バーテンダー:月下美寿さん

◆まだ新米だけれども……


 目覚めたのは、いつもより少し早い午前9時だった。私、月下美寿は、今日から念願のバーテンダーとしての第一歩を踏み出す。緊張と期待が入り混じった気持ちで、ゆっくりと目を開けた。


 22歳。まだあどけなさの残る顔立ちだが、瞳の奥には強い決意が宿っている。鏡の前に立ち、すっぴんの顔を見つめる。


「よし、頑張ろう」


 自分に言い聞かせるように呟いた。


 メイクは丁寧に。ナチュラルながら、夜のバーで映えるように。ファンデーションで肌を整え、アイラインはシャープに。唇は深みのあるボルドーを選ぶ。髪は黒髪のロングを、きっちりとまとめ上げた。服装は、白のブラウスに黒のスラックス。清潔感のある着こなしだ。


 朝食を済ませ、玄関に向かう。靴を履きながら、ふと不安がよぎった。90歳の祖父、月下翁太郎の店を継ぐという重責。男性社会の中で、女性である自分はやっていけるのだろうか……。しかし、そんな弱気な気持ちはすぐに振り払った。


「私には、私にしかできないことがある」


 そう、女性だからこそできる気配りがある。それを武器に、この業界に新しい風を吹き込んでみせる。


 祖父の経営するバー「月下亭」に到着すると、既に祖父が準備を始めていた。


「おはよう、美寿。準備はいいかな?」


「はい、頑張ります!」


 まずは、バーの清掃から。カウンターを丁寧に拭き、グラス類を磨き上げる。祖父の指示に従い、リキュール(*1)やスピリッツ(*2)のボトルを並べていく。


「美寿、シェイカー(*3)の扱いは覚えたかな?」


「はい、でも……まだ上手くできません」


「大丈夫、慣れるまでには時間がかかる。焦らずにな」


 祖父の優しい言葉に、少し安心する。


 開店前の最後の仕込みとして、ガーニッシュ(*4)の準備を任された。レモンやライムを薄くスライスし、オリーブやチェリーを小皿に盛り付ける。


「美寿、その細やかさは女性ならではだね。素晴らしい」


 祖父の言葉に、少し誇らしい気持ちになる。


 開店時間が近づき、緊張が高まる。深呼吸を繰り返し、心を落ち着かせる。


「準備はいいか? では、開店するぞ」


 祖父の声と共に、バーの扉が開かれた。


 最初のお客様は、常連の藤堂さん。優しそうな中年の紳士だ。


「いらっしゃいませ」


 精一杯の笑顔で迎える。


「おや、新しい子かい? かわいいねえ」


 その言葉に、少し戸惑いを感じる。

 しかし、プロフェッショナルとしての態度を崩さないよう心がける。


「ありがとうございます。本日からお世話になります」


 祖父が藤堂さんの注文を聞き、私に指示を出す。


「美寿、ウイスキー・ソーダ(*5)を作ってみなさい」


 緊張しながらも、慎重にグラスに氷を入れ、ウイスキーを注ぐ。ソーダを加え、軽くステア(*6)する。


「うーん、氷の量が少し多いな。でも、悪くない出来だ」


 祖父の言葉に、ほっとすると同時に、もっと上達しなければという思いが募る。


 夜が更けるにつれ、様々なお客様が訪れる。ビジネスマン、カップル、そして一人で物思いにふける方々。それぞれの表情や雰囲気を読み取り、適切な接客を心がける。


 閉店後、祖父と一緒に後片付けをしながら、今日一日を振り返る。


「美寿、初日としては上出来だったよ。でも、まだまだ課題はたくさんある」


「はい、分かっています。もっと勉強します」


 帰宅後、湯船に浸かりながら、今日の出来事を思い返す。うまくいかなかったこと、お客様との会話、そして祖父からのアドバイス。すべてが新鮮で、胸が高鳴る。


「明日はもっと上手くやれるはず」


 そう心に誓いながら、眠りについた。バーテンダーとしての人生は、まだ始まったばかり。これからどんな出会いや経験が待っているのか、期待と不安が入り混じる。でも、祖父の背中を見て育った私なら、きっと乗り越えられる。そう信じて、明日への英気を養った。



◆熟成の香り


 目覚めたのは、いつもより少し遅い午前11時だった。私、月下美寿は、バーテンダーとして5年目を迎えていた。27歳。少しずつ自信がついてきた顔立ちだが、今日は少し曇っている。


「ああ、また寝坊してしまった……」


 頭を抱えながらベッドから這い出る。昨夜は閉店後、新しいカクテルのレシピを考えていて気づけば朝方だった。


 急いで顔を洗い、メイクをする。いつもより濃いめのコンシーラーで、クマを隠す。髪はさっと束ねただけのポニーテール。服装も、手近にあった黒のシャツとジーンズ。


「もう、遅刻は避けられないわ」


 あきらめの溜息をつきながら、「月下亭」へと急ぐ。


 店に着くと、既にドアが開いていた。中から、祖父の声が聞こえる。


「美寿、遅いぞ!」


「ごめんなさい、おじいちゃん。昨夜、ちょっと……」


 言い訳をしようとした私の言葉を、祖父は手で制した。


「いいんだ。今日から、お前一人で店を任せる」


「え?」


 突然の言葉に、頭が真っ白になる。


「おじいちゃん、それは……」


「ワシももう95歳だ。引退する時期だよ。お前なら大丈夫だ」


 祖父の目は真剣だった。これは冗談ではない。


「で、でも……」


「美寿、お前はもう立派なバーテンダーだ。この5年間、よく頑張った」


 祖父の言葉に、胸が熱くなる。同時に、大きな不安も襲ってきた。


「分かりました。精一杯頑張ります」


 覚悟を決めて答える。


 その日から、私一人で「月下亭」を切り盛りすることになった。開店準備、接客、カクテル作り、そして経理まで。すべてを一人でこなさなければならない。


 最初の数日は、てんてこ舞いだった。注文を間違えたり、レシピを忘れたり。常連のお客様に助けられることも多々あった。


「美寿ちゃん、あわてなくていいよ。ゆっくりでいいんだ」


 藤堂さんの優しい言葉に、何度救われたことか。


 でも、日が経つにつれ、少しずつリズムをつかんでいった。


 ある夜、一人の若い女性が訪れた。


「すみません、お酒はあまり飲めないんですが……」


 その言葉に、私は微笑んだ。


「大丈夫です。あなたに合ったものをお作りしますね」


 フルーツジュースをベースに、ほんの少しのリキュールを加えた特製カクテルを作る。


「わあ、おいしい! これなら飲めます」


 彼女の笑顔を見て、私は思った。これが、バーテンダーの醍醐味なんだ。


 閉店後、カウンターを磨きながら、ふと祖父のことを思い出す。


「おじいちゃんは、こんな気持ちで毎日を過ごしていたのかな」


 そう思うと、急に祖父に会いたくなった。


 次の日、珍しく休みを取り、祖父の家を訪ねた。


「おや、美寿か。店は大丈夫か?」


「はい、なんとかやっています。でも、まだまだです」


 祖父は優しく微笑んだ。


「美寿、お前なりのバーを作ればいい。私のまねをする必要はないんだよ」


 その言葉に、はっとした。そうか、私は私なりの「月下亭」を作ればいいんだ。


 その日から、少しずつだが、自分なりの工夫を始めた。女性客向けの軽いおつまみを増やしたり、カクテルのプレゼンテーションにこだわったり。


 そして気づけば、「月下亭」は少しずつ変わっていった。女性客が増え、若いカップルも訪れるようになった。もちろん、昔からの常連さんたちも、その変化を温かく見守ってくれている。


 ある夜、カウンターを磨きながら、鏡に映る自分を見つめた。


「私、少し大人になったかも」


 そう思いながら、明日への期待を胸に秘め、店の明かりを消した。



◆百年の味


 目覚めたのは、柔らかな日差しが差し込む午前10時だった。私、月下美寿は、バーテンダーとして10年目を迎えていた。32歳。鏡に映る顔には、自信と落ち着きが宿っている。


 今日は特別な日。祖父、月下翁太郎の100歳の誕生日だ。

 この日のために、何か月も前から準備を重ねてきた。


 丁寧にスキンケアを行い、メイクも念入りに。艶のある赤のリップを選び、髪は柔らかなウェーブを作る。服装は、祖父が昔から好きだった深緑のワンピースを着ることにした。


「さて、行きましょう」


 自分に言い聞かせるように呟き、特別なボトルを手に取る。


 「月下亭」に到着すると、既に祝いの準備が整っていた。常連のお客様たちが集まり、祖父の到着を心待ちにしている。


「美寿さん、今日は楽しみですね」


 藤堂さんが優しく声をかけてくれる。


「はい、緊張します」


 その時、ドアが開き、祖父が現れた。100歳とは思えない凛々しさだ。


「おや、皆さん。お揃いで……」


 祖父の目が潤んでいるのが分かった。


「おじいちゃん、お誕生日おめでとうございます」


 深々と頭を下げる。


「ありがとう、美寿」


 祖父の声には、深い愛情が込められていた。


 祝宴が始まり、お客様たちが次々と祖父に祝福の言葉を贈る。私は、カウンターの中で特別なカクテルの準備を始めた。


 このカクテルは、祖父の人生と「月下亭」の歴史を表現したものだ。ベースには、祖父が若い頃に好んで使っていたジン(*7)を選んだ。そこに、祖父の故郷の梅酒(*8)を加え、さらに私が見つけた希少な山葡萄のリキュール(*9)をブレンド。最後に、レモンの酸味で全体を引き締める。


