第5話 藤波の恋談義

 仕込みを終えた軽トラは荷台に僅かな食材を積んで走り出した。可奈子は幌になる分厚いカバーを敷いただけの荷台を見て、これならセダンタイプの車のトランクに収まるんじゃないのと思えると、どうして普通車でなく軽トラなのか首をひねった。

「先ずはなにが知りたいんだ」

 ハンドル操作をしながら訊いて来た。

「そうね、名前は聞いたから次は苗字かしら、何て言うの? どうして出会ったの?」

 十年年前に大学を中退して行った会社は三ヶ月で辞めた。それから二年間で会社そのものか、組織なのか果ては、そこに居る人間模様に染まりきれないのか、その全ての要素が絡み合って八回も仕事を変えた。九回目の会社で君嶋深詠子きみじまみえこと逢った。この時は上司の彼女だった。実に面倒見のいい上司で、親身になって仕事を教えてくれた。二年以上幾多の会社を遍歴した放浪生活の中で骨身に染みた藤波には、この上司は兄のように接して、彼女からも同じように可愛がられた。

「そうなんだ。二人して俺に色々と世話を焼いてくれて、おかしな関係になってしまったんだ」

「どう言うこと?」

「深い干渉が思いやりに変わると、二人とも兄と姉のように均等に俺を気の毒がって親身になってくれて、右も左も分からない社内で、この二人だけが身辺を照らす灯台だった」

 ひとりっ子の藤波には、子供の頃から知っているのは可奈子だが、顔を合わせれば文句を言われて感情が湧かなかった。だがこれだけ身近に居て二人に気を遣われると親しみが増す。特に深詠子には姉以上に込み上げる物があったが、それを抑えられたのはあの上司のお陰だ。

「ウッ、それって、深詠子さんって年上の人なんだ」

「そうだ。だから最初の恋心はお姉さんって感じで、この二人のお陰で他の社員ともコミュニケーションが上手く取れて今までの会社では一番居心地がよかった」

 この上司は他の同僚との会話にも「仕事がこなせないのにあんな喋り方をしてたら愛想つかされるぞ」と忠告してくれた。彼女も社内で俺をどう思っているか聞き込んで、こうすれば良いとアドバイスしてくれた。そこで初めて社会生活を円滑にするコツをこの二人に依って習得出来た。

 その内に藤波くんはどうしているだろうか、巧くやっているだろうか、と恋人どうしの二人が話す半分は彼の話題になり、これで気まずくなっても、ふたりの緩衝材になっているうちは良かった。

 上司が今度社内に入って来た新人をどう教えればいいか、彼女と相談している内に此の二人が俺に対する意見の相違で、亀裂が生じて喧嘩した。この仲裁を買って出ると彼女は俺に心を寄せだした。それから彼女も心の痛手を藤波に求め始めた。これで上司から彼女への恋の重しが取れると、自然と恋は深詠子のあいだで烈しく舞い上がり、彼女の気持ちが分かると一気に燃え上がった。

「こうなると同じ会社に居られずに、俺と彼女は一緒に辞めて同棲したってわけ」

「余りいいやり方じゃないわね」

「別にそうしょうと思ってやったわけじゃない。彼女のために頑張るほど自然の成り行きでこうなってしまった。でも災い転じて成就した恋は長くは続かなかった」

「どれぐらい続いたの?」

「一年半、ぐらいかなあ」

「じゃあどうして別れたの」

「結婚する前の旧姓は君嶋だった」

「エッ、彼女、今は結婚してるの。なんかややこしそうね、どんな別れ方をしたん」

「聞き捨てならない、そんなもんじゃない。あいつは俺と別れてから下村しもむらと言う男と結婚したんだ。俺はけじめを付けるように金色夜叉にちなんで、まだ見ぬそいつを富山とみやまと言って今でも軽蔑してる」

「ダイヤモンドに目がくらんでと云う尾崎紅葉の一節か」

 とうっかり可奈子も合わせてしまった。

「それはもう凄い修羅場を演じてしまった」

 此処で怪訝な顔付きをした可奈子に藤波は慌てた。

「別に切った張ったであればお互い後腐れない一時しのぎで終わったが、烈しい感情の攻防がふた月も続き、しまいにはそれ以上の情念の掛け合いになった」

 最後は彼女の情念にすがりに行くと「何しに来たの!」と二人に取っては禁断の言葉を浴びた。

「判るか、逢いたい逢いたいと片時も離さなかった人から発しられた此の言葉には、恋に狂う人間をどん底に突き落とすには十分な迫力があったんだ」

 どうしてこの人は回りくどい言い方をするのか、根がひねくれているからと解釈した。

「その陰険な別れ話。もう少し具体的に言えないの」

 あの世に半分身を置いている人達と、あの居酒屋に居るとそうなるのか、と牽制球を投げてみたが彼は無視した。

「まあそんな別れ話で揉めたのが、熱海の海岸でなく鴨川の河川敷だ。丁度上は張り出した鴨川の納涼床で、舞妓を呼んで騒いでいた。その下では鴨川の流れと張り合うほどの別れ話の修羅場だった」

「まるで歌舞伎芝居を絵に描いた様な話ね」

「あの女は取って付けたようなそう云う情景が好きなんだ」

 益々相手の存在が霞んで来てしまう。元へ戻さなくっちゃ。

「恨み骨髄なわけ」

「あの晩はなあ、その恨みは鴨川からとっくに淀川をて大阪湾を彷徨ってる」

「それじゃあ関空からあなたの怨念が見えるわけ」

 調子に乗って付き合わされたと可奈子はため息をついた。

「何処まで話の腰を折るんだ。そんなもんじゃあねぇんだ」

 話の腰を折るなと怒られたが、乗せたのはそっちだと可奈子も憤慨した。

 行きしなに聞いた可奈子の別れた相手とはそうかもしれないが、俺の場合はニュアンスが違った。怨みと言うより、己自身の情けなさが骨身に染みた恋だった。



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