3. /離れず

 階層によって構築されたこの世界において、雨とは上層から降り注ぐ正体不明の液体でしかない。なにが含まれているのかは不明だし、分かったところで次の雨も同じである保証がない。故に、とりあえずの感覚で人は傘やレインコートを身に纏う。企業勢力の庇護下にある者であれば、エアシールドの類を用いる者もいるだろう。

 だが、ジェイクはその雨を全身に浴びて街を歩いていた。両足を引きずるように歩む彼を見かけた人々が僅かに眉を顰め、やがて通り過ぎていく。

 対等、真っ当、友人。ディスタントが発した台詞がぐるぐると思考を周り、やがて黒く腐って消えていく。溶けもせず、解けもせず、ただ跡形もなく消えていく。

「……対等?」

 口にしてみれば、その言葉は随分と綺麗に聞こえた。装飾過多で、周囲の光を反射し輝きを放つ。

「ははっ……は……」

 ジェイクは、ディスタントを対等な友人だと思ったことなどない。気の置けない仲ではある。友人であると言っても決して嘘ではないのだと思う。だが、その間にはいつも劣等感だけがあった。

 努力などではない。才能というのもおこがましい。もっとなにか、決定的な違いがあるのだ。対等など、夢のまた夢の更に夢。ましてや、男女の関係などと……

「……ぅ」

 ずっと昔に、諦めたはずだったのだ。何度も繰り返された挫折が遂にその心を封じ込めたのだと、そう信じていたのに──

「お˝ぇ──」

 夕食を済ませたばかりだというのに、吐瀉物は出てこなかった。


 静謐な街並みにいつしかノイズが混ざり始めたころ、ジェイクはふと足を止めた。保護圏ギリギリの地域、法などない保護圏外との境目。いつの間にやらこんなところまでやって来たのか。

 雨はいつの間にか止んでいた。精密性を欠いた材質の地面が、所々に水たまりを作っている。保護圏の中心部ではまず見ない光景だ。

「あぁ……クソ」

 明日から、ディスタントとどう接すればいいのだろうか。我に返ったジェイクを支配する思考はその一つだけだった。これまで、あそこまではっきりとディスタントから好意を示されたことなどなかった。五年前の自分であれば天へも昇る心地だったに違いない。だが、今となってしまえば虚しさが勝つ。

 ジェイクは、ディスタント・クリーディのことを想っている。

 ディスタントは、ジェイク・リブレインのことを想っている。

 どちらも事実、しかし、それらは噛み合わない。合間に嵌るピースなど存在はしない。


 あてどもなく歩いていたジェイクの目に、ふと暗い路地の入口が写った。自暴自棄な意識のまま、そこに踏み込むと、生臭い臭いが鼻を突く。

「……うっ」

 右の壁沿いにべったりとついた血、血、血、それを辿れば、床に打ち捨てられた男の死体があった。首から上が欠損しているため分かりにくいが、身に着けている装備はアルハナイのもの。他勢力の保護圏に他勢力が入り込むことは珍しくない。その報復を受けることも同様だ。だが、これはあまりにも──

「──!」

 カチャン、と。路地の奥に広がる闇から音が響いた。思わず後ずさるが、音は続く。金属製のなにかが壁を擦る音だ。それがどんどんと近づいてくるのだ。今すぐ逃げ出してもよかった。それが最善であることをジェイクの本能が告げていた。だが、本能とは別のなにかが──興味と自棄がそれを埋め隠した。

 目を凝らせど、闇の中に何者かの姿を捉えることはできない。ジェイクの目がようやくその暗さに慣れ始めたころ、〝それ〟は唐突に、漆黒の中から姿を現した。

 赤い光、最初一つだったそれは二つに増え、三つに増えた。それらは六つまで数を増やすと、ゆっくりとその輝きを瞬かせる。

 次に見えたのは、長い爪だった。金属の光沢を放つそれは血に濡れており、凶行に及んだすぐ後であることが見て取れる。

 三番目に見て取れたのは尻尾だった。中途から三本に分かれたそれは、それぞれの先端に爪よりもはるかに鋭利で、凶悪な刃を持っていた。

 露になったその姿を一言で形容するなら、化け物。顔には口も鼻もなく、代わりに法則なく配置された六つのカメラアイが赤い光をちかちかと点滅させている。手足には長い刃、尻尾は時節勢いよく振られ、それが路地の壁や床をひっかいて音を立てている。

