第7話 谷を渡る雲2

 彼の推理を訊いて可奈子は立ち上がった。

真苗まなえちゃんの置かれた状態は解ったけど、八年前に別れたの母親がなんで此の子を啓ちゃんのところへ来させたの?」

 と素朴な疑問を可奈子は投げつけた。そこで藤波はこれまでか、と深詠子が子供に託した手紙を見せた。

 突然の手紙に驚かれると思いますが出来たらこのまま下村と最後まで添え遂げたかった。それも叶わくなりました。下村があんなに精神的に脆い人とは思わなかった。このままでは啓一朗さんとは幾ら相性が合っても生活面の不安は拭い切れない。お腹の子のためにもあの若さで会社をおこした下村の経済力に頼りました。自信家の下村は銀行から多額の融資を取り付けて新たな事業を始めました。でも事業は頓挫して借金だけが残りました。金利だけが嵩み、遂に事業からの撤退後の惨めな下村の姿にこらえきれずに、離婚話を始めると彼は前途に失望しました。死ねば借金はチャラになると死ぬことばかり考えていましたから、じゃあご自由に、その前にこの用紙にサインと捺印を、と迫るとあの人は今まで見た事のない凄い眼をされた。これはまずいとその場は引き下がりました。もうあの人は何をするか判らない。せめて此の子だけでもとこの手紙をしたためました。

 追伸

 あなたとの真意は親友の磨美まみから訊いて頂ければ、この手紙の重みも増しますのでよろしく。

「何これ!」

 さっきまで言っていた情念の欠片かけらもない文章ね、と可奈子は手紙を突っ返した。

「第一に、これじゃ此の子の存在は匂わせているだけでハッキリ言ってないじゃないの」

 と可奈子はまた真苗の前に屈み込んだ。

「真苗ちゃん、あんた誕生日いつなの?」

「六月二日」

「じゃあこの前まで七歳で、先月に八歳になったばかりなの」

 可奈子は立ち上がり藤波を真面に見据えた。

「深詠子さんと別れたのは鴨川の納涼床が有るから夏ね、じゃあ真苗ちゃんはもうお腹の中に居たんだ」

「おいおい、勝手に決めるな。でもあの時は俺も知らないけど、本人はどうなんだ」

「あたしは妊娠したことがないから知らないけど、計算的には合ってる」

「それはなんの恋愛方程式なんだ」

「敢えて言うなら恋の熟成度を知る方程式なの」

 そんな洒落たアドリブを考えられるほど、可奈子は真っ当な恋をしてきたと思うと気が緩んだ。

「じゃあ訊くけど、その方程式には欲情と愛情の線引きは何処に設定されるんだ」

「恋しているときにそんな野暮な線引きが出来る訳ないでしょう」

「じゃ終わってからか」

「言っとくけど、別れた彼とはそんな線引きは一度もなかったのよ。ただ一緒に居たなかっただけ、でも深詠子さんはちゃうわよ。今でも心の何処かにあなたが居たからこんな手紙を寄越したんよ」

「それは勝手だと思うけどなあ」

 さっきの剣幕は何処へやら、と可奈子は心の中で嗤った。

「じゃあどうして堕ろさなかったの。あなたの謂う烈しい情念をぶっつけた人が……」

「そんなもん知るか!」

「あなたには切ない女心がなにも判ってない人ね!」

 真苗の足は地面に着くか着かないかの中途半端だ。椅子を支える四本の棒がもう少し短ければ、真苗の足は宙ぶらりんにはならない。仕方なく真苗は四本の支柱を等間隔で繋ぐ横の棒に足を掛けると、丁度両足は安定するが、バランスを崩すと椅子ごと倒れてしまう。その姿勢でカウンターに両腕を掛けて、両親に比べると何を言っているのか分からないが、言い争っている二人に、真苗は慣れてくると急に「お腹空いた」とポツリとか細い声で訴えた。

「ウッ、真苗ちゃんいつ食べたの」

「朝からなんも食べてない」

「あたし達は朝、食べたけどこの子はまだなんだ。もうお昼とうに過ぎてる」

「しゃあない、ピラフでも作るか」

 と奥のガスコンロに火を付けて、フライパンに冷蔵庫からあり合わせの物をご飯と一緒に炒めて三人分作った。

 一緒に食べるか、と言うと嬉しそうに頷いた。可奈子と藤波が真苗を真ん中にしてカウンター席で食べ出した。それを見て真苗はスプーンでかき込むように食べ出した。

 喉詰めるわよ、と可奈子が水を用意した。不安定すぎる真苗ちゃんを見て、可奈子は、こんな古い丸椅子より、もっとしっかりした肘掛け付きの安定した椅子にするように進言した。藤波にすればこれは親父の代から使っていた椅子だが、客も歳を取って危なくて同意した。

「それよりこの子、如何どうすんの」

 と今度は食べるのに夢中な真苗ちゃんの頭越しに訊ねた。

「二階はふた部屋あるから、ひと部屋をこの子に割り当てるか」

「それより警察が捜しているのは、行方不明の亭主とこの子もじゃないかしら。真苗ちゃん学校は?」

「夏休み」

「あっ、そうか。スッカリ忘れてた。じゃあ暫くは解らないわね。親戚は? おじいちゃんとかおばあちゃんとかは?」

「深詠子の実家は九州だ」

 藤波が言うと、真苗ちゃんは止めたスプーンをまたせわしなく動かした。

「旦那の方は」

 そんな真苗を横目で見てから、可奈子が笑って藤波に訊ねた。

「会ったこともないのに知るわけないだろうッ」

「じゃあ手紙に書いてある磨美さんは?」

「うん、それは……、深詠子が居た会社の事務をやっていて、彼女とは仲が良かった子だ」

「今の処は知ってるのはその人だけ? じゃあその磨美さんに訊いてからどうするか決めたら」

「でもこの子が警察に知れるのも時間の問題だが……、深詠子が死ぬ前に俺を頼ったんだ、ほっとけない」

 此の人は尾崎紅葉にはなりきれない人ね。

 どうやらこの手紙は急にしたためたものでなく、以前から下村と離縁するつもりで書かれていたようだ。



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