落語家:花緑寿さん

◆修行時代 - 苦難の日々


 薄暗い長屋の一室で、私は目を覚ました。布団の上で体を起こすと、窓から差し込む朝日が目に染みる。時計を見ると、まだ五時だ。しかし、これが私、花緑寿(はなみどり ことぶき)の日課なのだ。


 急いで着物に着替え、髪を整える。鏡に映る自分の顔は、まだあどけなさが残る。二十歳になったばかりの私は、この世界に飛び込んでまだ半年。師匠の家に住み込みで、朝から晩まで修行の日々を送っている。


「花緑! 朝の掃除は終わったか?」


 師匠の声が響く。慌てて返事をする。


「はい、只今参ります!」


 長屋を出て、庭に向かう。箒(*1)を手に取り、落ち葉を掃き始める。朝露に濡れた葉が、サクサクと音を立てる。


「おはよう、花緑さん」


 隣の長屋から、同じく弟子の小紫(こむらさき)が顔を出す。彼女は私より二つ年上で、既に三年目の修行生だ。


「おはようございます、小紫さん」


「今日も早いわねぇ。でも、その調子よ。師匠の機嫌を損ねないためにも、しっかり掃除しときなさい」


「はい、ありがとうございます」


 小紫さんの優しい言葉に、少し心が和む。しかし、その瞬間──


「何をぐずぐずしている! 早く稽古場の準備をしろ!」


 師匠の怒声が響き、私は慌てて箒を置き、稽古場へと走った。


 稽古場では、座布団(*2)を並べ、湯飲み(*3)を用意する。すべてが決まった位置に、決まった向きで置かれなければならない。少しでもずれていれば、師匠の叱責が飛んでくる。


「花緑、高座(*4)の準備はどうだ?」


「はい、只今仕上げております」


 高座に上がり、扇子と手拭いを丁寧に置く。これらは落語家の命とも言える道具だ。扇子は本を表し、手拭いは様々な小道具に変化する。


 準備が整うと、いよいよ朝稽古の始まりだ。師匠の前に正座し、昨日覚えた噺(*5)を披露する。


「では、『寿限無』(*6)を始めます」


 緊張で声が震える。噺が進むにつれ、師匠の眉間にしわが寄る。


「駄目だ! そんな調子では客を笑わせられん! もっと間(*7)を意識しろ!」


 厳しい言葉が飛んでくる。目に涙が浮かぶが、必死に堪える。


「はい、申し訳ございません。もう一度」


 何度も繰り返す。喉が痛くなり、声が枯れそうになっても、止めるわけにはいかない。


 昼食を挟んで、午後も稽古は続く。夕方になると、今度は師匠の身の回りの世話だ。夕飯の支度、風呂の準備、部屋の掃除……。すべてが私の仕事だ。


 夜になっても、自分の時間はない。師匠の酒の相手をしながら、新しい噺を覚える。


「お前はまだまだだ。女だからって甘えるな。この世界で生きていくなら、男以上の努力が必要だぞ」


 師匠の言葉に、私は必死に頷く。確かに、落語界は男性社会だ。女性落語家はまだまだ珍しく、偏見の目で見られることも多い。


 深夜、やっと布団に入る頃には、体中が痛んでいた。しかし、心の中では小さな炎が燃えている。


(いつか、私も高座で大きな笑いを取れる日が来るはず……)


 そう信じて、私は眠りについた。明日もまた、厳しい修行が待っている。



◆プロ1年目 - 試練の日々


「花緑! 今日の高座、しっかりやれよ」


 師匠の声に、私は深く頭を下げた。


「はい、精一杯努めさせていただきます」


 あれから一年。私、花緑寿は晴れてプロの落語家となった。しかし、それは新たな試練の始まりに過ぎなかった。


 化粧室で鏡を見つめる。二十一歳の顔には、まだ不安が染み付いている。ファンデーションを塗り、口紅を引く。男性社会の中で、私は常に「女性らしさ」と「落語家としての威厳」のバランスを取らねばならない。


「花緑さん、もうすぐ出番よ」


 楽屋を覗き込んだのは、出囃子(*8)の小梅さんだ。


「はい、ありがとうございます」


 小梅さんは私より十歳年上で、この世界の先輩だ。彼女の優しい眼差しに、少し勇気をもらう。


 高座に上がる直前、深呼吸をする。


(大丈夫、私にはできる)


 幕が開く。目の前には、期待と好奇心に満ちた観客の顔がある。


「……」


 一瞬、言葉が出ない。まずい。落ち着け。落ち着け。

 わたしならできる……!

 なんとか我に返る。


「えー、本日は御来場いただき、誠にありがとうございます。二つ目(*9)の花緑寿でございます」


 噺が始まる。『子ほめ』(*10)という古典落語だ。途中、何度か言葉に詰まる。冷や汗が背中を伝う。


(ダメだ、集中しなきゃ)


 必死に噺を進める。

 最後のオチで、なんとかかすかな笑い声が聞こえた。ほっとして高座を降りる。


「まだまだだな」


 楽屋で待っていた師匠の言葉に、胸が痛む。


「申し訳ございません。次はもっと……」


「言い訳はいい。明日からもっと稽古だ」


 厳しい言葉の裏に、師匠の期待を感じる。それが、また私を奮い立たせる。


 その夜、自宅のアパートで布団に潜り込んだ。狭い六畳一間だが、ここが私の城だ。枕元には、今日もらったばかりのお客様からの手紙がある。


(がんばって。応援してます)


 その言葉に、目頭が熱くなる。


(明日こそは、もっと笑いを取ってみせる)


 そう誓って、私は眠りについた。



◆プロ5年目 - 成長の兆し


「花緑さん、今日の高座、素晴らしかったわよ」


 楽屋に戻ると、化粧を落としながら小梅さんが声をかけてくれた。


「ありがとうございます。でも、まだまだです」


 謙遜しつつも、内心では小さな喜びを感じていた。二十六歳になった私は、少しずつだが確実に成長を感じている。


 鏡を見る。化粧を落とした素顔には、以前よりも自信が宿っている。それでも、まだ満足はしていない。


 「花緑」


 振り返ると、そこには師匠の姿があった。


「はい、師匠」


「今日の『井戸の茶碗』(*11)、良かったぞ」


 思いがけない言葉に、私は目を丸くした。師匠が私を褒めるのは、これが初めてだった。


「ありがとうございます!」


 思わず声が裏返る。師匠は珍しく微笑んだ。


「ただし、まだ完璧とは言えん。オチの前の間(*7)をもう少し取れば、もっと笑いが取れたはずだ」


「はい、肝に銘じます」


 師匠の言葉に、私は深く頭を下げた。厳しさの中にある愛情を、今の私は感じ取ることができる。


 その夜、私は仲間たちと小さな祝杯を挙げていた。


「花緑ちゃん、今日は本当におめでとう!」


 同期の朱雀(すざく)が、グラスを掲げる。彼は珍しく男性の仲間だ。


「ありがとう、朱雀くん。でも、まだまだこれからよ」


「そうそう、油断は禁物だからね」


 先輩の紫苑(しおん)さんが諭すように言う。彼女は私の良き相談相手だ。


「ねえ、花緑ちゃん。最近、彼氏の噂聞かないけど……」


 朱雀の言葉に、私は苦笑いを浮かべる。


「そんな暇ないわよ。それに……」


 言葉を濁す。実は、ほんの少し気になる人はいる。でも、今は落語に集中したい。


「まあまあ、そういう話はやめておきましょ」


 紫苑さんが話題を変えてくれた。

 彼女はすでに結婚している。仕事と家庭の両立は大変だと聞く。


(私にも、いつかそんな日が来るのかしら)


 ふと、将来のことを考える。しかし、すぐに首を振った。


(今は、目の前のことに集中しなきゃ)


 翌日。私は早朝から稽古場にいた。昨日の高座を思い出しながら、新たな課題に取り組む。


「もっと間を取る……そうだ、ここで一呼吸置いて……」


 独り言を呟きながら、何度も同じ箇所を繰り返す。汗が滲むが、やめる気はない。


(もっと、もっと上手くなりたい)


 その思いが、私を突き動かしていた。



◆プロ10年目 - 真打襲名


「只今より、花緑寿改め、春風亭花緑(しゅんぷうてい はなみどり)真打昇進披露興行を始めさせていただきます」


 支配人の声が、会場に響き渡る。私は袖で深呼吸を繰り返していた。


 (ついに、この日が来たのね)


 三十一歳。プロになって十年、ようやく真打(*12)を襲名する日を迎えた。緊張と興奮が入り混じる。


「花緑さん、もうすぐよ」


 小梅さんが、優しく背中を押してくれる。彼女の目には、涙が光っていた。


「ありがとう、小梅さん。ここまで来られたのも、皆さんのおかげです」


 高座に上がる直前、鏡で自分の姿を確認する。凛とした表情の中に、少女の頃の面影を見つける。


(私、とうとうここまで来たのね)


 幕が開く。満員の客席。そこには、十年間支えてくれた常連のお客様の顔もあった。


「えー、本日は御来場いただき、誠にありがとうございます。この度、春風亭を名乗らせていただきました、花緑でございます」


 声に力強さがある。もう、あの頃のような震えはない。


「本日の演目は『死神』(*13)でございます」


 噺が始まる。客席からは、時折笑い声が起こる。その反応を感じながら、私は物語を紡いでいく。


「なあに、わしが死神だよ。お前を取りに来たのさ」


 オチに向かって、会場の空気が変わる。そして──


「はっはっはっ!」


 大きな笑い声が沸き起こった。高座を降りる時、私の胸は誇りで満ちていた。


 楽屋に戻ると、そこには師匠が待っていた。


「よくやった、花緑」


 短い言葉だったが、その中に込められた思いを私は感じ取れた。


「ありがとうございます、師匠」


 深々と頭を下げる。師匠の目尻に、涙が光っている。

 気がつくと、楽屋には多くの人が集まっていた。

 先輩、後輩、そして支えてくれた多くの人々。


「花緑さん、おめでとうございます!」

「真打昇進、本当におめでとう!」


 祝福の声が飛び交う。その中で、私は一人一人に感謝の言葉を伝えた。


 この日のために、どれほど多くの人が力を貸してくれたことか。小梅さんの励まし、朱雀くんの陰ながらの支え、紫苑さんの的確なアドバイス。そして、厳しくも愛情深い師匠の指導。


(みんな、ありがとう)


 心の中で何度も繰り返す。


 祝賀会は深夜まで続いた。久しぶりに会う顔もあれば、初めて言葉を交わす人もいる。落語界の縦のつながり、横のつながりを、改めて実感する夜だった。


「花緑」


 ふと、耳元で声がした。振り返ると、そこには紫苑さんがいた。


「紫苑さん、どうかしました?」


「ちょっと、外の空気でも吸わない?」


 二人で会場を抜け出し、夜の街に出る。初夏の風が、汗ばんだ肌に心地よい。


「おめでとう、花緑。本当に立派になったわね」


「ありがとうございます。でも、まだまだです」


「ふふ、謙遜はいいから。今日くらいは素直に喜んでいいのよ」


 紫苑さんの優しい微笑みに、私は少し照れる。


「それにしても、十年か……。早いものね」


「そうですね。振り返ってみると、あっという間でした」


「楽しかった?」


 その問いに、私は少し考え込む。楽しかったか? 辛いことも、苦しいこともたくさんあった。でも──


「はい、とても楽しかったです」


 心からそう言えた自分に、少し驚く。


「そう。それなら良かったわ」


 紫苑さんは遠くを見つめながら、続けた。


「これからが本当の勝負よ。真打になったからって、楽になるわけじゃない。むしろ、責任は重くなる」


「はい」


「でも、私は信じてるわ。花緑なら、きっと大丈夫」


 その言葉に、胸が熱くなる。


「紫苑さん……ありがとうございます」


 二人で夜空を見上げる。星々が、まるで私たちを祝福しているかのように輝いていた。


◆新たな舞台へ


 真打昇進から半年が過ぎた。私の日常は、以前にも増して忙しくなっていた。


「花緑さん、来週の番組の打ち合わせです」


 マネージャーの椿(つばき)さんが、スケジュール帳を手に声をかけてくる。彼女は私が真打になると同時に付いてくれた、頼もしい存在だ。


「はい、わかりました。その前に、今日の高座の準備を……」


「大丈夫です。着付けは私が手伝いますから」


 椿さんの気遣いに、感謝の言葉を述べる。女性マネージャーならではの細やかさが、本当に心強い。


 着物に袖を通しながら、ふと鏡を見る。三十一歳。髪にはわずかに白いものが混じり始めていた。


(年を取るのも、悪くないわね)


 以前なら気になっただろう。でも今は、それも含めて自分だと思える。


 高座に上がる。客席には、いつもの常連さんたちの顔。そして、新しい顔も見える。


「本日は、『平林』(*14)をお聴きいただきます」


 噺が始まる。客の反応を感じながら、物語を紡いでいく。笑いどころでは、大きな笑い声。シリアスな場面では、静寂が訪れる。


(ああ、この一体感)


 高座の上で、私は確かな手ごたえを感じていた。


 公演後、楽屋に戻ると椿さんが待っていた。


「花緑さん、素晴らしかったです!」


「ありがとう、椿さん」


「あ、それと、こんな話があるんですが……」


 椿さんが差し出した企画書には、「女性落語家特集」という文字。テレビ局からのオファーだという。


「どうですか? これ、チャンスだと思うんです」


 椿さんの目が輝いている。確かに、これは大きなチャンスかもしれない。でも──


「少し、考えさせてください」


 その夜、私は悩んでいた。テレビに出ることで、より多くの人に落語を知ってもらえる。女性落語家の存在を、世間に広められるかもしれない。


 でも同時に、不安もあった。テレビに出ることで、「芸人」として見られてしまわないだろうか。落語の本質が、失われてしまわないだろうか。


(どうすればいいの?)


 答えは出ない。そんな時、ふと師匠の言葉を思い出した。


「花緑、お前の落語は、お前にしか語れん。自信を持て」


(そうだ。私には、私にしかできない落語がある)


 その瞬間、決心がついた。


 翌日、椿さんに返事をする。


「やります。でも、私の落語を曲げるつもりはありません」


「もちろんです! 花緑さんの落語を、たくさんの人に知ってもらいましょう」


 椿さんの笑顔に、私も釣られて笑顔になる。


 新しい挑戦が、始まろうとしていた。



◆迷いの中で


 テレビ出演から数ヶ月が過ぎた。予想以上の反響に、私自身も驚いていた。


「花緑さん、ファンレターがまた届いてますよ」


 椿さんが、束になった手紙を持ってきてくれる。


「ありがとう。でも、こんなに……」


 手紙を一つ一つ開けながら、複雑な思いが胸をよぎる。


(本当に、これでよかったのかしら)


 確かに、落語を知ってもらうきっかけにはなった。でも同時に、「タレント」としての側面も求められるようになった。トーク番組への出演や、雑誌のインタビュー。それらは全て、落語とは直接関係のないものだった。


「花緑さん、次の仕事の打ち合わせです」


 椿さんの声に、我に返る。


「あ、はい。今行きます」


 会議室に入ると、テレビ局のプロデューサーが待っていた。


「やあ、花緑さん。今日はね、新しい企画を持ってきたんですよ」


 プロデューサーの言葉に、少し身構える。


「どんな企画でしょうか?」


「ズバリ、『女性落語家の恋愛事情』です! 花緑さんの恋愛遍歴を聞きながら、落語にまつわる話を……」


 その言葉に、私は思わず声を上げそうになった。


(何て企画……!)


 困惑する私を横目に、プロデューサーは熱心に説明を続ける。私の横では、椿さんが真剣な表情でメモを取っている。


「いかがですか? これ、視聴率取れると思うんですよ」


 沈黙が流れる。椿さんが、そっと私の方を見た。


「……少し、考えさせてください」


 その日の夜。私は一人で飲んでいた。普段はあまりお酒を飲まないのだが、今日は特別だった。


(私は、何をしているんだろう)


 グラスを見つめながら、自問自答を繰り返す。落語家として成長したいという思いと、より多くの人に落語を知ってもらいたいという願い。その狭間で、私は迷っていた。


「あら、花緑じゃないの」


 振り返ると、そこには紫苑さんがいた。


「紫苑さん……」


「一人で飲むなんて珍しいわね。何かあったの?」


 紫苑さんの優しい眼差しに、思わずすべてを話してしまった。テレビ出演のこと、増えた仕事のこと、そして今日の企画のこと。


 紫苑さんは黙って聞いていたが、最後にポツリと言った。


「花緑、あなたは何のために落語をやっているの?」


 その問いに、私は答えられなかった。


「考えてみて。そして、自分の答えが出たら、それに従えばいいのよ」


 紫苑さんは優しく微笑むと、私の肩を軽く叩いて去っていった。


 その夜、眠れぬまま考え続けた。


 (私が落語をやる理由……)


 答えは、すぐそこにあるようで、なかなか掴めない。


 朝日が差し込み始めた頃、ようやく心が定まった。


 (そうだ。私は……)



◆決断の時


「申し訳ありません。この企画は、お断りさせていただきます」


 プロデューサーの目が、驚きで見開かれた。


「え? でも、これはチャンスですよ。花緑さんの知名度が、一気に上がる可能性が……」


「わかっています。でも、それは私の望む道ではありません」


 きっぱりと言い切る。隣で椿さんが、心配そうな顔をしている。


「私は落語家です。お客様に笑いと感動を届けること、それが私の仕事です。テレビ出演も、その延長線上にあるべきだと思います」


 プロデューサーは、なおも食い下がる。


「でも、世間の関心を引くには……」


「落語以外のことで関心を引く必要はありません。私の落語で、十分に関心を持っていただけると信じています」


 静かに、しかし強い意志を込めて答える。


 結局、その企画は白紙に戻ることになった。会議室を出ると、椿さんが心配そうに声をかけてきた。


「大丈夫ですか? あれだけのチャンスを……」


「ええ、大丈夫です。むしろ、すっきりしました」


 本当に、心が軽くなっていた。


 その夜、高座に立つ。客席には、テレビを見て来てくれたという新しいお客様の姿も。

 私は今日は、初心に帰ったつもりでやろうと決めた。


「本日は、『寿限無』をお聴きいただきます」


 噺が始まる。いつもより声が通る気がした。客席からの反応も、いつになく良い。


 高座を降りると、椿さんが駆け寄ってきた。


「花緑さん、素晴らしかったです!」


「ありがとう、椿さん」


「あの……私、間違っていたかもしれません」


 椿さんの言葉に、首を傾げる。


「花緑さんの本当の魅力は、やっぱり高座の上にあるんですね。それを忘れかけていました」


 その言葉に、胸が熱くなる。


「ありがとう、椿さん。これからも、よろしくお願いします」


 二人で笑い合う。その瞬間、携帯電話が鳴った。画面を見ると、知らない番号だった。


「もしもし、春風亭花緑です」


「あ、もしもし。実は、うちの娘が花緑さんのファンで……」


 電話の向こうから、一般の方の声。どうやら、娘さんの誕生日に落語会に連れて行きたいとのこと。


「ぜひ、いらしてください。お嬢様にも、本物の落語を楽しんでいただけたら嬉しいです」


 電話を切ると、なぜか目頭が熱くなった。


(これでいいんだ。これが私の道)


 その夜、久しぶりに師匠に電話をした。


「師匠、私、やっと自分の落語が見つかりました」


 電話の向こうで、師匠が小さく笑う声が聞こえた。


「そうか。それは良かった」


 短い言葉だったが、その中に込められた思いを感じ取ることができた。



◆新たな高み


 真打昇進から5年が経った。私、春風亭花緑は36歳。落語界での地位も少しずつ固まってきた。


「花緑さん、来月の独演会の準備はいかがですか?」


 椿さんが、いつもの優しい笑顔で尋ねてくる。


「ええ、順調よ。でも、まだ新作の仕上げが……」


 独演会。落語家にとって、最も大切な舞台の一つ。そこで私は、新作落語に挑戦することにしていた。


 「女性落語家の日常」――そんなテーマで、現代を生きる女性たちの悩みや喜びを、落語という形で表現しようと試みていた。


 稽古場で、何度も繰り返す。


「そりゃ、あんた。女は大変なのよ。仕事に家事に育児に……ってね」


 自分の声に耳を傾けながら、首を傾げる。


(まだ足りない。もっと……)


「花緑」


 ふと、懐かしい声が聞こえた。振り返ると、そこには紫苑さんの姿があった。


「紫苑さん! いつ戻ってきたんですか?」


 紫苑さんは、1年前に病気療養のため舞台を離れていた。その姿を見るのは久しぶりだった。


「つい先日よ。そうそう、あなたの独演会のチケット、もらったわ」


「ありがとうございます。でも、まだ全然ダメなんです」


 紫苑さんは、優しく微笑んだ。


「何が足りないって思ってるの?」


「それが……わからないんです」


 紫苑さんは、しばらく黙って私の顔を見つめていた。


「花緑、あなた、結婚したことはある?」


「え? いいえ、まだ……」


「子育ては?」


「それも……ありません」


「そう」


 紫苑さんの言葉に、はっとする。


(そうか。私には、経験していないことがたくさんある)


「でも、紫苑さん。私には……」


「違うのよ、花緑」


 紫苑さんは、優しく言葉を続けた。


「経験していないからこそ、想像力が必要なの。そして、たくさんの人の話を聞くこと。それが、落語家の仕事よ」


 その言葉に、目から鱗が落ちる思いだった。


 その日から、私の日常は変わった。街を歩けば、行きかう人々の会話に耳を傾ける。電車の中では、若い母親の悩み相談に聞き入る。


 そして、大胆にも産婦人科を訪ね、出産を控えた女性たちの話を聞かせてもらった。


「えっ? 落語家さんが、こんなところに?」


 最初は驚かれたが、話し始めると皆楽しそうに語ってくれた。


 喜びも、不安も、痛みも、全てを自分の中に吸収していく。


 そうして1ヶ月が過ぎ、独演会の日を迎えた。


 高座に上がる直前、深呼吸をする。


(大丈夫。私には、みんなの思いがある)


「本日は、『産めよ、増やせよ!?の巻』(*15)という新作をお聞きいただきます」


 噺が始まる。現代の日本を舞台に、出産や子育てに悩む女性たちの姿を、ユーモアを交えて描いていく。


「そりゃもう大変よ。おなかはどんどん大きくなるし、つわりで吐き気はするし。ああ、神様。私を産んでくれた母に感謝ですよ」


 客席から、クスクスと笑い声が漏れる。そして、時折深いため息も。


「でもね、あなた。この命を授かった喜びったら、何物にも代えられないのよ。そう思うと、少々の痛みなんて……ってあら? もう陣痛? 待って、まだ心の準備が……きゃーーーっ!」


 大きな笑い声と拍手。その中に、共感の涙を浮かべる人の姿もあった。


 高座を降りると、椿さんが駆け寄ってきた。


「花緑さん! 素晴らしかったです!」


「ありがとう、椿さん」


 その瞬間、客席から一人の女性が近づいてきた。大きなおなかを抱えている。


「あの、花緑さん。私……」


 彼女の目に、涙が光っていた。


「今日のお噺、最高でした。ありがとうございます! 私の気持ち、全部わかってもらえた気がして……」


 思わず、その女性を抱きしめる。


(ああ、これだ。これが、私の求めていたもの)


 その夜、楽屋で鏡を見つめる。36歳の私の顔に、新しい光が宿っているように感じた。


 (まだまだ、これから。もっともっと、いろんな人の声を聞いて、それを落語にしていきたい)


 そう思った瞬間、携帯電話が鳴った。画面を見ると、見知らぬ番号だ。


「もしもし、春風亭花緑です」


「あ、あの、花緑さん。今日の独演会、聴きに行きました」


 電話の向こうは、若い男性の声だった。


「実は、私、来月結婚するんです。でも、妻が子育てに不安を感じていて……」


「はい」


「今日の落語を一緒に聞いて、彼女、すごく元気になったんです。それで、お願いがあるんですが……」


 私は、その言葉に耳を傾けた。新しい家族の誕生。新しい物語の始まり。それを聞きながら、私の中にも新しいインスピレーションが湧いてくるのを感じた。


(次は、"新米パパ奮闘記"かしら)


