第23話 深詠子を偲ぶ

 十年前、彼が大学を中退して二年間で就職した会社は、短いところで一日、一番長くて四ヶ月。流石に一日で辞めたのは一回だけで平均では二、三ヶ月は居た。二十二歳頃になり見付けた会社でやっと良い上司に恵まれた。とはいえ今まで世間の言うブラック企業には一件も遭遇しなかった。ただ彼の就業意欲が萎えただけだ。中々彼の身になって手取り足取り親身に接してくれなかった。今どき新人に自分の仕事を犠牲にして構ってくれる人にお目にかかれなかったのだ。だが此の会社の直属の上司は違った。しかも彼の部下には藤波好みの女性がいたが、上司の彼女だが此の二人から色々と面倒見て貰えた。これでスッカリ此の職場が気に入り、毎日が浮き浮き気分で仕事が出来た。この上司の彼女が深詠子さんだ。藤波が寂しくしていると二人で誘って遊びに連れて行ってもらった。二人の仲が上手く行ってるときは良かったが、此の二人の仲にひびが入り、拗れ出すと深詠子は藤波に助けを求める。

 夜の八時前にアパートに居る藤波の部屋のドアを激しく叩く音にドア越しに「どなたですか?」と尋ねた。「あたし」と聞き覚えのある深詠子の悲痛な叫び声が聞こえた。彼は慌ててドアを開け「どうしたんですか」と訊ねた。

「此処じゃ周囲に聞こえるから中に入れてくれる?」

 藤波が黙って更にドアを一杯に開けると、彼女は藤波が一杯に空けるために伸ばした腕の下からスルリと掻いくぐって入った。藤波は表に誰もいないのを確認してドアを閉めた。藤波の部屋は三畳のキッチンルームと奥の六畳の居間しかなかった。深詠子は先ほどの緊迫した表情からは一変して奥の和室に今日は珍しく覇気のないままピョコンと座っていた。彼が向かいに座り「どうしたんですか」とまた同じ質問をした。

「ねえねえ、聞いて!」

 と彼の膝の上に手を置くと、年上のひとから子供のように哀願された。

「あの人となんかあったんですか?」

 あの人と聞いて彼女はしくしくと泣き出した。

「喧嘩でもしたの」

 彼女は藤波の目をじっと見ながら何度も頷いて見せる。

「お願い! あたしと一緒に謝ってくれる?」

 想いを寄せた人が涙を溢しながら哀願されると、力強く大丈夫だと云って聞かせた。これには安心したのか涙混じりに微笑んでくれた。

「あの人がどうしたんだ、何があったのか言ってくれ」

「さっきまであの人の部屋に居たの」

「呼ばれたのか」

「ううん、最近会ってくれないからあたしの方から押し掛けたの」

「どうして、今まであんなに仲が良かったのに、てっきり仕事が終わって毎日会っていると思っていたのに」

「以前はね、でも最近は仕事が終わるとさっさと独りで帰ってしまうから心配して今日、彼の部屋を訪ねたの」

 彼はいつもと変わりなく招き入れてホッとした。でも表情は穏やかではなかった。どうして最近は一緒に帰らないのかただした。ひと言「君とはやっていけない」と言われた。何故? どうして? と問い詰めると、あなたの事を云われた。

「何て!」

 これには藤波は驚いた。此の前まであれほど親身になってくれてた上司に、まったく思い当たる節がなかった。深詠子に今一度、何かの間違いだろう、あの人は誤解していると詰め寄った。深詠子は静かに首を振って、それよりあたしどうしたら良いのと藤波の手を掴み激しく揺さぶられた。

「あの人をまだ好きなのか」

 うんと、子供のように頷いた。

「じゃあ僕が一緒に付いて行ってあげるから、仲直りすればいい」

「叱られても平気なの」

 と今度は心配そうに見詰められた。

「大丈夫だ。もしあの人が僕の事が原因で君を冷たくあしらうのなら、僕は今すぐにでもあの会社を辞めて二人の前から消えるよ」

「ダメ! そんなのいや! あなたも居て欲しい」

「それは無理だ。今まであれほど仲良くやっていたのだから、僕がいなくなればまた元通りやっていけるから、それで『ごめんなさい』って謝れば良いから一緒に行こう」

「どうして、あなたは悪くないのに」

「君が良ければぼくはどうでもいいんだ」

 そんなの嫌と言われたが、問い詰めると彼と一緒に居たいと駄々をねられた。それでもなんとか仲直り出来ると言い聞かせて上司のアパートへ行った。

 深詠子さんが会いたがっていると連れて来た。上司は二人を見て表情を変えずに受け入れてくれた。流石に藤波とは一ランク上の雰囲気が漂う住まいだ。

 三人が座ると真っ先に深詠子がごめんなさいと謝った。

「ねえ、もう一度あなたとやり直したいの。お願いできますか?」

「どうやり直すって言うんだ」

「今までどおり藤波君と三人でわいわいやりたいの」

 これを聞いて藤波は、何を言ってる。さっきあれほど僕は身を引くって云ったばかりなのに。何を聞いてるんだ。

 彼は少し眉を寄せて「何しに来たんや」

 と穏やかな口調で切り出してはいるが、胸の中は怒ってると解ったが、肝心の深詠子はそんなの意に介せず「どうしてそんなことを言うの、どうして解ってくれないの」と藤波の肩に寄り掛かって泣き崩れる始末だ。

「僕の云ってることが解ってないがな !」

「そんなことない、ちゃんと解ってる」

 ともう目を真っ赤にして喋ってる。

「君は気違いか」

「何でそんなこと言うの」

 と深詠子は益々泣き崩れ、もう帰ろうと藤波が催促する傍で「また来るからね」と言った。

「もう来るな。此処にも会社にも」

 と言われてしまった。

「僕は辞めますから先輩はずっと居て、また元通りやって下さい」

 と藤波は深詠子に帰ろうと促し、彼女も肩で息をするように入り口まで行って「あたしも辞めていいの?」と振り返った。

「お前ら、もう勝手にせい」

 と上司に言われた。


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