猟師:鹿島楓さん、鹿島椿さん

◆初心の季節


 朝靄の中、鳥のさえずりが耳に届く。私、鹿島楓(かしまかえで)は、まだ薄暗い山小屋の中で目を覚ました。隣では双子の妹、鹿島椿(かしまつばき)がまだ寝息を立てている。


「椿、起きろ」


 私は妹の肩を軽くゆすった。


「んん……もう朝?」


 椿が目をこすりながら起き上がる。私たち姉妹が猟師になって、早くも一年が過ぎようとしていた。


 山小屋の窓から差し込む薄明かりの中、私たちは静かに身支度を整える。猟に出るときの服装は、目立たないよう深緑や茶系統の色を選ぶ。化粧はしない。山の中で必要なのは、自然に溶け込むことだ。


 身支度を終えると、私たちは師匠の天野鷹山(あまのようざん)のもとへ向かう。鷹山師匠は、この地域では知らない者がいないほどの名うての猟師だ。


「遅い!」


 鷹山師匠の怒声が、小屋の外まで響き渡る。


「すみません」


 私たちは頭を下げながら小屋に入る。


「お前たちはまだまだ甘い。猟師の一日は、夜明け前から始まるんだ。覚えておけ」


 鷹山師匠の厳しい言葉に、私たちは黙って頷く。


「さあ、今日はわなの仕掛け方(*1)を教えてやる。しっかり見ておけよ」


 鷹山師匠は、手際よくわなを組み立て始めた。

 その動きは無駄がなく、まるで芸術のようだった。


「楓、お前がやってみろ」


 私は緊張しながらわなに手を伸ばす。しかし、うまくいかない。


「違う! そこはもっと力を入れろ!」


 鷹山師匠の指示が飛ぶ。私は必死に従おうとするが、なかなか上手くいかない。


「椿、お前も試してみろ」


 妹の椿も同じように苦戦する。


 その日、私たちは朝から晩まで、わなの仕掛け方を繰り返し練習した。

 手には擦り傷ができ、体中が筋肉痛だった。


 夕暮れ時、やっと鷹山師匠が「今日はここまでだ」と言った。


 疲れ果てた私たちは、小屋に戻る。


「姉さん、私たち、本当に一人前の猟師になれるのかな」


 椿が不安そうに呟く。


「大丈夫よ。私たちには、この山がある」


 私は強がりながら答えた。しかし、本当のところは自信がなかった。


 その夜、私たちは山で獲れた鹿肉の煮込み(*2)を食べた。

 獣臭さを取り除くため、長時間煮込んだ肉は柔らかく、深い味わいがあった。


「これが、猟師の味なのね」


 椿が感心したように言う。


「ええ。私たちも、いつかこんな料理を作れるようになるわ」


 私はそう言いながら、遠い未来を想像した。


 就寝前、私は日記をつけた。


『今日も厳しい一日だった。でも、少しずつ成長しているのを感じる。この山の空気、木々のにおい、動物たちの気配……全てが私たちを猟師へと導いてくれている気がする。明日はもっと上手くなれるはず。椿と二人で、きっと立派な猟師になってみせる』


 ペンを置き、私は窓の外を見た。満天の星空が、私たちの未来を見守っているようだった。



◆成長の兆し


 山の朝は早い。私、鹿島楓は、まだ暗いうちから目を覚ました。隣で寝ている椿を起こす。


「椿、起きて。今日は狩りの日よ」


 妹はすぐに目を覚ました。猟師になって5年、私たちの体内時計も山の律動に合わせられるようになっていた。


 身支度を整える間、私は鏡に映る自分の顔を見つめた。かつての柔らかな表情は影を潜め、代わりに凛とした眼差しが宿っている。山での生活が、私たちを大きく変えていた。


「姉さん、いつかは師匠に褒められるようになりたいね」


 椿が期待を込めて言う。


「さあね。でも、私たちなりのペースで成長していけばいいのよ」


 そう言いながらも、私の心の中にも期待が膨らんでいた。


 小屋を出ると、澄んだ空気が肌を撫でる。深呼吸をすると、森の匂いが鼻腔をくすぐった。


 鷹山師匠の元に向かう途中、私たちは獣道(*3)を確認しながら進んだ。


「ここ、イノシシが通った跡があるわ」


 椿が地面に残された足跡を指さす。


「よく気づいたわね。でも、今日の獲物はシカよ。ほら、あそこに枝が折れているでしょう? シカが通った証拠よ」


 私は少し先の木の枝を指し示した。


 鷹山師匠の元に着くと、すでに準備は整っていた。


「遅いぞ、お前たち」


 相変わらず厳しい口調だが、以前ほどの怒気は感じられない。


「今日は、お前たち二人で仕留めてみろ。俺は見ているだけだ」


 その言葉に、私たちは緊張した面持ちで頷いた。


 森の中を進む。私たちは呼吸を整え、できるだけ音を立てないよう慎重に歩を進めた。


 突然、椿が手で合図を送る。前方約50メートルの所に、一頭のオスジカが佇んでいた。


 私は弓(*4)を構え、椿は銃(*5)を向ける。私たちは目配せし、息を合わせた。


「今だ!」


 鷹山師匠の声とともに、私たちは一斉に攻撃を仕掛けた。


 矢が空を切り、銃声が響く。オスジカは一瞬身をすくめたが、すぐに逃げ出そうとする。


「追うぞ!」


 私たちは獲物を追いかけた。山道を駆け上がり、沢を渡る。体力の限界を感じながらも、諦めない。


 そして――。


「やったわ!」


 椿の声が響く。オスジカは倒れていた。


「見事だ」


 鷹山師匠の声に、私たちは驚いて振り返る。


「お前たちの動きは5年前とは比べものにならないほど洗練されている。特に息の合った攻撃は見事だった」


 初めて聞く師匠の褒め言葉に、私たちは思わず顔を見合わせた。


「ありがとうございます」


 声を揃えて答える。



 獲物であるオスジカの傍らに、楓と椿は無言で向かい合って座った。二人の動きは息が合い、まるで鏡に映った像のようだ。


 まず、楓が猟刀を取り出す。刃先が陽光に反射し、一瞬きらりと光る。

 椿は同時に、清浄な水の入った桶と布を用意した。


「始めるわよ」


 楓の静かな声に、椿が頷く。


 楓は慣れた手つきでジカの喉元に刀を入れ、血抜きを始める。椿はすかさず布を当て、流れ出る血を受け止める。二人の動きに無駄はなく、長年の経験が生み出した完璧な連携を見せる。


 血抜きが終わると、今度は椿が猟刀を手に取る。楓が獲物の足を持ち上げ、椿は素早く足の付け根から腹に向かって皮を切り開いていく。刃先は獲物の筋肉を傷つけないよう、絶妙な力加減で操られる。


「ここからよ」


 椿の合図で、楓が皮はぎを担当する。指を皮と肉の間に滑り込ませ、慎重に皮を剥いでいく。椿は同時に内臓の取り出しに取り掛かる。


「肝臓の状態、良好ね」


 椿が手際よく内臓を取り出しながら報告する。楓は黙って頷き、皮はぎを続ける。


 二人の動きは、まるで長年練習を重ねた舞のようだ。互いの息遣いを感じ取りながら、完璧な連携で作業を進めていく。


 やがて、皮が完全に剥がされ、内臓もすべて取り出された。楓と椿は同時に立ち上がり、獲物を吊るす準備を始める。


「重いわね」


 楓が呟くと、椿が即座に応じる。


「でも、良質な肉になりそう」


 二人で力を合わせ、獲物を木の枝に吊るす。続いて、肉の分割に取り掛かる。


 楓が骨と肉の境目を見極め、椿がそれに合わせて切り分けていく。二人の手にかかれば、獲物はみるみるうちに食材へと姿を変えていく。


「背肉、もも肉、肩肉……すべて上質ね」


 椿が切り分けた肉を確認しながら言う。楓は黙って頷き、最後の仕上げに取り掛かる。


 太い筋を取り除き、脂肪の量を調整し、最後に適切なサイズに切り分ける。すべての作業が終わった時、二人の前には整然と並べられた肉の山ができていた。


「終わったわね」


 楓が額の汗を拭う。椿も深く息を吐き出す。


 二人は顔を見合わせ、満足げに微笑んだ。この一連の作業こそ、15年間共に歩んできた猟師人生の結晶だった。


 周囲の森は静寂に包まれ、ただ二人の統制の取れた呼吸だけが響いていた。


 その日の夕食は、私たちが仕留めたシカ肉の炭火焼き(*6)だった。


「美味しい!」


 椿が目を輝かせて言う。


「ああ、これぞ猟師冥利に尽きるってもんだ」


 鷹山師匠も満足そうだ。


 食事の後、私は小川のほとりで顔を洗った。冷たい水が肌に触れると、一日の疲れが洗い流されていくようだった。


 ふと、水面に映る自分の姿を見て驚いた。化粧っ気のない顔だが、目には強い意志が宿っている。髪は少し伸びて、耳にかかるほどになっていた。


「姉さん、何してるの?」


 椿の声に振り返ると、彼女も同じように成長した姿があった。


「ねえ椿、私たち、随分変わったわね」


「うん。でも、いい方向に変わったと思う」


 二人で笑い合う。


 その夜、日記を書きながら、私は思った。

『今日、初めて鷹山師匠に褒められた。嬉しかった。でも、これで満足してはいけない。まだまだ学ぶことはたくさんある。椿と二人で、もっと強くなる。そして、いつかは自分たちの猟場を持ちたい』


 窓の外では、満月が森を優しく照らしていた。明日も、新たな挑戦が待っている。



◆独立への道


 山の空気が肌を刺すような寒さの朝、私、鹿島楓は目を覚ました。

 隣で寝ている椿の寝顔を見ると、10年前とは違う大人の表情が浮かんでいる。


「椿、起きて。今日は大切な日よ」


 妹の肩を軽くたたく。椿はすぐに目を覚ました。


「ええ、分かってるわ、姉さん」


 私たちは黙々と身支度を整える。10年の歳月は、私たちの体にも刻まれていた。かつての柔らかな肌は少し荒れ、手には無数の傷跡が残っている。しかし、目には確かな自信が宿っていた。


 今日は、鷹山師匠から独立を許される日だ。


 小屋を出ると、澄んだ冷気が肺に染み渡る。木々の間から差し込む朝日が、新たな人生の幕開けを告げているようだった。


 鷹山師匠の元へ向かう道中、私たちは昔を思い出していた。


「覚えてる? 初めてこの道を歩いた日のこと」


 椿が懐かしそうに言う。


「ええ。あの頃は右も左も分からなかったわね」


 私たちは笑い合う。しかし、その笑顔の裏には、これから別れる師匠への複雑な思いが隠されていた。


 鷹山師匠の小屋に着くと、師匠はすでに外で私たちを待っていた。


「よく来たな、楓、椿」


 いつもの厳しい口調ではなく、穏やかな声で師匠が言った。


「今日から、お前たちは一人前の猟師として独立する。最後の試験(*7)をしよう」


 私たちは顔を見合わせ、頷いた。


 その日、私たちは師匠と共に深い山中へと入っていった。目指すは、この地域でも最も獲物が少ないと言われる奥地だ。


「ここで、お前たちの腕を見せてもらおう」


 師匠の言葉に、私たちは身を引き締めた。


 森の中を進む。かすかな風の音、木の葉のざわめき、小動物の気配……全てが私たちの感覚を刺激する。


 突然、椿が立ち止まった。


「姉さん、あそこ」


 目で合図する椿。私もその方向を見た。およそ100メートル先、木々の間に大きな熊の姿が見える。


「熊か……」


 師匠が呟く。熊は猟師にとって最も危険な獲物の一つだ。


「どうする?」


 師匠の問いかけに、私は椿と目を合わせた。言葉を交わさなくても、互いの考えが分かる。


「「仕留めます」」


 私たちは同時に答えた。


 慎重に距離を詰める。風向きを確認し、足音を立てないよう細心の注意を払う。


 椿が銃を構え、私は弓を引く。呼吸を合わせ、タイミングを図る。


「今だ!」


 私の合図と共に、矢が放たれ、銃声が響く。


 熊は一瞬動きを止めたが、すぐに私たちに向かって突進してきた。


「危ない!」


 師匠の声が聞こえる。しかし、私たちは動じなかった。


「椿、左!」

「了解!」


 私たちは素早く左右に分かれ、熊を挟み撃ちにする。


 再び矢が放たれ、銃声が響く。


 熊は大きな唸り声を上げ、そして――倒れた。


 息を切らしながら、私たちは熊の元へ駆け寄る。確かに息絶えている。


「見事だ」


 師匠の声に振り返ると、彼の目には涙が光っていた。


「お前たちは立派な猟師になった。もう教えることは何もない」


 その言葉に、私たちも涙を抑えきれなかった。


 その日の夜、私たちは熊鍋(*8)を囲んだ。


「美味いぞ、この熊鍋は」


 師匠が満足そうに言う。


「ありがとうございます」


 私たちは声を揃えて答えた。


 食事の後、師匠は私たちに何かを手渡した。


「これは……」


 私たちの目の前には、立派な猟銃と弓が置かれていた。


「お前たちへの餞別だ。大切に使え」


「ありがとうございます」


 私たちは深々と頭を下げた。


 その夜、私は日記を書きながら思った。


『今日から、私たちは独立した猟師となる。不安もあるけれど、これまでの10年間で学んだことを信じて進んでいこう。椿と二人なら、どんな困難も乗り越えられる』


 窓の外では、満天の星空が広がっていた。新たな人生の幕開けを祝福しているかのようだった。



◆命懸けの一瞬


 山の空気が凍りつくような寒さの朝、私、鹿島楓は目覚めた。隣で眠る椿の寝息を聞きながら、静かに身を起こす。独立して5年が経ち、私たちは今や地域でも指折りの猟師として名を馳せていた。


「椿、起きて。今日は大物を狙うわよ」


 妹の肩を優しく揺すると、椿はすぐに目を覚ました。


「ええ、姉さん。今日こそ、あの大きな熊を仕留めましょう」


 私たちは黙々と身支度を整える。15年の歳月は、私たちの体に確かな技術と経験を刻み込んでいた。手には無数の傷跡、顔には風雪に耐えた証が刻まれている。しかし、その目には揺るぎない自信と、獲物への鋭い眼差しが宿っていた。


 小屋を出ると、凍てつくような冷気が肌を刺す。

 息を吐けば白い霧が立ち込める。

 木々は霜に覆われ、銀世界が広がっていた。


「今日は風が強いわね。獲物の気配を嗅ぎ取りにくいわ」


 椿が顔をしかめながら言う。


「ええ。でも、それは獲物にとっても同じこと。油断は禁物よ」


 私たちは慎重に山道を進む。足元の枯れ葉を踏まないよう、一歩一歩慎重に歩を進める。


 山奥に入ると、辺りの空気が一変した。木々が生み出す独特の湿り気、腐葉土の匂い、そして……獣の気配。


「姉さん、あそこ」


 椿が小声で言う。目で示された方向を見ると、およそ200メートル先の木立の向こうに、大きな影が動いているのが見えた。


「間違いない。あの大物ね」


 私たちが追い続けてきた、この山域最大の熊だ。その大きさは並の熊の1.5倍はあると言われている。


 慎重に距離を詰めていく。風向きを確認し、足音を立てぬよう細心の注意を払う。心臓の鼓動が耳に響く。


 100メートル……80メートル……60メートル……。


 突然、風向きが変わった。


「まずい!」


 私の声が響く前に、熊が私たちの方を向いた。

 一瞬の静寂の後、轟音とともに熊が突進してきた。


 逃げて!」


 私たちは咄嗟に別々の方向へ走り出した。しかし、熊は私の方へと向かってきた。


「くそっ!」


 全力で走るが、熊との距離は縮まる一方だ。木の幹をかすめ、枝が頬を切り裂く。それでも、立ち止まるわけにはいかない。


「姉さん! こっちよ!」


 椿の声が聞こえた。振り返ると、妹が大きな岩の上に立っている。私は即座に理解し、その方向へと走った。


「今だ!」


 私が岩の前を通過した瞬間、椿が岩から飛び降りた。彼女の手には、太い木の枝が握られている。


「はああっ!」


 椿の雄叫びとともに、木の枝が熊の頭を直撃した。熊は一瞬怯んだが、すぐに椿に向かって牙をむいた。


「椿!」


 私は急いで弓を構える。しかし、熊と椿が入り乱れて戦っているため、矢を放つことができない。


「姉さん、足を狙って!」


 椿の叫び声に、私は咄嗟に熊の後ろ足を狙った。矢が放たれ、熊の足に刺さる。熊が大きな唸り声を上げ、一瞬バランスを崩した。


 その隙を逃さず、椿が熊の懐に飛び込んだ。彼女の手には猟刀(*9)が握られている。


「はあああっ!」


 椿の叫びとともに、刃が熊の腹に突き刺さった。熊は大きな悲鳴を上げ、椿を振り払おうともがく。熊の鋭い爪が椿の顔面すれすれを掠った。


「椿! 離れて!」


 私の声に反応し、椿が熊から離れた。次の瞬間、私の放った矢が熊の首筋を貫いた。


 熊は大きく揺らぎ、そして……倒れた。


 息を切らし、全身に冷や汗を浮かべながら、私たちは熊の元へと駆け寄った。

 確かに息絶えている。


「姉さん……私たち、やったわ」


 椿の声が震えている。私も同じだった。恐怖と興奮が入り混じった感情が、全身を駆け巡っていた。


「ええ、私たちの連携が、命を救ったのよ」


 互いに抱き合い、生きていることを実感する。


 その日の夜、私たちは獲れたての熊肉を囲んだ。いつもより深い味わいがあった。


「ねえ椿、今日のことで思ったんだけど」


「何? 姉さん」


「私たち、本当に強くなったわね。でも、同時に自然の力強さも痛感したわ」


 椿は静かに頷いた。


「ええ。私たちはまだまだ学ぶことがあるわ。でも、二人一緒なら、どんな困難も乗り越えられる」


 その言葉に、私は深く同意した。


 窓の外では、満天の星空が広がっていた。今日の冒険を見守っていたかのように、星々が明るく瞬いている。


 日記を開き、私は書いた。


『今日、私たちは命の危険と隣り合わせだった。しかし、それ以上に、椿との絆の強さを実感した。これからも二人三脚で、この山と、そして自然と向き合っていこう』


 ペンを置き、私は深く息を吐いた。明日からまた、新たな挑戦が始まる。しかし、もう恐れることはない。私たちには、15年間で培った絆と技術がある。そして何より、互いを信じる心がある。


 山の静寂が、新たな朝の訪れを予感させていた。



◆継承の時


 山の空気が爽やかに肌を撫でる初夏の朝、私、鹿島楓は目覚めた。隣で眠る椿の寝顔を見ると、15年の歳月が刻んだ細かな皺が目立つようになっていた。しかし、その表情は穏やかで、山の生活が彼女にもたらした安らぎを感じさせる。


「椿、起きて。今日は特別な日よ」


 妹の肩を優しく揺すると、椿はゆっくりと目を開けた。


「ええ、姉さん。今日から私たちの新しい挑戦が始まるのね」


 私たちは黙々と身支度を整える。鏡に映る自分たちの姿は、もはや若い娘たちではない。しかし、その目には山での生活が磨き上げた智慧と、新たな挑戦への期待が宿っていた。


 小屋を出ると、朝露に濡れた草木の香りが鼻をくすぐる。鳥のさえずりが森に響き渡り、新しい一日の始まりを告げていた。


「懐かしいわね、この道」


 椿が感慨深げに言う。


「ええ。15年前、私たちはこの道を歩いて鷹山師匠の元へ向かったのよ」


 思い出話に花を咲かせながら、私たちは歩を進める。途中、獣道や木々の様子を確認しながら、山の変化を感じ取っていく。


「姉さん、ここの木、大きくなったわね」


 椿が指さす樫の木は、確かに15年前より太く、高くなっていた。


「山も、私たちと一緒に成長しているのね」


 そう言いながら、私は木の幹に手を当てた。その感触に、15年間の思い出が走馬灯のように駆け巡る。


 やがて、私たちは目的地に到着した。そこには、10人ほどの若者たちが待っていた。彼らの目には、かつての私たちと同じような不安と期待が混ざっている。


「皆さん、おはようございます」


 私が声をかけると、若者たちは一斉に頭を下げた。


「今日から、私たちが皆さんの指導に当たります。猟師の道は決して楽ではありません。しかし、この山と共に生きる喜びを、皆さんにも知ってもらいたいと思います」


 椿が続ける。


「まずは、基本的な山の歩き方から始めましょう。姉さん、お願いします」


 私は頷き、若者たちを先導して山道を歩き始めた。


「山を歩く時は、常に周囲に気を配ることが大切です。風の向き、木々の揺れ方、動物の気配……全てが重要な情報になります」


 若者たちは真剣な面持ちで聞き入っている。その姿に、かつての自分たちを重ねる。


「そして、最も大切なのは、山を敬う心です。私たちは山の恵みをいただいて生きています。決して慢心せず、常に謙虚な気持ちを持ち続けることが、猟師としての基本です」


 椿の言葉に、若者たちは深く頷いた。


 朝露がまだ残る森の中、私たち鹿島姉妹を中心に、10人ほどの若者たちが半円を描いて立っていた。彼らの目には期待と緊張が入り混じっている。


「まずは、獣道の見分け方から始めましょう」


 私、楓が声を上げると、全員が一斉に頷いた。


「獣道を見つけるには、まず目線を下げることが大切です」


 私は膝をつき、地面すれすれの高さから土と草を観察し始めた。若者たちも慌てて同じ姿勢を取る。


「ほら、ここを見てください。草が平らに押し倒されていますね」


 指差す先に、確かに細い道のような跡が見える。


「これが獣道の基本です。動物たちが繰り返し通ることで形成されるんです」


 椿が補足する。


「でも、注意が必要です。これだけでは人間の作った道との区別がつきにくい」


 私は立ち上がり、周囲の木々を指差した。


「獣道の特徴は、木の根元や低い枝の間を縫うように続いていること。人間なら避けるような狭い場所も、動物たちは平気で通り抜けるんです」


 若者たちは熱心にメモを取っている。


「次は、動物の足跡の識別法です」


 椿が前に出て、地面に残された微かな窪みを指さした。


「これは、シカの足跡です。特徴的な心臓形をしているのがわかりますか?」


 若者たちが身を乗り出してよく見ている。


「そして、こちらはイノシシの足跡。丸みを帯びた四角形で、爪の跡がはっきりと残っています」


 私が続ける。


「足跡を見分けるコツは、形だけでなく、深さや方向性も観察することです。例えば、深い足跡が交互に並んでいれば、動物が走っていた証拠になります」


 若者たちの目が輝きを増していく。


「さて、最後に安全な歩き方を練習しましょう」


 椿が前に立ち、ゆっくりと歩き始めた。


「山を歩く時は、常に三点確保が基本です。両足と一本の杖、もしくは木の幹や岩を使って、常に三点で体を支えるのです」


 私も横に並び、実演する。


「そして、足を置く前に必ず地面の状態を確認すること。滑りやすい苔や、不安定な石には注意が必要です」


 若者たちも真似をして、慎重に歩き始める。


「良いですね。でも、もう少しリラックスして」


 私が声をかける。


「緊張しすぎると、かえって体が硬くなって危険です。山を歩くのは、山と対話するようなものです。山の声に耳を傾けながら、自然と調和するように歩むのです」


 椿が付け加える。


「そして忘れないでください。私たちは山の一部であり、ゲストでもあるのです。謙虚な気持ちを忘れずに」


 若者たちの表情が、少しずつ柔らかくなっていく。彼らの中に、山への敬意が芽生え始めているのを感じた。


 その日、私たちは夕暮れまで山の基本を教え続けた。かつて鷹山師匠から教わったことを、今度は私たちが伝える番。その責任の重さを感じながらも、若い世代に知識を伝えることの喜びを、心の底から味わっていた。


 山の空気が徐々に夕闇に染まり始める中、若者たちの目には確かな成長の兆しが宿っていた。これが、新たな世代の猟師たちの始まりなのだと、私は静かな誇りを感じていた。


 夕暮れ時、一日の指導を終えた私たちは、小川のほとりで休憩を取った。


「姉さん、私たち、とうとう教える側になったのね」


 椿が感慨深げに言う。


「ええ。時の流れを感じるわ」


 私は空を見上げた。夕焼けに染まる空が、新たな時代の幕開けを告げているようだった。


「でも、まだまだ現役よ。明日は狩りに出るわよ」


 私の言葉に、椿は笑顔で頷いた。


 その夜、日記を開きながら、私は思った。


『今日から、私たちは新たな役割を担うことになった。若い世代に技術を伝え、この山での生き方を教える。しかし、それは決して上から目線ではない。私たちもまた、彼らから学ぶことがあるはずだ。

 

 この15年間、山は私たちに多くのことを教えてくれた。生きることの厳しさと喜び、自然との共生の大切さ、そして何より、人と人との絆の強さを。これからは、それらを次の世代に伝えていく番だ。


 椿と二人三脚で歩んできた道。これからもその歩みは変わらない。ただ、今度は私たちの後ろに、新たな仲間たちがいる。彼らと共に、この山の未来を築いていきたい』


 ペンを置き、窓の外を見る。満天の星空が、私たちの新たな挑戦を祝福しているかのようだった。


 明日からまた、新しい一日が始まる。山の生活は決して楽ではない。しかし、椿との絆と、若い世代への希望が、私の心を強く、そして温かく満たしていた。


 山の静寂が、新たな時代の到来を静かに告げていた。



◆海と山の出会い


 初夏の爽やかな風が吹く夕暮れ時、鹿島楓と椿の山小屋には珍しい客人が訪れていた。マグロ漁で名を馳せる海野波音(うみのなみね)だ。三人の女性が囲炉裏を囲み、それぞれの職業や生活について語り合う様子は、まるで異なる世界の交差点のようだった。


「まあ、くつろいでください」


 楓が微笑みかけながら、手作りの栗の木のテーブルに料理を並べていく。


「こんなに御馳走を用意していただいて、恐縮です」


 波音が丁寧に頭を下げる。その姿からは、荒海で鍛えられた強さと、都会的な洗練さが同時に感じられた。


「いえいえ、珍しいお客様ですから」


 椿が答える。


「私たちも、海の話を聞けるのを楽しみにしていたんです」


 テーブルの上には、山の恵みを生かした料理が並んでいた。鹿肉の炭火焼き、山菜の天ぷら、キノコのソテー、そして山椒を効かせた蕎麦。どれも素朴でありながら、確かな技術と愛情が感じられる一品だった。


「まずは、これを召し上がってください」


 楓が差し出したのは、琥珀色に輝く液体が注がれた杯だった。


「これは……」


 波音が問いかけるように杯を見つめる。


「山ぶどうで作った自家製のワインです」


 椿が答える。


「山の雑味のある味わいですが、くせになりますよ」


 波音が一口含むと、その表情が驚きに満ちた。


「なんて奥深い味わいなんでしょう。山の空気そのものを飲んでいるような……」


「ありがとうございます」


 楓が嬉しそうに答える。


「では、お料理もどうぞ」


 波音は鹿肉を口に運び、その瞬間、目を見開いた。


「この柔らかさ、そして風味……山の生命力を感じます」


「ええ、狩りたての鹿を、秘伝の味噌に漬け込んで熟成させたんです」


 椿が説明する。


「山の植物のエキスを加えて、臭みを消しているんですよ」


 会話が弾む中、波音も自らのバッグから何かを取り出した。


「では私からも、お礼の品を」


 そう言って彼女が広げたのは、新鮮な刺身の盛り合わせだった。鮮やかな赤身のマグロ、透き通るようなタイ、そして艶のある平目。


「すごい! こんな山奥まで、新鮮な魚を!」


 楓が驚きの声を上げる。


「特殊な保冷剤と専用の箱で運んできました」


 波音が誇らしげに説明する。


「そして、これを」


 彼女が取り出したのは、深い青色をした瓶だった。


「沖縄の海底で熟成させた泡盛です。海の深さを感じられる味わいですよ」


 三人は新たに杯を重ね、海の恵みに舌鼓を打つ。


「なんて深みのある味」


 椿が感嘆の声を上げる。


「海の神秘を飲んでいるようだわ」


 料理と酒を楽しみながら、三人の会話は尽きることを知らなかった。


「波音さんは、どうしてマグロ漁師になられたんですか?」


 楓が尋ねる。


「私の故郷は、代々マグロ漁が盛んな町なんです」


 波音が懐かしそうに語り始める。


「小さい頃から、出航する漁船を見て育ちました。女性が船に乗ることは珍しかったけど、私は海に魅せられて……」


「男社会の中で、大変だったでしょう」


 椿が共感の眼差しを向ける。


「ええ、最初は皆に反対されました」


 波音が深くため息をつく。


「でも、諦めずに技術を磨いて、ついに認められたんです」


「私たちも似たような経験がありますね」


 楓が頷く。


「猟師の世界も、まだまだ男性社会ですから」


「でも、そんな逆境があったからこそ、今の自分があるんだと思うんです」


 波音が力強く言う。


「海の厳しさが、私を強くしてくれました」


「山も同じです」


 椿が同意する。


「自然の前では、性別なんて関係ありません。ただ、自分の技術と知恵が問われるだけ」


 話は尽きることなく続き、やがて月が高く昇った。


「ところで、波音さん」


 楓が尋ねる。


「マグロ漁の最も大変なところは何ですか?」


「そうですね……」


 波音が少し考え込む。

 「体力的な面もありますが、一番は自然との駆け引きでしょうか。マグロの群れを見つけるのも、実際に釣り上げるのも、すべて自然を読む力が必要なんです」


「それ、猟とそっくりですね」


 椿が目を輝かせる。


「私たちも、獲物の習性や天候を読むのが重要なんです」


「本当に、自然に寄り添う仕事は共通点が多いんですね」


 波音が感慨深げに言う。


 夜が更けていく中、三人の女性たちは互いの経験を分かち合い、笑いあった。海と山、一見かけ離れた世界に生きる彼女たちだが、自然と向き合う姿勢や、男社会での苦労、そして何より仕事への情熱は、驚くほど似ていた。


「こんな貴重な機会がもてて、本当に良かった」


 波音が心から言う。


「山の生活の厳しさと美しさが、少し分かった気がします」


「私たちこそ」


 楓が答える。


「海の深さと広さを、料理を通して感じることができました」


「今度機会があれば、ぜひ海に来てください」


 波音が二人を誘う。


「今度は私が、海の世界をご案内します」


「ぜひ!」


 椿が目を輝かせる。


「その時は、山のお土産をたくさん持っていきますね」


 月明かりの下、三人の女性たちは固い握手を交わした。それは単なる別れの挨拶ではなく、異なる世界に生きる者同士の、強い絆の誓いのようだった。


 波音が去った後、楓と椿は月を見上げながら、しみじみと語り合った。


「海の広さと、山の深さ。似て非なるものね」


 楓がつぶやく。


「でも、自然と向き合う心は同じ」


 椿が答える。


「私たちの仕事の尊さを、改めて感じたわ」


 その夜、山小屋には新しい風が吹き込んだ。それは海の香りがする風。楓と椿の心に、新たな冒険心を呼び覚ます風だった。


 二人は眠りにつきながら、いつか海を訪れる日を夢見ていた。山と海、互いの世界を知ることで、自分たちの生き方がより豊かになることを、二人は確信していた。


(了)

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