 そんなことを考えながら、私は電話に答えた。


「はい、ぜひお手伝いさせてください。お二人の門出を、心からお祝いします」


 電話を切ると、すぐにメモを取り始めた。新しい噺のアイデアが、次々と浮かんでくる。


(まだまだ、高みは遠い。でも、一歩一歩登っていこう)


 そう決意して、私は新たな創作へと向かっていった。



◆思いがけぬ出会い


 独演会から半年が過ぎた頃のこと。私は地方巡業の途中、小さな温泉町に立ち寄っていた。


「花緑さん、明日の高座の準備はいいですか?」


 椿さんが、いつものように気遣ってくれる。


「ええ、大丈夫よ。それより、この温泉、本当に気持ち良かったわ」


 宿の廊下を歩きながら、ふと庭園に目をやる。そこで、一人の老婆が月を見上げているのが目に入った。


「あら……」


 思わず足を止める。その老婆の姿に、どこか懐かしさを感じたのだ。


「どうかしました?」


 椿さんが不思議そうに尋ねる。


「ちょっと、外に出てくるわ」


 下駄を履き、庭に降り立つ。夜の空気が、肌に心地よい。


「こんばんは」


 老婆に声をかける。振り返った顔を見て、私は息を呑んだ。


「ま、まさか……卯月(うづき)師匠!?」


 卯月師匠――かつて女流落語界の顔として活躍し、20年前に引退した伝説の落語家だ。


「おや、私のことを知っているのかい?」


 卯月師匠は、優しく微笑んだ。


「はい! 私、春風亭花緑と申します。落語家をしております」


「ほう、女流落語家かい。素晴らしいねえ」


 卯月師匠との対話が始まった。月の下で、二人の女流落語家が語り合う。世代は違えど、同じ道を歩む者同士の会話は尽きることがない。


「昔は大変だったよ。女性が高座に上がるだけで、批判の声が上がったものさ」


「はい、聞いております。でも、卯月師匠のおかげで、私たちの道が……」


 卯月師匠は、穏やかに首を振った。


「いやいや、私が何かをしたわけじゃない。ただ、好きだった落語を続けただけさ」


 その言葉に、胸が熱くなる。


「師匠、一つ聞いてもいいですか?」


「なんだい?」


「なぜ、20年前に引退されたんですか?」


 卯月師匠は、しばらく月を見上げていた。そして、ゆっくりと口を開いた。


「そうだねえ……。あの頃、私は迷っていたんだ。落語の伝統を守ることと、新しい表現を求めることの間で」


「それは、私も……」


「でもね、花緑さん。引退して気づいたんだ。伝統も新しさも、結局は人の心に触れるためのものだってね」


 その言葉に、はっとする。


「そうか……。人の心に触れる。それが全てなんですね」


「そうさ。だからあんたは、自分の信じる道を歩めばいい。それが結果的に、伝統を守ることにもなるし、新しい表現を生み出すことにもなる」


 卯月師匠の言葉は、私の心に深く刻まれた。


 翌日の高座。いつもと同じ噺なのに、何か違う。客席の反応が、より生き生きとしているように感じる。


 高座を降りると、椿さんが驚いた顔で近づいてきた。


「花緑さん、今日はいつもより素晴らしかったです!」


「そう? ありがとう」


 その瞬間、客席から大きな拍手が起こった。見ると、そこには卯月師匠の姿があった。


 目が合うと、卯月師匠はにっこりと微笑んだ。その笑顔に、これからの道のりを後押しされているような気がした。


 (私には、まだまだできることがある)


 そう思いながら、私は次の高座への道を歩み始めた。



◆新たな挑戦


 卯月師匠との出会いから1年。私の中で、新しい挑戦への思いが芽生えていた。


「椿さん、ちょっと相談があるんだけど」


 楽屋で、私は椿さんに声をかけた。


「はい、なんでしょうか?」


「実は……子ども向けの落語会を企画したいと思うの」


 椿さんは、少し驚いた表情を見せた。


「子ども向け……ですか?」


「そう。落語って、子どもたちにとっては難しいイメージがあるでしょう? でも、本当は楽しいものなのよ」


 私の言葉に、椿さんは真剣な表情で頷いた。


「わかりました。早速、企画を練ってみましょう」


 それから数週間、私たちは子ども向け落語会の準備に奔走した。会場探し、宣伝、そして何より大切な演目の選定と調整。


「やっぱり、『寿限無』は外せないわね」


「そうですね。あと、『動物園』(*16)なんかも良いかもしれません」


 椿さんと相談しながら、プログラムを組み立てていく。そして、ついに本番の日を迎えた。


 会場には、親子連れが大勢訪れていた。小さな声で話す子どもたち、心配そうな顔の親たち。その光景を見て、私は深呼吸をした。


(大丈夫。きっと、楽しんでもらえるはず)


「みなさーん、こんにちは!」


 高座に上がると、いつもより明るい声で挨拶をする。


「今日は、みんなで楽しく落語を聴いてみましょう。さて、落語ってなーんだ?」


 子どもたちが、キョトンとした顔をする。


「実はね、お話を聞いて、みんなで笑って楽しむものなんです。さあ、一緒に楽しんでいきましょう!」


 子どもたちの目が、少しずつ輝き始める。


「まずは、『寿限無』というお話です。むかしむかし、あるところに……」


 普段より簡単な言葉を使い、時折身振り手振りを交えながら噺を進める。最初は静かだった会場が、徐々に笑い声で満たされていく。


「そしたらね、お爺さんが『寿限無! 寿限無!』って叫んだの。さあ、みんなも一緒に言ってみよう!」


「寿限無! 寿限無!」


 子どもたちの元気な声が響く。親たちも、つられて笑顔になる。


 休憩を挟んで、次は『動物園』。

 動物の鳴き声を真似しながら進める噺に、会場は大盛り上がり。


 高座を降りると、椿さんが駆け寄ってきた。


「花緑さん、素晴らしかったです! 子どもたちも、親御さんたちも、みんな楽しそうでした」


「ありがとう、椿さん。私も楽しかったわ」


 その時、一人の少女が近づいてきた。


「あの、おねえさん」


「はい、なあに?」


「私も、おねえさんみたいな落語家さんになりたい!」


 その言葉に、思わず目頭が熱くなる。


「そう? 嬉しいわ。頑張ってね」


 少女の頭を優しく撫でる。その瞬間、ふと気づいた。


(そうか。これが、私にできること)


 その日を境に、私の活動に新たな側面が加わった。定期的な子ども向け落語会の開催、学校への出張公演、そして若手女性落語家の育成プログラム。


「花緑さん、次は出版社から子ども向けの落語本の依頼が来てますよ」


 椿さんが、新しい企画を持ってきてくれる。


「まあ、それは面白そうね。ぜひやってみましょう」


 忙しい日々が続く。でも、それは充実した毎日でもあった。


 ある日、高座を終えて楽屋に戻ると、そこに見知らぬ封筒が置かれていた。


「これは……」


 開けてみると、一通の手紙。差出人は、卯月師匠だった。


「拝啓、花緑殿

 君の活躍、遠くから見守っております。子どもたちに落語の楽しさを伝える姿、素晴らしい。

 かつて私が抱えていた悩み、あなたは見事に乗り越えたようですね。伝統と革新、その両立こそが真の芸の道。

 これからも、自分の信じる道を歩み続けてください。

                      卯月より」


 手紙を読み終えると、胸がじんわりと熱くなった。


(卯月師匠……ありがとうございます)


 その夜、久しぶりに師匠に電話をした。


「もしもし、師匠ですか?」


「ん? 花緑か。どうした、こんな遅くに」


「はい、ちょっとご報告が……」


 これまでの活動、そしてこれからの展望を話す。師匠は黙って聞いていたが、最後にポツリと言った。


「そうか。お前らしい道を見つけたようだな」


 その言葉に、目頭が熱くなる。


「はい。でも、まだまだ未熟者です。これからも精進を重ねていきます」


「ああ。期待しているぞ」


 電話を切ると、窓の外を見た。満月が、優しく私を照らしている。


(まだ道の途中。でも、確かな一歩を踏み出せた気がする)


 そう思いながら、私は次の高座への準備を始めた。新しい噺のアイデアが、次々と浮かんでくる。


(さあ、明日はどんな出会いがあるかしら)


 期待に胸を膨らませながら、私は眠りについた。



◆新たな仲間


 子ども向け落語会が評判を呼び、私のもとには新しい風が吹き始めていた。


「花緑さん、ちょっとご相談が……」


 ある日、椿さんが少し緊張した面持ちで声をかけてきた。


「どうしたの?」


「実は、若い女性から落語の弟子入りの希望がきているんです」


 その言葉に、私は少し驚いた。確かに、最近は女性落語家への注目度も上がっている。でも、弟子を取るというのは……。


「そう。どんな子?」


「はい、こちらの履歴書を」


 差し出された紙には、「鈴木さくら」という名前。22歳、大学を卒業したばかりの若者だった。


(私が入門した頃と、同じくらいの年齢ね)


「会ってみましょう」


 数日後、さくらが楽屋を訪ねてきた。


「は、はじめまして! 鈴木さくらと申します。よろしくお願いします!」


 緊張した様子で頭を下げる姿に、かつての自分を重ねる。


「さくらさん。なぜ落語家になりたいの?」


 その問いに、さくらは真剣な眼差しで答えた。


「はい。私、子どもの頃に花緑さんの落語会で初めて落語を聴いたんです。その時の感動が忘れられなくて……」


(ああ、あの子ども向け落語会の……)


「それに、花緑さんのように、女性でも落語家として活躍できると知って、私も頑張ればできるんじゃないかって」


 その言葉に、胸が熱くなる。


(私の姿が、誰かの道標になっていたなんて)


「わかったわ。厳しい道よ。それでも構わない?」


「はい!」


 さくらの目に、強い決意の色が浮かぶ。


「じゃあ、明日から稽古開始ね」


 こうして、私に新しい仲間が加わった。さくらの成長を見守りながら、私自身も新たな刺激を受けていく。


「師匠、この噺の解釈なんですが……」


「うーん、そうね。でも、もっとこういう風に捉えてみたら?」


 日々の稽古の中で、私も新しい気づきを得る。若い感性が、私の落語に新しい風を吹き込んでくれる。


 そんなある日のこと。


「師匠、ちょっとご相談が」


 さくらが、少し困った顔で近づいてきた。


「どうしたの?」


「実は……女性ならではの悩みというか」


 さくらの言葉に、私はハッとした。そういえば、私も若い頃、同じような悩みを抱えていた。着物の着付けや、女性特有の体調管理など。


「そうね。女性ならではの悩みもたくさんあるわよね。でも、それを乗り越えることで、また新しい表現が生まれるの」


 さくらと語り合う中で、私は自分の経験を振り返る。そして、新しいアイデアが浮かんだ。


「そうだ。女性落語家のための研修会を開いてみない?」


「え?」


「着付けや化粧、体調管理の方法。それに、高座での立ち振る舞いなど。みんなで学び合えば、きっと良いものが生まれるはず」


 さくらの目が輝いた。


「はい! ぜひお願いします!」


 その後、私たちは女性落語家のための研修会を企画。若手から中堅まで、多くの女性落語家が参加してくれた。


「まあ、こんなに大勢……」


 会場を見渡すと、様々な年代の女性落語家たちの姿がある。みんな、同じ悩みを抱えていたのだ。


「今日は、みんなで学び合いましょう。そして、それぞれの個性を生かした落語を作り上げていきましょう」


 研修会は大成功を収めた。参加者たちの目が、どんどん輝いていく。


 最後に、一人の若手が私に近づいてきた。


「花緑師匠、ありがとうございました。私、もっともっと頑張ります!」


 その言葉に、私は深く頷いた。


(そう、これからの落語界を担っていくのは、この子たち)


 帰り際、ふと空を見上げる。満月が、優しく私たちを照らしていた。


(まだまだ、できることがある)


 そう思いながら、私は次の高座への道を歩み始めた。新しい仲間たちと共に、落語の未来を切り開いていく。その思いが、私の心を熱くした。



◆思いがけぬ再会


 研修会から数ヶ月が過ぎた頃のこと。私は地方巡業の途中、ある温泉町を訪れていた。


「花緑さん、明日の高座の準備は大丈夫ですか?」


 椿さんが、いつものように気遣ってくれる。


「ええ、問題ないわ。それより、この温泉、どこか懐かしい気がするの」


 宿の廊下を歩きながら、ふと庭園に目をやる。そこで、一人の老婆が月を見上げているのが目に入った。


「まさか……」


 思わず足を止める。その姿は、間違いなく卯月師匠だった。


「卯月師匠!」


 声をかけると、卯月師匠はゆっくりと振り返った。


「おや、花緑さんじゃないか。こんなところで会うとは、奇遇だねえ」


 卯月師匠の穏やかな笑顔に、胸が熱くなる。


「師匠、お元気でしたか?」


「ああ、相変わらずさ。花緑さんこそ、随分と活躍しているようだね」


 二人で庭を歩きながら、近況を語り合う。研修会のこと、さくらのこと。そして、これからの抱負。


「素晴らしいよ、花緑さん。君は、私たちの世代ができなかったことをやってのけている」


 卯月師匠の言葉に、私は首を振った。


「いいえ、卯月師匠。私たちができているのは、師匠たちが切り開いてくれた道があるからです」


 卯月師匠は、しばらく月を見上げていた。そして、ゆっくりと口を開いた。


「花緑さん、一つ頼みがあるんだ」


「はい、なんでしょうか?」


「私の最後の高座を、見てもらえないかい?」


 その言葉に、私は息を呑んだ。


「最後の……高座?」


「ああ。もう引退して久しいが、最後にもう一度、高座に上がりたいと思ってね。でも、大々的にやるのは気が引ける。だから、ここで密かに……」


 卯月師匠の目に、懐かしさと決意が混ざっているのが見て取れた。


「わかりました。ぜひ拝見させてください」


 翌日の夜。宿の一室を借りて、即席の高座が設けられた。観客は私と椿さん、そして宿の主人夫婦だけ。


 卯月師匠が高座に上がる。その姿は、かつての輝きそのものだった。


「本日は、『井戸の茶碗』をお聴きいただきます」


 噺が始まる。年齢を感じさせない声の張り、絶妙な間、そして深みのある表現。私は、すっかり物語の世界に引き込まれていた。


 高座が終わると、静寂が訪れた。そして、大きな拍手が沸き起こった。


「卯月師匠……素晴らしかったです」


 涙をこらえながら、私は卯月師匠に近づいた。


「ありがとう、花緑さん。これで、私の高座人生に、きちんとピリオドが打てたよ。20年前引退した時は本当にバタバタだったからねぇ……」


 卯月師匠の目に、安堵の色が浮かんでいた。


 その夜、二人で月を見上げながら、静かに語り合った。


「花緑さん、落語は生き物だよ」


 卯月師匠の言葉に、私は耳を傾けた。


「時代と共に変わっていく。でも、変わらない本質もある。その兼ね合いが難しいんだ」


「はい。私もいつも、その狭間で悩んでいます」


 卯月師匠は、優しく微笑んだ。


「でもね、あんたは良い方向に進んでいる。伝統を守りながら、新しい風を吹き込んでいる。それこそが、落語の未来を作るんだよ」


 その言葉に、胸が熱くなる。


「ありがとうございます。でも、まだまだ未熟者です」


「いやいや、十分だ。それに、あんたには大切なものがある」


「大切なもの?」


「そう。仲間だよ」


 卯月師匠の言葉に、はっとする。さくらの顔、研修会で出会った若手たちの顔が、次々と浮かんでくる。


「あんた一人の力じゃない。みんなで作り上げていく。それが、これからの落語界の姿だ」


 月の光が、二人を優しく包み込む。


「花緕さん、私からのお願いがあるんだ」


「はい、なんでしょうか」


「私の『井戸の茶碗』。君に受け継いでほしい」


 その言葉に、私は息を呑んだ。


「え? でも、それは卯月師匠の……」


「いいんだ。君なら、きっと新しい命を吹き込んでくれる」


 卯月師匠の目に、強い決意が宿っていた。


「わかりました。大切に、そして新しく育てていきます」


 翌日、卯月師匠との別れの時。


「花緑さん、これからも落語を、そして後進たちを頼むよ」


「はい。必ず、立派な花を咲かせてみせます」


 手を握り合う二人。その瞬間、何かが私の中に流れ込んでくるような感覚があった。


 宿を後にする時、振り返ると卯月師匠が手を振っていた。その姿が、どこか寂しげに見えた。


(きっと、これが最後の再会になるのかもしれない)


 そう思うと、胸が締め付けられる。でも同時に、新たな決意も芽生えていた。


 東京に戻ると、すぐに稽古を始めた。卯月師匠から受け継いだ『井戸の茶碗』。伝統を守りながら、新しい解釈を加える。何度も何度も繰り返す。


「花緑師匠、お茶をお持ちしました」


 さくらが、稽古の合間に声をかけてくる。


「ありがとう。そうだ、さくら。ちょっとこの噺を聞いてくれないかしら」


「はい、喜んで!」


 さくらを観客に見立て、『井戸の茶碗』を披露する。終わると、さくらの目が輝いていた。


「素晴らしいです! でも、ここの部分はもう少し……」


 さくらの意見を聞きながら、また新たな発見がある。


 (そうか。これが卯月師匠の言っていた、みんなで作り上げていくということなのね)


 それから数週間後、ついに高座で『井戸の茶碗』を披露する日がきた。


 高座に上がる直前、深呼吸をする。


(卯月師匠、見ていてください)


「本日は、『井戸の茶碗』をお聴きいただきます」


 噺が始まる。卯月師匠から受け継いだ魂、そして私たちの新しい息吹。それらが融合した物語が、客席に届いていく。


 高座を降りると、大きな拍手。その中に、懐かしい顔を見つけた。


「紫苑さん!」


 かつての先輩、紫苑さんが駆け寄ってきた。


「花緑、素晴らしかったわ。卯月師匠の『井戸の茶碗』を受け継いだのね」


「はい。でも、まだまだです」


「いいえ、十分よ。あなたの『井戸の茶碗』、きっと新しい伝説になるわ」


 その言葉に、改めて身の引き締まる思いがした。


 その夜、鏡の前で自分と向き合う。


(私は、まだ途中。でも、確かな一歩を踏み出せた)


 窓の外を見ると、満月が輝いていた。その光が、まるで卯月師匠の優しい眼差しのように感じられた。


(これからも、落語と共に歩んでいこう)


 そう心に誓いながら、私は次の高座への準備を始めた。新しい物語が、また一つ生まれようとしていた。



◆新たな挑戦


 『井戸の茶碗』での成功以来、私の活動の幅はさらに広がっていった。テレビやラジオへの出演、講演会、そして海外公演。忙しい日々が続く。


「花緑さん、来月のスケジュールです」


 椿さんが、分厚いスケジュール帳を手渡してくれる。


「ありがとう。随分埋まってるわね」


 パラパラとページをめくると、びっしりと予定が書き込まれている。その中に、一つ気になる項目があった。


「これは……海外公演?」


「はい。アメリカのニューヨークでの公演です。現地の大学から依頼がありまして」


 海外での落語公演。以前から興味はあったが、まさか自分が行くことになるとは。


「英語での公演になりますが、大丈夫でしょうか?」


 椿さんの心配そうな顔に、私は微笑んだ。


「やってみましょう。新しいチャレンジは、きっと面白いはずよ」


 それからの日々は、英語の勉強と海外向けの演目の準備に追われた。さくらも手伝ってくれる。


「師匠、この部分の英訳はこれでいいでしょうか?」


「うーん、でもここは日本の文化が分からないと伝わりにくいわね。どう説明すればいいかしら」


 試行錯誤の日々。でも、それが新鮮で楽しかった。


 そしてついに、出発の日。


 成田空港で、さくらが見送りに来てくれた。


「師匠、気をつけて行ってらっしゃい」


「ありがとう。留守中、よろしくね」


 飛行機に乗り込む直前、ふと空を見上げた。


 (卯月師匠、見守っていてください)


 ニューヨーク到着。初めて目にする摩天楼に、圧倒される。


 そして、公演当日。会場には、様々な人種の観客が集まっていた。


 (さあ、行くわよ)


「Ladies and gentlemen, welcome to Rakugo performance. My name is Hanagiri Shunputei.」


 ぎこちない英語で挨拶をする。客席から、温かい拍手が返ってくる。


 『寿限無』を英語で演じる。言葉の壁を越えて、笑いが起こる。そして、『井戸の茶碗』。卯月師匠から受け継いだ魂が、海を越えて新しい観客に届く。


 公演後、一人の女性が近づいてきた。


「素晴らしい公演でした。日本の文化の深さを感じました」


 その言葉に、胸が熱くなる。


(伝わったんだ。言葉や文化の壁を越えて)


 ホテルに戻り、窓から夜景を眺める。ニューヨークの煌びやかな光が、まるで星空のよう。


 携帯電話が鳴る。さくらからだった。


「師匠、お疲れ様です。どうでしたか?」


「ええ、大成功よ。さくら、落語ってすごいわ。言葉が違っても、心は通じ合えるの」


 電話を切ると、また窓の外を見た。


(これが、新しい落語の形なのかもしれない)


 その夜、久しぶりに夢を見た。卯月師匠と、高座で向かい合っている夢。


「よくやった、花緑。これからも、落語の新しい扉を開いていってくれ」


 目が覚めると、頬に涙が伝っていた。


(はい、師匠。必ず)


 帰国後、私の中に新しいアイデアが芽生えていた。


「椿さん、ちょっと相談があるの」


「はい、なんでしょうか」


「国際交流を目的とした落語プログラムを作りたいの。日本の文化を伝えながら、他の国の話芸とも交流できるような」


 椿さんの目が輝いた。


「素晴らしい! 早速企画書を作りましょう」


 新しいチャレンジが、また一つ始まろうとしていた。


 その夜、鏡の前で自分と向き合う。


 (私の落語は、まだまだ成長できる)


 窓の外を見ると、満月が輝いていた。その光が、これからの道を照らしているようで。


(さあ、次は何が待っているかしら)


 そう思いながら、私は次の高座への準備を始めた。新しい物語が、また一つ生まれようとしていた。



◆新たな仲間たち


 国際交流プログラムの準備が本格化する中、私のもとに思いがけない訪問者があった。


「師匠、ちょっとよろしいでしょうか」


 さくらが、少し緊張した面持ちで声をかけてきた。


「どうしたの?」


「実は、私の友人で落語に興味を持っている人がいて……」


 さくらの後ろから、二人の若い女性が現れた。


「はじめまして。私は田中梅子です」

「私は山本菊子と申します」


 二人とも、二十代前半。目がキラキラと輝いている。


「落語家を目指しているの?」


 私の質問に、二人は少し困ったように顔を見合わせた。


「実は……私たちは留学生なんです」


 梅子が話し始めた。彼女はアメリカからの留学生。菊子は中国から来ていた。二人ともお母さんは日本人のハーフだった。


「日本の伝統文化に興味があって。特に落語は、言葉の面白さと物語の深さが魅力的で……」


 菊子が続けた。


「でも、外国人が落語家になるのは難しいんじゃないかって」


 二人の言葉に、私はふと考え込んだ。確かに、外国人の落語家は珍しい。でも……


「難しいことかもしれないわ。でも、不可能じゃないわよ」


 私の言葉に、二人の目が輝いた。


「本当ですか?」


「ええ。むしろ、あなたたちの視点が新しい風を吹き込んでくれるかもしれない」


 そう言って、私は椿さんを呼んだ。


「椿さん、新しいプロジェクトを始めましょう」


「はい、どんなものでしょうか」


「国際色豊かな落語教室よ。日本人だけでなく、外国人も参加できる。そして、それぞれの文化を取り入れた新しい落語を創作する」


 椿さんの目が輝いた。


「素晴らしいわ!」


 こうして、新しいプロジェクトが始まった。日本人の若手落語家たちに加え、梅子と菊子、そして彼女たちの紹介で集まった外国人たち。様々な国籍の人々が、落語を通じて交流を深めていく。


「今日は『寿限無』を全員で演じてみましょう。それぞれの母国語で」


 日本語、英語、中国語、フランス語……様々な言語で『寿限無』が演じられる。言葉は違えど、笑いの本質は変わらない。


 「次は、みなさんの国の民話を落語調にアレンジしてみましょう」


 アメリカのポール・バニヤンの伝説、中国の西遊記、フランスのサンライクの物語……。それぞれの文化が融合した新しい落語が生まれていく。


 プロジェクトは予想以上の反響を呼んだ。メディアにも取り上げられ、「グローバル落語」という新しいジャンルが注目を集める。


 ある日、さくらが興奮した様子で駆け込んできた。


「師匠! 海外から公演依頼が殺到しています!」


 アメリカ、ヨーロッパ、アジア各国……。世界中から、この新しい落語を見たいという声が届く。


 忙しい日々が続く中、ふと立ち止まる時間があった。高座を終えて楽屋に戻ると、そこには懐かしい顔があった。


「紫苑さん!」


 紫苑さんは、穏やかな笑顔で私を見つめていた。


「花緑、すごいわね。あなたは本当に落語を変えた」


 その言葉に、私は首を振った。


「いいえ、私一人の力じゃありません。みんなで作り上げてきたんです」


 紫苑さんは、優しく頷いた。


「そう。それこそが、あなたの一番の功績よ。人々を繋ぎ、新しい可能性を開いた」


 その夜、久しぶりに自宅で静かな時間を過ごした。窓から見える満月を眺めながら、これまでの道のりを振り返る。


 入門したての頃の不安と緊張。初めて高座に上がった時の震える手。そして、卯月師匠との出会い。子ども向け落語会、海外公演、そして今の国際プロジェクト。


(本当に、長い道のりだったわ)


 ふと、棚に飾ってある古い扇子が目に入る。師匠からもらった初めての扇子だ。手に取ると、懐かしい香りがする。


 その時、ノックの音。


「失礼します」


 さくらが、少し緊張した面持ちで入ってきた。


「どうしたの、さくら?」


「あの、師匠。私、独立しようと思うんです」


 その言葉に、一瞬驚いた。でも、すぐに大きな喜びが込み上げてきた。


「そう。素晴らしいわ、さくら」


「師匠のおかげです。私も、自分の落語を見つけられました」


 さくらの目に、強い決意の色が浮かんでいる。その姿に、かつての自分を重ねる。


「さくら、最後に一つだけ教えるわ」


「はい」


「落語は生き物よ。常に変化し、成長していく。でも、変わらない本質もある。その狭間で、自分の道を見つけていくの」


 さくらは、深く頷いた。


「ありがとうございます。必ず、立派な落語家になってみせます」


 さくらが去った後、再び窓の外を見る。満月が、優しく私を照らしている。


(卯月師匠、見ていてくださいますか? 私たちの落語は、これからも進化し続けます)


 ふと、新しいアイデアが浮かぶ。


(そうだ。次は、デジタル技術を使った新しい落語の形を探ってみよう)


 スマートフォンを手に取り、椿さんに電話をかける。


「椿さん、新しいプロジェクトの相談があるの」


「はい、なんでしょうか?」


 「デジタル落語」という言葉を口にした瞬間、新たな冒険が始まる予感がした。


 高座に上がる直前の、あの高揚感。それが、また胸の中に広がっていく。


(さあ、これからも、落語と共に歩んでいこう)


 窓の外では、新しい朝が始まろうとしていた。満月はゆっくりと輝きを失い、代わりに朝日が地平線から顔を覗かせる。


 私は深呼吸をして、新たな一日を迎える準備をした。落語の世界は、まだまだ広がっていく。そして私も、その世界と共に成長を続けていく。


 これからも、笑いと感動を届け続けよう。世代を超え、国境を越え、そしてきっと、時代も越えて――。



注釈:


(*1) 箒(ほうき):掃除用具。床や地面を掃くのに使う。

(*2) 座布団:床に敷いて座るためのクッション。

(*3) 湯飲み:お茶を飲むための小さな茶碗。

(*4) 高座:落語家が噺を演じる舞台。

(*5) 噺(はなし):落語の演目、物語のこと。

(*6) 『寿限無』:有名な落語の演目。長い名前が特徴的な話。

(*7) 間(ま):演技や音楽などにおける絶妙な間合い。

(*8) 出囃子(でばやし):高座で落語家を紹介する際に演奏される音楽。

(*9) 二つ目:前座(見習い)の次の段階の落語家。

(*10) 『子ほめ』:親バカを題材にした落語の演目。

(*11) 『井戸の茶碗』:井戸に落とした茶碗を巡る騒動を描いた落語の演目。

(*12) 真打:落語家として一人前と認められた段階。

(*13) 『死神』:死神と貧乏な男の駆け引きを描いた落語の演目。

(*14) 『平林』:夫婦喧嘩を題材にした落語の演目。

(*15) 『産めよ、増やせよ!?の巻』:本作品のオリジナル演目。現代の少子化問題を風刺した内容。

(*16) 『動物園』:動物園での出来事を描いた落語の演目。



◆ある日の高座から


・春風亭花緑の『産めよ、増やせよ!?の巻』


 高座に上がる直前、私は深呼吸をした。今日の演目は、自作の『産めよ、増やせよ!?の巻』。現代社会の抱える問題を、落語という伝統的な形式で表現する試みだ。


「春風亭花緑、高座にあがりまーす」


 出囃子が鳴り、私はゆっくりと高座へと歩を進める。客席からは、期待に満ちた拍手が沸き起こる。


 座布団に腰を下ろし、扇子と手拭いを丁寧に置く。そして、一礼。


「ご来場いただき、誠にありがとうございます。春風亭花緑でございます」


 客席を見渡すと、様々な年齢層の観客が集まっている。若いカップル、中年の夫婦、そして年配の方々。この話が、皆さんにどう響くだろうか。


「本日は、『産めよ、増やせよ!?の巻』という新作をお聞きいただきます」


 少し間を置いて、噺が始まる。


「そりゃもう、昔々のお話。えー、ある村にでごぜえますな。なあんでも、その村では、近頃、子どもの数がめっきり減ってしまったそうな」


 ゆっくりとしたテンポで、物語の舞台を設定していく。


「村長さんが言うにはねえ。『このままじゃ村が滅びてしまう! なんとかせねば』って。そこで考えたのが、『産めよ、増やせよ! 大作戦』というわけ」


 客席から、クスクスと笑い声が漏れる。

 現代の少子化問題を、昔話の設定に置き換えた趣向が通じたようだ。


「まずは、若い夫婦に声をかけるわけよ。『ねえねえ、あんたがた。子どもを作る気はねえかい?』って。そしたらね、奥さんが言うには……」


 ここで、私は声色を変える。若い女性の声で、


「『えー! 子どもですか? でも、仕事が忙しくて……』」


 そして、すかさず村長の声で、


「『大丈夫、大丈夫! 村で保育園を作るから!』」


 また奥さんの声に戻って、


「『でも、お金がかかるんじゃ……』」


 村長の声で、


「『心配ない! 子育て支援金を出すよ!』」


 声色の変化と掛け合いで、客席の笑いが大きくなる。


「そうこうしているうちにね、村中が子作りブームに。そりゃもう、朝から晩まで……えー、まあ、お察しの通りでごぜえますな」


 ここで、少し間を置く。客席の反応を確認しながら、次の展開へ。


「さて、10ヶ月後。村には赤ちゃんの泣き声が響き渡るわけよ。『オギャー! オギャー!』ってね。村長さん、大喜び。『これで村の存続は安泰だ!』って」


 ここからが、この噺の核心部分。私は、少し声のトーンを落として語り始める。


「ところがよ、数年経って、今度は別の問題が起きてきた。『保育園が足りない!』『学校が手狭だ!』『子育ての費用がかかりすぎる!』って具合にね」


 客席から、苦笑いが聞こえる。現実の社会問題と重なる部分に、共感の声が上がっているようだ。


「困った村長さん、今度は『産むな、増やすな! 大作戦』を始めようとするわけ。そしたらね、村人たちが怒っちゃって。『何を今さら!』って」


 ここで、私は立ち上がる。身振り手振りを交えながら、村人たちの怒りの様子を表現する。


「『村長さんの言うことにゃ、もう従いませんよ!』『そうだそうだ!』って具合に、村中が大騒ぎ。さあ、どうなることやら」


 そして、最後の展開へ。


「そこでね、一人の賢い爺さんが出てきてこう言ったと。『みんな、落ち着きな。子どもを産むも産まないも、それは夫婦が決めることだ。村や国がとやかく言うことじゃない。ただ、子どもが欲しい人には支援をし、産みたくない人には別の形で村に貢献してもらう。そうすりゃ、みんなが幸せになれるんじゃないか?』って」


 客席が、水を打ったように静かになる。


「そう言われてみれば、なるほど。村人たちも納得。そして村長さんも、『そうか、そういうことか』って」


 最後に、オチをつける。


「そうして村は、みんなが自分の生き方を選べる、そんな場所になったとさ。めでたし、めでたし」


 一礼して、噺を締めくくる。


 客席からは、大きな拍手が沸き起こる。笑いと共に、何か考えさせられるものがあったようだ。


 高座を降りる時、私の胸には大きな達成感があった。伝統的な形式を守りながら、現代の問題にも切り込む。これこそが、私の目指す落語の形なのだ。


 楽屋に戻ると、さくらが待っていた。


「師匠、素晴らしかったです!」


「ありがとう、さくら。でも、まだまだ改善の余地はあるわね」


 二人で、噺の細部について話し合う。こうして、また新たな高座への準備が始まっていくのだ。



◆花緑、母に送る最後の落語


 春風亭花緑の人生に、突然の暗い影が落ちた。

 長年、彼女を支え続けてきた母が、静かに息を引き取ったのだ。


 「お母さん……」


 病院のベッドで横たわる母の手を握りしめながら、花緑は涙を流した。最期まで、穏やかな笑顔を浮かべていた母。その姿が、花緑の心に深く刻まれた。


 葬儀の準備が始まった。花緑は悲しみに暮れながらも、母を送る準備に奔走した。そんな中、母の遺言が見つかった。そこには意外な言葉があった。


「わたしのお葬式で落語をやってちょうだい。そしてみんなを笑顔にして、私を送ってちょうだい」


 その言葉を目にした瞬間、花緑は声を上げて泣いた。


(お母さん、最後まで私のことを……)


 母は常に花緑の一番の理解者だった。落語家になると決めた時も、周りが反対する中で、母だけは花緑の背中を押してくれた。


「あなたの笑顔が、私の幸せよ」


 そう言って、母はいつも花緑を励ましてくれた。辛い修行の日々も、なかなか高座で認められなかった日々も、母の言葉が花緑を支え続けた。


 葬儀の日。春の柔らかな日差しが、静かな会場を包み込んでいた。黒い喪服に身を包んだ参列者たちが、次々と会場に訪れる。花緑の落語仲間たち、ファンの方々、そして母の古くからの友人たち。みんなの表情に、深い悲しみが刻まれている。


 式が始まり、読経の声が会場に響き渡る。花緑は、祭壇に飾られた母の遺影を見つめながら、心の中で語りかけた。


(お母さん、必ず、あなたの願い通りにします)


 そして、いよいよその時が来た。


「では、故人の遺志により、春風亭花緑様に一席お願いいたします」


 司会者のアナウンスに、会場がざわめいた。葬儀で落語? 戸惑いの声が、小さくつぶやかれる。


 花緑はゆっくりと立ち上がり、祭壇の前に設けられた小さな高座へと向かった。深々と一礼をすると、静かに座布団に腰を下ろす。


「本日は、母の葬儀にお集まりいただき、ありがとうございます」


 花緑の声が、少し震えている。深呼吸をして、気持ちを落ち着かせる。


「母の遺言で、このような場で高座に上がることになりました。最後まで私のことを思ってくれていた母に、この高座で恩返しができること、とてもありがたく思います」


 そう言って、花緑は柔らかな笑みを浮かべた。


「さて、母が生前最も好きだった『子ほめ』(*1)を聞いていただきます」


 噺が始まった。最初は戸惑いの表情だった参列者たちも、次第に話に引き込まれていく。


「そりゃもう、うちの子は天才でごぜえます。まだはいはいもできないのに、もう『ママ』だの『パパ』だの言いよった」


 花緑の声が、会場に響き渡る。張りのある声。しっかりとした語り口。そこには、プロの落語家としての誇りと、母への感謝の気持ちが込められていた。


「で、このあいだなんて言いよったと思います? 『関数』ですよ、『関数』!」


 思わず、会場から小さな笑い声が漏れる。


「『どこで覚えたんだ?』と聞いたら、『微分積分に出てきたから』だと。ほら、天才でしょう?」


 今度は大きな笑い声が起こった。参列者たちの表情が、少しずつ和らいでいく。


 花緑は、噺の中に自分と母の思い出を織り交ぜていった。母が花緑の高座を初めて見に来てくれた時のこと、失敗した時に励ましてくれたこと、成功を心から喜んでくれたこと。


「『うちの子は、お客様を笑顔にする天才よ』って、母はよく言ってくれました。そう言ってくれる母が、私の一番のファンでした」


 涙をこらえながら、花緑は噺を進めていく。会場の空気が、徐々に変わっていった。悲しみに沈んでいた表情が、懐かしさと温かさに包まれていく。


 そして、最後のオチへ。


「『ねえ、うちの子が将来何になると思う?』って聞かれて、私は胸を張って答えましたとさ。『そりゃあ、総理大臣に決まってるでしょう!』って。そしたら隣のお母さん、『あら、うちの子と同じね』だって。『えっ、そうなの?』って聞いたら、『ええ、うちの子も毎日、おもちゃの税金を上げたり下げたりして遊んでるのよ』だって。はぁ~、子供の成長って本当に悩ましいもんですね」


 大きな笑い声と拍手が沸き起こった。参列者たちの目には、涙が光っていた。でも、その涙は悲しみだけのものではない。懐かしさ、温かさ、そして何より、故人への感謝の気持ちが込められていた。


 高座を降りる花緑の目にも、大粒の涙が浮かんでいた。祭壇に向かって深々と一礼をする。


(お母さん、聞こえましたか? みんなの笑い声)


 その瞬間、花緑には母の笑顔が見えた気がした。優しく微笑みながら、「よくやったわ」と言っているような。


 式の後、多くの参列者が花緑に声をかけてきた。


「花緑さん、素晴らしい落語でした。きっとお母様も喜んでいると思います」


「こんな素敵な送り方、初めて見ました。感動しました」


「笑って泣いて、不思議な気分です。でも、心が温かくなりました」


 その言葉一つ一つが、花緑の心に染み渡った。


 帰り際、ふと空を見上げると、美しい夕焼けが広がっていた。茜色に染まる空を見ながら、花緑は心の中でつぶやいた。


(お母さん、ありがとう。最後まで、私に大切なことを教えてくれて)


 春風亭花緑は、これからも高座に立ち続ける。人々を笑顔にし、心を温かくする。それが、母から受け継いだ大切な使命。そして、自分自身の人生の意味なのだと、改めて感じた瞬間だった。


 その日以来、花緑の落語には新たな深みが加わった。笑いの中に、人生の機微や温かさがより色濃く表現されるようになった。それは、最愛の母との別れが教えてくれた、かけがえのない贈り物だった。


 高座に立つたび、花緑は思い出す。母の笑顔を、そして最後の言葉を。


「みんなを笑顔にして」


 その言葉を胸に、花緑は今日も、明日も、高座に立ち続ける。人々の心に、笑いと温もりを届けるために。


(了)

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