 グラスには、祖父が大切にしていたアンティークのクリスタルを使用。氷は、祖父が教えてくれた技法で作った球形のものを一つだけ。


 シェイカー(*10)を持つ手に、少し震えを感じる。

 でも、それは緊張ではなく、興奮だった。


「皆様、お待たせいたしました」


 静かに声を上げると、場の空気が引き締まる。


「おじいちゃん、これは私からの贈り物です。『百年の輝き』と名付けました」


 ゆっくりとカクテルを注ぎ、祖父の前に置く。

 透明な琥珀色の液体が、グラスの中で静かに揺れている。


 祖父はグラスを手に取り、しばらく香りを楽しむ。そして、一口。


 場が静まり返る。


 祖父の目が大きく見開かれ、そして……涙がこぼれた。


「美寿、これは……素晴らしい」


 その言葉に、私の中で何かが溢れ出す。


「このカクテルには、おじいちゃんの人生と、私の10年間の思いが込められています。おじいちゃんが教えてくれたすべてのことと、私が学んだことの集大成です」


 祖父は静かに頷き、もう一口飲む。


「美寿、お前は本当に立派なバーテンダーになった。おまえはきっと、私の夢を、はるかに超えていく……」


 その言葉に、胸が熱くなる。


 お客様たちからも祝福の言葉が飛び交い、「百年の輝き」を求める声が上がる。私は丁寧に一杯一杯を作っていく。


 夜が更けるにつれ、祝宴も佳境を迎える。祖父は昔話に花を咲かせ、お客様たちは熱心に耳を傾けている。


 カウンターの中で、私は静かに微笑む。10年前、不安と期待で胸がいっぱいだった新米バーテンダー。5年前、責任の重さに押しつぶされそうになりながらも前を向いていた私。そして今、確かな技術と自信を持って立っている。


 ふと、祖父と目が合う。言葉なしの会話が交わされる。


「ありがとう」

「こちらこそ」


 その夜、閉店後の「月下亭」で、祖父と二人きりでもう一杯の「百年の輝き」を楽しんだ。


「美寿、これからもこの店を、そしてお前の人生を輝かせていってくれ」


「はい、必ず」


 グラスを掲げ、静かに乾杯する。窓の外では、満月が優しく輝いていた。


 これからも、もっともっと素晴らしいカクテルを作り出していこう。そして、いつか自分の孫にこの技を伝えていけたら……。


 そんな思いを胸に、私は静かに目を閉じた。バーテンダーとしての人生は、まだまだ続いていく。そして、この「月下亭」とともに、私もまた成長し続けていくのだ。


注釈:

(*1) リキュール:果実やハーブなどを原料とし、糖類を加えて甘くした蒸留酒。

(*2) スピリッツ:蒸留酒の総称。ウイスキーやジンなどが含まれる。

(*3) シェイカー:カクテルを作る際に使用する、材料を振って混ぜるための道具。

(*4) ガーニッシュ:カクテルに添える飾り。見た目や香りを楽しむために使用される。

(*5) ウイスキー・ソーダ:ウイスキーにソーダ水を加えたシンプルな混成酒。

(*6) ステア:カクテルを作る際、材料をグラス内でバースプーンを使って静かに混ぜる技法。

(*7) ジン:ジュニパーベリーで香り付けした蒸留酒。

(*8) 梅酒:梅を白酒や焼酎に漬け込んで作る日本の伝統的な酒。

(*9) リキュール:果実やハーブなどを原料とし、糖類を加えて甘くした蒸留酒。

(*10) シェイカー:カクテルを作る際に使用する、材料を振って混ぜるための道具。



◆20年の深み


 目覚めたのは、いつもより少し早い午前8時だった。私、月下美寿は、今日でバーテンダー歴20年を迎える。42歳。鏡に映る顔には、年月が刻んだ柔らかな輝きがある。


「20年か……長かったような、あっという間だったような」


 呟きながら、丁寧にメイクを施す。少し増えた白髪は、あえて染めずにナチュラルに。唇は落ち着いたワインレッドで彩る。服装は、深みのあるネイビーのワンピースに、祖父の形見の真珠のネックレス。


「月下亭」に到着すると、いつもより早く準備を始める。

 今日は特別な日。常連のお客様たちが、祝いの会を開いてくれるという。


 カウンターを磨きながら、20年間の記憶が走馬灯のように駆け巡る。初めてシェイカーを握った日、一人で店を任された不安と興奮、そして祖父の100歳を祝った感動的な夜。


 午後7時、ドアが開く。


「おめでとう、美寿さん!」


 常連のお客様たちが、一斉に声をかけてくれる。


「みなさん……ありがとうございます」


 思わず、目頭が熱くなる。


 まず、いつも一番乗りの藤堂さんが、カウンターに座る。


「美寿ちゃん、20年か。俺たちも20年前から飲んでるってことだな。歳を取るわけだ」


「藤堂さん、お歳を感じさせない素敵な紳士のままですよ」


「はっはっは、この20年で美寿ちゃんの話術も上達したな」


 次に、文学評論家の村上さんが席に着く。


「美寿さん、あなたの20年は、まるで古典の名作のようだ。初めは生硬だった文体が、徐々に洗練されていく。そして今や、誰もが認める名文となった」


「村上さん、大袈裟です。私はまだまだ習作の段階です」


「いや、謙遜しなさんな。君のカクテルは、まさに珠玉の短編集だよ」


 そこに、政治家の佐藤さんが割って入る。


「美寿くん、20年といえば、一つの時代だ。君は、この「月下亭」という小さな国で、見事に長期政権を維持した」


「佐藤さん、私に野党はいませんからね。でも、お客様という強い与党がいらっしゃいます」


「はっはっは、さすがだ。外交手腕も一流だな」


 カウンターの隅では、数学者の高橋さんが静かに微笑んでいる。


「美寿さん、20年という数字には深い意味がある。2と0、有と無。そこには、無限の可能性が秘められている」


「高橋さん、私にはその奥深さはよく分かりませんが、これからも無限の可能性を信じて頑張ります」


 そこへ、新進気鋭の若手俳優、松本くんが颯爽と入ってくる。


「美寿さん、おめでとうございます! 僕にとって、ここは特別な場所です。初主演の前夜、美寿さんに励まされて…」


「松本くん、あの時はまだ高校生だったわね。今や立派な俳優さん。時の流れを感じるわ」


「僕も美寿さんのように、20年、30年と輝き続ける存在になりたいです」


 カウンターは、笑い声と温かな雰囲気に包まれる。一人一人のお客様が、それぞれの思い出を語ってくれる。


 私は、黙々とカクテルを作りながら、その声に耳を傾ける。20年間、本当に多くの人生に触れてきた。喜びも、悲しみも、すべてを受け止めてきた。


 ふと、藤堂さんが声をかける。


「ねえ、美寿ちゃん。20年前と今と、何が一番変わった?」


 その質問に、少し考え込む。


「そうですね……私自身でしょうか。20年前は、ただがむしゃらに前を向いていました。でも今は、一歩引いて全体を見られるようになった。そして、お客様一人一人の人生の一部に、この「月下亭」があることの幸せを、しみじみと感じられるようになりました」


 その言葉に、場が静まる。


「美寿ちゃん」村上さんが静かに言う。「それこそが、真のバーテンダーの姿だ。酒を注ぐだけが仕事ではない。人生を注ぐのだ」


 みんなが頷く。


「さあ、そろそろ乾杯といきましょうか」佐藤さんが声を上げる。「美寿くんの20年と、これからの20年に」


 私は、特別なカクテルを作り始める。20年間の経験と、今この瞬間の喜びを込めて。


「これは、『二十彩(にじゅうさい)』と名付けました。20の色彩、20の味わいを重ねて…」


 グラスを掲げる。


「皆様、本当にありがとうございます。これからも、このカウンターで、皆様の人生に寄り添っていけたら…」


 声が詰まる。


「乾杯!」


 グラスが優しく触れ合う音が、「月下亭」に響く。


 この20年は、決して平坦な道のりではなかった。でも、こうして振り返ると、すべてが愛おしい。そして、これからの20年。どんな出会いが、どんな物語が待っているのだろう。


 カウンターの向こう、鏡に映る自分に微笑みかける。


「さあ、まだまだこれから」


 そう心に誓いながら、次のオーダーを待つ。バーテンダーとしての人生は、まだまだ続いていく。そして、この「月下亭」とともに、私もまた成長し続けていくのだ。


(了)

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