手話通訳師:遠山美咲さん

◆初心者の手話 ~1年目の春~


 朝日が差し込む窓辺で、私は目を覚ました。名前は遠山美咲。22歳になったばかりの新米手話通訳師だ。今日から正式に手話通訳の仕事を始める。緊張と期待が入り混じる気持ちで、ベッドから飛び起きる。


 鏡の前に立ち、髪をとかしながら、昨夜も遅くまで練習した手話をもう一度復習する。


「おはようございます。遠山美咲と申します。本日より手話通訳をさせていただきます」


 自己紹介の手話を何度も繰り返す。指の動きがぎこちない。もっと滑らかにならなければ。


 化粧をしながら、今日の予定を頭の中で整理する。午前中は市役所での住民向け説明会。午後からは病院での診察の通訳だ。どちらも初めての経験で、不安が胸をよぎる。


 グレーのスーツに白いブラウス。清楚で信頼感のある装いを心がけた。バッグには手話辞典と筆談用のメモ帳を忘れずに。深呼吸をして、家を出る。


 市役所に到着すると、先輩の西野さんが待っていてくれた。


「おはよう、美咲ちゃん。緊張してる?」


 西野さんの温かい笑顔に、少し緊張がほぐれる。


「はい、少し……でも、頑張ります!」


「そうそう、その意気よ。でも無理しすぎないでね。分からないことがあったらすぐに聞いてね」


 西野さんの言葉に頷きながら、会場に向かう。


 説明会が始まると、私は市の職員の横に立ち、その言葉を手話に変換していく。最初は手が震えて、うまく表現できない。でも、目の前にいる聴覚障害者の方々の真剣な眼差しを見ると、少しずつ落ち着いてくる。


「税金の(*1)減免措置について説明します」


 職員の言葉を聞きながら、適切な手話表現を選ぶ。減免措置の手話をしっかりと覚えていてよかった、と安堵する。


 説明会が終わると、一人の中年の男性が近づいてきた。


「ありがとう。君のおかげでよく理解できたよ」


 その言葉に、胸が熱くなる。これが、手話通訳の醍醐味なのかもしれない。


 午後の病院での通訳も無事に終え、帰宅する頃には疲労感でいっぱいだった。でも、充実感もある。鏡の前で今日一日を振り返りながら、手話の練習を続ける。


「もっと上手くなりたい。もっと多くの人の役に立ちたい」


 そう思いながら、明日への希望を胸に秘めて眠りについた。


◆成長の兆し ~5年目の夏~


 目覚ましの音で目を覚ます。27歳になった私、遠山美咲は、慣れた手つきで朝の準備を始める。鏡の前で髪をまとめながら、今日の予定を頭の中で整理する。


「今日は、午前中に聾学校での特別授業。午後は裁判所での通訳……」


 5年前の初々しさは影を潜め、今の私の所作には自信が滲む。それでも、心の中には常に緊張感がある。


 化粧をしながら、ふと携帯電話が目に入る。昨夜、同僚の健太からメッセージが来ていた。


「明日の裁判、難しい案件だけど、美咲なら大丈夫だよ。頑張って!」


 健太との関係は、単なる同僚以上、恋人未満。お互いの気持ちは分かっているのに、一歩を踏み出せないでいる。仕事優先の毎日で、恋愛まで手が回らないのが現状だ。


 紺のスーツに白いブラウス。

 首元にはさりげないスカーフを添えて、清潔感と女性らしさを演出する。


 聾学校に到着すると、懐かしい顔が私を出迎えてくれた。


「美咲先生、おはようございます!」


 手話で挨拶をしてくれた生徒たち。彼らの成長を見るのが、この仕事の醍醐味の一つだ。


 教室に入ると、緊張した面持ちの生徒たちが座っている。今日のテーマは「手話通訳の仕事について」だ。


「皆さん、おはようございます。今日は、私の仕事について話します」


 手話で語りかけると、生徒たちの目が輝きを増す。


「手話通訳の仕事は、言葉の橋渡しをすること。でも、それだけじゃありません。相手の気持ちを理解し、正確に伝えることが大切なんです」


 質問タイムになると、一人の女子生徒が手を挙げた。


「美咲先生は、この仕事を選んで後悔したことはありますか?」


 その質問に、少し考え込む。


「後悔? そうですね……大変なこともたくさんあります。でも、誰かの役に立てたときの喜びは、何物にも代えがたいものです」


 授業が終わると、生徒たちが次々と質問をしてくる。その姿を見ながら、5年前の自分を思い出す。



 午後の裁判所での通訳は、緊張の連続の中で進んでいく。被告人は聴覚障害を持つ40代の男性。窃盗罪で起訴されているが、その背景には複雑な事情があるようだ。


 裁判官の言葉を手話に変換しながら、私は被告人の表情を注意深く観察する。彼の目に宿る不安と後悔。それを正確に伝えることも、私の仕事だ。


「被告人は、なぜこのような行為に及んだのですか?」


 裁判官の質問を手話で伝える。被告人は震える手で答え始める。


 被告人の震える手が、私の目に焼き付く。その指先から伝わってくる絶望と後悔の念が、まるで電流のように私の体を駆け抜ける。


「仕事がなくて……家族を養えなくて……」


 その言葉を音声に変換しながら、私は自分の感情を抑えるのに必死だった。喉元まで込み上げてくる同情の念を、必死に飲み込む。


 被告人の目に宿る深い悲しみ。その背後に見える、家族への愛情と自責の念。それらが私の心を強く揺さぶる。「なぜ、誰かが助けてあげられなかったの?」という思いが、心の中で叫びそうになる。


 でも、ここは法廷。


 私の役目は、ただ正確に通訳すること。どんなに心が痛もうと、どんなに助けたいと思っても、それは許されない。感情を交えれば、それは通訳者としての失格だ。


 深呼吸をして、心の中で自分に言い聞かせる。


「冷静に、正確に。それが、本当の意味で被告人を助けることになるんだ」


 表情を平静に保ちながら、私は淡々と通訳を続ける。しかし、心の中では激しい葛藤が渦巻いている。正確さを保つために感情を押し殺す。それは、まるで自分の心の一部を切り離すようだ。


 被告人の言葉一つ一つが、重たい鉛のように私の心に沈んでいく。「家族のため」という言葉に、私は自分の家族の顔を思い浮かべる。もし、自分がこの立場だったら……。その想像だけで、胸が締め付けられる。


 しかし、そんな思いも表に出してはいけない。ただ、正確に。感情を排除して。それが、プロとしての私の責務だ。


 通訳を続けながら、私は自分の心の中に壁を築いていく。感情を閉じ込め、理性だけを表に出す。その作業は、まるで自分の心を二つに引き裂くようだ。


 それでも、私は通訳を続ける。なぜなら、それが被告人の声を正確に伝える唯一の方法だから。私の感情を交えずに、ありのままを伝える。それこそが、この瞬間の被告人にとって最も必要なことなのだ。


 法廷の冷たい空気の中で、私は自分の役割を全うする。感情を押し殺し、ただ言葉を伝える道具となる。それは苦しい。でも、それが私の仕事だ。それが、手話通訳者としての私の使命なのだ。


