調律師:音羽瑠璃さん

◆初心者の旋律 ~1年目の奮闘~


 春の柔らかな日差しが、工房の窓から差し込んでいる。私、音羽瑠璃は、深呼吸をして緊張をほぐそうとした。就職して1年。まだまだ未熟な調律師(*1)だが、今日も一日がんばろう。


「音羽さん、おはよう。今日はグランドピアノの調律よ」


 先輩の西村さんが、にこやかに声をかけてくれた。


「はい、西村さん。よろしくお願いします」


 私は髪をまとめ直し、作業着に着替える。化粧は控えめにしているが、それでも少しはお洒落心を忘れずにいたい。


 ピアノの前に座り、まずは全体の音を確認する。ラの音を基準に、オクターブごとに音程を合わせていく。ハンマー(*2)を使って弦を調整し、音叉(*3)で確認しながら慎重に作業を進める。


「音羽さん、そこの音、もう少し上げてみて」


 西村さんのアドバイスに従い、再度調整する。少しずつだが、確実に音が整っていくのを感じる。


「ありがとうございます。でも、まだ微妙に合っていない気がして……」


「そう感じるのはいいことよ。その感覚を大切にしなさい」


 西村さんの言葉に励まされ、さらに集中して作業を続ける。


 昼食時、他の職人たちと談笑しながら、ふと考える。男性が多いこの業界で、私はやっていけるのだろうか。不安がよぎるが、すぐに振り払う。好きな仕事なのだから、きっと道は開けるはず。


 午後は、ヴァイオリンの弓の毛替え(*4)を任された。細かい作業に神経を集中させる。一本一本丁寧に毛を通し、張力を調整していく。


「音羽さん、その持ち方だと疲れるわよ。こうするともっと楽になるわ」


 ベテランの田中さんが、優しく指導してくれる。女性ならではの繊細さを活かせる仕事もあるのだと、少し自信がついた。


 夕方、最後の仕上げをしていると、突然の来客。若い男性が楽器を抱えて飛び込んできた。


「すみません! コンサートまであと2時間なんですが、フルートの調子が……」


「私が担当します」


 思わず口走っていた。先輩たちの目が気になったが、ここで引くわけにはいかない。


「大丈夫ですよ。まずは状態を確認させてください」


 緊張しながらも、これまでの経験を総動員して作業に取り掛かる。パッド(*5)の状態、連結部分のがたつき、すべてをチェックしていく。


「よし、これで大丈夫です」


「本当ですか? ありがとうございます!」


 男性の安堵の表情を見て、やりがいを感じる。まだまだ未熟だけど、少しずつ成長している気がした。


 家に帰る途中、ふと空を見上げる。星々が輝いている。いつか私も、楽器たちの魂を輝かせられる調律師になれるだろうか。そんな夢を抱きながら、明日への活力を胸に秘めた。



◆経験を重ねて ~5年目の試練~


 早朝、目覚ましより少し早く目が覚めた。カレンダーを見ると、今日は入社して丸5年の記念日だ。少し感慨深い気持ちで身支度を整える。


「よし、今日も頑張ろう」


 鏡に映る自分に微笑みかけ、いつもより少し濃いめの口紅を塗った。


 工房に到着すると、同期の佐藤くんが声をかけてきた。


「音羽さん、おはよう。今日、大きな仕事が入ってるって聞いた?」


「えっ、そう? 私はまだ聞いてないけど」


 少し不安になりながら、上司の村田さんを探す。


「音羽君、ちょうどよかった。今日、都内の有名なコンサートホールのパイプオルガン(*6)の調律を頼まれている。君に任せたいんだが、どうだろう?」


 心臓が大きく跳ねる。パイプオルガンの調律は、まだ数回しか経験がない。しかも、有名なホールとなれば、プレッシャーは相当なものだ。


「はい、頑張ります!」


 声の震えを抑えきれなかったが、村田さんは優しく微笑んでくれた。


「大丈夫、君ならできる。ただし、慎重にね」


 コンサートホールに到着すると、その巨大なパイプオルガンに圧倒される。何千本もの管が林立し、まるで小さな街のようだ。深呼吸をして、作業に取り掛かる。


 まずは全体の音色を確認する。一つ一つの管を丁寧に点検し、音程を調整していく。途中、ホールのスタッフが見学に来たが、動じることなく作業を続ける。


「さすが、腕のいい調律師さんね」


 その言葉に少し自信がついた。


 しかし、昼過ぎになって異変が起きた。調整したはずの音が、また狂ってしまっているのだ。焦りが出てきた。


「どうして……?」


 何度やり直しても、音が定まらない。汗が滝のように流れる。


「音羽さん、大丈夫?」


 同行していた先輩の声に、ハッとする。


「すみません、ちょっと調子が……」


「落ち着いて。ゆっくり確認してみよう」


 先輩と一緒に原因を探っていくと、ある一点に気づいた。温度変化による影響を見落としていたのだ。


「そうか、ここが問題だったんだ……」


 急いで対策を施し、再度調整を行う。時間はかかったが、なんとか予定時刻までに作業を完了させることができた。


「お疲れ様。最後はよくがんばったね」


先輩の言葉に、ほっと安堵する。しかし、自分の未熟さを痛感した一日でもあった。


家に帰る途中、街の喫茶店に立ち寄る。珈琲を飲みながら、今日の出来事を振り返る。


 「まだまだ勉強不足だな……」


 そう思いつつも、この経験を糧にできると前向きになれた。窓の外を眺めると、夕暮れの街並みが美しい。明日からまた、新たな気持ちで頑張ろう。そう決意を新たにした5年目の夜だった。



