても下村はウンと言わずに、ああなってしまったのよ」

「俺には、そこまで下村が執着する理由が解らない」

「良い嫁さんが居ればいい仕事が来る」

「それはないでしょう」

「それだけの自信が精神力に結びついていればねえ、でも哀しいかな、そこに愛はないのよ。だから挫折すればそれまで」

 そうなると仕事に生きがいを感じる下村の憐れさが、そこでもろに出たのか。でも藤波さんはそうじゃあない。あなたはしぶとく生きられる。真苗を託した甲斐があると見送られた。

 電車内で磨美の言った甲斐性の意味を仕切りに考えた。下村には家族を養う甲斐性があった。それは順調な仕事の裏付けが有って成り立つ。常にどん底を這い回る藤波には元からそんなものがない。絶望感が付き纏うだけに、何とかその場を凌げ、逃れてすり抜ける方策が養われる。一方、大きな挫折のない下村はどうだろう。免疫の無い彼は、おそらく絶望感は死と直結していた。それは築いた事業に留まらず家族に対してもそうだ。確かに家族は彼の収入で支えても、成長する家族の心は支えられず、別だと気付いてない。そこにあの心中事件の悲劇が起こったのでは、それをこれから下村の精神を問い詰めて明らかにしたい。

 藤波は店に帰り着くと、可奈子が真苗と一緒に出迎えてくれた。実家の親が談判に来てから可奈子は、式も挙げずに実家に戻らず此処に居着いた。その晩から店に出てくれた。当然、常連客からは奇異に見られた。しかし彼らにも思い当たる節がある。遠方から電車に乗って来るやっさんと、年金額が足らずに未だに工事現場で交通整理に当たる山崎のじいさん以外は、親父の代からこの店に徒歩で来られる連中だ。彼らは可奈子の喫茶店にも早朝の開店時にたまに寄るが、居酒屋には、この日の開店時に初めて見かけて驚いた。

 なんや成るようにして成った出戻りと行き遅れか、と冷やかされた。顔見知りだけに可奈子も此の店に定着するのに時間が掛からなかった。更に常連客を驚かせたのは真苗ちゃんの存在だ。最初は可奈子を見たとき以上に驚愕した。それ以上にご近所さんの手前なのか、どっちの子供かと詮索する者は常連客には居ない。馴染みのない客からは色々と問い詰められた。居合わせた常連客から「まあまあ、そんな野暮なこと訊かんとわしの奢りや一杯のみ」とホローしてくれた。後から今の一杯の代金は二人のご祝儀やと、余計な噂が収まるまでいつも追加料金を払ってくれた。それより常連客には、可奈子が作る料理と磨美から教わった南蛮漬けが目当てだ。可奈子と真苗ちゃんは追求しない、と謂うか老後の楽しみとして食い意地が張っただけだ。


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