 裁判が終わり、廊下に出ると、疲労感が一気に押し寄せてきた。深呼吸をして、気持ちを落ち着かせる。


「遠山さん、お疲れさま」


 振り向くと、同じ裁判所で働く通訳者の田中さんが立っていた。


「田中さん……ありがとうございます」


「今日の案件、難しかったでしょう? でも、あなたの通訳は素晴らしかったわ」


 田中さんの言葉に、少し肩の力が抜ける。


「ありがとうございます。でも、まだまだ勉強不足を感じます」


「そう謙遜しなくていいのよ。あなたの成長は目覚ましいわ。特に(*2)法廷通訳の技術は、ベテランにも引けを取らないわ」


 田中さんの言葉に、少し照れくさくなる。しかし、同時に今の自分の立ち位置を再確認できた気がした。


 帰宅後、シャワーを浴びながら今日一日を振り返る。聾学校での授業、裁判所での通訳。どちらも5年前の自分には想像もできなかった仕事だ。


 パジャマに着替え、ベッドに横たわる。携帯電話を手に取ると、健太からのメッセージが届いていた。


「お疲れさま。今日の裁判、上手くいった?」


 返信しようとして、少し躊躇う。仕事の話だけで会話を終わらせたくない。でも、それ以上の関係に踏み出す勇気もない。


「ありがとう。なんとかやり遂げたよ。健太こそ、お疲れさま」


 送信ボタンを押し、天井を見上げる。5年前と比べて、技術は確実に上がった。でも、私生活では何も変わっていない。このままでいいのだろうか……。


 そんな思いを抱えながら、明日への英気を養うべく眠りについた。


◆円熟の境地 ~10年目の秋~


 朝もやの中、目覚めの瞬間がやってきた。32歳になった遠山美咲の一日が、また始まる。


 鏡に映る自分の顔に、少しだけ皺が増えたように感じる。でも、目の奥に宿る自信は、10年前とは比べものにならないほど強くなっている。


 今日の予定は、午前中に(*3)手話通訳者養成講座の講師。午後からは、大企業の記者会見の通訳だ。それぞれに違った緊張感があるが、今の私なら十分にこなせる自信がある。


 ネイビーのパンツスーツに、淡いピンクのブラウス。首元には、さりげなくパールのネックレス。年齢に見合った、落ち着いた雰囲気を演出する。


 化粧をしながら、ふと指輪が目に入る。結婚して2年。健太との新しい生活は、想像以上に幸せなものだった。


「いってきます」


 台所で朝食の準備をしている健太に声をかける。


「いってらっしゃい。今日も素敵な橋渡しをしてきてね」


 健太の言葉に、心が温かくなる。


 養成講座の会場に到着すると、期待に満ちた目で私を見つめる受講生たちがいた。


「皆さん、おはようございます。今日は(*4)同時通訳の技術について学びましょう」


 手話と音声を同時に使いながら、講義を進める。10年の経験を詰め込んだ話に、受講生たちは熱心にメモを取っている。


「手話通訳は、単なる言葉の置き換えではありません。相手の感情、場の空気、文化的背景……全てを理解し、伝えることが大切です」


 講義の後半、一人の若い女性が質問をした。


「美咲先生、仕事と家庭の両立は大変じゃないですか?」


 その質問に、少し考えてから答える。


「正直、簡単ではありません。でも、家族の理解と支えがあれば、不可能ではありませんよ。むしろ、家庭があることで、仕事にも深みが出てくるんです」


 講座が終わると、受講生たちが次々と質問をしてくる。その姿を見ながら、10年前の自分を思い出す。あの頃の不安や迷いが、今では確かな自信に変わっている。


 午後の記者会見場に到着すると、すでに多くの報道陣が集まっていた。大企業の新製品発表会。技術的な専門用語が飛び交う難しい現場だ。


 CEO

CEOの隣に立ち、会見が始まる。専門用語が次々と飛び出す中、私は冷静に手話に変換していく。


「弊社の新製品は、(*5)量子コンピューティング技術を活用し……」


 難解な言葉を、聴覚障害者にも理解しやすいよう、適切な手話と表情で表現していく。以前なら焦っていたかもしれない場面も、今では余裕を持って対応できる。


 会見の途中、突然フロアから鋭い質問が飛んだ。


「御社の技術は、聴覚障害者にとってどのような意味を持つのでしょうか?」


 その質問に、CEOが少し戸惑う様子を見せた。私は瞬時に判断し、CEOの耳元でささやいた。


「もし宜しければ、私から補足説明させていただいてもよろしいでしょうか」


 CEOが頷くのを確認し、私は手話と音声を交えながら説明を始めた。


「この技術は、音声認識の精度を飛躍的に向上させます。つまり、より正確な字幕や、リアルタイムの手話翻訳が可能になるのです。これは、聴覚障害者の社会参加を大きく促進する可能性を秘めています」


