仕掛け罠猟師:鹿島楓さん
◆夜明けの決意
冷たい空気が肌を刺す早朝、鹿島楓は目を覚ました。窓の外はまだ暗く、山の輪郭だけがおぼろげに見える。彼女は静かに起き上がり、左膝から下が義足になっている自分の姿を一瞬見つめた。
「さて、今日も始めるか」
楓は小さくつぶやき、身支度を始めた。化粧っ気のない素顔に、山の空気に強くなった肌が朝日を待っている。服装は機能性重視の作業着。かつては女性らしさを意識したこともあったが、今はそんな贅沢は考えもしない。
小屋を出る前、楓は壁に掛けられた写真に目を向けた。そこには、妹の椿と二人で笑っている若かりし日の自分の姿があった。
「椿、今日もいい天気になりそうだよ」
楓は微笑みながら呟いた。妹が山を去って5年。あの事故以来、二人の人生は大きく分かれてしまった。
楓は目を閉じてあの運命の日を思い出す……。
◆
あの日のことは、鮮明に楓の記憶に刻まれていた。
20年間のキャリアの中で最も恐ろしく、そして人生を大きく変えることになった日。
朝は、いつもと変わらなかった。
楓と椿は、いつものように早朝に目覚め、山での一日の準備を整えていた。
「今日は大物を狙おうか」
楓が提案すると、椿は少し不安そうな表情を浮かべた。
「姉さん、なんだか今日は嫌な予感がするわ」
「気にしすぎよ、椿。私たちは20年のベテランよ。大丈夫大丈夫」
楓は軽く笑って椿の肩を叩いた。しかし、後になって思えば、あの時の椿の直感に耳を傾けるべきだったのかもしれない。
二人は深い森の中へと入っていった。秋の気配が漂い始めた山は、色とりどりの紅葉に彩られていた。しかし、その美しさとは裏腹に、森の中には何か不穏な空気が漂っているようだった。
「姉さん、ここら辺で熊の痕跡(*0)が多いわね」
椿が地面に残された爪痕を指差した。
「そうね。でも、それだけ獲物の可能性も高いってことよ」
楓は慎重に周囲を観察しながら、さらに奥へと進んでいった。彼女の中には、ベテラン猟師としての自信と、大物を仕留めたいという欲望が渦巻いていた。
昼過ぎ、二人は小さな渓流のほとりで休憩を取ることにした。
「ここで昼食にしましょう」
楓が提案し、二人は携帯食を取り出した。
しかし、その時だった。
「姉さん!」
椿の悲鳴が響き渡る。
楓が振り返ると、巨大な熊が目の前に立ちはだかっていた。
いつ? なぜ? どうして? 私たちがまったく気づかないなんて……!
「椿、逃げて!」
楓は咄嗟に叫んだ。しかし、熊は既に彼女に襲いかかっていた。
「うわああっ!」
楓の悲鳴が森に響く。
熊の巨大な爪が、彼女の左足を捉えた。激痛が全身を走る。
「姉さん!」
椿の叫び声が聞こえる。しかし、楓の意識はすでに激痛と恐怖で朦朧としていた。
次の瞬間、銃声が響き渡った。
椿が発砲したのだ。
しかし、一発では熊を倒すには至らなかった。
熊は怒り狂い、さらに楓に襲いかかる。左足は既に血まみれで、もはや形を失っていた。
「くっ……」
楓は必死に抵抗しようとしたが、巨大な熊の力の前には無力だった。
再び銃声が響く。今度は、熊の動きが鈍った。
「姉さん! しっかりして!」
椿の声が、遠くから聞こえてくる。
楓の意識が遠のいていく中、最後に見たのは、必死に駆け寄ってくる椿の姿だった。
……
目を覚ました時、楓は病院のベッドの上にいた。
「よかった……もう目が覚めないのかと思った……」
椿の涙声が聞こえる。
「椿……私は……」
楓は自分の左足を見ようとしたが、そこにあるはずの足は、なかった。
ただ膝が包帯に包まれているだけだった。
「姉さん、ごめんなさい。私がもっと早く……」
椿は泣きじゃくりながら謝罪を繰り返した。
楓は、自分の状況を理解するのに時間がかかった。
左足を失ったこと。
もう二度と以前のように山を駆け回ることはできないこと。
そして、それが自分の不注意が招いた結果だということ。
「椿、あなたのせいじゃないわ。私が……私が油断したの」
楓は、力なく呟いた。
その日から、楓の人生は大きく変わることになった。リハビリの日々、義足との格闘、そして何より、自分の過ちと向き合う日々。
しかし、楓の中で山への思いは消えることはなかった。むしろ、この経験を通して、山との向き合い方、自然への敬意、そして命の尊さを、より深く理解することになったのだ。
あの日の経験は、楓に大きな代償を払わせた。しかし同時に、彼女を新たな境地へと導く、運命の一日となったのだった。
◆
小屋を出ると、澄んだ山の空気が肺いっぱいに広がる。楓は深呼吸をし、今日の仕事に向けて心を落ち着かせた。
最初の仕事は、昨日仕掛けた罠(*1)の見回りだ。楓は慣れた手つきで義足を調整し、山道を進み始めた。歩くたびに聞こえる義足の軽い機械音が、朝の静寂を破る。
「おはようございます、楓さん」
途中で出会った若い男性猟師、山本に声をかけられた。
「おはよう、山本くん。今日はどんな獲物を狙うの?」
「はい、イノシシを追おうと思ってます。楓さんの罠に何か掛かってるといいですね」
楓は微笑んで頷いた。山本は事故後、彼女を支えてくれた数少ない仲間の一人だ。
「ありがとう。気をつけて行ってらっしゃい」
山本が去った後、楓は再び歩き始めた。かつては駆け足で山を駆け回っていた自分を思い出す。今は、一歩一歩の重みを感じながら、慎重に進むしかない。
「でも、これはこれで山の声がよく聞こえるようになったかもしれないわね」
楓は自分に言い聞かせるように呟いた。確かに、歩くペースが遅くなったことで、以前は気づかなかった小さな変化にも敏感になった。鳥のさえずり、木々のざわめき、獣の足跡……全てが、より鮮明に感じられるようになった。
最初の罠に到着すると、楓は慎重に周囲を確認した。罠を仕掛ける際は、自然の一部のように見せることが重要だ。不自然さを感じた獲物は決して近づかない。
「よし、異常なしね」
楓は安堵の息を吐いた。罠に獲物がかかっていないことに、少しばかりの失望を感じつつも、自然の摂理を尊重する気持ちが心の中で大きくなる。
次の罠へと向かう途中、楓は椿のことを考えていた。妹は今、都会で幸せな家庭を築いている。時折届く手紙には、幼い娘の成長ぶりや、日々の幸せが綴られている。
「椿、あなたの選択は間違っていなかったわ」
楓は心の中でつぶやいた。妹が山を去った時、楓は複雑な思いを抱えていた。寂しさ、怒り、そして罪悪感。しかし今は、妹の幸せを心から祝福できる。椿は今は一般の男性と結婚して一人娘にも恵まれている。
「でも私は、やっぱりここにいるしかないの」
楓の目に、強い意志の光が宿る。
彼女にとって、山は単なる仕事場ではない。
生きる場所であり、魂の故郷なのだ。
二つ目の罠に近づくと、楓は足を止めた。獣の気配を感じたのだ。静かに身を隠し、息を潜めて状況を観察する。
そこには、罠にかかったキツネの姿があった。
「ごめんね。でも、これも自然の摂理よ」
楓は静かに近づき、素早く確実な動きでキツネを仕留めた。獲物の命を無駄にしないこと。それが、彼女の信念だった。
キツネを背負い、楓は次の罠へと向かった。山の斜面を上っていく中で、彼女は自分の人生を振り返っていた。
20年間、双子の妹と共に歩んできた猟師の道。そして、あの事故。左足を失った時、楓は全てを失ったように感じた。しかし、再び山が彼女を受け入れてくれた。義足でも、罠を仕掛けることはできる。むしろ、より繊細な技術と洞察力が磨かれたとさえ感じる。
「そう、私の人生は、まだ終わっていないのよ」
楓は強く握りしめた拳をゆっくりと開いた。そこには、山の土が付いていた。彼女の全てが、この山と共にあることの証だった。
◆午後の試練
真昼の日差しが森を金色に染める頃、楓は小屋に戻ってきた。朝の見回りで獲れたキツネを丁寧に処理し、毛皮(*2)を剥ぐ作業に取り掛かる。
「さて、今日の午後は新しい罠の仕掛けね」
楓は呟きながら、作業台の上に道具を並べ始めた。ワイヤー、バネ、トリガー装置……全て、彼女が長年の経験で選び抜いた最高級の道具だ。
「椿、覚えてる? 私たちが最初にこの罠を作った日のこと」
楓は懐かしそうに微笑んだ。かつては、二人で力を合わせて罠を仕掛けていた。今は一人。しかし、その寂しさを埋めるかのように、技術は日々進化している。
小屋を出る前、楓は鏡に映る自分の姿を見つめた。40歳を過ぎた顔には、山の風雪が刻んだ深い皺がある。しかし、その目は20年前と変わらず、強い意志に満ちていた。
「よし、行こう」
楓は決意を新たに、山へと向かった。今日の目的地は、最近イノシシの出没が多い渓谷だ。険しい道のりだが、彼女の歩みは確かだった。
途中、楓は若い女性猟師の菜々子と出会った。
「楓さん、こんにちは。今日も罠の仕掛けですか?」
「ええ、そうよ。菜々子は?」
「はい、私はまだ銃猟の練習中です。でも、なかなか上手くいきません」
菜々子の表情に、悔しさが滲んでいた。
「大丈夫よ。誰でも最初は苦労するものよ。私だって、最初は散々だったわ」
楓は優しく微笑んだ。
「でも、楓さんは今や伝説の罠師じゃないですか。私もいつかそんな風になれるでしょうか?」
「なれるわよ。大切なのは、諦めないこと。そして、山を敬う心を忘れないこと」
楓は真剣な眼差しで菜々子を見つめた。
「ありがとうございます。頑張ります!」
菜々子が元気よく答え、別れを告げて去っていった。
「若い子が増えてきたわね」
楓は嬉しそうに呟いた。
男社会だった猟の世界にも、少しずつ変化の兆しが見えている。
目的地に到着すると、楓は慎重に周囲を観察し始めた。イノシシの足跡、食痕、そして獣道(*3)。全ての情報を総合し、最適な罠の位置を決める。
「ここね」
楓は決断を下し、罠の設置作業に取り掛かった。ワイヤーを張り、バネの強さを調整し、最後にトリガー装置を仕込む。全ての動作が無駄なく、流れるように行われる。
「椿、見ていてくれる? 私、まだまだ上手くなってるわよ」
楓は空に向かって呟いた。妹への思いが、ふと込み上げてくる。
罠の設置が完了すると、楓はしばらくその場に座り込んだ。陽が傾き始め、森に夕暮れの気配が漂い始めている。
「山は、本当に美しい」
楓は深く息を吐いた。この景色、この空気、そして山の鼓動。全てが彼女の一部となっている。
「でも、時々思うの。私も椿のように、普通の幸せを選んでいたら……」
楓は自問自答を続けた。
結婚や出産、家庭を持つという選択肢。
それらは、彼女の人生からいつの間にか消えていた。
「いいえ、これが私の選んだ道。後悔はないわ」
楓は強く頷いた。彼女にとって、山こそが家族であり、恋人であり、全てだった。
夕暮れが深まる中、楓はゆっくりと立ち上がった。明日も、新たな挑戦が待っている。罠の技術を磨き、若い世代に伝えていく。それが、彼女の新たな使命だった。
「さあ、帰ろう。明日も早いしね」
楓は微笑みながら、小屋への帰路についた。義足の音が、静かな森にリズムを刻んでいく。
その夜、楓は久しぶりに椿に手紙を書くことにした。山での日々、新しい仲間たちのこと、そして変わらぬ姉妹への愛。ペンを走らせる楓の目に、静かな涙が光っていた。
◆月下の対話
夜の帳が降りた山小屋で、楓は椿への手紙を書き終えた。窓の外では、満月が山々を銀色に染めている。
「さて、今日の締めくくりね」
楓は立ち上がり、小屋の外に出た。月明かりに照らされた山道を、彼女は静かに歩み始める。目指すのは、かつて椿と二人で見つけた秘密の場所。月見台と呼んでいた小さな岩場だ。
義足を装着したまま、楓は慎重に岩を登っていく。かつてはもっと軽々と登れたはずだが、今は一歩一歩が挑戦だ。
「ふう……やっと着いたわ」
頂上に辿り着いた楓は、深く息を吐いた。目の前に広がる景色は、15年前と変わらない壮大さだった。
「椿、見える? こんなに美しい月……」
楓は空に向かって語りかける。妹との思い出が、まるで映画のように頭の中を駆け巡る。
「あのね、椿。正直に言うと、あたし時々寂しいの」
楓は膝を抱えて座り込んだ。
「あなたが山を降りた時、私、本当は怒っていたの。『なぜ私を置いていくの』って。でも今は分かるわ。あなたの選択が正しかったって」
月の光が、楓の頬を伝う一筋の涙を照らし出す。
「でも私には、この山しかないの。ここが私の全て。だから……」
言葉が途切れる。深い森の静寂が、楓の心の叫びを包み込む。
「ねえ、椿。あたし、まだまだ頑張るわ。この義足でも、あたしにしかできない仕事があるの。若い子たちに、山の大切さを教えていくの」
楓の声に、少しずつ力強さが戻ってくる。
「それに、あなたの娘さんが大きくなったら、この山を案内してあげたいの。おばちゃんの仕事を見せてあげたいの」
楓は空を見上げ、深呼吸をした。
「椿、ありがとう。あなたがいてくれたから、私はここまで来られたの。これからも、遠くからでいいから、見守っていてね」
静かな夜風が、楓の髪を優しく撫でる。
しばらくして、楓はゆっくりと立ち上がった。明日からの仕事のことを考えると、もう休まなければならない。
下山する途中、楓は若いオオカミと目が合った。お互いに、しばらく動かずにいる。
「ごめんね、驚かせちゃって」
楓が小さく呟くと、オオカミはゆっくりと身を翻し、森の中へと消えていった。
「山の仲間たちも、私を受け入れてくれているのね」
楓は微笑んだ。彼女の心に、新たな決意が芽生えていた。
小屋に戻った楓は、明日の準備を始める。罠の修理道具、地図、非常食……全てを丁寧に揃えていく。
「明日は、新しい罠を仕掛けてみようかな」
楓は、最近考案した新しいタイプの罠(*4)のスケッチを眺めていた。より自然に溶け込み、獲物にも優しい設計だ。
「これで、もっと山に貢献できるはず」
楓の目に、かつてないほどの輝きが宿っていた。
就寝前、楓は再び窓の外を見た。満月が、まるで彼女を見守るかのように輝いている。
「おやすみ、椿。そしておやすみ、山よ」
楓はそっとつぶやき、眠りについた。明日もまた、新たな挑戦が彼女を待っている。山と共に生きる誇り高き罠師として、楓の物語は続いていく。
◆夜明けの誓い
夜が明ける前、楓は目を覚ました。小屋の中は、まだ薄暗い。しかし、彼女の体は山の律動と共に動き始めていた。
「さて、新しい一日の始まりね」
楓は静かに身支度を整える。鏡に映る自分の姿を見つめながら、ふと思い出す。
「そういえば、今日は私が猟師になって25年目の記念日だったわ」
感慨深げに微笑む楓。四半世紀という歳月が、彼女の人生そのものだった。
朝食を済ませ、楓は小屋を出た。まだ暗い山道を、彼女は慣れた足取りで進んでいく。目指すのは、昨日仕掛けた新型の罠だ。
「うまくいっているといいけど」
楓は心の中で祈りながら歩を進める。新しい罠は、獲物にも優しく、より効率的に働くはずだ。それは、彼女の25年の経験が生み出した結晶とも言えるものだった。
途中、若い猟師の山田と出会った。
「おはようございます、楓さん。今日も早いですね」
「おはよう、山田くん。猟は朝早いものよ」
「はい。でも楓さんみたいに、毎日こんなに早く起きられるようになるのは大変です」
「慣れよ。それに、山の朝の美しさを知れば、自然と早起きになるわ」
楓は優しく微笑んだ。若い世代に山の素晴らしさを伝えることが、今や彼女の大切な使命の一つになっていた。
「楓さん、今度山の歩き方を教えてもらえませんか?」
「もちろんよ。いつでも声をかけてね」
別れ際、楓は山田の背中を見送りながら考えた。
「若い子たちが増えてきて、本当に嬉しいわ。でも、まだまだ私にしかできないことがある」
新型の罠に到着すると、楓は息を呑んだ。罠には、大きなイノシシがかかっていた。
「やった! 成功したのね」
楓は喜びを抑えきれず、小さく拍手した。しかし、すぐに表情を引き締める。獲物の命を無駄にしないこと。それが彼女の信条だった。
「ごめんね。でも、ありがとう」
楓は静かにイノシシに語りかけ、とどめを刺した。
イノシシを処理しながら、楓は考えていた。この新型の罠(*5)の成功は、彼女の猟師としての新たな章の始まりを意味している。
「椿、見てた? 私、まだまだ進化してるわよ」
楓は空に向かって呟いた。妹への思いは、いつも彼女の心の中にあった。
イノシシを背負い、楓は小屋への帰路についた。重い獲物を運ぶのは、義足になってから特に困難な作業だ。しかし、彼女の歩みは決して揺るがない。
「これも、修行のうちよ」
楓は自分に言い聞かせるように呟いた。
小屋に戻ると、楓は早速イノシシの解体(*6)に取り掛かった。慣れた手つきで、無駄なく作業を進めていく。
「肉は村に分けよう。皮は……そうね、新しい防寒具を作ろうかしら」
楓は作業をしながら、次々とアイデアが浮かんでくる。全てを無駄なく使い切る。それもまた、山への感謝の形だった。
夕暮れ時、楓は小屋の前で一息ついていた。今日一日の充実感が、彼女の体中に満ちている。
「25年か……長いようで短かったわね」
楓は遠くを見つめながら、自分の人生を振り返っていた。喜びも、悲しみも、全てが今の自分を作り上げている。
「でも、まだまだこれからよ」
楓の目に、強い決意の光が宿る。
「明日からも、山と共に生きていく。それが私の道」
楓は静かに立ち上がり、夕焼けに染まる山々を見つめた。そこには、彼女の過去と未来が広がっている。
「さあ、明日の準備をしましょう」
楓は小屋に戻り、明日の仕事の準備を始めた。罠の修理、地図の確認、道具の手入れ……。全ての作業に、彼女の25年の経験と、これからへの思いが込められている。
就寝前、楓は椿への手紙を書き足した。
「椿へ。今日、私は猟師になって25年目を迎えたわ。色々あったけど、この道を選んで本当によかったと思っている。これからも、山と共に生きていくわ。あなたの幸せを、いつも祈っているからね」
ペンを置き、楓は深く息を吐いた。明日もまた、新たな挑戦が彼女を待っている。しかし、もう怖れることはない。彼女には、25年の経験と、山への深い愛がある。
「おやすみ、山よ。明日もよろしくね」
楓はそっとつぶやき、眠りについた。山の静寂が、彼女の夢を優しく包み込んでいく。
◆未来への架け橋
朝もやが晴れ始めた頃、楓の小屋に珍しい来客があった。地元の中学校の先生と生徒たちだ。
「楓さん、お邪魔します。今日は、生徒たちに山の仕事を見せていただけないでしょうか?」
先生の久保田が丁寧に頭を下げる。
「もちろんよ。山の大切さを知ってもらえるなら、喜んで」
楓は微笑んで答えた。生徒たちの好奇心に満ちた目を見て、彼女の心は温かくなった。
「みんな、今日は特別な授業よ。山での生活がどんなものか、しっかり見てね」
楓は生徒たちに語りかけ、山への案内を始めた。
最初に向かったのは、昨日成功した新型の罠(*7)の場所だ。
「これが、私が最近開発した新しいタイプの罠よ。獲物にも優しく、より効率的なの」
楓は丁寧に罠の仕組みを説明した。生徒たちは真剣な表情で聞き入っている。
「楓さん、どうしてこんな罠を考えたんですか?」
一人の女子生徒が質問した。
「それはね、山への感謝の気持ちからよ。私たちは山の恵みをいただいて生きている。だからこそ、必要以上に山に負担をかけてはいけないの」
楓の言葉に、生徒たちは深く頷いた。
案内を続ける中、楓は自分の経験や山での生活について語った。義足になってからの苦労や、それを乗り越えた喜び。山と共に生きることの意味。
「皆さん、山は決して優しくないわ。時に厳しく、危険なこともある。でも、それ以上に多くのものを与えてくれる」
楓の言葉に、生徒たちは真剣な表情を浮かべていた。
昼食時、楓は生徒たちに山の幸を使った料理(*8)を振る舞った。
「わあ、美味しい!」
「こんな料理、初めて食べました」
生徒たちの声が、山に響く。
「山の恵みは、こんなに豊かなのよ。でも、それを得るためには、山を理解し、敬う心が必要なの」
楓は優しく諭すように言った。
午後、楓は生徒たちに簡単な罠の作り方を教えた。彼女の指導は的確で、生徒たちは熱心に学んでいく。
「楓さん、すごいです。こんなに複雑なことを、簡単に教えてくれて」
久保田が感心した様子で言った。
「ありがとう。でも、これは長年の経験があってこそよ。山と向き合い続けた結果なの」
楓は謙遜しつつも、誇らしげに答えた。
日が傾き始めた頃、楓は生徒たちを見送った。
「楓さん、今日は本当にありがとうございました。子供たちに、かけがえのない経験をさせていただきました」
久保田が深々と頭を下げる。
「いいえ、こちらこそありがとう。若い世代に山の大切さを伝える機会を与えてくれて」
楓は心からの感謝を込めて答えた。
生徒たちが去った後、楓は深く息を吐いた。今日の経験は、彼女に新たな気づきを与えてくれた。
「私には、まだまだやるべきことがあるわ」
楓は空を見上げながら呟いた。山での技術を若い世代に伝えること。それは、彼女の新たな使命となった。
その夜、楓は椿への手紙に追伸を書いた。
「追伸:今日、地元の中学生たちに山の仕事を教えたの。彼らの目の輝きを見て、私はこの道を選んで本当によかったと思ったわ。椿、あなたの娘さんも、いつか山の素晴らしさを知ってほしいな」
手紙を書き終えると、楓は窓の外を見た。満天の星空が、彼女を見守るように輝いている。
「明日も、頑張ろう」
楓はそっとつぶやき、明日への希望を胸に抱きながら眠りについた。
注釈:
(*0) 熊の痕跡:熊が通った形跡。爪痕、足跡、食べ残しなどが含まれる。熊の生態を知る上で重要な手がかりとなる。
(*1) 罠:動物を捕獲するための装置。様々な種類があり、対象となる動物によって使い分ける。
(*2) 毛皮:動物の皮を加工したもの。防寒具や装飾品として使用される。
(*3) 獣道:野生動物が頻繁に通る道筋。猟師はこれを見つけ、罠を仕掛ける場所を決める。
(*4) 新しいタイプの罠:楓が開発した、より人道的で効率的な罠。従来の罠よりも獲物にストレスを与えにくい設計になっている。
(*5) 新型の罠:(*4)と同じ。
(*6) 解体:獲物を食用や他の用途に使えるよう、体を分割する作業。
(*7) 新型の罠:(*4)と同じ。
(*8) 山の幸を使った料理:山菜や獣肉などを使用した、山の恵みを生かした料理。
◆二人の想いが結実するとき
雪が静かに舞い降る冬の朝、楓は「歩み工房」の扉を開けた。クリニックの温かな空気が、外の寒さで赤くなった彼女の頬を包み込む。
「おはようございます、楓さん。お待ちしていました」
歩月の明るい声が、楓の緊張をほぐす。
「おはよう、歩月さん。今日はよろしくお願いします」
楓は微笑みながら、義足を軽く叩いた。
「そうそう、この子の調整をお願いしたくて」
歩月は楓を診察室に案内しながら、優しく尋ねた。
「最近はどうですか? 何か不具合はありませんか?」
楓は診察台に腰掛けながら答える。
「そうね、最近山での仕事が増えてね。少し右に傾く感じがするの」
歩月は慎重に楓の義足を観察し始めた。
その手つきは15年の経験が物語る確かさがあった。
「なるほど。山での作業は想像以上に義足に負担がかかるんですよね。でも、楓さんが山での仕事を続けられているのは本当に素晴らしいことです」
楓は懐かしそうに微笑んだ。
「ええ、あの事故の後、もう二度と山に戻れないと思ったわ。でも、歩月さんのおかげで、また山に立てるようになった。本当に感謝してるの」
歩月は作業の手を止め、楓の目を見つめた。
「私こそ感謝しています。楓さんとの出会いが、私の義肢装具士としての原点なんです」
二人の記憶は10年前へと遡る。
当時、義肢装具士として5年目だった歩月は、初めて楓の担当となった。山での熊との遭遇事故で左足を失った楓は、絶望の淵にいた。
「あの時の楓さんの目は、今でも忘れられません」と歩月が言う。
「でも、その目に再び希望の光を取り戻すお手伝いができたのは、私にとってかけがえのない経験でした」
楓は静かに頷いた。
「歩月さんの『一緒に山に戻りましょう』という言葉が、私を前に進ませてくれたのよ。あの時は正直、半信半疑だったけど」
歩月は楓の義足の調整を再開しながら、当時を振り返る。
「楓さんの義足は、私にとって大きな挑戦でした。山での使用に耐える強度と、繊細な動きを両立させるのは本当に難しかった。でも、楓さんの『必ず山に戻る』という強い意志に、私も応えたいと思ったんです」
楓は懐かしそうに笑った。
「そうそう、最初の義足は本当に重くて。山どころか、平地を歩くのも一苦労だったわ」
「ええ、あの頃は技術も今ほど進んでいませんでしたからね。でも、楓さんの頑張りには本当に驚かされました」
歩月は義足の微調整を続けながら、楓に尋ねた。
「最近、若い女性の猟師が増えていると聞きました。楓さんの影響もあるんでしょうね」
楓は照れくさそうに首を振った。
「まさか。でも、確かに最近は女性の猟師志望者が来るようになったわ。彼女たちを見ていると、昔の私を思い出すの」
「楓さんはロールモデルになっているんですよ。義足を使いながら猟師として活躍する姿は、多くの人に勇気を与えています」
楓は少し考え込むように言った。
「でも、正直なところ、まだまだ不安も多いの。年齢のこともあるし、この義足がいつまで私の伴走者でいてくれるのかって」
歩月は楓の手を取り、優しく握った。
「大丈夫です。技術は日々進歩しています。今回の調整で使う新しい素材は、従来のものより軽くて丈夫なんです。それに…」
歩月は少し言葉を詰まらせた後、続けた。
「実は、楓さんの経験を活かした新しいプロジェクトを始めようと思っています。山岳地帯での活動に特化した義足の開発です。楓さんに協力していただけないでしょうか?」
楓の目が輝いた。
「本当? もちろん、喜んで協力するわ。私の経験が誰かの役に立つなら、これ以上の喜びはないわ」
歩月は嬉しそうに頷いた。
「ありがとうございます。楓さんの経験と、私たちの技術が合わさることで、きっと素晴らしいものが作れると信じています」
二人は互いに微笑み合った。
その瞬間、楓は歩月のおだやかなお腹の膨らみに気づいた。
「あら、歩月さん。もしかして…?」
歩月は少し照れくさそうに頷いた。
「はい、5ヶ月になります。実は、この子が生まれたら、楓さんに名付け親になってほしいと思っていたんです」
楓は驚きと喜びで言葉を失った。
「私が? でも…」
「楓さん、あなたは私にとって、単なる患者さん以上の存在です。私の義肢装具士としての原点であり、人生の師でもあります。この子にも、あなたのような強さと優しさを持ってほしいんです」
楓の目に涙が浮かんだ。
「ありがとう、歩月さん。喜んでお受けします。きっと素晴らしい子に育つわ。私たちみんなで見守っていきましょう」
歩月は最後の調整を終え、楓に立ち上がるよう促した。
「さあ、新しい義足の感触はいかがですか?」
楓は慎重に立ち上がり、数歩歩いてみた。その動きは、まるで本物の足で歩いているかのように自然だった。
「すごいわ、歩月さん。こんなに軽くて、しかも安定感がある。まるで以前のように山を歩いているような感覚よ」
歩月は満足そうに頷いた。
「良かったです。これで楓さんの山での活動も、より安全で快適になるはずです」
楓は歩月に深々と頭を下げた。
「本当にありがとう。歩月さん、あなたは私の人生を変えてくれた。この義足は単なる道具じゃない。私の一部であり、夢を叶えるための翼なの」
歩月も目に涙を浮かべながら答えた。
「こちらこそ感謝です。楓さんとの出会いが、私の義肢装具士としての道を確かなものにしてくれました。これからも一緒に、多くの人の人生を支える義足を作っていきましょう」
診察室の窓から差し込む冬の陽光が、二人の姿を優しく包み込んでいた。楓の新しい義足が、陽の光を受けてわずかに輝いている。それは、二人の未来への希望を象徴しているかのようだった。
「さあ、これからも一緒に歩んでいきましょう。山も、人生も」
歩月の言葉に、楓は力強く頷いた。二人の前には、まだ見ぬ多くの挑戦が待っている。しかし、互いの存在が、その道のりをより豊かで意味深いものにしてくれることを、二人は確信していた。
雪が静かに降り続ける外の世界を見つめながら、楓と歩月は新たな一歩を踏み出す準備をしていた。彼女たちの物語は、まだ始まったばかり。これからも、義足と共に、人生という名の長い山道を歩み続けていくのだ。
◆山小屋への帰還
紅葉が山々を彩る秋の午後、楓の山小屋に久しぶりの来客があった。玄関先に立つのは、双子の妹・椿と、その夫、そして5歳になる一人娘の美樹(みき)だった。
「姉さん! 久しぶり!」
椿の声が、山の静寂を優しく破った。
楓は玄関に駆け寄り、妹を強く抱きしめた。二人の顔には、喜びの涙が光っていた。
「椿、やっと来てくれたのね。美樹ちゃんも、随分大きくなったわ」
楓は膝をつき、姪っ子の目線に合わせた。美樹は少し恥ずかしそうに母親の後ろに隠れたが、楓の優しい笑顔に、徐々に警戒心を解いていった。
「ほら、美樹。挨拶しなさい」
椿が優しく促すと、美樹は小さな声で「こんにちは」と言った。
「美樹ちゃん、おばさんの家に遊びに来てくれてありがとう。山の中は楽しいことがいっぱいあるのよ。一緒に探検しましょう」
楓の言葉に、美樹の目が輝いた。
家族を家の中に案内しながら、楓は妹の様子を観察した。椿の表情には都会での生活の疲れが見えるものの、幸せそうな雰囲気が漂っていた。一方で、楓は自分の姿が妹の目にどう映っているのかを少し気にしていた。年齢を重ね、山での生活で肌は荒れ、手には無数の傷跡がある。しかし、その目には山での生活が育んだ強さと優しさが宿っていた。
「姉さん、相変わらずたくましいわね。山での生活、大変じゃない?」
椿の言葉に、楓は少し照れくさそうに微笑んだ。
「そうね、大変なこともあるわ。でも、この山での生活が私の全てなの。毎日が新しい発見と挑戦よ」
楓は義足を軽く叩いた。
その仕草に、椿の目に一瞬悲しみの色が浮かんだが、すぐに笑顔に戻った。
「姉さんの強さには本当に驚かされるわ。私には想像もつかないもの」
楓は妹の言葉に深い愛情を感じながら、家族を居間に案内した。暖炉の火が部屋を柔らかく照らし、壁には楓が仕留めた獲物の毛皮(*1)が飾られている。都会から来た家族の目には、それらが新鮮に映ったようだった。
「さあ、まずはお茶でもどう? 山で採れたハーブティーよ」
楓が台所に向かう間、椿は夫と二人で居間を見回していた。
「姉さん、この部屋、随分変わったわね。でも、懐かしい雰囲気はそのままね」
椿の言葉に、楓は嬉しそうに頷いた。
「そうね。少しずつ改装してきたの。でも、私たちの思い出が詰まったものは、大切に残してるわ」
楓は窓際に飾られた古い写真を指さした。そこには、若かりし日の楓と椿が、猟の獲物と一緒に写っている姿があった。二人の目は輝き、未来への希望に満ちていた。
「あの頃は、まだ何も分かっていなかったわね」
椿が懐かしそうに言った。
「そうね。でも、あの時の気持ちは今も変わらないわ。この山を守り、山と共に生きていく。それが私の使命だと思ってる」
楓の言葉に、椿は深く頷いた。姉妹の間に流れる時間が、静かに、しかし確実に二人の絆を深めていることを感じていた。
そんな二人の会話を、美樹が不思議そうな目で見ていた。
「ねえ、おかあさん。おばさんの足、どうしたの?」
美樹の素直な質問に、部屋の空気が一瞬凍りついた。しかし、楓はすぐに優しい笑顔を浮かべた。
「美樹ちゃん、おばさんね、むかし山で大きな熊さんと出会ったの。その時に足を怪我しちゃって、こんな特別な足になったのよ」
楓は義足を見せながら、優しく説明した。
「でもね、この足のおかげで、おばさんは山でたくさんの動物たちと友達になれたの。だから、この足は大切な宝物なのよ」
美樹は目を輝かせて聞いていた。
「すごい! おばさん、強いんだね!」
美樹の純粋な感嘆に、楓と椿は思わず笑みを交わした。
「ありがとう、美樹ちゃん」
椿が娘を抱き寄せながら言った。
その言葉に、楓の目に涙が光った。
「さあ、お茶の準備ができたわ。それと、美樹ちゃん。お腹すいてない? おばさんが作った特製のクッキーもあるのよ」
楓の言葉に、美樹は嬉しそうに飛び跳ねた。
「わーい! クッキー大好き!」
家族全員で暖炉の前に集まり、楓の淹れた香り高いハーブティーとクッキーを楽しんだ。会話が弾む中、楓は時折窓の外を見やっていた。紅葉した山々が夕日に照らされ、まるで燃えるように輝いている。
「姉さん、この景色、本当に素晴らしいわ」
椿がため息をつきながら言った。
「ええ、毎日見ていても飽きないの。山の四季の移ろいが、私に生きる喜びを教えてくれるのよ」
楓の言葉に、深い感慨が込められていた。
しばらくして、美樹が落ち着きなく椅子の上で動き始めた。
「おかあさん、外で遊びたい!」
椿は少し心配そうな顔をした。
「でも、もう暗くなってきたわ。山は危険……」
椿の言葉を遮るように、楓が立ち上がった。
「大丈夫よ、椿。私が付いていくわ。美樹ちゃんに、山の素晴らしさを教えてあげたいの」
楓の自信に満ちた様子に、椿は安心したように頷いた。
「そうね。姉さんなら大丈夫ね。美樹、おばさんの言うことをよく聞くのよ」
美樹は嬉しそうに飛び跳ねながら、楓の手を取った。
「行ってきます!」
楓と美樹が外に出ていく姿を見送りながら、椿は夫に寄り添った。
「あなた、姉さんって本当にすごいわ。あんな大変な経験をしても、こんなに力強く生きている」
夫は静かに頷いた。
「ああ、楓さんの強さには本当に頭が下がるよ。でも、それ以上に感じるのは彼女の優しさだな。自然を愛し、人々を思いやる。そんな姿勢が、彼女を特別な存在にしているんだと思う」
椿は夫の言葉に深く同意しながら、姉の背中に重ねて見た自分の人生を振り返っていた。
◆月光の下での冒険
夜の帳が降りた山の中を、楓と美樹は静かに歩いていた。月明かりが木々の間から漏れ、幻想的な雰囲気を醸し出している。美樹は、楓の手をしっかりと握りながら、好奇心旺盛な目で周囲を見回していた。
「おばさん、あれ何?」
美樹が指さす先には、大きな木の幹に空いた穴があった。
「あれはね、フクロウさんのおうちよ。夜になると出てきて、森の中を飛び回るの」
楓の説明に、美樹の目が輝いた。
「わあ、フクロウさん見たい!」
楓は優しく微笑んだ。
「そうねえ。でも、フクロウさんはとってもシャイなの。静かにしていれば、もしかしたら会えるかもしれないわ」
二人は息を潜めて、フクロウの巣を見つめた。しばらくすると、「ホーホー」という鳴き声が聞こえ、大きな翼を持つ影が木から飛び立った。
「わあ! 見えた!」
美樹は小さな声で喜びを表現した。楓は心の中で、この瞬間を美樹の心に刻んでほしいと願った。
「美樹ちゃん、山にはね、たくさんの生き物がいるの。フクロウさんも、鹿さんも、熊さんも。みんな、この山で家族と一緒に暮らしているのよ」
美樹は真剣な表情で楓の言葉に耳を傾けた。
「おばさんも、この山の家族なの?」
楓は美樹の質問に、心を打たれ、言葉を失った。
「……そうね。私もこの山の大切な家族の一員なの。だから、山の生き物たちを守ることが、私の仕事なのよ」
楓は義足を軽く叩いた。
「この足のおかげで、私は山の中をどこへでも行けるの。生き物たちを守ることができるの」
美樹は楓の義足を不思議そうに見つめた。
「おばさんの足、かっこいい! 私も大きくなったら、おばさんみたいになりたい!」
美樹の無邪気な言葉に、楓は胸が熱くなった。自分の経験が、次の世代に何かを伝えられるのかもしれない。そう思うと、今までの苦労が報われる気がした。
「ありがとう、美樹ちゃん。でもね、大切なのは足じゃないの。心なのよ。山や動物たちを愛する心。それがあれば、どんな形でも山の家族になれるの」
美樹は真剣な表情で頷いた。
二人が歩を進めると、小川のせせらぎが聞こえてきた。月明かりに照らされた水面が、きらきらと輝いている。
「わあ、きれい!」
美樹は小川の縁に駆け寄ろうとしたが、楓がそっと肩を抑えた。
「気をつけてね。夜の山は昼とは違うの。見えないところに危険が潜んでいるかもしれないわ」
楓は優しく諭しながら、美樹の手を取って小川の縁まで案内した。二人で腰を下ろし、水面に映る月を眺めた。
「ねえ、美樹ちゃん。この水の音が聞こえる? これはね、山が歌っている声なのよ」
美樹は目を閉じて、真剣に耳を澄ました。
「聞こえる! 山さん、お歌上手!」
楓は美樹の純真な反応に、心が温かくなるのを感じた。子どもの目を通して見る山の美しさは、また違った魅力がある。
しばらくして、美樹が小さな声で言った。
「おばさん、ちょっと寒い……」
楓はすぐに上着を脱ぎ、美樹に掛けてあげた。
「そうね、もう帰る時間かもしれないわ。でも、その前にもう一つだけ、素敵なものを見せてあげる」
楓は美樹を抱き上げ、小高い丘に向かって歩き始めた。丘の上に着くと、楓は美樹を優しく下ろした。
「さあ、空を見てごらん」
美樹が空を見上げると、息を呑むほどの星空が広がっていた。
「わあ! お星さまがいっぱい!」
楓は美樹の隣に座り、一緒に星空を眺めた。
「都会では、こんなにたくさんの星は見えないでしょう。山には、こんな素敵な景色がたくさんあるのよ」
美樹は楓にもたれかかりながら、夢中で星を数え始めた。楓は美樹の温もりを感じながら、自分の人生を振り返っていた。
(あの事故がなければ、私も都会で普通の生活をしていたかもしれない。でも、そうしていたら、こんな素晴らしい景色や、山の生き物たちとの触れ合いは体験できなかったかもしれない)
楓は自分の義足を見つめた。それは単なる補助具ではなく、新しい人生への扉を開いてくれた鍵だった。
「美樹ちゃん、おばさんね、この山で生きていて本当に幸せなの」
美樹は楓の顔を見上げ、無邪気に笑った。
「うん! おばさんの家、大好き! また来てもいい?」
楓は美樹を強く抱きしめた。
「もちろんよ。いつでも来てね。おばさんがもっともっと山の素晴らしさを教えてあげるわ」
静かな夜の山の中で、楓は深い満足感に包まれていた。妹の家族との再会、美樹との触れ合い、そして何より、自分の選んだ道が間違っていなかったという確信。それらすべてが、楓の心を温かく満たしていた。
「さあ、帰りましょう。みんなが待ってるわ」
楓は美樹の手を取り、ゆっくりと山小屋への帰路についた。月明かりに照らされた二人の影が、山の斜面にゆっくりと伸びていった。
◆ジビエの宴
山小屋に戻ると、椿と夫が心配そうに玄関で待っていた。
「おかえりなさい。大丈夫だった?」
椿が美樹を抱き上げながら尋ねた。
「うん! すっごく楽しかった! フクロウさん見たよ!」
美樹の目は興奮で輝いていた。楓は満足げに微笑んだ。
「心配かけてごめんね。でも、美樹ちゃんはとっても良い子だったわ」
椿は安堵の表情を浮かべた。
「姉さん、ありがとう。美樹にとって、素晴らしい経験になったわ」
家族全員が居間に戻ると、楓は台所に向かった。
「さあ、みんな。お腹が空いたでしょう? 特製のジビエ料理(*2)を用意したのよ」
椿は目を輝かせた。
「まあ! 姉さんの料理、久しぶりね。楽しみだわ」
楓は手際よく料理を運び始めた。テーブルには、鹿肉のロースト、イノシシの煮込み、山菜のてんぷらなど、山の恵みを活かした料理が並んでいった。
「わあ、すごい!」
美樹が目を丸くして驚いている。
「さあ、みんな遠慮しないで食べてね」
楓が促すと、家族全員が箸を取った。
「いただきます!」
最初に口にした椿が歓声を上げた。
「美味しい! 姉さん、腕が上がったわね」
楓は照れくさそうに微笑んだ。
「ありがとう。山の食材を活かす料理方法を、少しずつ学んできたの」
美樹も、初めは恐る恐るだったが、一口食べるとすぐに夢中になった。
「おいしい! おばさん、すごい!」
楓は美樹の素直な反応に心が温かくなった。
食事が進むにつれ、会話も弾んでいく。椿の夫は、都会での仕事の話を楽しそうに語った。
「楓さん、こんな美味しい料理を毎日食べられるなんて羨ましいですよ」
楓は少し考え込むように言った。
「でも、獲物を仕留めるのは簡単ではないの。命をいただくということは、大きな責任も伴うわ」
椿が真剣な表情で頷いた。
「そうよね。姉さんは獲物の命に感謝しながら生きているのね」
楓は静かに微笑んだ。
「ええ。だからこそ、無駄にすることなく、最後の一片まで大切に使うの」
美樹が不思議そうに尋ねた。
「おばさん、動物さんかわいそうじゃないの?」
楓は優しく美樹の頭を撫でた。
「そうね、美樹ちゃん。でも、私たちは感謝の気持ちを込めて、動物さんの命をいただいているの。そして、その命を無駄にしないように、大切に使うの」
美樹は真剣な表情で頷いた。
食事が進むにつれ、楓は自分の人生を振り返っていた。かつては都会での生活に憧れたこともあった。しかし、今ではこの山での生活に深い充足感を覚えている。
「椿、覚えてる? 私たちが初めて猟に出た日のこと」
椿は懐かしそうに笑った。
「ええ、もちろん。あの時は怖くて仕方なかったわ」
楓は静かに頷いた。
「あの頃は、まだ何も分かっていなかったわね。でも、あの経験が今の私たちを作ったのよ」
椿は少し寂しそうな表情を浮かべた。
「姉さん、私が山を降りたとき、怒っていた?」
楓は椿の手を取った。
「最初は寂しかったわ。でも、今は分かるの。椿にはあなたの人生があるって」
椿の目に涙が浮かんだ。
「姉さん……」
楓は優しく微笑んだ。
「私には山があり、椿には家族がある。それぞれの幸せの形があるのよ」
美樹が二人の会話を不思議そうに聞いていた。
「おかあさん、泣いてるの?」
椿は涙をぬぐいながら娘を抱きしめた。
「大丈夫よ、美樹。おかあさんは今、とっても幸せなの」
楓は、目の前の光景を見つめながら、深い幸福感に包まれていた。家族の絆、山での生活、そして自分の選んだ道。全てが一つになって、かけがえのない今を作っている。
「みんな、乾杯しましょう」
楓がグラスを上げた。
「家族の絆と、それぞれの幸せに」
全員がグラスを合わせ、温かな雰囲気が部屋中に広がった。
窓の外では、満月が山々を優しく照らしている。楓は、この瞬間を心に刻み付けた。困難を乗り越え、自分の道を切り開いてきた人生。そして、今ここにある幸せ。
(これが、私の選んだ人生。そして、これからも選び続ける人生)
楓の心に、深い感謝と決意が芽生えていた。
◆思い出の中で
夜も更けて、美樹はすっかり眠りについていた。椿の夫が娘を抱いて客間に運び、椿と楓は二人きりになった。姉妹は暖炉の前に座り、グラスに注がれた山ぶどうのワインを静かに飲んでいた。
「姉さん、このワイン、懐かしい味がするわ」
椿が目を細めて言った。
「ええ、覚えてる? 私たちが初めて作ったワインよ」
楓は懐かしそうに微笑んだ。
「あの時は、発酵のさせ方もよく分からなくて、随分失敗したわね」
二人は笑い合った。その笑顔の中に、幾年もの時を経た深い絆が感じられた。
「椿、美樹ちゃんを見ていると、私たちの幼い頃を思い出すわ」
楓がしみじみと語る。
「そうね。美樹の好奇心旺盛な様子は、まるで小さい頃の姉さんみたい」
椿が答えた。
「ねえ、覚えてる? 私たちが初めて山に登った時のこと」
楓が尋ねると、椿は目を閉じて思い出に浸った。
「ええ、もちろん。あの時は怖くて仕方なかったけど、姉さんが手を引いてくれたわ」
「そうだったわね。あの時から、私はこの山が好きになったの」
楓は窓の外を見やった。月明かりに照らされた山々の姿が、静かに佇んでいる。
「椿、正直に言うと、あなたが山を降りた時、私はとても寂しかった」
楓の声に、少しの哀愁が混じる。
「姉さん……私もよ。でも、それぞれの道があったのね」
椿が静かに答えた。
「そうね。あなたには都会での生活が合っていた。私には、この山が必要だった」
楓は自分の義足を見つめた。
「この足のおかげで、私は新しい人生を見つけられたの。最初は辛かったけど、今では感謝しているわ」
椿は姉の手を優しく握った。
「姉さんは強いわ。私には想像もつかないような困難を乗り越えて、こんなに素敵な生活を築いている」
楓は妹の言葉に、胸が熱くなるのを感じた。
「強くなんかないわ。ただ、一歩ずつ、自分にできることをやってきただけよ」
二人は静かに寄り添い、暖炉の炎を見つめた。
「ねえ、椿。私ね、時々考えるの。もしあの事故がなかったら、私たちはどんな人生を送っていたのかって」
楓がポツリと呟いた。
「姉さん……」
「でもね、今の私の人生を、決して後悔してはいないの。この山での生活、動物たちとの触れ合い、そして新しい技術で人々を助けられること。全てが私の一部になっているわ」
椿は姉の横顔を見つめた。そこには、苦難を乗り越えた強さと、自然と共に生きる優しさが同居していた。
「姉さんの生き方は、私にとっても大きな励みになっているわ」
椿が静かに告白した。
「都会での生活に疲れたとき、姉さんの顔を思い出すの。そうすると、また頑張ろうって思えるの」
楓は妹を優しく抱きしめた。
「ありがとう、椿。あなたの言葉が、私の支えになっているのよ」
静寂が二人を包む。その中で、姉妹は言葉にならない多くのことを分かち合っていた。
「ねえ、姉さん。美樹のこと、どう思う?」
椿が少し不安そうに尋ねた。
「とても素直で、好奇心旺盛な子ね。山の空気が、彼女の感性をもっと豊かにしてくれると思うわ」
楓が答えると、椿はホッとしたように微笑んだ。
「そう言ってくれて嬉しいわ。美樹には、都会だけじゃなく、こういう自然の中での経験も大切だと思っていたの」
「ええ、そうね。美樹ちゃんには、これからもっと山の素晴らしさを教えてあげたいわ」
楓の言葉に、椿は深く頷いた。
「姉さん、これからも美樹を連れて来てもいい?」
「もちろんよ。いつでも歓迎するわ。この山小屋は、あなたたち家族の第二の家なのよ」
二人は再びグラスを合わせた。
窓の外では、夜明けの気配が少しずつ感じられ始めていた。楓は、この瞬間を深く心に刻み付けた。妹との再会、美樹との出会い、そして変わらぬ山への愛。全てが重なり合って、かけがえのない今を作っている。
(これが私の幸せ。山と共に生き、家族を守り、そして新しい世代に繋いでいく。これからも、この道を歩み続けよう)
楓の心に、新たな決意が芽生えていた。
◆新たな夜明け
朝もやが山々を包む頃、楓は一人で小屋の外に出た。冷たい朝の空気が肌を刺すが、それは楓にとって心地よい目覚めの合図だった。深呼吸をすると、山の香りが肺いっぱいに広がる。
「今日も、素晴らしい朝ね」
楓は小さく呟いた。義足を調整しながら、彼女は昨日の出来事を思い返していた。妹一家との再会、美樹との触れ合い、そして夜遅くまで椿と語り合ったこと。全てが温かな記憶として心に残っている。
小屋の裏手にある小さな畑に向かいながら、楓は今の自分の人生に深い満足感を覚えていた。畑には、山菜や季節の野菜が植えられている。楓は丁寧に野菜の様子を確認し、水やりを始めた。
「おばさん、おはよう!」
背後から元気な声が聞こえた。振り返ると、まだパジャマ姿の美樹が立っていた。
「あら、美樹ちゃん。早起きね」
「うん! おばさんと一緒に、お手伝いしたい!」
楓は嬉しそうに微笑んだ。
「ありがとう。でも、まずは顔を洗って、暖かい服に着替えてきてね」
美樹が小屋に戻る間、楓は畑仕事を続けた。しばらくすると、今度は椿が顔を出した。
「姉さん、相変わらず早起きね」
「ええ、山での生活にはすっかり慣れたわ。椿も、ゆっくり休んでいいのよ」
椿は首を振った。
「いいえ、久しぶりの山だもの。朝の空気を吸いたくて」
姉妹は並んで立ち、朝日に照らされる山々を眺めた。
「ねえ、姉さん。昨日は遅くまでありがとう」
椿が静かに言った。
「話せて良かったわ。久しぶりに、心の底から語り合えた気がする」
楓は優しく頷いた。
「私もよ。椿と話していると、時間が経つのを忘れてしまうわ」
その時、美樹が元気よく駆けてきた。
「おばさん、お手伝いする!」
楓は美樹に小さなジョウロを渡した。
「じゃあ、あの辺の野菜に水をあげてくれる? 優しくね」
美樹は真剣な表情で頷き、慎重に水やりを始めた。椿はその様子を温かく見守っている。
「姉さん、あたし正直不安なの。美樹のこと、ちゃんと育てられるかって思って……」
椿が少し困惑した表情で尋ねた。
「大丈夫よ。あの子はあなたに似て強い子よ。きっとまっすぐ育ってくれるわ」
楓が答えると、椿はホッとしたように微笑んだ。
「そう言ってくれて嬉しいわ。美樹には、都会だけじゃなく、こういう自然の中での経験も大切だと常々思っていたの」
「ええ、そうね。美樹ちゃんには、これからもっと山の素晴らしさを教えてあげたいわ」
楓の言葉に、椿は深く頷いた。
三人で畑仕事を終えると、楓は小屋の中に戻り、朝食の準備を始めた。椿と美樹も手伝い、キッチンはすぐに活気に満ちた。
テーブルには、昨夜のジビエ料理の残りと、畑で採れたての野菜サラダ、そして楓特製のハーブティーが並んだ。椿の夫も起き出してきて、家族全員で朝食を囲んだ。
「「「「いただきます!」」」」
全員で声を合わせた。
食事をしながら、楓は窓の外を見やった。朝日に照らされる山々が、新たな一日の始まりを告げている。
(これが、私の選んだ人生。そして、これからも選び続ける人生)
楓の心に、深い感謝と決意が芽生えていた。困難を乗り越え、自分の道を切り開いてきた人生。そして、今ここにある幸せ。全てが一つになって、かけがえのない今を作っている。
「姉さん、何か考え事?」
椿の声に、楓は我に返った。
「ええ、ちょっとね。この瞬間が、とても幸せだなって思って」
椿は優しく微笑んだ。
「私もよ。姉さんのおかげで、家族で素敵な時間が過ごせたわ」
美樹が元気よく声を上げた。
「おばさん! 今度はいつ来ていい?」
楓は美樹の頭を優しく撫でた。
「いつでも来ていいのよ。この山小屋は、あなたたち家族の第二の家なんだから」
椿と夫は感謝の気持ちを込めて頷いた。
朝食が終わり、椿一家が帰る準備を始める中、楓は静かに外に出た。山々を見渡しながら、彼女は深く息を吐いた。
(これからも、この山と共に生きていく。そして、美樹ちゃんたち次の世代に、山の素晴らしさを伝えていく。それが、私の新しい使命なのかもしれない)
楓の心に、新たな希望が芽生えていた。義足を軽く叩きながら、彼女は小屋に戻った。新しい一日が、そして新しい人生の章が、始まろうとしていた。
(了)
注釈:
(*1) 毛皮:動物の皮を加工し、防寒具や装飾品として使用されるもの。
(*2) ジビエ料理:狩猟で得た野生鳥獣の肉を使った料理。フランス語で「狩猟で得た野生鳥獣の肉」を意味する。
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