仏師:釈琴美さん


◆揺れる心、初めての一刀 ─ 1年目の春


 朝もやの中、目覚めの鐘の音が静かに響き渡る。私、釈 琴美(しゃく ことみ)は、まだ慣れない布団の中でまどろんでいた。今日から仏師としての修行が本格的に始まる。


「おばあちゃん、私、本当にやっていけるのかな……」


 心の中で、亡きおばあちゃんに問いかける。幼い頃から寺院に連れていってくれたおばあちゃんの影響で、私は仏像に魅了されてきた。その姿に込められた慈悲の心、技術者の魂……。そんな仏像を自分の手で作りたいと思うようになったのは、おばあちゃんのおかげだ。


「琴美や、お前なら大丈夫じゃ。仏さまの心を感じながら、一刀一刀を大切に。そうすりゃ、きっと素晴らしい仏像が生まれるよ」


 おばあちゃんの温かい声が、心の中で響く。その言葉に背中を押され、私は布団から抜け出した。


 鏡の前に立ち、寝ぐせを直す。長い黒髪を丁寧に梳かし、一つに結う。化粧は控えめに。仕事場では彫刻の粉が舞うので、あまり手の込んだメイクは意味がない。それでも、ほんの少しだけリップを塗る。女性としての自分を忘れないために。


 作業着に着替え、朝食を済ませると、いよいよ工房へと向かう。


「おはようございます」


 工房に入ると、先輩の仏師たちが既に作業を始めていた。みな男性ばかりだ。私が入ってきても、ほとんど誰も振り向かない。


「ああ、琴美か。おはよう」


 親方の琢磨(たくま)さんが声をかけてくれた。温厚そうな中年の男性だ。


「今日からお前も本格的に修行だ。まずは道具の手入れから始めるぞ」


 琢磨さんに導かれ、作業台に向かう。そこには様々な彫刻刀(*1)が並んでいた。


「これは平刀(*2)、これは丸刀(*3)……それぞれの特徴と使い方をしっかり覚えるんだ」


 琢磨さんの説明を聞きながら、私は一つ一つの道具を手に取る。冷たい金属の感触。これらを使いこなせるようになるまで、どれほどの時間がかかるのだろう。


「道具は仏師の命だ。毎日の手入れを怠るな」


 琢磨さんの言葉に頷きながら、私は黙々と刃を研ぎ始めた。ほんの少し力を入れすぎただけで、指先から血が滲む。痛みをこらえながら、作業を続ける。


「大丈夫か? 」


 隣で作業していた先輩の龍介(りゅうすけ)さんが声をかけてくれた。


「は、はい。大丈夫です」


 強がって答えたものの、龍介さんは苦笑いを浮かべた。


「最初はみんなそうさ。でも、その傷一つ一つが経験になるんだ。焦るなよ」


 優しい言葉に、少し緊張がほぐれる。


 昼食時、他の職人たちは和やかに談笑していた。私も仲間に入りたいと思ったが、どう話しかければいいのか分からない。結局、一人で弁当を食べることに。


「琴美さん、こっちにおいでよ」


 同期の梨沙(りさ)さんが声をかけてくれた。彼女は仏具制作の部門で働いている。女性が少ない職場で、互いに励まし合える存在だ。


「ありがとう、梨沙さん」


「大変でしょ? でも、私たちがここにいるってことは、それだけの覚悟があるってことよね」


 梨沙さんの言葉に、私は強く頷いた。そうだ、ここに来たのは自分の意思だ。簡単に諦めるわけにはいかない。


 午後の作業は、実際に木材に向き合うことになった。まだ彫刻には入らず、木の特性を学ぶ段階だ。


「この木は榧(かや)(*4)だ。仏像彫刻に最適とされる木だが、扱いは難しい」


 琢磨さんの説明を聞きながら、私は木の香りを深く吸い込んだ。この香りの中に、未来の仏像が眠っているのだ。


 作業を終え、帰宅する頃には日が傾いていた。疲れ切った体を引きずりながら、アパートに戻る。


 風呂に浸かりながら、今日一日を振り返る。指先の傷が湯に触れてヒリヒリする。でも、この痛みは自分が一歩前進した証だ。


「おばあちゃん、私、頑張るからね」


 天井を見上げながら、もう一度心の中でおばあちゃんに語りかける。


「そうじゃ、琴美。お前の中にある仏さまの心を大切にするんじゃよ」


 体の中に沁み入るように、おばあちゃんの声が響く。


 布団に潜り込み、目を閉じる。明日はきっと、今日よりも上手くいく。そう信じて、私は深い眠りに落ちていった。



◆技と心の調和を求めて ─ 5年目の秋


 秋の気配が漂う秋の気配が漂う朝、私は目覚ましより少し早く目を覚ました。今日は重要な日だ。初めて、自分で仏像の下絵(*5)を描く機会を与えられたのだ。


「おばあちゃん、今日は私の真価が問われる日ね」


 心の中でつぶやきながら、ベッドから抜け出す。鏡の前に立ち、少し伸びた黒髪を丁寧に結う。5年前に比べると、髪にも少し艶が出てきた気がする。化粧は相変わらず控えめだが、以前よりも手際よく仕上げられるようになった。


 朝食を軽く済ませ、工房に向かう。朝もやの中を歩きながら、私は深呼吸を繰り返す。緊張と期待が入り混じる胸の内を落ち着かせるように。


「おはようございます」


 工房に入ると、既に数人の先輩たちが作業を始めていた。


「おう、琴美。今日は大切な日だな」


 琢磨さんが声をかけてくれる。彼の眼差しに、期待と不安が混ざっているのを感じた。


「はい。精一杯頑張ります」


 作業台に向かい、道具を準備する。5年の間に、これらの道具は私の体の一部のようになっていた。手入れをしながら、私は深く息を吐き出す。


「琴美、準備はいいか? 」


 琢磨さんが、一枚の白木(*6)を持ってきた。


「はい、始めます」


 筆を手に取り、白木に向かう。目を閉じ、心の中でイメージを描く。慈悲に満ちた仏の表情、穏やかな座り姿……。


「おばあちゃん、見ていてね」


 心の中でつぶやき、筆を動かし始める。


 線一本一本に、私の5年間の経験と思いを込める。女性ならではの繊細さを活かしつつ、力強さも表現しようと心がける。時折、周りの視線を感じるが、それに惑わされないよう集中を保つ。


「琴美、休憩を取れ」


 気がつけば、昼食の時間をとうに過ぎていた。琢磨さんの声に我に返る。


「あ、はい。ありがとうございます」


 作業台から離れ、弁当を取り出す。同期の梨沙さんが寄ってきた。


「すごいわね、琴美さん。あんなに集中して」


「ありがとう、梨沙さん。でも、まだ全然だわ」


「いいえ、素晴らしいわ。私たち女性が、こうして伝統工芸の世界で活躍できるなんて、昔じゃ考えられなかったことよ」


 梨沙さんの言葉に、私は少し照れくさく微笑む。確かに、まだまだ男性社会の中で、私たちの存在は珍しい。でも、それだけに自分の仕事に誇りを持てる。


 午後の作業に戻る。下絵の続きを進めながら、ふと、おばあちゃんの言葉を思い出す。


「琴美や、仏さまを彫るんじゃない。仏さまの心を見つけるんじゃ」


 その言葉の意味を、今やっと理解できた気がする。単に形を描くのではなく、その中に宿る魂を表現する。そんな思いで、私は筆を進めていく。


 夕暮れ時、ようやく下絵が完成した。


「見事だ、琴美」


 琢磨さんが、静かに頷いた。その目に、確かな承認の色が浮かんでいるのを見て、私は胸が熱くなった。


「ありがとうございます」


 深々と頭を下げる。この一日が、私の仏師としての新たな一歩になったことを感じていた。


 帰り道、秋の風が頬をなでる。明日からは、この下絵を基に実際の彫刻が始まる。期待と不安が入り混じる気持ちを抱えながら、私は家路を急いだ。


「おばあちゃん、私、少しは成長できたかな? 」


 夜空を見上げながら、心の中でつぶやく。


「ああ、立派じゃ。でも、これからが本当の勝負じゃよ」


 優しく叱咤してくれるおばあちゃんの声に、私は静かに頷いた。明日への決意を胸に、ゆっくりと瞼を閉じる。


 仏像に込められた慈悲の心。それを形にする喜びと責任。5年前には想像もつかなかった世界が、今、私の前に広がっている。



◆魂を刻む ─ 10年目の冬


 凛とした冬の朝、私は静かに目を覚ました。窓の外では、雪が静かに降り積もっている。10年の月日が流れ、私、釈 琴美は今や工房の中堅仏師として認められるようになっていた。


「おばあちゃん、今日もよろしくね」


 いつものように心の中で語りかけ、身支度を始める。鏡に映る自分の顔に、少しだけ年月を感じる。でも、目の奥に宿る決意の色は、10年前より遥かに強くなっていた。


 髪を一つに束ね、化粧も手際よく済ませる。今日は大切な日。初めて大型の仏像(*7)を一人で任されることになったのだ。


 工房に向かう道すがら、雪を踏む音だけが静寂を破る。


「おはようございます」


 工房に入ると、若い弟子たちが慌ただしく動き回っていた。


「琴美さん、おはようございます! 」


 新人の花(はな)が駆け寄ってくる。彼女は私が工房に入って初めての女性の弟子だ。


「花ちゃん、今日もがんばりましょう」


 優しく微笑みかけると、花は嬉しそうに頷いた。


「琴美、準備はいいか? 」


 琢磨さんが声をかけてくる。彼の髪にも、白いものが目立つようになっていた。


「はい、始めます」


 大きな木材(*8)の前に立つ。深呼吸をして、心を落ち着かせる。


「おばあちゃん、見守っていてね」


 心の中でつぶやき、ノミを手に取る。


 最初の一刀を入れる瞬間、10年前の緊張が蘇る。でも今の私には、それを乗り越える技術と心があった。一刀、また一刀と、木材に向かっていく。


 周りの音が遠のいていく。私の世界には、ただ仏像と私だけが存在していた。


「琴美さん、すごいです! 」


 花の声に我に返る。気がつけば、昼食の時間を大きく過ぎていた。


「ああ、ごめんね。みんな、お昼にしましょう」


 作業を中断し、弟子たちと一緒に昼食を取る。以前は男性ばかりだった食事の時間も、今では女性の姿もちらほら見られるようになっていた。


「琴美さん、どうして仏師になろうと思ったんですか?」


 花の素朴な問いかけに、私は少し考え込む。目を閉じ、深呼吸をすると、懐かしい線香の香りが記憶の中からふわりと立ち昇ってきた。


「そうねぇ……」と私は言葉を紡ぎ始めた。


「私がこの道を志したのは、間違いなくおばあちゃんの影響なの」


 目の前に、あの日の情景が鮮やかによみがえる。古びた寺院の石段。蝉の鳴き声。そして、小さな私の手を優しく包み込むおばあちゃんの温かな手。


「おばあちゃんは、私が5歳の頃から、よく近くの寺院に連れて行ってくれたんだ」と語り始める。


「最初は夏祭りや初詣といった行事の時だけだったけど、やがて月に一度は必ず訪れるようになったわ」


 目を細めると、あの頃のおばあちゃんの姿が鮮明に浮かび上がる。白髪まじりの髪を丁寧に束ね、いつも淡い色の着物を纏っていた。その佇まいは、まるで仏像のように凛としていて、それでいて慈愛に満ちていた。


「毎回、本堂に入る前におばあちゃんは私にこう言うの。『琴美や、仏様にはね、心で手を合わせるんだよ』って」


 思わず微笑みがこぼれる。


「当時の私には、その言葉の本当の意味がわからなかった。でも、おばあちゃんの横顔を見上げながら、必死に真似をしたものよ」


 語りながら、私は無意識のうちに手を合わせていた。花も静かに頷きながら、真剣な表情で聞き入っている。


「本堂に入ると、そこには大きな仏像が鎮座していたの。幼い私には、その姿があまりにも神々しくて、最初は恐ろしささえ感じたわ」


 目を閉じると、あの頃に感じた畏怖の念が蘇ってくる。


「でも、おばあちゃんが『怖がることはないのよ、琴美。仏様はね、みんなを守ってくれる優しい存在なんだから』と教えてくれて。そう言われると、不思議と仏像の表情が柔らかく見えてきたの」


 深く息を吐き出す。


「それから私は、仏像の表情をじっと観察するようになったわ。慈悲に満ちた目、穏やかな微笑み、安らかな座り姿。見れば見るほど、その美しさに魅了されていったの」


 花の目が輝いた。


「そうだったんですね。私も、はじめて仏像を見た時、その美しさに息を呑みました」


 私は優しく微笑む。


「そう、仏像には人の心を動かす力があるのよ。でも、私が決定的に仏師を志すきっかけになったのは、10歳の時のことなの」


 思い出すだけで胸が熱くなる。


「その日、おばあちゃんは珍しく厳しい表情で私に言ったの。『琴美、仏様を彫る人のことを知っているかい?』って」


「私が首を傾げると、おばあちゃんは続けたわ。『仏師っていうんだよ。でもね、琴美。本当の仏師は、木を彫るんじゃない。魂を彫るんだ』って」


 語りながら、私の声が少し震える。


「その時のおばあちゃんの目は、今でも忘れられないわ。まるで、仏様の目のように慈愛に満ちていて、それでいて厳しさも秘めていたの」


「そして、おばあちゃんは最後にこう言ったの。『琴美、あんたにはその才能がある。いつか、魂を彫れる仏師になれ』って」


 深く息を吸い、ゆっくりと吐き出す。


「それが、私が仏師を志すきっかけとなった言葉よ。おばあちゃんは、その2年後に亡くなったけど、あの時の言葉が、今でも私の原動力になっているの」


 語り終えると、工房に静寂が訪れた。花の目には、深い感動と憧れの色が浮かんでいた。


「琴美さん、素晴らしいお祖母様ですね」と花がつぶやいた。


「その言葉、私たちの仕事の本質を表しているように感じます」


 私は静かに頷いた。


「そうね。だからこそ、私は単なる技術だけでなく、魂を込めて仏像を彫り続けているの。花ちゃん、あなたもいつか、自分なりの"魂を彫る"という意味を見つけられると信じているわ」


 花は真剣な表情で頷いた。


「はい、私も琴美さんのような仏師になれるよう、精進します」


 その瞬間、まるでおばあちゃんが二人を見守っているような温かな空気が工房に満ちた。私は心の中で、もう一度おばあちゃんに感謝の言葉を捧げた。そして、この大切な教えを次の世代に伝えていく使命を、あらためて強く感じたのだった。


 工房に、ほのかな木の香りが漂う。琴美と花は、作業台に向かい合って座ったまま、しばらくの間沈黙を共有していた。


 「琴美さん」と花が静かに口を開いた。


「私も、仏像に魂を込められるようになりたいです。でも、どうすればいいのかわかりません」


 琴美は優しく微笑んだ。「花、それはね、一朝一夕にはいかないの。私自身、今でも日々模索中よ」


 琴美は立ち上がり、棚から一つの小さな仏像を取り出した。それは、彼女が修行時代に作った最初の作品だった。


「ほら、これを見て」と琴美は花に仏像を手渡した。


 花は慎重に仏像を受け取り、じっくりと観察した。


「これ、琴美さんの作品なんですか?なんだか……」


「ぎこちないでしょ」と琴美が笑いながら言った。


「これが私の最初の作品なの。技術的には稚拙だけど、でもね、この仏像には私の全てを注ぎ込んだのよ」


 花は驚いた様子で琴美を見上げた。


「でも、琴美さんの今の作品とは大違いです。どうやってここまで成長されたんですか?」


 琴美は深く息を吐いた。


「それはね、花ちゃん、日々の積み重ねよ。技術を磨くのはもちろん大切。でも、それ以上に大切なのは、自分の心を磨くこと」


「心を、磨く?」


「そう。例えば、仏像を彫る前に、私はいつも瞑想するの。そして、自分の中にある慈悲の心、人々への思いやりの気持ちを呼び覚ますの」


 琴美は自分の胸に手を当てた。


「ここにある温かい気持ち、それを指先から木に伝えていく。そうすることで、少しずつだけど、仏像に魂が宿っていくの」


 花は熱心に聞き入っていた。


「でも、時々うまくいかない時もありますよね?」


 琴美は頷いた。


「もちろん。調子の悪い日もあるわ。そんな時は、無理をせずに、一度手を止めることも大切。そして、自分の心と向き合うの」


「心と向き合う……」と花が繰り返した。


「そう。なぜ自分は仏像を彫るのか、誰のために彫るのか、そういったことを深く考えるの。そうすることで、また新たな気持ちで作品に向き合えるようになるわ」


 琴美は窓の外を見やった。日が沈み、空が茜色に染まり始めていた。


「花ちゃん、覚えておいて。私たちの仕事は、単なる彫刻じゃないの。人々の心に寄り添い、慰めや勇気を与える、そんな存在を作り出すこと。それが私たちの使命よ」


 花の目に、決意の色が宿った。


「わかりました、琴美さん。私も、心を込めて仏像を彫れるよう、精進します」


 琴美は優しく花の肩に手を置いた。


「焦らなくていいのよ。一歩一歩、着実に。そして何より、自分自身の心の声に耳を傾けること。それが、最高の仏像を生み出す秘訣なの」


 二人は互いに微笑み合った。その瞬間、工房に差し込む夕日が、二人の姿を優しく照らした。まるで、二人の前に広がる仏師としての道のりを祝福しているかのように。


「でも、仏像を彫る本当の意味は、この10年でやっと分かってきたかもしれないわ」


「どういうことですか? 」


「仏像を彫るということは、単に形を作ることじゃない。魂を込めること。そして、その過程で自分自身の魂も磨かれていくの」


 花は真剣な眼差しで聞いていた。彼女の中に、かつての自分の姿を見る気がした。



 午後の作業に戻る。一刀一刀に、私は全身全霊を込めていく。時折、周りから驚きの声が漏れるのが聞こえる。女性だからといって、力強さで劣ることはない。むしろ、繊細さと大胆さを併せ持つことができる。それが、私の強みだった。


「琴美、今日はここまでにしろ」


 琢磨さんの声に、ようやく我に返る。気がつけば、外は既に暗くなっていた。


「はい、ありがとうございます」


 作業を終え、道具を丁寧に片付ける。明日への準備だ。


 帰り道、雪はやんでいた。空には、冬の星座がくっきりと浮かんでいる。


「おばあちゃん、私、やっと分かってきたわ。仏さまの心を見つけるって、どういうことなのか」


 星空を見上げながら、心の中でつぶやく。


「そうじゃな、琴美。お前は立派な仏師になった。でも、まだまだ道は続くんじゃよ」


 幻聴のようなおばあちゃんの声に、私は静かに頷く。


 家に帰り、温かい風呂に浸かりながら、今日一日を振り返る。体は疲れているが、心は充実感で満たされていた。


 就寝前、鏡の前に立つ。10年前の自分と比べ、どれだけ成長したかを感じる。そして、まだこれからどれだけ成長できるかを想像する。


「明日も、頑張ろう」


 そう自分に言い聞かせ、私は静かに目を閉じた。明日への期待と、仏像に込める思いを胸に。


 夜が更けていく。窓の外では、再び雪が静かに降り始めていた。私は布団に横たわりながら、今日一日を振り返っていた。


「おばあちゃん、私、本当に成長できたのかな」


 心の中でつぶやく。すると、まるで返事をするかのように、おばあちゃんの声が聞こえてきた。


「琴美や、お前は立派じゃ。でも、まだまだ道は長いぞ」


「うん、分かってる。でも、時々不安になるの」


「それでいいんじゃ。不安があるからこそ、前に進めるんじゃよ」


 優しいおばあちゃんとの対話に、私は微笑む。

 10年経った今でも、おばあちゃんは私の心の支えだ。


 目を閉じると、今日彫った仏像の姿が浮かんでくる。大きな木材から、少しずつ形が現れていく過程は、まるで魔法のようだった。でも、それは単なる技術だけではない。魂の対話なのだ。


 私は仏像を彫りながら、自分の内面とも向き合っていた。慈悲の心、忍耐、そして覚悟。それらを仏像に込めながら、同時に自分自身もそれらを学んでいく。


「女性だからこそできることがある」


 ふと、そんな思いが湧き上がる。確かに、この世界はまだまだ男性社会だ。でも、だからこそ私たち女性の視点が必要なのだ。繊細さと大胆さ、柔軟性と強さ。それらを兼ね備えた仏像を作ることで、新しい表現の可能性を開くことができる。


 そして、花のような若い女性たちが、この世界に入ってきている。彼女たちを導き、支えていくのも、私の役割だ。


「明日は、花ちゃんにノミの使い方を教えよう」


 そう決意しながら、私は゛゛ゆっくりと目を閉じた。


 夢の中で、私は巨大な仏像を彫っていた。その仏像は、男性でも女性でもない、すべての人の心に寄り添うような優しい表情をしていた。


「これが、私の目指す仏像なのかもしれない」


 夢の中で、そうつぶやいた。


 朝、目覚めると、体に心地よい疲れを感じた。窓の外では、雪が積もり、世界が白く染まっていた。


「さあ、新しい一日の始まりね」


 身支度を整え、工房へと向かう。雪を踏む音が、静かな決意の音のように響く。


 工房に着くと、既に花が待っていた。


「琴美さん、おはようございます! 」


「おはよう、花ちゃん。今日は特別にノミの使い方を教えるわ」


 花の目が輝いた。その姿に、10年前の自分を重ね合わせる。


 作業台に向かいながら、私は深呼吸をした。大きな仏像が、私を待っている。


「おばあちゃん、見ていてね。私、もっともっと成長していくから」


 心の中でそうつぶやき、私は新たな一日の作業を始めた。仏像に魂を吹き込み、同時に自分自身の魂も磨いていく。それが、私の選んだ道。そして、これからも歩み続ける道。


 ノミが木に触れる音が、静かに、しかし力強く工房に響き渡った。



注釈:

(*1) 彫刻刀:仏像制作に使用する専用の刀。様々な形状があり、細部の表現に応じて使い分ける。

(*2) 平刀:平らな刃先を持つ彫刻刀。広い面積を削るのに適している。

(*3) 丸刀:刃先が円弧状になっている彫刻刀。曲面の制作に使用される。

(*4) 榧(かや):ヒノキ科の常緑高木。木目が細かく、狂いが少ないため、仏像彫刻に最適とされる。

(*5) 下絵:本彫りの前に描く設計図のようなもの。仏像の全体的な構図や細部を決定する重要な工程。

(*6) 白木:未加工の生の木材のこと。仏像彫刻では、この状態から彫り始める。

(*7) 大型の仏像:一般に高さ1メートル以上の仏像を指す。制作には高度な技術と経験が必要。

(*8) 大きな木材:大型の仏像を彫るために使用される、サイズの大きな木の塊。扱いには特別な技術が必要。



◆魂を刻む者たち ─ 仏師・釈琴美と聖像彫刻家・和田磔子の対談


 穏やかな春の日差しが差し込む古い寺院の一室。ここで、二人の女性彫刻家が向かい合っていた。一人は仏師として20年のキャリアを積んだ釈琴美、もう一人はキリスト像とマリア像を専門に制作する和田磔子。そのキャリアはすでに40年。

 二人の間には、長年の経験から生まれる静かな緊張感が漂っていた。


琴美:「和田さん、本日はお忙しい中、お時間をいただき、ありがとうございます」


磔子:「こちらこそ、若手の名工と呼ばれる釈さんとお話しできる機会を持てて光栄です」


琴美:「いえいえ、まだまだ未熟者です。和田さんのような大家の前では、私などまだまだ駆け出しのようなものです」


磔子:「謙遜することはありませんよ。あなたの作品、拝見させていただきました。魂の震えるような美しさでした」


琴美:(少し赤面しながら)「ありがとうございます。和田さんのキリスト像も、深い慈愛に満ちていて、思わず手を合わせてしまいました」


磔子:「ありがとうございます。でも、私たちの作品は、結局のところ"形"に過ぎない。本当に大切なのは、その中に込める"魂"なのではないでしょうか」


琴美:「はい、本当にそう思います。私が仏像を彫る時、常に心がけているのは、ただ形を作るのではなく、仏様の慈悲の心を彫り出すことなんです」


磔子:「そう、まさにそれです。私がキリスト像やマリア像を彫る時も同じです。苦しむ人々への無限の愛、慈しみ、そして希望。それらを木の中から引き出すのが私たちの仕事なのです」


琴美:「和田さんがそうおっしゃってくださると、とても心強いです。でも、時々疑問に思うことがあるんです。私たちが作る像は、結局のところ人間の姿をしています。でも、本当の仏様やキリスト様は、そんな形にとらわれないものではないでしょうか」


磔子:(深く頷きながら)「鋭い観点ですね、釈さん。確かに、究極の真理や神性は、人間の形を超越したものでしょう。でも、だからこそ、私たちは人間の形を借りて表現するのです」


琴美:「人間の形を借りて……」


磔子:「そう。なぜなら、私たちは人間だからです。人間の姿を通じてこそ、私たちは深い共感と理解を得ることができる。慈悲や愛、苦しみや喜び、そういった普遍的な感情を、最も身近な"人間の姿"を通じて表現する。それが、私たちの芸術の本質ではないでしょうか。人間の心は形を求め、その形は心を進めるのです」


琴美:「なるほど……。確かに、仏様の慈悲深い表情を彫る時、私は自然と自分の中にある慈しみの心を呼び起こしています。それは、きっと見る人の心にも響くはずです」


磔子:「そうです。私たちの作品は、見る人の心の中にある神性や仏性を呼び覚ますための"鏡"なのです」


琴美:「鏡……。素晴らしい表現ですね」


磔子:「ところで釈さん、あなたが仏師になったきっかけは何だったのですか?」


琴美:「はい。実は、私のおばあちゃんの影響が大きいんです。小さい頃から寺院に連れていってもらって、仏像の美しさに魅了されました。おばあちゃんはいつも『仏様の心を感じなさい』と言っていたんです」


磔子:「素晴らしい祖母さまですね。私の場合は、幼い頃に重い病気を患った時、病院の小さな礼拝堂でマリア像に出会ったのがきっかけでした。あの時の安らぎの表情が、今でも私の中に生きています」


琴美:「そうだったんですね。私たちの作品には、それぞれの人生経験が刻まれているんですね」


磔子:「そう、まさにその通りです。だからこそ、同じ仏像やキリスト像でも、作り手によって微妙に表情が違う。それぞれの魂が、作品に反映されるのです」


琴美:「和田さん、一つ気になることがあるのですが……。キリスト教の世界では、偶像崇拝を禁じる考え方もあると聞きます。その中で、聖像を作ることについて、どのようにお考えですか?」


磔子:(少し考え込んでから)「良い質問ですね。確かに、キリスト教の中にはそういった考え方もあります。でも、私は聖像を"崇拝の対象"としてではなく、"祈りの助け"として捉えています」


琴美:「祈りの助け……」


磔子:「そう。私たちの作品は、見る人の心に直接語りかけ、より深い祈りや瞑想へと導く役割を果たすのです。それは単なる物体崇拝ではなく、魂の対話を促すものなのです」


琴美:「なるほど。仏像も同じですね。形にとらわれるのではなく、その奥にある本質を感じ取ることが大切なんだと、改めて気づかされます」


磔子:「そうですね。釈さん、あなたは仏像を彫る時、どのような心境で臨んでいますか?」


琴美:「はい。私はいつも、自分の中にある"仏性"を呼び覚ますことから始めます。深く呼吸を整え、心を静め、自分の中にある慈悲や智慧の心を感じるんです。そして、その感覚を木材に伝えていくような気持ちで彫り進めていきます」


磔子:「素晴らしい心構えですね。私も似たようなアプローチをしています。キリストやマリアの像を彫る前に、必ずデボーション(日々聖書を読み、祈り、神と交わること)の時間を持ちます。神の愛を自分の中に感じ、その愛が私の手を通して木材に流れ込んでいくようなイメージを持つんです」


琴美:「なんだか、私たちのアプローチはとても似ていますね」


磔子:「ええ、本質的には同じなのかもしれません。形は違えど、私たちは同じ"魂の言葉"を彫っているのかもしれません」


琴美:「魂の言葉……素敵な表現ですね。和田さん、女性として、この世界で活躍することについて、どのようにお考えですか?」


磔子:(少し微笑んで)「そうですね。確かに、私が駆け出しの頃は、女性が聖像を彫ることに対して、疑問の目を向ける人もいました。でも、年月を重ねるにつれ、むしろ女性だからこそ表現できる柔らかさや慈愛の深さがあることに気づいたんです」


琴美:「私も同感です。仏師の世界も男性社会でしたが、最近では女性の感性が評価されるようになってきました。繊細さと大胆さを併せ持つ表現ができるのは、女性ならではの強みだと思います」


磔子:「そうですね。私たちの身体そのものが、生命を育む器。その経験が、創造の過程にも深く影響しているのではないでしょうか」


琴美:「確かに。私が仏像を彫る時、まるで生命を育むような感覚になることがあります。木の中から、仏様の姿を"産み出す"ような……」


磔子:「わかります。私もマリア像を彫る時、特にその感覚が強くなります。母なる存在を表現することで、自分自身の内なる母性も呼び覚まされるんです」


琴美:「でも、和田さん。私たち二人とも独身で子供もいません。それでも、そういった普遍的な母性のようなものを感じ取れるのは不思議ですね」


磔子:(優しく微笑んで)「釈さん、母性は必ずしも実際に子を産み育てることだけを意味しないと思うんです。私たちの作品もまた、私たちの"子供"のようなもの。魂を込めて創り出し、世に送り出す。それもまた、母性の一つの形なのではないでしょうか」


琴美:「なるほど……。そう考えると、私たちの作品一つ一つが、私たちの分身のようなものかもしれません」


磔子:「そうですね。だからこそ、一つ一つの作品に真摯に向き合い、魂を込める必要があるのです」


琴美:「和田さん、長年この仕事をされてきて、作品に対する思いは変わりましたか?」


磔子:(少し遠い目をして)「ええ、確かに変わりました。若い頃は、技術的な完成度を追い求めていました。より美しく、より精緻に。でも、年を重ねるにつれ、大切なのは見た目の美しさだけではないことに気づいたんです」


琴美:「それは、どういうことでしょうか?」


磔子:「見る人の心に、どれだけ深く響くか。それが最も重要なんです。技術的には少々粗くても、魂が震えるような作品。そういうものを作りたいと思うようになりました」


琴美:「わかります。私も最近、同じようなことを考えていました。完璧な技巧を追求するよりも、見る人の心に直接語りかけるような仏像を彫りたいと」


磔子:「そう、まさにそれです。私たちの作品は、単なる鑑賞物ではありません。見る人の心に寄り添い、慰め、励ます存在でなくてはならない」


琴美:「そう考えると、私たちの仕事は、単なる彫刻家以上の意味を持つのかもしれませんね」


磔子:「ええ、私たちは魂の通訳者のようなものかもしれません。目に見えない神性や仏性を、人々の心に届く形に翻訳する。そんな役割を担っているのではないでしょうか」


琴美:「魂の通訳者……。素晴らしい表現ですね。和田さん、これからの時代、私たちの仕事にはどのような意味があると思いますか?」


磔子:(真剣な表情で)「現代は、物質的には豊かになりましたが、心の貧しさを感じる人も多い。そんな時代だからこそ、魂に直接語りかける芸術の重要性は増しているのではないでしょうか」


琴美:「確かに。テクノロジーが発達し、何でもすぐに手に入る時代。でも、心の平安は簡単には得られない。そんな中で、仏像やキリスト像が、人々の心の拠り所になれたら……」


磔子:「そうですね。私たちの作品が、忙しない日常の中で、ほんの一瞬でも人々に立ち止まって自分の内面と向き合う機会を提供できたら。それが、私たちの使命なのかもしれません」


琴美:「和田さんとお話しして、改めて自分の仕事の意味を考えさせられました。これからも、魂を込めて仏像を彫り続けていきたいと思います」


磔子:「私も同じです。釈さん、これからもお互いに切磋琢磨しながら、魂の対話を続けていけたらいいですね」


琴美:「はい、本当にそう思います。今日の対話で、私の中に新しい扉が開いたような気がします」


磔子:「私もです。異なる伝統の中で育ってきた私たちですが、根底にある思いは同じなのだと、改めて感じました」


琴美:「そうですね。仏教とキリスト教、東洋と西洋。一見すると大きな隔たりがあるように思えますが、人間の魂の深みに触れようとする点では、驚くほど似ているんですね」


磔子:(微笑みながら)「そう、まさにその通りです。私たちの芸術は、形は違えど、同じ源泉から湧き出ているのかもしれません」


琴美:「和田さん、一つ提案があるのですが……」


磔子:「なんでしょうか?」


琴美:「もし可能であれば、一度、お互いの作品制作の現場を見学し合えないでしょうか?きっと、新しい発見があると思うんです」


磔子:(目を輝かせて)「いいですね! ぜひ実現させましょう。私も釈さんの仏像制作の過程を拝見したいと思っていました」


琴美:「ありがとうございます。きっと、それぞれの技法や心構えから、新しいインスピレーションが得られると思います」


磔子:「そうですね。そして、できれば若い世代の彫刻家たちにも、この経験を共有できたらいいですね」


琴美:「素晴らしい提案です。異なる伝統の間の対話は、次世代の芸術家たちにとっても大きな刺激になるでしょう」


磔子:「そうですね。私たちの世代で終わらせるのではなく、この対話を次の世代に引き継いでいく。それも私たちの役割かもしれません」


琴美:「本当にその通りです。和田さん、今日の対話を通じて、私は自分の仕事に対する新たな決意を感じています」


磔子:「私も同じです。釈さんとの対話は、私自身の芸術観を深めてくれました」


琴美:「これからは、仏像を彫る際に、より普遍的な"人間の魂"というものを意識していきたいと思います。仏教の枠を超えて、すべての人の心に響くような作品を作りたい」


磔子:「私も同感です。キリスト教の文脈だけでなく、すべての信仰、そして信仰を持たない人々の心にも響くような聖像を作ることを目指したいと思います」


琴美:「そうすることで、私たちの作品が、異なる文化や信仰の間の橋渡しになれるかもしれませんね」


磔子:「そう、芸術には、そんな力があるはずです。言葉や論理を超えて、直接心に語りかける力」


琴美:「和田さん、今日はこのような素晴らしい機会をいただき、本当にありがとうございました」


磔子:「こちらこそ、釈さん。この対話は私にとっても大きな学びとなりました」


 二人は深々と頭を下げ合った。その姿は、まるで互いの魂に敬意を表しているかのようだった。部屋に差し込む夕日が、二人の表情を柔らかく照らしている。


琴美:「和田さん、これからも時々、このような対話の機会を持てたらいいですね」


磔子:「ええ、ぜひそうしましょう。芸術は孤独な作業になりがちですが、こうして志を同じくする者同士で語り合うことで、新たな創造のエネルギーが生まれるのを感じます」


琴美:「本当にそうですね。今日の対話を胸に、明日からまた新たな気持ちで制作に臨めそうです」


磔子:「私もです。釈さん、お互いの作品を通じて、これからも"魂の対話"を続けていきましょう」


 二人は固く握手を交わし、互いの目を見つめ合った。その眼差しには、芸術家としての情熱と、人間としての深い理解が宿っていた。


 部屋を出る頃には、日はすっかり沈んでいた。しかし、二人の心の中では新たな光が灯されたようだった。それは、異なる伝統を超えて、人間の魂の深みに触れる芸術の可能性への希望の光だった。


 琴美と磔子は、別れ際にもう一度深々と頭を下げ合った。その仕草には、互いへの敬意と、共に歩む未来への期待が込められていた。二人は、それぞれの工房へと帰っていった。しかし、その足取りは来た時よりも軽やかで、確かなものになっていた。


(了)

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