第25話 深詠子を偲ぶ3
朝、目覚めれば、隣に白い枕カバーを覆い尽くす黒髪に覆われた中に眠る深詠子を初めて見た。細くなだらかな瞼の付け根から真っ直ぐな鼻筋が伸びて、唇を静かに閉じて眠る。実に少女のような姿に見とれていると彼女が目を覚ました。「わあー、大変。朝の用意をしなければ」と飛び起きた。此処から深詠子との新しい日々が始まる。深詠子との希望が叶ったが、あの上司との別れで見せた彼女の別な面から解るように波瀾に満ちていた。
奥の居間で起きると、洋室の三畳のキッチンテーブルに藤波のために朝食を用意する。トーストにハムエッグと紅茶も用意する。今まで間に合わずに抜かしてしまう朝食が、深詠子のお陰で毎日ここで食べられた。別にそうしろと云った訳ではないが年上なのか、それとも惚れた弱みなのか、深詠子は率先してやってくれた。あれほど喜怒哀楽が烈しかったのが嘘のように、献身的に尽くしてくれる彼女の姿に、スッカリ
「ねえ、啓一郎さん。早く食べないと遅刻するわよ。行って早々印象悪くするから急いでね」
こう甘く囁かれて藤波は慌てて朝食を駆け込んだ。
「もう、バカね、喉詰めるわよ」
深詠子は慌てて冷蔵庫から出した紙パックの牛乳を、コップに注いで紅茶の横に差し出した。藤波は出された牛乳で流し込むように朝食を終えると直ぐに仕度をした。彼女は忘れ物がないか玄関まで来てチェックして送り出した。
彼を見送ると朝食の後片付けをする。あの人を何とか早く人前に出せるようにしなくっちゃダメだわ。深詠子はコンビニのバイトに部屋を出た。
藤波は歩いて近い製麺所に着くと、早速出来上がった麺類をワゴン車に積み込んで集配に出掛けた。三日前までは仕事の段取りと納品する店を教えるために二人で廻っていたが今日から藤波一人で廻る。午前中は開店前の個人営業のお好み焼き店やラーメン店、あとは大口のスーパーマーケットを回り、昼食のあとは、午後から営業する店や食堂の有る病院や学校関係に麺を卸す。朝が早い分、三時頃には仕事が終わる。毎日がこれの繰り返しだ。深詠子も藤波に合わして夕方には終えるようにして、二人揃って近くのスーパーで買い物をして帰る。時間がずれた場合は近くのセルフ喫茶で待ち合わす。だいたい終わる時間が決まっているからお互いの勤め先を結ぶ道で会う。
こうして年末を迎えて深詠子の実家に行った。そこで駅まで迎えに来てくれたお兄さんの君嶋井津治さんに初めて会った。深詠子が連絡してお兄さんが改札口で待っていた。そこで藤波を紹介する深詠子に、君嶋は余りにも少ない荷物に面喰らったようだ。
「そうよ、だって此の人を紹介するために帰ってきたのよ」
「そうか、感じのいい人だ」
と君嶋は藤波を暖かく出迎えて駐車場まで案内した。
「お父さんとお母さんは元気にやってるの」
両親は還暦に近いが、かなり弱って兄夫婦が面倒をみていた。
「ああ、後はお前の結婚だけが愉しみだから喜んでいるよ」
藤波には、しっかり妹を掴まえてないと振り落とされるぞ、と半分冗談っぽく言われた。すかさず深詠子は「お兄さん、何を言うのよ、そんなことはないわよ」と彼の手前、慌てて否定した。
「今の妹を見ていると今度は安心できそうだ」
君嶋は妹に、暗に泣かせるなと云っている。
「お兄さん、そんな心配は此の人には要らないわよ」
「そうか、藤波さん、妹をよろしく頼むよ」
早朝の新幹線で帰宅した二人を市内のレストランで昼食を摂った。此処で深詠子が地震で損壊したお城はどうなったのと訊くから、君嶋は案内することにした。
「あれば驚いた、まあ、家は大丈夫だったがお城は近付けないが傍まで行ってみるか」
此の春に襲った震度七の地震で城はかなり損壊していた。食事の話題は此の春の地震の話でせっかくやって来た藤波は片隅に追いやられた。それだけ兄は藤波に妹を託しても大丈夫だと太鼓判を押しているようなものだ。お兄さんに認められれば、これから会う両親には何の心配もない。真っ先に家に向かわずに市内観光するのがその表れだ。
お城に到着し変わり果てた天守を見て、深詠子は気落ちしている。なんせ加藤清正が築城した此の城は「日本一のお城たい」と自慢していただけに掛ける言葉がなかった。
「大丈夫だ、天守も当時より少しはましになってる」
なんせ今までこんな気落ちした深詠子を見たことが無かっただけに、君嶋より藤波の方が心配した。君嶋もちょっと不安になったが見るに
「せっかく来たのだから案内したい所があるの」
と深詠子は、隣の藤波に伺った。
「そう言われても、ここは知らないから君に任せる」
「それじゃあ、お兄さん、泰勝寺に此の人を連れて行きたいの」
うっ? とハンドルを持つ君嶋が「あそこは藩主のお墓だよ」と藤波に確認するように云った。藤波が留保すると、いいから行ってと兄に催促した。しょうがねぇなあと謂う顔で了解した。
「そんな藩主だったお墓に行けるんですか?」
「あそこはお墓と言っても自然公園として市が整備して、一般の人も立ち入れますからご心配なく」
これに納得して藤波はお兄さんに任せた。
細川家墓所の泰勝寺跡は、木立の中にひっそりと佇んで、散策する公園としてはよく整備されてる。
深詠子は藩主の墓には目もくれずに、ガラシャ夫人の墓所へ真っ先に案内した。
「あたしは此の人の生き方に感銘しているのよ。特に此の人の辞世の句は凄いと思う」
暫くガラシャ夫人のお墓を前にして、彼女の功績を深く藤波に印象づけるように深詠子は語った。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます