第18話 深詠子の願い

「それだけを聞くためにわざわざやって来たんですか」

「俺も最初はそう思った」

 それでお前の要件は何だ。わざわざこんな遠い所まで来るんだから、余程大事な要件だと思ったが結婚相手についての相談だ。今更良いも悪いももう決まってるそうだ。相手は会社員でまだ三十代で自営業でない一介の者に、それほどの資産があるわけでもない。だが相手は結婚を機に独立して事業を興すそうだ。しかも相手は深詠子に一目惚れだけに、あたしの過去を口止めに来たのだ。お荷物を一つ背負ってるだけに妹はこの程度の男と妥協した。それは相手にとって一番嫌な厄介なものを要求する為だ。

「お腹の子か」

「ウッ? 何で判ったの?」

「深詠子、俺はお前が産湯に浸かり大学を卒業するまで見続けて来たんだ。一つ聞きたい何でそこまでするんだ」

「たとえ一年足らずでも真実まことの愛の姿を、あたしの生涯にわたってずっと遺して見続けたいから」

「そうか、それで堕ろしたくなかったのか。でも下村は事業に行き詰まり心中事件を起こした」

 下村の我が儘は勝手過ぎる。死ぬならお前一人で行けと苛立った。

「深詠子は下村に異常を感じて、真苗に俺の店を教えたのか。だがそれが前日とは、余程切羽詰まったのか」

「条件が揃っていればあとは衝動的にったのだろう。真苗が無事なのが不幸中の幸いだ」

「君嶋井津治さん、あなたは深詠子がわざわざあんな遠い所までお腹の子の為だけに訪ねて来たと言うんですか」

「それが妹にとっては全てなんだ。そんな条件だけ突き付けられれば君なら全てを許しても、それだけは承知しないだろう。だが下村に取っては一番の経済的負担が少なくて済むんだ。そこが富山とみやまとは大きく違うところだ。だが君には相手の男は札束で愛を語る男だと印象づけたのは、自分がそんな女だと解れば怨みこそすれ、もうそれ以上の愛情を注ぐことはないと思って妹はその様に仕向けのだ」

「じゃあ恨みを買ってまで別れたのはどうしてなんですか」

「それが深詠子の持つ愛の定理と云えば聞こえがいいが、君からの逃避だ」

「何故そうする必要があるんです」

「想いを寄せた人への想いを貫く。その為に別れる。それが彼女の完璧主義なんだ」

 目の前にその対象物があればどうしても溺れてしまう。それを避ける為には、その人の分身を育てながらなら、その人を思い続けられる。常に目の前にいればそれは幻想の恋に終始してしまう。そうでなく再び会う事のない高い壁、深い溝の向こうに居ればいつまでも思い続けられる。それが深詠子が到達した究極の愛の行き着く到着点だ。自分が築き上げた愛を全うするには、此の方法が一番やり遂げられて、完遂の可能性のある方法だ。

「ほかに方法はないのですか」

「表面を常に繕って生きられる人なら出来るだろう。妹の場合は君も知ってる通り、直ぐに感情を起伏させて、時にはその対象物のじれったさに否応なく挑みかかる。それにえ続ければ異質な愛に磨かれて人生が終わる。だが深詠子は理想とする君にじれったさが残る限り、烈しく感情を打っ付け続けるだろう。そんな自分に嫌気がさして下村ならそんな考えも起こらずに究極の愛の一粒種を守り続けられる」

「それを護るために、あの鴨川の張り出した納涼床の下で演じられたのか」

「深詠子は君の愛が強ければ強いほど引き離すには、君を完膚なきまで打ちのめす必要があったのだ。もっとも手っ取り早いのは愛を金に換える。これが一番に君から軽蔑されると考え出し、これに君は激怒して深詠子の元を去った」

 究極の愛とは、日常化した生活のもとでは貫けない。そんな日常からの逃避が出来なければ究極の愛は存続しえないと言う持論を展開した。深詠子の様に感情を直接相手にぶっつけて自分の求める愛に導こうとする者にとって。そんな人を対象物に選べば歯がゆさが募るばかりで、進展するどころか、没落さえ招きかねない。そんな人とは共に作り出せる物ではないが、惚れてしまった弱みから、幾ら自分の理論に近づけようとすればするほど癇癪玉が消えては膨らみ、その内に遂に爆発させてしまった。

 君が辿った深詠子との結末を解釈すれば妹の心の内はこんな感じだろう。おそらく君はそこまで深く妹の中に踏み込んでないだろう。ではどうすればいいのか。その答えはお腹の中にいる子に託すれば良い。深詠子に取っては君の生命の片鱗を宿した此の子をどうしても育てたい。それで多くのシングルマザーが歩んだ悲惨なみちでは、その実現は覚束ない。そこに現れたのが下村だ。しかしながら下村がお腹の中の子をどう扱うか不安を払拭するために俺に相談した。ひとつは今までのお前を捨てておしとやかに、それでいて相手の気をらせれば良いだろう。今なら戸籍はどうあれ、世間からはできちゃった婚として育てれば肩身の狭い想いもしないで済むと直ぐに一緒にさせた。

「だから真苗は、深詠子にとっては究極の愛の形見として君の元へ送ったのだろう」

「この前に聞いた啓ちゃんの話と今伺ったお兄さんの話で、深詠子さんと謂う人の心の中と外にある奥深さを一気に知ることが出来て、あの人の認識が変わっちゃった」

 可奈子にすれば、藤波のそんな恋で遺された遺児なら応援したくなり「あの子は大事にしないとダメでしょう」とまで可奈子に言われた。そうすることで気持ち良く深詠子さんを送ってあげられる。通夜と葬式には是非とも参加したいようだ。薄情な親戚より心の籠もった人の手で、見送ればあの人も浮かばれる。そう考えると甲斐甲斐しく世話をする磨美さんに対する考えも変わってきた。



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