第26話 深詠子の思い
切支丹の洗礼を受けたガラシャは明智光秀の娘で細川家に嫁ぎ、関ヶ原の前哨戦で大阪城下の屋敷に居て三成の登城を拒んで自害した。降りかかる火の粉を必死で払い除けた彼女の人生に、深詠子は共鳴しても、それにあやかる気はないようだ。
わざわざこんな遠い所まで来て、ぜひ知って欲しいと案内したが、簡単な説明だけで一切の私情はない。それがこれからの二人の人生に、どうだって云うんだろうと藤波は思いあぐねた。
「この人は大きな功績を残してないが知る人ぞ知るで、別に啓一朗さんは知らなくてもどって事ないわよ」
もともと藤波は控え目で、大袈裟に自分を見せる人じゃあないと諦める。深詠子自身も男は騒ぎ立てるもんじゃない。不言実行、男の喋りはみっともないと彼女は普段から言っている。
「お兄さんもそうなんですか」
「地元だからね。僕みたいにインテリでなくても、うちの殿様はどんな人かと歴史に興味を持つからね。でも深詠子は気にしてないよ」
三人は車に戻った。君嶋にすればわざわざこんな遠い所まで来て、お参りするのは本当に思い入れの強い人に限る。まして彼氏を披露するのが今回帰省した目的だ。妹もそこを考えて案内すればいい。
此処に泊まるのならまだ時間はある。行きたい所があれば何処へでも行く。
南国よりも北国志向の強い藤波にすれば特にない。彼女はそれを見透かした。
「どうせ行くとこ、決めてないでしょう」
と美詠子はお兄さんに
深詠子は藤波が九州には馴染みがないと知っている。せいぜい阿蘇ぐらいだ。阿蘇に行けば駆け足でも半日は掛かる。同じ行くのなら一日掛けてじっくり案内したい。実家には夕方までに行けば良い。それまで丁度空いた時間に、これまた知る人ぞ知る温泉地を案内する。
「これから温泉へ行くの?」
藤波に言わせれば、温泉は阿蘇より更にありふれている。彼女の話では入浴に行くのでなく、その場所に意義があるようだ。彼女は生まれ育った此の地で、郷土愛に燃えて高校でも率先してやった。大学生になると此の地の風土をもっと深く調べた。これから行く所は、著名な作家が桃源郷と比喩した場所だ。そこは自然が豊かで風光明媚なだけに、あなたにも一度見て頭に頑固にこびり付いた思想を洗い直す。なんちゃってそんなおぞましい考えは、持ち合わせてないが、百聞は一見にしかずで、知って損はないと言い切られた。
黙って運転するお兄さんの車は、どうやらその方角に走っている。
細川ガラシャの次に、深詠子がぜひあなたに知って欲しい、と案内したのは
「そこは近いの?」
「此処から十キロ、三十分もあれば着くわよ」
「そこも藩主が利用した温泉か」
「ブー、残念でした。もうー、何でもそこに結び付けて。夏目漱石の草枕のモデルになったところよ」
「あの千円札の」
「ウッ、それって啓一郎さんが見たのは小学校時代のお正月のお年玉ぐらいでしょう」
そうだ夏目漱石っちゅうたら、それぐらいしか知らん。それでも深詠子の印象が変わることはなかった。
「まあ、いいわよ」
大学中退か、でも文学部ではなさそうだ。
「大学で何を勉強したの」
良く聞くとバイトに明け暮れて、ほとんどの単位を落とした。一体此の人、何しに大学へ行ったのかしら?
「経済学部で、それをバイトで実践しているうちに大学に行くのを忘れていた」
そんなマクロの世界で経済が分かるの、余り勉強には役に立たない気がする。本人は熱心の余り
途中で峠の茶店に寄った。藤波にすれば何で国道から逸れた何もない場所を見学する理由が判らない。駐車場から少し歩いた小径に古い茅葺きの茶店があった。中に入ると茶店とは名ばかりで、所狭しと色んな資料が収められたガラスケースが並べられてた。
「何ですか、此処は?」
「ご覧の通りの茶店」
「でも営業してないですね。向こうの団子汁屋とどう違うんですか」
「隣は付随して出来た店ですよ。京都でも新選組の屯所跡には別な店があるそうですね。あれと似たもんです」
とお兄さんが名所旧跡に目を付けた店だと謂われて納得した。此処が夏目漱石とどう関係しているのかは後のお楽しみ、と報されないのが気になった。
車はなだらかな峠を過ぎて視界が開け、小天温泉那古井館が見えた。長閑な田園風景が広がる向こうに有明海も見える。お目当ては此処でなく、百メートル離れた前田家別邸だ。案内されたその部屋で、初めて昔の千円札の肖像画と同じ写真に対面した。
「何で此処に千円札の肖像画が飾ってあるんですか」
「最初に言ったでしょう。此の人の書いた草枕のモデルになった場所だと。特にさっき見た風呂場、あれも物語では重要な場所なのよ」
そう云われても、そもそも藤波は「草枕」と謂う小説を知らなかった。
「啓一郎さんが千円札の夏目漱石しか知らないのは仕方ないけど勉強すればいいのよ。知らないことを知れば、それをそのままにする人じゃないでしょうあなたは」
と微笑みながら励ましてくれた。彼女の此の優しさに甘えすぎて、此の言葉に応える努力を一年間怠った。今にして思えば此の忠告を肝に銘じていれば、こんな不幸は訪れなかった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます