6. これを愛と呼ぶならば。

 目を覚ましたディスタントは、ゆっくりと身体を起こした。ベッドの上ではない。床の上だ。服は面倒だったので昨日から着替えていない。部屋は散らかっていた。そもそもベッドの上までゴミやメモ用紙や機械類の類が寝食しているので寝れないというわけだ。

「ははっ……」

 ジェイクがいなければ、自分はこの程度なのだ。ジェイクが来るから部屋を片付けるし、ジェイクが見てくれるから見た目を最低限整える。ジェイクがいなければ──

「意味、か」

 二週間前のあの日から、ジェイクとディスタントは夕食を共に取っていない。誘ったところで、ジェイクはやんわりとそれを断る。昼食こそ共にすることは多いが、ディスタントにはそれが不満だった。

 ディスタントにとって、ジェイクには特別の二文字意外当てはまらない存在である。過小評価されていると思っているし、自身の助手で収まる人間でないとも思っている。そして、願うならば、いつの日か。

「プロポーズは……そうだな。夕食時がいい。夜勤明けの研究室というのも乙なものだが……」

 最近はこういった妄想を考えることが増えた。ディスタントはぶつぶつと呟きながら着替えを済ませる。時刻は夜中の二時。この時間に目が覚めてしまうのも、二週間前からだ。

「まったく……好きすぎだろ、ワタシ」

 だって、好きなのだ。どうしもないくらいに。

 こちらが距離を詰めれば紳士ぶってそっと距離を置くその所作が好きだ。更に距離を詰めれば照れて逸らすその表情が好きだ。初めて会ったその日から、彼のことしか考えられない。

 それだけがすべて、それがすべて。ディスタント・クリーディは恋をしていた。どうしようもないくらいの狂気と純粋さを孕んだ恋を。



「じぇいく これ なに?」

 日課であったメゾフォルテの調整を終え、作業室の軽い掃除を行っている最中、ふとメゾフォルテが声を上げた。彼女の手足は掃除に向いていないものの、尻尾を巻き付ければ大抵のものは持ち運べるし、そもそももうジェイクは床の傷を気にしない。もとより潔癖なわけでもないのだ。

 メゾフォルテが指し示したのは、大型のレールカノンだった。ジェイクの心を折る原因となったあの日の、いわば遺作。彼にとっては苦々しい挫折の象徴。

「あー……」

 ジェイクの顔がひきつる。

「これだけ きれい」

 作業室には機械が乱雑に並べられている。その中に大事そうに、しかし見たくないように飾ってあるものがあれば、そりゃあ目につくというものだろう。

「それは、ね。僕が作ったんだ」

「じぇいく?」

 メゾフォルテはまじまじと目の前のレールカノンを眺めた。

「でも失敗しちゃってね」

「じぇいく しっぱい するの?」

「えっ」

 メゾフォルテは本当に純粋に、一片の曇りもない瞳──正確にはカメラアイ──を向けていた。思わずジェイクは言葉に詰まってしまう。

「僕だって失敗くらいするよ。そればっかりだ」

「そうなの?」

「ああ、ディスタントと比べたらね」

「でぃすたんと?」

「僕の──僕の……」

 ディスタントは、僕のなんだ? 友人? 親友? 恋人? ライバル? 師匠? あこがれの対象? ディスタントは僕の〝なん〟で、僕はディスタントの〝なん〟だ?

 ふと、ジェイクは、彼女のことを考えるのが久しぶりであることに気が付いた。いや、考えないようにしていたのか。

「……僕の、大切な人だよ」

 恋にしては不純物が多すぎる。憧憬にしては近すぎる。この感情を精一杯形容するなら、きっと〝大切〟なのだろう。

「たいせつ たいせつ……」

 メゾフォルテはその言葉を反芻していた。

 たいせつ。ジェイクから出た大切。意味が分からないわけではない。それくらいは知っている。だが、だが──

「じぇいくの たいせつ」

 彼にとって、自分でない〝たいせつ〟があることに、なぜだか無性に不安になった



 夜、階層に吹き荒れる風は止まない。その空気の流れを肌で感じることはできないが、はためくレインコートによって、メゾフォルテはそれを感じていた。

「たいせつ って なに?」

 大切なものは、たいせつ。では、他の〝たいせつ〟があったとき、〝たいせつ〟はないがしろにされるのだろうか。メゾフォルテには分からない。他者の心の動きも、自身のそれともなればなおさらだ。