 フロアからは驚きと納得の表情が見られた。CEOも安堵の表情を浮かべている。


 会見が終わると、一人の記者が近づいてきた。


「素晴らしい通訳でした。特に最後の補足説明は印象的でしたね」


「ありがとうございます。でも、これも10年の経験があってこそです」


 謙遜しつつも、自分の成長を実感する瞬間だった。


 帰宅途中、電車の中で携帯電話を確認すると、妊娠中の後輩、沙耶香からメッセージが来ていた。


「先輩、明日の健診に付き添っていただけますか? 夫が仕事で行けなくなってしまって……」


 返信しながら、自分が妊娠した時のことを思い出す。あの時も、先輩たちに助けてもらった。今度は自分が後輩を支える番だ。


「もちろんよ。一緒に行きましょう」



 家に帰ると、健太が夕食の準備をしていた。そして、リビングのベビーベッドでは、生後3ヶ月の娘・芽衣(めい)がすやすやと眠っていた。


「ただいま」


 小声で挨拶すると、健太が優しい笑顔で振り返る。


「お帰り、美咲。今日はどうだった?」


「うん、充実した一日だったわ」


 夕食を取りながら、今日あったことを健太に話す。健太は熱心に耳を傾けてくれる。話の途中、芽衣がむずがり始めた。


「あ、ごめんね。私が見るわ」


 美咲が立ち上がろうとすると、健太が手を置いた。


「いいよ、僕が行く。君はゆっくり食べて」


 健太が芽衣を抱き上げる姿を見つめながら、美咲は幸せな気持ちに包まれた。仕事と育児の両立は決して楽ではない。でも、こうして支え合える家族がいることが、何よりの力になっている。


 食事を終え、美咲が芽衣を抱きながらソファに座っていると、健太がお茶を持ってきてくれた。


「ありがとう」


 芽衣の柔らかな寝息を聞きながら、美咲は今日の記者会見のことを思い出した。


「ねえ、健太。今日の新製品のニュース、見た?」


「ああ、量子コンピューターの話だろ? すごい技術みたいだね」


「うん。あのね、その技術って、私たちの仕事にも大きな影響があるの」


 美咲は、その技術が聴覚障害者にもたらす可能性について熱心に語り始めた。健太は真剣な表情で聞いている。


「将来、芽衣が大きくなったとき、もっと音声と手話の壁がなくなってるかもしれないの。素晴らしいことだと思わない?」


 芽衣の頬をそっと撫でながら、美咲は未来に思いを馳せる。健太が優しく微笑んだ。


「君が仕事を通じて、そんな未来を作っているんだね。芽衣も、きっと誇りに思うよ」


 その言葉に、美咲の目に涙が浮かんだ。芽衣を見つめながら、静かに語りかける。


「ねえ、芽衣。ママはね、みんなが自由にコミュニケーションできる世界を作りたいの。あなたが大きくなったとき、そんな世界になってるといいな」


 芽衣が小さな手を動かし、まるで美咲の言葉に応えるかのように微笑んだ。その瞬間、美咲は自分の仕事の意味を、今まで以上に深く実感した。


 就寝前、ベッドに横たわりながら、美咲は明日の予定を確認する。そして、ふと考える。手話通訳という仕事を選んで本当によかった。苦労も多かったけれど、それ以上にやりがいがある。そして、これからもっと成長できる。家族のため、そして芽衣のような次世代のために。


 健太の寝息と、ベビーモニターから聞こえる芽衣の寝息に包まれながら、美咲は幸せな気持ちで眠りについた。


(了)


注釈:

(*1)減免措置:税金や料金の一部または全部を免除すること。

(*2)法廷通訳:裁判所での通訳のこと。法律用語や手続きに関する知識が必要。

(*3)手話通訳者養成講座:手話通訳者を育成するための専門的な講座。

(*4)同時通訳:話者の発言をリアルタイムで別の言語に訳すこと。手話通訳では、音声を聞きながら同時に手話で表現する。

(*5)量子コンピューティング技術:量子力学の原理を利用した革新的な計算技術。従来のコンピュータよりも高速な処理が可能。

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