2.

 鐘の音が聞こえる。

 厳かで神聖なその場所で少女は目覚めた。

 思い思いに嬲られた感触は消えていない。震えながら、少女はゆっくりと辺りを見渡した。


 神の国だ。そう直感した。

 自分は人だけでなく、神にも裁かれるのだと少女は思った。

 よく見れば、白く美しい柱の側には、同じく美しい白き翼を携えた女性が何人も静かに立っている。


 少女の周りには誰もいない。誰も近づかない。綺麗で、美しく、どこか恐ろしい女性達が遠巻きに見つめるだけだ。

 少女は思った。やはり自分は裁かれるのだと。


『――人の子よ、立ちなさい』


 声が鳴った。

 少女の身体はその通りに動いた。


『大いなる虹を宿して生まれた子よ、我が愛しき子よ、汝を罰する者はこの場にはおりません。恐れず、こちらへ来なさい』


 少女は訳が分からなかった。自分は裁かれるのではないのかと、不安になった。

 逡巡し、狼狽え、恐る恐る足を踏み出した少女を見かねたのか、柱の側にいた女性の一人が彼女を支えた。

 翼の生えた女性は何も言わなかった。ただ優しく少女を支えていた。


 暫く歩き、少女は声の元へ辿り着いた。

 神殿の最奥、玉座のような場所に座る一柱の女神。少女を支えていた女性が霞むほどの美貌に、いるだけで平伏したくなる存在感。

 少女は、いつの間にか頭を地に着けていた。


『大いなる虹の子よ、怯えなくてよいのです。こちらへ来なさい』


 そして女神は、少女をその腕で抱擁した。


『数多の神に祝福されながらも迫害された子よ、愛しき子よ、ここに貴方を縛る枷はありません。存分に甘えていいのです。泣いて、喚いて、正直になっていいのです』


 じわり……少女の目に涙が浮かぶ。

 少女は叫んだ。


 愛して欲しかった。褒めて欲しかった。国を治める父に、父を支える母に、化け物だと軽蔑されたくなかった。悲しかった。辛かった。痛かった。嫌だった。

 口から出た感情は止めどなく流れ、女神はその全てを受け止めた。

 怒りや憎しみは一切無かった。少女はただ愛して欲しいだけだった。

 ――誰にも愛されず曇っていた虹は、死んで始めて輝きを取り戻した。


『愛しき子よ、名を授けましょう。大いなる虹の子よ、祝福を授けましょう。悲しき人の子よ、役目を与えましょう』


 女神は少女に吐息を吹きかけた。

 優しく、暖かな吐息は星となって少女に宿り、祝福を授ける。

 垢だらけの穢れた身体は瞬く間に綺麗になり、ボロボロの貫頭衣は手触りのいいシルクへ生まれ変わった。少女を縛っていた足枷は砕け、黄金の装飾となって少女を支えるようになった。


『アマエルよ、罪を精算する能天使よ』


 二対の白き翼が少女を覆い、一対の翼が力強く羽ばたいた。


『貴方は我が子、我らが子。咎人に積み上げた罪を精算させることが貴方の役目。誤った人々に罪を教えなさい。貴方は大いなる虹の子であり、月に愛された子なのだから』


 アマエルと名付けられた少女は恭しく頭を下げ、女神に恭順の意を示す。

 大地にべったり着くほどの長い髪は虹のように色鮮やかで、血のように赤黒い瞳には罪を見る力が宿った。アマエルはこの女神を真なる母だと思うようになり、母のために役目を果たすことを誓った。