◆熟練の響き ~10年目の誇り~


 朝もやの中、工房に向かう。入社して10年。今では後輩の指導も任されるようになった。


「音羽先輩、おはようございます!」


 新人の山田さんが元気よく挨拶してくる。彼女の姿を見ていると、10年前の自分を思い出す。


「おはよう、山田さん。今日はチェロの調整をお願いね」


「はい! 頑張ります」


 彼女の返事に、微笑ましさを感じる。


 今日の私の仕事は、とある有名な指揮者が愛用するバトン(*7)の調整だ。一見単純そうだが、実は繊細な作業が要求される。


「音羽さん、このバトンを頼むよ。重さと重心が絶妙なんだ」


 指揮者の要望を聞きながら、慎重に作業を進める。バトンの素材、長さ、重さ、すべてが音楽に影響を与える。10年の経験を総動員して、最適な状態に調整していく。


「さすがだね、音羽さん。これなら安心して振れるよ」


 指揮者の満足そうな表情に、職人冥利に尽きる思いがした。


 昼食時、若手の職人たちが集まってきた。


「音羽さん、どうやったらあんなに細かい作業ができるんですか?」


「そうねぇ……」


 考えながら答える。


「経験も大切だけど、何より楽器への愛情かしら。楽器の声に耳を傾けること。それが一番大切よ」


 若手たちが真剣に聞いている。10年前の自分なら想像もできなかった光景だ。


 午後は、珍しい古楽器(*8)の修復作業。資料を調べながら、慎重に進める。途中、困難な箇所にぶつかったが、諦めずに試行錯誤を重ねる。


「音羽さん、ちょっといいかな」


 上司の村田さんが声をかけてきた。


「実は、来月から海外の楽器メーカーとの技術交流プログラムがあってね。君に参加してもらいたいんだ」


 驚きと喜びが込み上げてくる。


「私……ですか?」


「ああ、君ならきっと素晴らしい成果を上げてくれると信じているよ」


 感謝の気持ちを伝え、新たな挑戦への意欲が湧いてくる。


 帰り際、ふと工房の窓から外を見る。10年前と同じ景色なのに、見え方が全然違う。成長したのは技術だけでなく、心も一緒だったのだと実感する。


 家に帰ると、夫が温かい夕食を用意してくれていた。


「お帰り、瑠璃。今日はどんな一日だった?」


「素晴らしい日よ。あなたに感謝しなくちゃ」


 支えてくれる家族がいるからこそ、仕事に打ち込める。そんな幸せを噛みしめながら、明日への期待に胸を膨らませた。



注釈:

(*1) 調律師:楽器の音程を正確に調整する専門家。

(*2) ハンマー:ピアノの調律に使用する専用の工具。

(*3) 音叉:基準となる音を出す金属製の器具。

(*4) 弓の毛替え:ヴァイオリンの弓の馬毛を新しいものに交換する作業。

(*5) パッド:管楽器の気密性を保つためのクッション材。

(*6) パイプオルガン:教会や音楽ホールなどで使用される大型の鍵盤楽器。

(*7) バトン:指揮者が使用する細長い棒。

(*8) 古楽器:中世やルネサンス、バロック時代に使用された楽器。



◆響き合う匠の心 ~楽器修理職人・葛城茜との対談~


 秋深まる10月のある日、私は都内の某音楽ホールのバックステージにいた。今日は特別な日だ。楽器修理の世界で名高い葛城茜さんとの対談が控えている。


「音羽さん、準備はよろしいですか?」


 スタッフの声に我に返る。


「はい、大丈夫です」


 緊張で声が少し裏返ってしまった。深呼吸をして、心を落ち着かせる。


 ステージに足を踏み入れると、そこにはすでに葛城さんの姿があった。凛とした佇まいに、思わず息を呑む。


「はじめまして、音羽瑠璃です。本日はよろしくお願いいたします」


「葛城茜です。こちらこそよろしく」


 温かな笑顔で握手を交わす。緊張が少しほぐれた気がした。


 司会者の合図で、対談が始まる。


「本日は、楽器の世界で活躍するお二人にお越しいただきました。まずは、それぞれのお仕事について教えていただけますか?」


 私が口を開く。


「はい。私は主に鍵盤楽器や弦楽器の調律を担当しています。楽器の魂である『音』を最適な状態に整えるのが私の仕事です」


 葛城さんが続ける。


「私は楽器の修理全般を手がけています。特に管楽器や打楽器の修復を得意としていますね。楽器の『体』を健康に保つのが私の役目です」


 司会者が微笑む。


「まさに、楽器のドクターですね。お二人とも女性として、この業界で活躍されていますが、苦労されたことはありますか?」


 葛城さんが少し考え込む。


「そうですね。私が駆け出しの頃は、まだまだ男性社会でした。力仕事も多いですし、『女性に務まるのか』と疑問の目を向けられることもありました」


「私も似たような経験があります」と相づちを打つ。


「でも、そんな中で見出したのが、女性ならではの強みでした」


「ああ、わかります」


 葛城さんの目が輝く。


「繊細な作業や、楽器の微妙な変化に気づく感性。それに、演奏者の方々、特に女性の方々との コミュニケーションのしやすさもありますよね」


「本当にその通りです」


 私も熱が入る。


「私たちにしか見えない、感じられないものがあるんです」


 司会者が話を展開させる。


 「お二人とも素晴らしい視点ですね。では、具体的な仕事の内容について伺いたいのですが」


 葛城さんが口を開く。


「私の場合、例えばフルートの修理では、パッド(*1)の交換や連結部分の調整が主な作業になります。特に難しいのは、古い楽器の修復ですね。時代背景や製作技法を理解しないと、楽器の魂を失わせてしまう危険があります」


「なるほど」


 私も興味深く聞き入る。


「調律の世界でも、楽器の歴史や構造を知ることは欠かせません。特にピアノは、300年以上の歴史がありますからね」


「ピアノの調律って、具体的にはどんな作業なんですか?」


 葛城さんが尋ねる。


「大きく分けて、ピッチ(*2)の調整と整音(*3)があります。ピッチは各弦の張力を調整して音程を合わせる作業。整音は、ハンマー(*4)の状態を最適化して音色を整える作業です」


「へぇ、奥が深いんですね」


 葛城さんの目が輝く。


「私も音の調整はしますが、ここまで繊細な作業はありません」


「葛城さんの仕事も、決して簡単ではないと思います」と私。


「例えば、金管楽器の修理なんて、私には想像もつきません」


 葛城さんが笑う。


「確かに大変です。でも、その分やりがいもありますよ。錆びついたトロンボーンが蘇る瞬間なんて、まるで魔法みたいです」


 「わかります!」


 思わず声が大きくなる。


「調律が終わって、ピアニストが弾き始めた時の表情を見るのが、私の一番の幸せなんです」


 司会者が話に割って入る。


「お二人とも、本当に仕事への愛情が伝わってきますね。ところで、これからの目標について教えていただけますか?」


 葛城さんが少し考え込む。


「私は、失われつつある伝統楽器の修復技術を継承していきたいですね。日本の和楽器はもちろん、世界中の珍しい民族楽器にも挑戦していきたいと思っています」


「素晴らしい目標ですね」と相づちを打つ。


「私は、AIやデジタル技術と調律の融合に興味があります。伝統的な技術を守りつつ、新しい可能性も探っていきたいんです」


「面白い!」


 葛城さんの目が輝く。


「そういえば、最近の電子楽器の進化には目を見張るものがありますよね。でも、アコースティック楽器の温かみは絶対に失われてほしくない」


「同感です」と私も熱く語る。


「テクノロジーは便利ですが、人間の感性や経験が生み出す音色は、決して機械には真似できないと信じています」


 司会者が締めくくりの言葉を述べる。


「お二人の対談を聞いていると、楽器への愛情と職人としての誇りが伝わってきます。これからも日本の音楽文化を支えていってください」


 葛城さんと顔を見合わせ、笑顔で頷く。この対談を通じて、自分の仕事の意義を改めて実感した。そして、同じ志を持つ仲間がいることの心強さも感じた。


 対談が終わり、楽屋に戻る途中、葛城さんが声をかけてきた。


「音羽さん、今度一緒に飲みに行きませんか? もっといろいろな話を聞きたいです」


「ぜひお願いします!」


 思わず声が弾んでしまう。


「私も葛城さんの仕事について、もっと詳しく知りたいです」


 二人で笑い合う。この出会いが、新たな刺激となり、私たちの仕事をさらに豊かなものにしていくことを確信した。


 帰り道、秋の夕暮れが街を赤く染めていく。今日の対談を思い返しながら、明日への意欲が湧いてくるのを感じた。楽器たちの声に耳を傾け、その魂を輝かせる。それが私たち職人の使命なのだ。


注釈:

(*1) パッド:管楽器の気密性を保つためのクッション材。

(*2) ピッチ:音の高さ。

(*3) 整音:ピアノの音色を整える作業。

(*4) ハンマー:ピアノの弦を叩いて音を出す部品。

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