第12話 藤波の店

 真苗は頼んだ枝豆の処理が終わると次なにすんの? と訊かれた。

「手伝いはもうええさかいご飯食べよう」

「まだお腹空いてへん」

「もう直ぐ店開けなあかんさかい。店開けたら客が来るさかい、そしたらもう食べる時間は今しかないし食べとき」

「うん、分かった」

 今の返事は元気がなかった。まだハッキリと此処に置くと言ってない所為せいかも知れない。あれだけ家や店の説明してもやっぱり不安なんか。言えんのはあの別れの日に深詠子が残した捨て台詞が、未だに頭にこびり付いている所為せいかもしれない。そんな藤波の思いが伝播したのか、真苗の箸を持つ手が重かった。

 真苗ちゃんには開店時間前に夕食を済ませて二階へ上がらせた。表に掛ける変な屋号の入った暖簾を取り出した。これは親父が死ぬまで使っていたと、取り出した暖簾を膝の上に置いて暫く考えた。

 気持ちの整理が付かないままに深詠子は子供を一方的な押し付けて逝ってしまった。可奈子が言ったように、そこに愛がなければ妊娠を気付いた段階で堕ろすだろう。それをしなかった理由わけは他にあるのだろうか。藤波には余りにも醜い別れで、素直に可奈子の言葉が心の何処かに引っかかって受け容れられない。ふと時計を見るといつもの開店時間を過ぎていた。彼は慌てて店の暖簾を持って表に出ると、あの金目鯛を頼んだ源さんが「この糞熱い中をいつまでまた済んだ」と掛ける前に暖簾をくぐって店に入った。藤波は慌ててカウンターに戻った。

 客の源さんは座るなりリクエストの逸品を催促した。藤波はガスコンロに掛かっていた鍋から金目鯛を取り出して皿に移した。本当にあんな簡単な味付けでいいのか、聞きながら源さんの前に割り箸を添えて出した。

彼は身をほぐしてひとつまみ口に運んだ。

「この味や、あんたの親父さんが作ってくれた昔の味や」

「源さんが、いつもちゃちゃう、なんべん言うたら分かるんや、って言うてくれたお陰で五年経ってやっと習得出来た」

 藤波は源さんの前に置いたコップに焼酎を並々と注いだ。

「おやっさん、亡くなってもう五年もなるか」

 と焼酎を呑みながら金目鯛を箸で突いていた。黙って食べるのを見てテレビを付けた。

 そこでいつものメンバーの三人がやって来て急に賑やかになった。その中にたまにしか来ない山崎のじいさんが居た。源さんは彼を見るなり、珍しいなあと声を掛けた。

「オッ旨そうやなぁ。そこの壁のお品書きに出てないこれをもらおうか」

 と席に着くなり催促した。

「何言うてんね、これはわしが別注したやつや」

「そやなあ源さんは、年金全てこの店につぎ込んでるそうやないか」

「アホ言え、唯一のわしの道楽や、他のん頼め」

 しゃあないなあ、と言って注文が決まるまで取り敢えず枝豆を出した。久し振りに来た山崎のじいさんは出された枝豆を頬張りながら、壁に貼り出された今日のメニューからヨコワを頼んだ。

 山崎のじいさんは工事現場の警備員をやってるだけに、顔は真っ黒に日焼けして久し振りの勤務明けで、来るなりもう中ジョッキのビールを空けてしまった。

「今日の枝豆はええ調子で塩が利いてるなあ、どないしたんや」

「どないもない、いつもよりちょっと切り込みを入れただけや」

「あっ、ほんまや、先っぽ綺麗に切ってある。えらい今日は手間掛けてどやねぇ、源さんが金目鯛別注したさかいか」

「そやったら毎日注文してもらわんと困るなあ」

 やっさんが言った。

「そんなアホなァ、年金が持たんわい」

「なんや此処に居る連中は年金年金って調子ええのう」

「山崎のじいさんは年金足らんさかいまだ働いてるんやなァ」

 その山崎の前に三枚に下ろしたヨコワを出した。

「これも別注か」

「何言うてんね。壁に貼りだしたお品書きの一番端に載ってるやろう」

 そうか、とやっさんは眼鏡を上向けて目を細めて、ああそう言えば書いたーる。

「やっさん、それ老眼か近眼かどっちなんや」

 店のレジ上にあるテレビから丁度一家四人の無理心中事件の続報が流れた。

 此処暫く事件がなかっただけに、今朝放送されたこのニュースに、毎日が日曜の連中はどうやら釘付けらしい。

「これは今朝、見たが。アホなァ事しょったなァ」

「ああこれか、亭主は死にきれんとどっか行ってしまいよったあの事件か」

「ニュースの速報では、その亭主が今さっき近くの交番へ自首したそうやでぃ」

「ほんまにアホなァやっちゃなあ」

「昔とちごて、今はなんぼでも見てくれる施設があるのに無理心中しおって。わしらみたいに戦後のドサクサに生まれたもんからしたら考えられんなあ」

「そうや、わしらの子供の頃は喰うもんなくて、おやじとお袋がひそひそと一家心中の相談してたんを子供ごころに憶えていたけど、みんな必死で一歩手前でなんとか乗り切った連中ばかりや」

「それで藤波のおやっさんは『どん底』って付けたんやで」

 生前の親父は、場末のどん底の居酒屋やさかい付けたと聞いたがちゃうんか……。

 此処に集う一夜の酒に酔う連中は、遠い昔に一度は生活のどん底を這いずり回り、命の瀬戸際まで追い詰められて這い上がったから今日がある。藤波はそんな人々が築いた安定した社会になって生まれた。下村もその一人だろう。だが一昔前に苦労した人より、物質的には恵まれた時代の藤波には、精神を見つめ直す余裕が出来ている。

「同じ年代でも、あんたはあんな余計な事はせんやろう。なんせあの親父さんが真面にあんたを育てたさかいなあ」

 藤波にすればこの店をやるまで、それこそ数え切れないほど職を変えて、帰ってくる度に親父に怒鳴られて真面やないと思った。藤波のおやっさんは怒鳴ってない、それは受け止め方次第やと説教された。


 

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