 弱々しかった少女は生まれ変わった。

 理不尽に貶められながら、誰も憎まず怒らなかった心優しき少女は、罪を教え負債を回収する天使となったのだ。



 災厄に見舞われて三ヶ月が経過した。国民の大多数が屍となり、王都ですら死屍累々の有様だった。

 国王は酷くやつれ、専属の薬師が薬を処方しなければ参ってしまうほど精神が衰弱していた。

 数百年の歴史を持つ王国は滅亡寸前であった。


 王国に未練を持たない冒険者や商人はそうそうに国外へ旅立ち、歴史家は王国の重要機密を持ち出して逃亡した。

 残るのは国を治める王と貴族、騎士、そして餓えた民だけだ。

 有能な者は王国を捨て、隣国で新たな仕事に就き始めていた。


 そんなとき、王都に光が差した。

 太陽の光ではなく、神々しい天の光。神々の国から差す、光であった。


「神は……我らを見捨てていなかった……!」


 王は久しく祈った。災厄に見舞われた我らを救ってくださるのだと思ったのだ。


「おお、あれこそは救いの光……神の慈悲は我々をお救いになられるのだ……!」


 王も、貴族も、平民も、王城前広場に集まった。人々は直感した。我らは神に救われた国として生まれ変わるのだと。

 細い光は次第に強まり、遂に地面に届いた。

 やがて、白く美しい翼を携えた天使が舞い降りた。


 人々はその美しさに心を奪われ、涙を流し、その尊顔を一目見ようと近くへ押し寄せた。

 天使は壇上に降り立ち、三対の翼を広げる。無機質な瞳でそこに集まった人間を睥睨していると、人々は次第に困惑し、恐ろしい妄想を脳裏に浮かべた。

 城から飛び出した王や貴族も同様だった。


 そう、天からの御遣いは、悪魔として処刑されたはずの少女と瓜二つであった。

 王は青ざめた。王族として生まれたにも関わらず不気味な髪と瞳をしていたあの悪魔が、女性としての尊厳を踏みにじる刑に処したあの娘が、御遣いとして舞い降りた事実に。


「――我が名はアマエル。汝らの罪を精算する天使である。疾く、頭を下げよ」


 肉親がいた。だが、それはアマエルにとってどうでもよかった。重要なのは咎人に罪を精算させることのみ。

 アマエルの母はあの優しき女神のみであり、人間の父と母には罪人としての価値しか感じない。


「汝らは罪を犯した。遙かな過去に交された契約を反故にし、多くの民を死へ追いやる原因を作った」


 告げられるのは純然たる事実。しかし、それを人々が知っているかどうかは関係ない。

 神々がそうだと断じたのならば、それに従い為すべき事を為すのがアマエルの役目だから。


「故に、我は汝らの罪を精算しよう。神々に代わり、罰を与える」

「――ま、待て! 待つのだリリー!」


 王は叫んだ。自分が罪を犯したのだと認めたくないから、今まで一度も呼ぶことの無かった少女の名前を叫んだ。

 しかし、少女はリリーではなくアマエルだ。侮蔑の籠もった眼差しで王に告げる。


「我が名はアマエル。貴様が我を悪魔と断じた時点で、貴様への情など失せている。我が母はかの女神ただ一柱であり、貴様らのような畜生では無いのだ」


 アマエルはその手に持った天秤のような杖を掲げる。

 杖は光を放ち、その場に集まった咎人へ枷を付ける。


「こ、これは……!?」

「なによこれ!」

「ひぃ!?」


 枷を付けられた咎人は恐怖で叫び始めた。今から神罰が行われるのだと理解したからだ。

 神々は人の法に縛られない。人の法で罪人かどうかは神罰に関係しない。対象であれば神罰が下り、そうでなければ見逃される。

 アマエルは神罰の対象となる者に、罪の重さに比例して枷が重たくなるようにした。


 咎人の中でも罪が軽いのは平民だ。極限状態で扇動されるがままに罪を犯したのだから、鉛のような手枷だけを嵌めた。

 貴族はまちまちだが、総じて足枷や手枷を付けられている。罪が重い者は立っていられずに這いつくばるほどだ。

 そして王には、首枷が嵌められた。重く、重く、王は仰向けに倒れてしまった。


「その枷は汝らの罪の重さ。精算するべき罪の重さである」


 アマエルは杖を振るった。


「これより、神罰を開始する」


 その瞬間、阿鼻叫喚が王都を包んだ。

 ある者は腕をもがれ、ある者は炎で顔を焼かれた。ある者は足が腐り、ある者は腸を取り出される。次々と行われる神罰は血生臭く、それだけ罪が重いのだと否応なく実感させた。


 王は苦しんだ。手足の末端が腐り、脳が溶け、だと言うのに死ぬことが許されなかった。

 腐り、溶けては燃やされ、治り、潰れ、腐り、溶け…………悲鳴すら叫べなくなる頃には形容しがたい肉塊となっていた。


「お前さえいなければぁぁぁ!」

「…………愚かな」


 ナイフが突き立てられる。あろうことか、御遣いであるアマエルに害を加えようとした者がいたのだ。

 その顔を見て、アマエルはただただ軽蔑するのみだった。


 ナイフはシルクのような布に阻まれ、アマエルを傷つけることは無い。しかし、御遣いに楯突いた愚か者は神罰に関係なく処罰される。

 リリーの母だった女は神聖な炎で身を焼かれた。悲鳴を上げ、徐々に炭化していく身体はボロボロに崩れ落ちる。


「――神罰は完了した」


 たった一時間で滅んだ王都の広場で、アマエルは再度杖を掲げる。神罰で死んだ人々の魂を回収し連れて行くためだ。

 だが、それは救いでは無い。

 アマエルの役目は罪を精算させること。その後は別の天使が引き継ぐことになっている。

 神罰で死んだ魂は、冥府に堕とされ隔離されるのだ。


 魂を集め終えたアマエルは翼を羽ばたかせ、神の国へ帰還する。王国は、災厄と神罰によって滅亡した。

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