第30話 下村に聞く

 現代は時が目まぐるしく流れ、新たな事件が過去を押し流してゆく。下村による心中事件も関係者以外は彼方に押しやるほど、世間は急流に呑まれ続けている。呑まれた深詠子は、真苗と謂う分身を遺してこの世から消えてしまった。彼女の価値の解らない人間に厳密には消されてしまった。それだけにあの男を責めたくなる。人生の流れから澱みにはまり込み、抜け出せずに死ぬのは勝手だ。独りで死ねばいいものを巻き添えを喰らわせて。今は留置場でのうのうと心落ち着ける日々を送っているのか。心の整理が出来た時を見計らって藤波は下村と面会して確かめたい。

 今まで深詠子の事後処理に振り回されたが、以前の落ち着きを取り戻した。可奈子のお陰で余裕が出来ると、深詠子が曲がりなりにも一緒になった下村と謂う男に湧いた興味を実行に移す。もともと突発的に起こした事件だ。洗いざらい喋るのに時間は掛からない。深詠子の昔の恋人だと言えば、面識がなくても面会するだろう。

 可奈子にはスーパーでなく、卸売市場への顔繋ぎを済ませてある。食材の仕込みは彼女に任して、下村が留置されている警察署を訪ねた。警察は真苗の存在を早くから掴んでいた。下村が直ぐに自首して、無理して八歳の女の子から事情聴取する必要がなくなった。保護者たる藤波が早いうちに下村に面会に来ると察して、すんなり書類は通った。あとは下村本人が面会を希望するかどうかだが、本人の了解を得た。

 通された面会室は、部屋半分の一面に、透明なアクリル板で仕切られ、会話用に中央に穴の空いた丸いアクリル板が別に設置されていた。暫く待つと向こうのドアから下村が入って来た。彼にすれば弁護士以外の接見は初めてで、少し戸惑いも見受けられた。

 彼は椅子に座ると前のテーブルに両肘ついて、申し訳ないとポツリと呟いた。このひと言で、藤波は何処まで自分を知っているのか問いただした。するとほとんど知らずに、ただ妻の以前の恋人と知って発した言葉だと判り。

「あなたに面会を求めた理由は解りますか?」

 と訊ねた。

 彼が今まで面会を求めたのは弁護士で、それ以外の聞き慣れない質問に暫く沈黙した。会社から自立し、独立した仕事で華やかな人生の道を歩んでいても、此処でも彼には人望がなかった。留置場まで弁護士以外で面会に来たのは藤波ひとりだ。下村の親は年が明けてもっとあとだ。それだけに此処まで面会に来る人がいると、気持ちが昂揚した。此処で彼は印象を悪くさせたくないと藤波の要望に応えた。下村は孤独に耐えきれずに死のうとして死にきれなかった。いや、彼の顔からは死に損なった絶望感が窺えた。

 最初は死ぬつもりで行動を起こさなければ、この男に深詠子や我が子二人をあやめる根性などわっていない。此の面構つらがまえだとおそらくハエ一匹殺せないんじゃないか。それがどう豹変すれば、あんな事件を引き起こせるのか。此の男を見て、恨みから真相究明に変わるのに、そう時間が掛からなかった。ひょっとして、この人なら気が楽だと深詠子は思ったんじゃないか。

「どうですか、少しは落ち着かれましたか」

 最初のひと言は唐突すぎたと質問を替えた。これで下村もひと息つけたようだ。

「深詠子の昔の恋人だと聞いたんですが……」

「ああ、そうです。申請書に書かれた通りで、それで会う気になったんでしょう」

「正直言って、面会は弁護士ばかりで、会えば事件の話ばかりで、まあ向こうもそれで来ているのは解りますが……」

「でも、私が伺いたいのも似たようなものですよ」

「分かりました。すいません。面会時間は長くないので用件を言って下さい」

「う〜ん、私が聞きたいのは事件そのものよりも、深詠子に関する事だけです」

「いいですよ、なんなりと」

「磨美さんご存じですか?」

「同じ会社に居ましたから、美詠子と付き合う前から良く知ってます」

「磨美さんから聴きました。一目惚れだそうですね」

 やっと下村の頬が少し膨らんだが時間を気にしていた。やっと気持ちをほぐせたのにとそこで「どうして結婚したんですか」と一気に攻めた。

「深詠子の方もまんざらでもなかった。これは脈があると思ったんですよ」

 どうやら磨美さんの時はこれで肘鉄を食らって、今度は彼女の出方を確かめて、満を持して告白した。ここまで来ると下村を完全に藤波のペースに引き込めた。

「でも出会ってそんなに日が経ってないでしょう」

「二ヶ月はなかったから、最初はドッキリカメラじゃないかと思った」

「まさか、誰が企てるんです」

「磨美ですよ。彼女は深詠子が入社早々から一番の仲良しで、右も左も分からない深詠子をよく教えていた」

「それで磨美さんならやりかねない、と思ったんですか」

「あの子は食わせ者ですよ。まあ、相手にも因りますが」

 此処で下村はじっくり藤波を見た。

「貴方ならそんなことはしないでしょうが、あたしにはねぇ」

 磨美に食らった肘鉄が、かなり余韻を持って此の時は効いていた。

 これはあとで深詠子に聞いたが、あの時は磨美にかなり入れ知恵された。

「例えば」

 深詠子の意志が硬いと知ると、散々勿体ぶってらせろ、と磨美は吹き込んだ。

「どんな風に」

 と藤波も二人を仕切るアクリル板に鼻が付くぐらい顔を寄せた。そこで立ち会いの警察官から時間ですと言われた。

「エッ! いつも短く切り上げてるんですから、今日ぐらいはおまけして下さいよ」

「もう五分も過ぎてます」

 話が載って立会人も引き延ばしたが、これ以上は規則でまた日を改めるように言われた。藤波が続きは磨美さんに聞きますと言うと、彼は結果報告を待ってる、と警察官に付き添われて部屋を連れ出された。

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