第17話 深詠子の兄

 下村の父親は、息子が犯した罪に動揺して戦慄が全身に走っていた。おそらく本人は出来るものなら、このまま喪主を磨美に代行させて、舞鶴に飛んで帰りたい心境で後部座席に身を委ねている。

「あのー、お兄さんはどれぐらいで来ます」

「そうですね、鴨川ホールは息子さんの自宅と京都駅の中間ですから、タクシー乗り場が混んでなければそれほど時間は掛かりませんよ」

 そうかと溜め息をひとつついて、取り出したハンカチで額の汗を拭き取った。あとは無言のままホールに着いた。入り口の案内板を見ると下村家の葬儀会場は二階になっていた。一階は一つの葬儀場で全フロアーを使って、二階のホールは三つに仕切ったひとつが下村家の葬儀会場になっていた。先ほど磨美と可奈子の言い争いを中断させた年輩の社員が「今日の通夜と明日の葬式を担当させていただきます」と桐山と名乗り、名刺を渡され葬儀場に付随した控え室に案内されて寛いだ。

 藤波と可奈子は部屋を出て、飾り付けの終わった祭壇の前に安置された棺の前に並べられたスチール椅子の一角に座った。

 さっきはごめんねと藤波に謝り、深詠子さんがどんな人か可奈子は拝見した。

 自宅での磨美との一件では桐山が止めに入ってホッとして、今は落ち着いて独りで拝見したいのだ。棺のそばへ行って観音開きの小窓をそっと静かに見て戻って来た。

「もの凄く穏やかな表情で、啓ちゃんの言った激情の人には見えない」

 そうか、と藤波は頷いたまま目の前の棺を眺めていると深詠子の兄が来た。

「お目に掛かるのは八年ぶりですね」と言った。

 藤浪は軽く会釈する可奈子を幼馴染みとして紹介した。これには君嶋も兄妹のように見えたらしく納得した。彼は居ずまいを正して藤波と向かい合った。

「あんなに掻き回された妹に、此処まで見送りに来てくれて申し訳ない」

 と頭を下げられた。 

「別にお兄さんに言われるような事はありませんよ。ただ深詠子の頼み事を聞いただけですよ」

「最後まで我が儘な妹だなあ」

「自分の蒔いた種らしいから、しゃあないか」

「う〜ん、やはりあなたに託したんですか」

「ご存知なんですか?」

「ええ、妹があなたの子を宿していたことは知ってました」

 エッ! 何でと言いかけた藤波を兄は制止して、これから向こうの人にご挨拶してそのあとでゆっくり話すと言って控え室へ消えた。

 お兄さんはおそらく、啓ちゃんなら妹と良い家庭を築いてくれると、託したのではないかと問われた。藤波は腕組みをしてひと声唸ってから喋り出した。

「深詠子は俺と同棲する前に九州まで行って今のお兄さんに紹介したんだ」

「わざわざそんな遠いところまで行って」

「そうなんだ」

「そこで兄夫婦の車で阿蘇へドライブに連れて行ってもらった。あれは楽しかった。お兄さんは俺をスッカリ弟のように扱ってくれて深詠子もそのつもりだった」

「そうなの」

 最初の一日が終わると今夜はどうすると聞かれた。これからビジネスホテルを探す予定だった。独りでかと言って、妹を見てから俺の家に泊まれと言われた。

「お兄さん凄いじゃん、会ったその日に泊めるなんて、普通なら啓ちゃんは独りでビジネスホテル泊まりなのに、きっと啓ちゃんならと、お兄さんは妹を託したんだ」

 藤波が黙って笑っていると、控え室から出て来た兄が「あの部屋はほんまにお通夜だ」と言われた。お通夜が終われば通夜膳を用意していると言われたが、それまで持たないと軽い食事に誘われた。そこでさっきの話をするつもりだと感じた可奈子は、あたしも付いて行くと言い出した。藤波は君嶋の顔色を窺うが、一緒に来る可奈子を見ても彼は何も言わなかった。それどころか了解と受け取れるような笑みまで見せた。

 ホールの外には熱い陽射しが頭上に降り注ぎ、たまらずに近くの小綺麗な店に飛び込んだ。先ずはビールを頼み、それと腹の足しになる物を少し多い目に注文した。君嶋はビールで喉を潤してから妹について語った。

「実は妹は君と別れて半年ぐらいした時に、下村と結婚する話をしにわざわざ熊本までやって来たんだ」

「半年ですか、いやに焦ってたんですね」

「それはさっき云ったお腹の子供が関係してるんだ」

「ウン? それは下村は知ってるんですか?」 

「だからその相談にやって来たんだ、妹は」

 妹は君と別れて直ぐに別の会社に就職した。そこの上司の下村が直ぐにプロポーズした。向こうは一目惚れなんだ。入社早々懇意になった磨美さんは、その話には余り乗り気ではなかった。

「何か悪い噂でも」

 いや、それどころかかなり仕事一筋で真面目なタイプなんだが、女性に関しては全く理解度が低くて。いやこれはべつに女性蔑視でなく、むしろその反対で特に妹や磨美さんの様な女性には、天使か女神のような憧れの存在だった。磨美さんも入社早々プロポーズしてやんわりと断られた。

「それで入社早々まだ事情の飲み込めない深詠子さんにアタックしたの」

 急に割り込んだ可奈子にも、君嶋は愛想良くビールまで勧めていた。

「同僚の磨美さんからは、家庭的で仕事一筋で申し分ないが、魅力が乏しくてつまらない人と言われたが、追い縋る君を突き放すには絶好の相手だと捉えたんだ」

「それで金色夜叉の世界へ逃避したのね」

 これには君嶋も藤波も眉を寄せて、ウッという顔付きをした。あらゴメンナサイと可奈子に言われると、二人とも憎めない顔付きになった。

「下村はあの物語の富山とみやまほど金の亡者じゃあないよ」 

 だから安定した衣食住の家庭環境は勿論、今の状態で聞ける範囲の条件なら何でも深詠子の希望を聞くと言われて俺に相談しに来たんだ。


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