第27話 深詠子の思い2

 秋から一緒に暮らして始めた深詠子にとって、藤波は掛け替えのない人になり、年末年始には家族に紹介したいと彼を実家に連れて帰り、家族に紹介するつもりだ。これで益々有頂天になり、始発の新幹線で郷里に着くと、兄の車で案内してもらえると思った。兄と会うと深詠子が案内したのは、九州を余り知らない者には、取り留めも無い場所を案内され、説明を受けても「草枕」処か、ほとんどの小説を知らなかった。「我が輩は猫である」も夏目漱石の作品と云うだけで読んでない。あれは別に読まなくても、どうって事とないと言われたが、彼女の内心を思うと穏やかでない。そんなわけで「草枕」も一方的な説明に終始した。

 絵に没頭する画家が、この町に逗留して宿泊先の女主人とのやり取りが中心になる話だ。

「それだけですか」

「啓一朗さん、あなた絵には関心がありますか?」

「勿論、中学、高校と科目の中では成績が一番良かった」

「そうなの! あなたにも絵心があったのッ。どうして黙ってるの」

 と俄然と彼女は目を輝かせた。

「高校まで絵はクラスの中では一番だった。他はダメでもでも絵筆に持ち替えると不思議と我を忘れて集中できた」

「じゃあ、どうして美大へ行かなかったの?」

 全く今まで、絵の話はしなかったのに。そうだ、此の人はここの美大を卒業したと急に想い出した。

「だってお袋の口癖は『働かざる者食うべからず』ですから。美大なんて眼中になく、それで経済学部へ行った」

 が乗り気はなく、顔に出て一瞬、目を曇らせたのをしっかり彼女は捉えた。

「まあッ、厳しいお母さんなのね」

 深詠子は急にその目に憐れを誘った。

 中学生の頃には、あの峠の茶店を通って此処へは何度か深詠子は通い詰めて、スッカリ此処の住人気分で前田家別邸を案内して廻り、自信に満ちていたが少しかげりが出た。

 実家は両親が築いた工場を、そのまま兄が引き継いだお陰で、深詠子は自由闊達に好きな物に打ち込めた。わざわざ年末年始の休暇らに来てもらった二人を、兄は邪魔をしないように、近くの小天温泉那古井館で珈琲を飲んでいた。

「そのお袋も、今はからだの調子が悪くて(この三年後に亡くなってる)それでも居酒屋を続けている」

「そんなお母さんの背中を見て育った割には、のんびりしているのね」

 これには二人ともたがえた受け取り方で笑った。

「親父がええ加減なんだ。でも店はしっかり切り盛りしているけどね」

 此の人は厳格なお母さんと、少し調子の良いお父さんの両方を見て育ったのか。

「そんなお母さんでも、ここぞと言う時にしかお灸をえなかったのね、だからあなたは自由に育ったのね」

 日頃は調子の良いお父さんの性格にそれで傾いた。もう少しお母さんが構っていれば、今頃は芽生えた感性を磨けたのに。でも今からでもあたし次第で、此の人は何とか成りそうだ。 

「今からでも遅くはないわよ」

「何が?」

 そうか、此の人は余り本を読んでこなかったのだ。

「いいわよ、此処であたしの説明を聞いていれば、どうして草枕の主人公の画工があれほど変人奇人の如くに振る舞う那美さんの感性を如何どうして見極めたか。あなたにもそんな感覚を持って欲しいの」

 今度は「草枕」の舞台となった前田家別邸を、今一度、深詠子はじっくりと案内した。

 ここへ来る途中の茶店で画工が描いた犬の絵を、出戻りの那美さんが見て、気に入り、あたしの絵も描いて頂戴と頼んだ。そこで彼女は画工の前で、さっきの風呂場で裸を見せたり、振り袖姿を見せたりして、絵心を掻き立てるようにした。

「でも一向に描けない画工は、この町で那美さんの可怪おかしな噂も耳にした。その内に別れた夫が最後に満州に行くと金をむしりに来た。駅まで兄を見送りに来て、発車する駅の窓越しに帰した夫の顔を偶然、見た。その那美の何とも謂えぬ表情に、この物語の真意があったのよ」

「詳しく言われて、こうして見て回っても、ただ昔の明治の面影しかないんだけど……」

 せっかく深詠子が熱心に「草枕」を説明しても知らない藤波にすれば申し訳なさそうにするしかない。

「いいわよ。あなたは知ろうと努力する人だから」

 此の人はお母さんの考え方をもっと早くに知るべきだった。ただお父さんの影響が大きくて、鋭い感性が埃を被ってしまった。そこをあたしがしっかりすればいい。

 夕方に両親に挨拶して、彼女の実家とは良好な関係が築けた。此の二カ所は自宅から車だと直ぐに行ける身近な所で最初に案内した。粗削りの藤波を、深詠子は期待して案内した。無垢だからそれなりにやり甲斐もあった。二日目はじっくりと阿蘇を廻って、三日目の朝の新幹線で昼過ぎに帰宅した。

「磨美さんは草枕を読んだよね」

「読んだわよ」

「なら判るだろう、彼女が訴えようとしていたものが」

「深詠子さんが啓ちゃんに見せたかったのはその二つだけ?」

 深詠子が言いたかったのは、可奈子の問いで十分だった。

 文学作品に溺れるように読み耽ったのは深詠子と別れてからだ。それも真意に迫ろうと彼女が口にした作家の作品はもとより、彼女の考えに近い作品も片っ端から読んだ。

 簡素な祭壇に置かれた深詠子の遺骨を前にして、語った藤波の想いに、可奈子が真っ先に応えた。

「深詠子さんは草枕の那美さんと重ね合わして、知ってもらおうとしたけど、この物語を一から教えるのに気怠さを感じて他に何も説明しなかったのね」

「それは単なる作品や人物への憧れであって、深詠子があなたに望んだわけではないでしょう」

 と磨美は歯痒かった。

「望んだ! だから深詠子は案内したんだッ」

 深詠子の遺骨を前にして思わず力が入った。それ以上に彼女の心の奥底を知る努力をおこたったと詫びた。






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