 夜明けまで残り5時間ほど。考えは巡り、止まりはしない。今日くらいは捜索をやめ、ジェイクと共に過ごすのも悪くはないのかもしれない。そんな彼女の思考は、無数のビープ音によってかき消された。

「──」

 それは、警告だった。ターゲットマーカーからの警告。すべての記憶痕跡が一致し、その最大の役目が果たされるときの果たされる瞬間の証だった。

 存在しない肌に、鳥肌が立つ。

 存在しない心臓が、早鐘を打つ。

 存在しない汗腺が、汗を吐き出す。

 ──そして、確固として存在するメゾフォルテの心は、黒き復讐の刃を携えた。

 稲妻となり、駆ける。標的の姿が近づくたびに、底冷えする確信は強まっていった。記憶はない。だが、その嫌悪感、恐怖、絶望は、心が憶えている。

 マーカーが指し示していたのは、燃えるような赤髪の女だった。ドレスを思わせる服は機械に長けているようには見えず、他者を改造する異常者には見えない。しかし、そうなのだ。確固たる事実として。

 路地の闇夜を身に纏い、メゾフォルテは音もたてずに地に降り立った。周囲に人の様子はない。そこそこ広い建物と建物の隙間にただ、標的がいるだけ。

 カメラアイがらんらんと輝いた。爪の輝きが、標的を捕えて──

「──!」

 飛び掛かったメゾフォルテの目の前に、向けられたのは燃え盛る刃だった。咄嗟に尻尾を壁に突き刺し、その勢いのままに輪を描き、躱す。勢い余ったその身体は壁にしたたか打ち付けられた。

「……おんヤぁ?」

 標的は、その場でゆっくりと振り返ると、気味の悪い形に口角を吊り上げさせた。

「久しぶりですネぇ、こんな街中で襲われヨうとはぁ」

 真っ赤な髪が、僅かな光を帯びる。と、同時に、燃え盛る短剣が奴を囲うように空中に出現した。

「久しぶりデあっても……マ、相手にとって不足なしってヤつですかぁ」

 言動がイラつく。行動がイラつく。なによりも──

「おおっと、随分と怖い見タ目ですこと」

 ──自分を憶えていないことに、ムカついた。



「さて、終わりですかね」

 自身のデスクで、ジェイクは大きく背を伸ばした。ディスタントがここまで申請を大量に積み上げるのは久しぶりで、故に少し手間取ってしまったのだ。

「お疲れ様、だな」

 ディスタントからマグカップを受け取り、一口。

「……なんです、これ……」

「コーヒーだが?」

「コーヒーってこんな味でしたっけ……」

「ああ、塩と砂糖を間違えたんだ。いやぁ、うっかりうっかり」

 どうりで塩辛いわけだ。

「んなテンプレな……よく飲めますね」

「成分は大して変わらんだろ」

「それはまあ、そうですけど」

 美味しくない。だがまあ、折角持ってきてくれたことだし……不味い。

「申請書読みましたけど、流石にあれだけの予算増額が厳しいと思いますよ」

「そこはキミがなんとかしてくれるだろ?」

「期待が重いなぁ……」

 意味のない雑談。再び無言。

「……なあ、夕食はまだだろ?」

「……ええ」

 間合いを図り合うような会話。互いに互いが言いたいことは分かっている。だからこそ、あと一歩が踏み出せない。

「ですが疲れてしまったので、今日は早めに寝ようと思います」

「そう、か」

 ディスタントのその言葉が、あまりにも弱々しくて、ジェイクの知っている彼女が発した言葉とはとても思えなくて。だからジェイクは急ぐように背を背けると、鞄を掴んでオフィスを後にしようとした。

 ディスタントはその背を追おうとして一歩踏み出し、それで止まった。それっきり、踏み出せない。手すら伸ばせず──

「──いや、そんなのは」

 それは、決意の言葉だった。弱い自分の否定だった。勇気の、証だった。

「そんなのは、ワタシらしくない」

 踏み出す。一歩を越して。

 ディスタントはジェイクの肩を掴み、乱暴に振り返らせ、そのまま──



 燃え盛る短剣が──いや、それは誇張も比喩もなしに、炎そのものだった。炎そのものが形を成し、短剣となって空を飛んでいる。

「めんどう」

 メゾフォルテは呟き、壁を走る。分子ほどの厚みしか持たない自身の爪は壁に喰い込ませるのに最適な厚さと鋭さを併せ持っている。

 メゾフォルテが跳び、向かいの建物の非常階段にその身を移したその刹那、壁に短剣が命中、そして小爆発を起こした。一瞬でも判断が遅ければ爆発に巻き込まれていただろう。

「よーぉく逃げますねェ!! 頑張れガンバレー!」

 赤髪の女がちょちょいと指を動かせば、空中に炎が出現する。それはみるみるうちに別れ、姿を変えて短剣となった。

「じゃ、次っ」

 射出された短剣は強い追尾性を持っているため、着弾するまで追跡は止まない。そのためメゾフォルテ側の対応としては、すべての短剣が着弾するまで壁や地面を駆けまわることしかできない。尻尾や爪で切り裂こうにも、切り裂いた瞬間に即爆発するようではやたらめったらそうするわけにもいかないのだ。

「思ったよぉリ粘りまぁすねネェ」

 女はその髪から僅かに光を漏らしながら、次々と短剣を作り出しては解き放つ。その手つきは余裕そのものであり、消耗している様子は見られない。そもそも、戦闘が開始されてから奴はその場から少しも移動していないのだ。

「いやぁ、ここまで生きてイて、しかも撤退しなイとは……珍しいモんです。あタしの首にそれほどの報酬でも?」

「わたしの すがたを おぼえていないなら──!!」

 理由など、わかるわけがない。

 メゾフォルテが、壁を足で蹴った。脚部装甲が僅かに花開き、白熱する光を吐き出す。

「おっ、なぁるほド?」

 パルス加速。進行方向に信号を放ち、そこをあたかも線路を進むトロッコが如く進むことで爆発的な推進力を生み出す技術。問題は、加速された物体や肉体が衝撃に耐えきれないことにあった。メゾフォルテの駆体が生み出された当時、パルス加速はまだ発展途上の技術。だが、彼女の身体に搭載されたそれは、完璧に主の希望を汲み取って見せた。


 すなわち、もっと速く、もっと強く。


 炎は吹き飛び、女があらゆる行動を起こすよりも早く、その爪は、その刃は、女の喉笛に届く──

「面白いケどぉ……それだけですねー」

 爪は、防がれていた。女の喉の一歩手前、真っ赤に燃え盛る紋章は、形あるものならすべて切り裂くはずの単分子ブレードを受け止めていたのだ。

「見知らぬ敵と戦うなラ、敵が扱う技術ノことを知らないとぉ」

 紋章を扱う、技術。ジェイクと以前した雑談が蘇る。この世界の常識について教えてもらったときのことだ。

「……へくす、てっく」

「おんや、専門知識に縁がありそうには見えまセんがぁ」

 紋章学(ヘクステック)。それは形と構造に意味を見出す技術。世界の理を曲げ、存在しない空間を作り出し──新興技術なのにも拘わらず、その影響力は既に多くの企業勢力に及んでいる。

 そして、それはメゾフォルテの動力部にも。

「わたしのっ きおくとからだっ! かえせ!!」

 爪が通じないと分かり、飛びのいたメゾフォルテはそう叫んだ。

「……記憶? ああ」

 女はまじまじとメゾフォルテを見つめると、ポン、と手を打つ。

「あなた、あタしの寄機細工(よせぎざいく)でしたカぁ!」

 寄機細工。その言葉で、もう、どんな想いをもって人をいじくりまわしたのかは分かった。もう、もう──

「ころ……して やる ころしてやるっ!!」

 カメラアイが荒ぶり、チカチカと点滅した。が、女はそれを小馬鹿にしたように鼻を鳴らす。

「あはは、もう死んでマすけどね、あなタ」

 〝二重の意味で〟

そう女が口にするや否や、メゾフォルテの周囲を取り囲むように炎短剣が出現した。逃げ道などありはしない、圧倒的な包囲網。

「──」

「はい、おしマい」

 ぱちんと、指が鳴った。



「……博士?」

 抱き着かれた。思い切り、腕を背中に回して。それを認識すると、ジェイクは困惑の声を上げた。

「ディスタント、と」

「えっ?」

「ディスタントと呼んでくれ。あの頃のように。友人のように」

 ジェイクの胸にうずめていた顔を上げ、ディスタントはジェイクを見つめた。その爬虫類を思わせる瞳をきちんと最後に見たのは、いつのことだろう。

「キミは、はじめてワタシの行動に意味を見出さなかった男だ。それが、ワタシにとってどれだけ救いだったことか」


 幼い頃から、ディスタントの行動は周りの大人から期待されていた。少し機会をいじれば新たな発見であるとはやしたてられ、食事の時間を変えればなんらかの意味を見出され、意味のない事柄などないかのように。

「キミは言ったんだ。ワタシのことを〝気分屋〟だと。そんなことを言えるのは、キミだけだった」

 たとえ気まぐれでも、自身の気まぐれを肯定してくれたその言葉は、ディスタントにとって救い意外の何者でもなかった。

「だから……ワタシは……その」

 言葉にすることは難しい。難しいし、気恥ずかしい。

「ワタシは、キミがいなければダメだ」

 だが、そんな気恥ずかしさ、どうでもいいんだ。ただ、キミがいれば。

「キミがいれば、あとはなんだっていい。だから──」

 だから。

「……今日の夕食は、一緒に過ごさないか」

 〝それだけでいい〟と、ディスタントは口にした。

「ワタシの隣に、キミがいて欲しいんだ」

 ジェイクは、答えなかった。答えられなかった。答えなんて、出せるはずがない。想いと思いは歪に積み重なり、もはや一朝一夕では崩せないほどに積みあがったそれらは絶妙なバランスでゆらゆらと揺れている。風が一つ吹けば、跡形もなく崩れ去るほどに。

「頼む」

 もう一度だけ、ディスタントは繰り返した。

 ジェイクは、不器用だ。だが、鈍感ではない。ディスタントが言いたいことなんてもう、とっくのとうに分かっている。だが、だからこそ……

 〝相応しくない〟だの、〝もっと良い人が〟だのといった綺麗な理由ではなく、自身のコンプレックスと、プライドと、過去のすべてが邪魔をする。同じ道を同じ歩幅で歩いていたはずの彼女がみるみるうちに遠ざかっていく。そんな幼少期の記憶がリフレインした。

 もう一度起こる。たとえここで頷いたとしても、将来的には確実に。

「そう、ですね」

 だから、何事もなかったかのようにジェイクは口を開いた。

「確かに、最近は夕食をご一緒していませんでした。食堂でも構いませんか?」

「あ、ああ……」

 ディスタントが妬ましい。その才能が、その無頓着さが、他者を寄せ付けぬ孤高さと、こちらの気持に気づかない傲慢さが。

「じゃあ行きましょうか。この時間帯なら流石に席は空いてるでしょうし」

「そうだな……うん、いや、そうだ」

 ディスタントはパッと笑顔を浮かべた。

 ああ、と。ジェイクは心の中でため息をついた。。失望でも、絶望でも、怒りでもなく、愛おしさと信頼がそこにはある。感情とは、情動とは、一つの要素だけで決まるものではないのだから。

「じゃあ行きましょうか。これで僕の料理より美味しかったら笑えますね」

「まさか、キミが自らの手で、というだけで億の加点は下らない」

「はいはい」

 妬ましい。だが、大切だ。それが、ジェイクが出した結論だった。

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