特殊清掃人:忌野浄華さん

◆新人の覚悟 - 1年目の一日


 私の名は忌野浄華(いまわのきよか)。特殊清掃業界に入って一年が経った。今日も早朝から現場に向かう。


 車内で、先輩の麗人(れいと)さんが今日の作業内容を説明してくれる。


「今日の現場は孤独死(*1)だ。発見が遅れたケースだから、覚悟しておけよ」


 私は無言で頷く。まだ慣れない現場に緊張が走る。


 到着すると、甘酸っぱい異臭が鼻をつく。ゴム手袋をはめ、防護服(*2)に身を包む。マスクをつけ、ゴーグルで目を守る。


「浄華、準備はいいか?」


「はい、大丈夫です」


 自信はあったが、内心では不安が渦巻いていた。


 ドアを開けると、そこには想像を絶する光景が広がっていた。床一面に広がる黒ずんだシミ。壁には飛沫が飛び散り、天井にまで及んでいる。


「まずは写真撮影と採寸だ。忘れるなよ」


 麗人さんの指示に従い、現場の状況を記録していく。カメラのシャッター音が、静寂を破る。


 作業が始まると、私は黙々と床のシミを除去していく。バイオクリーナー(*3)を吹きかけ、専用のヘラで丁寧にこすり取る。


「力加減が足りないぞ。もっと強くだ」


 麗人さんの声が響く。私は歯を食いしばり、全身の力を込めて作業を続ける。


 昼食を取る頃には、両腕が鉛のように重くなっていた。化粧も崩れ、髪も乱れている。でも、そんなことを気にしている場合ではない。


 午後の作業中、ふと鏡に映った自分の姿を見て愕然とした。こんな仕事、本当に続けていけるのだろうか。女性らしさを失っていくような気がして……。


「何をぼーっとしてる。集中しろ」


 麗人さんの声で我に返る。そうだ、これは私が選んだ道なんだ。


 夕方になり、ようやく作業が完了した。汗と消毒液の匂いが私の体に染みついている。


「お疲れ。新米にしては悪くないぞ」


 麗人さんの言葉に、少しだけ胸が温かくなる。


 帰り道、私は考えていた。この仕事の意味を。亡くなった方の尊厳を守り、残された人々の心の傷を少しでも和らげる。それが私たちの使命なのだと。


 明日からも、もっと上手くなれるように頑張ろう。そう心に誓いながら、私は疲れ切った体を引きずるように帰路についた。



◆成長の足跡 - 5年目の一日


 目覚ましの音で目を覚ます。朝日が差し込む窓辺で、私は髪をとかしながら鏡に向かっていた。


「おはよう、浄華」


 鏡に映る自分に語りかける。特殊清掃の仕事を始めて5年。今では立派な一人前だ。


 朝のルーティンをこなし、化粧を終えると、いつもの作業着に袖を通す。派手な服は着ないが、下着だけはお気に入りのものを身につける。これが私なりの「女性らしさ」への拘りだ。


 今日の現場は、新人の藍沙(あいさ)ちゃんと一緒だ。車に乗り込むと、彼女が緊張した面持ちで座っている。


「おはよう、藍沙ちゃん。今日もよろしくね」


「は、はい! よろしくお願いします、浄華さん!」


 彼女の緊張した様子に、かつての自分を重ねる。


 現場に到着すると、いつもの手順で準備を始める。今日の現場は、アパートの一室。孤独死から3週間が経過しているという。


「藍沙ちゃん、まずは写真撮影と採寸よ。私が見本を見せるから、よく観察してね」


 藍沙ちゃんに丁寧に指導しながら、作業を進めていく。


 床に広がる黒いシミを見て、藍沙ちゃんが顔をしかめる。


「大丈夫?」


「は、はい……ただ、少し……」


「最初は誰でも辛いものよ。でも、これは亡くなった方の最後の痕跡。丁寧に、そして敬意を持って扱うの」


 藍沙ちゃんは深く頷いた。


 作業が本格化すると、私は黙々とシミの除去に専念する。バイオクリーナーを吹きかけ、ヘラで丁寧にこすり取る。その動きは5年前とは比べものにならないほど効率的で正確だ。


「浄華さん、すごいです……」


 藍沙ちゃんが感嘆の声を上げる。


「コツをつかめば、あなたもできるようになるわ」


 昼食時、私たちは階段の踊り場で弁当を広げた。


「藍沙ちゃん、この仕事を選んだ理由は?」


「え? あの、私は……人の役に立ちたいと思って……」


「そう。私もね」


 藍沙ちゃんの答えに、微笑みを返す。


 午後の作業中、ふと窓の外を見た。青い空が広がっている。亡くなった方は、どんな思いでこの景色を見ていたのだろう。


「浄華さん、この染みが取れません……」


 藍沙ちゃんの声で我に返る。


「そうね。この場合は……」


 丁寧に指導しながら、私は考えていた。技術を磨くことも大切だけど、この仕事の本質は「思いやり」なのだと。


 夕方、作業が完了した。汗を拭きながら、部屋を見回す。


「お疲れさま、藍沙ちゃん。良くがんばったわ」


「ありがとうございます!」


 彼女の目が輝いていた。


 帰り道、私は考えていた。この5年で、技術も心も成長した。でも、まだまだ学ぶことはたくさんある。


 明日は休日。久しぶりに友人と会う約束をしている。仕事のことは忘れて、女子会を楽しもう。


 そう思いながら、私は帰路についた。明日への期待と、仕事への誇りを胸に。



◆プロの覚悟 - 10年目の一日


 目覚めると、すぐに携帯をチェックする。今日の現場の詳細が送られてくるはずだ。


 メールを開いた瞬間、私の体が凍りついた。


「遺品整理(*4)・特殊清掃: 自死案件、青山涼子様」


 涼子……。幼稚園からの親友だ。つい先日も会ったばかりなのに。


 動揺を抑えきれず、しばらくベッドに座り込んでいた。

 でも、今は感情に流されている場合じゃない。プロとしての仕事がある。


 いつもより丁寧に化粧を施し、髪を整える。

 鏡に映る自分に、「大丈夫」と言い聞かせる。


 会社に到着すると、後輩の藍沙が心配そうな顔で近づいてきた。


「浄華さん、大丈夫ですか? 今日の現場、知り合いの方だと聞いて……」


「ええ、大丈夫よ。それより、今日の段取りを確認しましょう」


 感情を押し殺し、いつも通りの声で指示を出す。


 涼子のマンションに到着。ドアの前で、深呼吸を繰り返す。


「行きましょう」


 ドアを開けると、懐かしい香水の香りが漂ってきた。涼子がいつも使っていたものだ。


 写真撮影と採寸を始める。カメラのシャッター音が、妙に耳に残る。


「浄華さん……」


 藍沙が心配そうに見つめている。


「大丈夫よ。仕事に集中しましょう」


 淡々と作業を進めていく。

 が、涼子の思い出の品々を目にするたびに、胸が締め付けられる。


 昼食時、藍沙が声をかけてきた。


「少し休憩しませんか?」


「ええ、そうね」


 二人でベランダに出る。涼子と一緒にお茶を飲んだ、あの場所だ。


「浄華さん、無理しないでください」


 藍沙の優しい言葉に、堰を切ったように涙があふれ出した。


「ごめんね、藍沙ちゃん。ちょっと……」


 涙を拭きながら、私は話し始めた。涼子との思い出を。彼女の笑顔を。そして、なぜ彼女がこんな選択をしたのか、理解できない悔しさを。


「藍沙ちゃん……」


 私の声は震えていた。藍沙は静かに頷き、真剣な眼差しで私を見つめる。


「涼子とは幼稚園からの付き合いなの。彼女は……いつも明るくて、周りを笑顔にする子だった」


 目を閉じると、涼子の笑顔が浮かぶ。あの無邪気な笑い声が、今でも耳に残っている。


「小学校の時、私が転校してきたばかりで友達がいなかった時、真っ先に声をかけてくれたのが涼子だったの。『一緒に遊ぼう!』って」


 思い出を語るうちに、涙がまた溢れ出す。藍沙が黙ってハンカチを差し出してくれる。私はそれを受け取り、涙を拭った。


「中学、高校と一緒だったわ。涼子は勉強は得意じゃなかったけど、人間関係を作るのが上手で、いつもクラスの人気者だった。私なんかとは大違い」


 苦笑いが漏れる。


「でも、そんな涼子が私を見捨てることはなかった。『キヨカはキヨカのままでいいんだよ』って。そう言って、いつも私の隣にいてくれた」


 ふと、マンションの窓の外を見る。涼子も、この景色を毎日見ていたのだろうか。


「大学は別々だったけど、それでも連絡を取り合ってた。就職してからは、忙しくてなかなか会えなくなったけど……それでも、月に一度は会う約束をしてたの」


 胸が締め付けられる。最後に会ったのは、つい2週間前のこと。あの時の涼子は、どんな表情をしていただろう。


「最後に会った時、涼子は少し疲れた様子だった。仕事のストレスだって言ってたわ。でも、まさかこんなことになるなんて……」


 声が詰まる。藍沙が静かに背中をさすってくれる。


「なぜ……なぜ私に相談してくれなかったのかしら。何か悩みがあったなら、一緒に考えられたはずなのに」


 悔しさと後悔が押し寄せてくる。藍沙は黙って聞いている。


「涼子は昔から、周りに心配をかけたくないタイプだった。自分の悩みは自分で抱え込んでしまう……。でも、それでも私なら気づけたはずなのに」


 拳を強く握りしめる。爪が手のひらに食い込む。


「最後の晩餐会(*5)のことを知っていたら、もっと真剣に話を聞いたのに。SOS(*6)のサインを見逃してしまった……。私は、親友失格だわ……」


 藍沙が静かに口を開く。


「浄華さん、自分を責めないでください。誰にだって、気づけないことはあります」


 その言葉に、少し救われる気がした。


「ありがとう、藍沙ちゃん。でも、やっぱり悔しいの。涼子がこんな選択をするなんて、理解できない。彼女には、まだまだ可能性があったはずなのに」


 深呼吸をして、少し落ち着かせる。


「でも、今は彼女のために、最後にできることをしなくちゃ。涼子の人生の痕跡を、丁寧に、そして敬意を持って整理する。それが、私にできる最後の親友としての務めなの」


 藍沙が静かに頷く。


「浄華さん、一緒に頑張りましょう。涼子さんのためにも」


 その言葉に、少し力が湧いてくる。


「ありがとう、藍沙ちゃん。じゃあ、作業に戻りましょうか」


 立ち上がると、涼子の写真が目に入る。

 笑顔の彼女が、今でも私を見守っているような気がした。


「涼子、最後まで、私がちゃんとやるから。だから、安心して」


 そっと呟いて、再び作業に向かう。悲しみは消えないけれど、今は涼子のために、プロとしての仕事をしなければならない。それが、私の覚悟なのだから。


 藍沙は黙って聞いてくれた。


「ありがとう、藍沙ちゃん。少し楽になったわ」


 午後の作業に戻る。涼子の遺品を一つ一つ丁寧に扱う。彼女の人生の痕跡を、大切に整理していく。


 夕方、作業が完了した。最後に部屋を見回す。


「さようなら、涼子」


 心の中でそっと呟いた。


 帰り道、藍沙が言った。


「浄華さん、今日は本当にお疲れ様でした。浄華さんの強さを、改めて感じました」


「ありがとう。でも、強がっていただけよ」


「いいえ、違います。感情を抑えながらも、丁寧に作業を進める浄華さんの姿。それこそがプロの姿だと思います」


 藍沙の言葉に、胸が熱くなる。


 家に帰り、シャワーを浴びる。温かい湯が体を包む中、今日一日を振り返る。


 涼子、あなたの最期の場所を、私が整理できてよかった。

 でも、どうして相談してくれなかったの?


 悲しみと後悔が押し寄せる。それでも、明日からまた仕事に向かわなければならない。


 パジャマに着替え、ベッドに横たわる。携帯を手に取り、涼子との最後のLINEのやり取りを見つめる。


「おやすみ、涼子」


 そっと呟きながら、私は目を閉じた。明日も、誰かのために。そして、涼子の分まで、精一杯生きていこう。


(了)



注釈:


(*1) 孤独死:一人暮らしの人が誰にも看取られることなく亡くなり、その後しばらくして発見されること。

(*2) 防護服:体全体を覆い、有害物質や感染から身を守るための特殊な作業服。

(*3) バイオクリーナー:微生物の働きを利用して汚れを分解する環境にやさしい洗浄剤。

(*4) 遺品整理:故人の残した所持品を整理し、必要に応じて処分や遺族への引き渡しを行うこと。

(*5) 最後の晩餐会:自殺を決意した人が、最後の食事として親しい人々と共に過ごす会のこと。

(*6) SOS:助けを求める合図。ここでは、自殺を考えている人が発する微妙なサインを指している。



◆魂の対話 - 浄華と涼子の再会


 秋の夜風が、古びた神社の境内を吹き抜けていった。木々のざわめきが、何か神秘的な出来事の前兆のように感じられる。神楽幽華は、祠の前で静かに目を閉じ、深呼吸を繰り返していた。今夜の依頼は、彼女にとって特別なものだった。


 足音が近づいてくる。幽華は目を開け、そこに立つ女性を見つめた。特殊清掃人の忌野浄華だ。彼女の表情には、悲しみと期待が入り混じっていた。


「お待たせしました、神楽様」


 浄華の声は、少し震えていた。


「いいえ、丁度良い時間です。準備はできていますか?」


 幽華の穏やかな声に、浄華は小さく頷いた。


 二人は祠の中に入る。幽華は丁寧に塩を撒き、神酒を捧げ、祝詞を唱え始めた。浄華は、その一挙一動を見つめながら、亡き友人のことを思い出していた。


 涼子。

 幼い頃からの親友。

 いつも明るく、周りを笑顔にする存在だった。しかし、その笑顔の裏に隠された悲しみに、浄華は気づくことができなかった。自死を選んだ涼子の最期の清掃を担当したとき、浄華の心は深く傷ついた。それ以来、彼女の心には大きな後悔と疑問と煩悶が渦巻いていた。


「浄華さん、準備ができました。こちらにお座りください」


 幽華の声に導かれ、浄華は指定された場所に座る。幽華がイタコ舞を始めると、部屋の空気が一変した。まるで、この世とあの世の境界線が薄れていくかのようだった。


 突然、幽華の体が大きく震え始めた。その瞬間、浄華の背筋に冷たいものが走る。


「私は……私は……」


 幽華の口から発せられる声は、もはや彼女自身のものではなかった。


「私は……涼子です」


 その言葉を聞いた瞬間、浄華の目から涙があふれ出した。


「涼子……本当に涼子なの?」


 浄華の声は震えていた。喜びと悲しみ、そして罪悪感が入り混じった複雑な感情が、彼女の心を激しく揺さぶる。


「ええ、私よ。浄華」


 涼子の声には、どこか懐かしさと安らぎが感じられた。


「ごめんね、こんな形でしか会えなくて」


 その言葉に、浄華の感情が爆発した。


「謝るのは私の方よ! なぜ気づいてあげられなかったの!? なぜ、もっと早く助けてあげられなかったの!? 私は……私は……」


 言葉につまる浄華。

 涼子の声が、優しく彼女を包み込む。


「浄華、あなたは何も悪くないわ。私の選択だった。誰のせいでもない」


 涼子の言葉に、浄華は激しく首を振る。


「でも、私はあなたの親友だったのに。あなたの苦しみに気づけなかった。私は……失格よ」


 浄華の声は、自責の念に満ちていた。

 しかし、涼子の次の言葉が、彼女の心に深く突き刺さる。


「浄華、覚えてる? 小学校の時、私がいじめられていて、あなたが守ってくれたこと」


 その言葉に、浄華の目に昔の記憶が蘇る。


「中学の時、私が両親の離婚で落ち込んでいた時、あなたがずっと側にいてくれたこと」


 涼子の声が続く。一つ一つの思い出が、浄華の心に温かさを取り戻させていく。


「高校の時、私が初めて失恋して泣いていた時、一緒に泣いてくれたこと」


 浄華の頬を、涙が伝う。

 しかし、それはもう自責の念からくる涙ではなかった。


「浄華、あなたは最高の親友だった。いつも私を支えてくれた。だから、自分を責めないで」


 涼子の言葉に、浄華の心の奥底で何かが動き始めた。長い間押し込めていた感情が、少しずつ解放されていく。


「でも、最後の助けを求めるサインに気づけなかった……」


 浄華の声は、まだ罪悪感に満ちていた。


「私も、あなたに助けを求められなかった。それが私の弱さだった」


 涼子の告白に、浄華は息を呑む。


「私たち、お互いを大切に思いすぎて、本当の気持ちを言えなかったのね」


 浄華の言葉に、涼子は静かに同意する。


「そうね。でも、それは私たちの絆の証でもあるわ」


 二人の間に、深い沈黙が訪れる。その沈黙の中で、二人の魂が触れ合っているかのようだった。


「涼子、あなたは今、幸せ?」


 浄華の問いかけに、涼子の声が優しく応える。


「ええ、とても。もう苦しみはないわ。ただ、あなたが自分を責め続けているのが辛かった」


 その言葉に、浄華の心に温かいものが広がる。


「涼子、そちらの世界はどうなの?」


 その言葉に、幽華の体を通して語る涼子の声が、少し高揚したように聞こえた。


「浄華、その質問を待っていたの」


 涼子の声には、どこか懐かしさと新鮮さが混ざり合っていた。


「ここは、言葉では表現しきれないほど美しい世界よ。でも、あなたに少しでも伝えられるよう、頑張って説明してみるわ」


 浄華は息を呑み、全神経を集中させて涼子の言葉に耳を傾けた。


「まず、色彩のことから話すわ。ここの色は、地上で見る色とは全然違うの。もっと鮮やかで、深みがあって、そして……生きているの」


「生きている?」


 浄華は首を傾げた。


「そう、色自体が意識を持っているみたい。喜びを表現したいと思えば、周りの世界が幸せそうな色に染まるの。悲しみを感じれば、世界は優しく包み込むような色合いになる」


 浄華は目を閉じ、その光景を想像しようとした。

 しかし、彼女の想像力では及ばない。


「それから、時間の概念もこちらとは全く違うわ。過去、現在、未来が同時に存在しているの。私は今、あなたと話しながら、同時に私たちの幼少期を見ることができるし、遠い未来の可能性も垣間見ることができる」


「それって、混乱しないの?」


 浄華は素朴な疑問を投げかけた。

 涼子の声に笑みが混じる。


「最初は戸惑ったわ。でも、ここでは意識がもっと広がっているの。全てを受け入れ、理解する能力が自然と身についてくるのよ」


 浄華は黙って頷いた。

 理解しようと努めながらも、その概念の壮大さに圧倒されているようだった。


「そして、ここには重力がないの。意識の力で自由に移動できるわ。地球や他の惑星、さらには銀河系の彼方まで、思いのままに旅することができるの」


「宇宙旅行ができるってこと?」


 浄華の声に、少し羨ましさが混じる。


「そうよ。でも、それは物理的な移動というより、意識の旅なの。全ての存在と繋がっていることを実感できるのよ」


 涼子は続ける。


「ここでは、思考がすぐに現実になるの。美しい庭園を思い浮かべれば、瞬時にそれが目の前に現れる。音楽を聴きたいと思えば、宇宙全体が美しいハーモニーを奏でるの」


 浄華は、その描写に魅了されながらも、ふと不安がよぎった。


「でも、怖い思いや悪い考えを持ったら、怖いものが現れたりしないの?」


 涼子の声が優しく応える。


「心配しないで。ここでは、魂が浄化されているの。恐怖や憎しみといったネガティブな感情は、自然と消えていくわ。代わりに、愛と理解が満ちているの」


 浄華は安堵の息をつく。


「それは良かった。でも、涼子、あなたは寂しくないの? 家族や友達と離れて……」


 涼子の声に、深い愛情が滲む。


「寂しさはないわ。ここでは、愛する人々と常に繋がっていることを感じられるから。あなたのことも、いつも感じているのよ」


 その言葉に、浄華の目に涙が溢れる。


「それに、ここには学びがあるの。私たちの魂は、常に成長し続けているわ。地上での経験を振り返り、そこから学び、さらに高次の理解へと進化していくの」


「学び?」


 浄華は興味深そうに尋ねた。


「そう。例えば、私は自分の人生を振り返り、なぜ自死を選んでしまったのか、どうすれば違う選択ができたのかを学んでいるわ。そして、その学びは将来、地上に戻ったときに活かされるの」


「地上に戻る?」


 浄華は驚いた様子で問いかける。


「ええ、輪廻というのは本当にあるのよ。魂は何度も地上に生まれ変わり、さまざまな経験を積んで成長していくの。でも、それぞれの人生の間には、ここでの学びの時間があるわ」


 浄華は深く考え込んだ。


「じゃあ、私たちは前世でも知り合いだった可能性があるってこと?」


 涼子の声が弾むように響く。


「ふふふ……実は、私たちは何度も一緒に人生を歩んできたのよ。時には親子として、時には恋人として、そして今回は親友として」


 その告白に、浄華は言葉を失った。

 長年の友情の深さが、新たな意味を持って彼女の心に響く。


「浄華、あなたがこの世界に来るのはまだ先のことよ。でも、それまでの間も、私たちは繋がっているわ。あなたが空を見上げたとき、風のそよぎを感じたとき、それは私からのメッセージかもしれないの」


 浄華は涙ぐみながら頷いた。


「涼子、たくさんのことを教えてくれてありがとう。少し怖かったけど、今はなんだか安心しているわ」


「怖がらなくていいのよ、浄華」


 涼子の声は優しさに満ちていた。


「死は終わりではなく、新しい始まりなの。でも、今はまだあなたには地上でやるべきことがたくさんあるわ」


 浄華は深く息を吸い、決意を込めて言った。


「うん、分かったわ。私、精一杯生きるわ。そして、いつかまた会えるのを楽しみにしているわ」


「そうよ、その気持ちを大切にして」


 涼子の声が少しずつ遠ざかっていく。


「私も、あなたの人生を見守り続けるわ。さようなら、浄華。またいつか会いましょう」


 涼子の存在が薄れていくのを感じながら、浄華は最後に言葉を投げかけた。


「涼子、待って! 最後にもう一つだけ聞かせて。そちらの世界で、一番幸せを感じる瞬間ってどんな時?」


 涼子の声が、エコーのように響く。


「それはね、地上にいる愛する人たちが、真の幸せを感じている瞬間を見ているときよ。だから浄華、幸せになって。あなたの幸せが、私の幸せなの」


 その言葉と共に、涼子の存在が完全に消えていった。

 祠の中には、深い静寂が戻ってきた。


 幽華がゆっくりと目を開ける。

 彼女の瞳には、あの世とこの世の境界を旅してきた者特有の深い光が宿っていた。


「浄華さん、よく頑張りましたね」


 幽華の声が、現実世界に浄華を引き戻す。

 浄華は、涙で潤んだ目で幽華を見つめた。


「ありがとうございます、神楽様。本当に……ありがとうございます」


 その言葉には、単なる感謝以上の深い意味が込められていた。それは、新たな理解と希望、そして生きる決意への感謝だった。


 二人は静かに祠を後にする。


 浄華は深く息を吸い、星空を見上げた。

 そこに、かすかに涼子の笑顔が見えたような気がした。


「涼子、見ていてね。私、これからも頑張るから」


 そっと呟いた言葉が、夜風に乗って星空へと昇っていく。

 浄華の心に、新たな決意と希望が芽生えていた。


 帰り道、浄華は幽華に尋ねた。


「神楽様、私にもイタコの力はあるのでしょうか?」


 幽華は柔らかな笑みを浮かべ、答えた。


「浄華さん、あなたは既にイタコのような役割を果たしていますよ。特殊清掃を通じて、亡くなった方の想いを汲み取り、残された方々の心を癒している。それは、まさにイタコの仕事と同じです」


 その言葉に、浄華は驚きと共に、深い納得を覚えた。


「確かに、仕事をしていると、時々亡くなった方の想いが伝わってくるような気がします」


「それが、あなたの特別な能力なのでしょう。その感覚を大切にしてください」


 幽華の言葉に、浄華は静かに頷いた。


 二人は、それぞれの道を歩み始める。浄華は、自分の仕事に新たな意味を見出していた。特殊清掃は単なる後片付けではない。亡くなった方の最後の痕跡を丁寧に扱い、その人生を尊重する神聖な仕事なのだ。



 家に戻った浄華は、久しぶりに心から安らかな気持ちで眠りについた。夢の中で、彼女は涼子と一緒に、幼い頃のように無邪気に笑っていた。


 翌朝、目覚めた浄華の顔には、穏やかな笑みが浮かんでいた。窓から差し込む朝日が、新たな一日の始まりを告げている。


「さあ、今日も頑張ろう」


 そう自分に言い聞かせながら、浄華は新たな決意を胸に、仕事への準備を始めた。彼女の心には、もう後悔の影はなかった。代わりに、使命感と希望が満ちていた。


 浄華は、涼子との再会で得た気づきを胸に、これからも多くの人々の人生の最後の瞬間に寄り添い続けていく。それは、彼女にしかできない、大切な仕事なのだから。


(了)

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