 化け物だ。機械の、化け物。殺すために作られた、殺戮機械。目の前の〝これ〟はそういうものなのだと、ジェイクは理解した。

「……う、あ」

 化け物は、言葉にならない言葉を何処にあるのかも分からない発声器官から発した。よくよく見れば、化け物の足取りは実に頼りない。左足を引きずり、右足は左足の踏み出しを求めて貪欲にも、無理やりにでも前へと踏み出す。おおよそ通常と言えるほどではない。

「てき おまえ てき?」

 カメラアイの光がジェイクの全身を舐めまわす。爪を持つ手がゆっくりと持ち上がり、しかしそれはジェイクに届くことなく、力なく降ろされる。

「てき てき あれ…… てき?」

 化け物は、少女の声で何度もそう繰り返した。

「……キミ、もしかして〝締め出し〟なしでアルハナイとやったのか」

 ジェイクはどうしてその言葉を発したのだろう。声がかわいらしかったからか、それともその所作を憐れんだのか。発された言葉は路地の中に反響し、しかして化け物はそれには答えない。代わりにその身体はゆっくりと倒れ──



 花畑、花畑だ。一面に薄桃色の花が咲いている。そこを少女が駆け抜けていく。心地の良い風は丘陵全体を撫でつけ、更には頬も撫でていく。駆け寄ったその先には優しい笑みを浮かべる両親がいるはずで。

「……え」

 少女は思わずぽつりと声を漏らした。両親の顔が無い。笑みが浮かべられるはずの口も、鼻も。代わりにそこには目だけが六つ、ばらばらに並んでいた。

 そこでようやく、これはただの記憶なのだと気づいた。



「……あ、う……」

 地に伏す化け物がうめくと、ようやくジェイクはため息をついた。苦節4時間ほど、要約目を覚ましたらしい。そこで気づく、〝このまま傍にいたらマズいのでは?〟と。

「え、ええと……大丈夫? 僕は──」

 視界が回った。ぐるりと。地面に組み伏せられているのだとジェイクが気づいたのは、少し経った後のことだ。

「……だれ」

 ジェイクを組み伏せ、化け物はそう言った。鋭い爪が喉笛に向けられ、尻尾は警戒するかのように彼の右足と左足を交互に撫でつけている。

「じ、ジェイクだ。ジェイク・リブレイン」

 勢い余ってそう答えると、化け物は六つのカメラアイをくるりと回転させた。

「なに したの わたしに」

「じょっ、除去だよ、呪いの」

「のろい……?」

「キミ、〝締め出し〟なしでアルハナイと戦っただろ」

 アルハナイが、呪術が得意とするのは縁を結ぶこと。それは身体を機械で構築しようと変わらない。いや、かえって悪いと言える。

 縁は、機械には一種のウイルスとして残る。生身だろうと一度結ばれた縁が簡単には断ち切れないように、整えられた理論を持って形作られた機械には、その縁を通じて流し込まれる呪いがストレートに届いてしまうのだ。

「のろい のろい……」

 化け物はそう繰り返す。

「基礎的な呪いは除去した。だけど、深いところにあるのを取り除くには、こんな路地裏じゃあ無理だ」

 言葉が通じているのかは分からない。ジェイクの言葉は一種の賭けだった。自分の安全を確保するための賭けだ。化け物の爪は鋭い。あれを使われればジェイクの脆い身体なぞひとたまりもないだろう。

「感覚器官が鈍っているだろ。その鈍りはこのままだと加速するぞ。奴らはプロだ。じきに手足の神経が信号を伝達しなくなる」

 ダメ押しに、ジェイクは言葉を紡ぐ。化け物は真っ赤なカメラアイを二、三度瞬かせた。

「どこなら できる?」

「……僕の自室からもろもろの装置を持って来れば」

「そこまで いく つれてって」

 ジェイクはゆっくりと息を吸った。こうなるんじゃないかという予想が的中したことによる、不安とためらいの呼吸だ。

「……わかった。それじゃあ──」

 改めて、ジェイクは化け物の全身を眺める。どう考えても機械のモンスターといった風貌。身体改造者が少ない保護圏中心部では人目を引くだろう。

「これを着てくれ、そのままだと保護圏の中心部では目立つから」

 灰色の圧縮レインコートを伸張させ手渡すと、化け物はそれを不思議そうに見つめ、やりずらそうに袖を通した。

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