歩荷:山稜峰子さん

◆新緑の目覚め ~1年目の春の朝~


 朝靄の中、私は目を覚ました。山小屋の窓から差し込む柔らかな光が、まるで大地の息吹のように優しい。私の名前は山稜峰子(やまりょうみねこ)。22歳になったばかりの新米歩荷だ。


 起き上がると、鏡に映る自分の姿に少し戸惑う。短く切りそろえた黒髪に、まだあどけなさの残る顔。でも、この手は既に山を知る者の手だ。荷物を担ぐ作業で鍛えられた指先を見つめながら、私は深呼吸をする。


「よし、今日も山と向き合おう」


 声に出して自分を鼓舞すると、少し気持ちが引き締まる。


 朝食を済ませ、作業着に着替える。化粧はせず、ただ日焼け止めだけはしっかりと塗る。山の紫外線は強烈だ。髪は後ろでしっかりとまとめる。安全第一。それが歩荷の鉄則だ。


 山小屋を出ると、朝もやの中を歩き始める。周囲の木々が、新緑の装いで私を出迎えてくれる。その鮮やかな緑は、まるで生命そのものが色を纏ったかのよう。朝露に濡れた葉が、陽の光を受けてきらめいている。


 湿った土の香りが鼻をくすぐる。深呼吸をすると、清々しい空気が肺いっぱいに広がる。小鳥のさえずりが、新しい一日の始まりを告げている。


 荷物置き場に到着すると、先輩の岳男(たけお)さんが既に準備を始めていた。


「おはよう、峰子。今日は大荷物(*1)だ。気合い入れていくぞ」


「はい、岳男さん! よろしくお願いします」


 私は元気よく返事をしながら、内心では緊張していた。大荷物は歩荷にとって最大の挑戦。ここで失敗すれば、山小屋の運営に支障をきたしかねない。


 背負子(*2)に荷物を積み始める。米俵、缶詰、飲料水……一つ一つ丁寧に、しかし素早く積み上げていく。その瞬間、不思議な感覚に襲われた。


 まるで、荷物一つ一つが私に語りかけているかのよう。「大切に運んでね」と。私は静かに頷き、集中を取り戻す。


「峰子、その荷物の組み方はなかなかだな。でも、もう少し重心を下げた方がいい。こうやってな」


 岳男さんが隣で手本を見せてくれる。大きな手で器用に荷物を積み直していく姿に、思わず見とれてしまう。


「はい、ありがとうございます!」


 私は必死に岳男さんの動きを真似る。男性ばかりの職場で、唯一の女性である私。周りの視線を気にしながらも、ひたすら作業に没頭した。


 いよいよ出発の時が来た。背負子を担ぎ、一歩を踏み出す。その瞬間、全身に重みが伝わる。でも、それは単なる重さではない。山小屋で待つ人々の期待、自然との対話、そして自分自身への挑戦。それら全てを背負っているのだと、私は感じた。


 登山道を歩き始めると、周囲の景色が一変する。


 木々の間から差し込む朝日が、道を黄金色に染めていく。足元には、可憐な山野草が顔を覗かせている。カタクリの紫、フキノトウの緑、ミツバツツジのピンク。その色彩の豊かさに、思わず足を止めてしまいそうになる。


 しかし、歩荷に休息は許されない。一歩一歩、着実に前へ進む。汗が滝のように流れ、筋肉は悲鳴を上げている。それでも、私は歩み続ける。


 途中、休憩ポイントで同期の渓太(けいた)くんと出会った。


「峰子さん、大丈夫ですか? 荷物、重そうですね」


「うん、なんとかね。でも、まだまだ岳男さんには遠く及ばないわ」


「そうですか? 僕から見たら、峰子さんの方が安定感があるように見えますけど」


 渓太くんの言葉に、少し照れくさくなる。でも、本当のところはまだ自信が持てない。女性だからといって特別扱いされたくはない。むしろ、それ以上の努力をして認められたいんだ。


 再び歩き始める。登山道は次第に急勾配になっていく。足元の石ころが、まるで私を試すかのように転がっている。一歩踏み外せば、転倒は免れない。


 そんな中、ふと目に入ったのは、岩の隙間から顔を覗かせるイワカガミの花。厳しい環境の中で、けなげに咲く姿に、私は勇気づけられた。


「そうよ、私だってこの花のように、どんな環境でも咲き誇ってみせる」


 その思いを胸に、私は再び歩み始めた。


 正午を過ぎ、ようやく目的地の山小屋が見えてきた。最後の急斜面に差し掛かる。


「峰子! そこの傾斜、気をつけろ!」


 岳男さんの声が響く。私は慌てて体勢を立て直す。冷や汗が背中を伝う。


 それでも、一歩一歩、確実に前に進む。そして、ついに山小屋に到着した瞬間。


「お疲れ、峰子。初荷としては上出来だったぞ」


 岳男さんが肩を叩いてくれる。その言葉に少し救われる思いがした。


 荷物を降ろすと、全身の緊張が解けるのを感じた。振り返ると、来た道が一望できる。遠く霞む山々、深い緑の森、そして蛇行する登山道。その景色に、今日一日の苦労が報われた気がした。


 夕方、仕事を終えて山小屋の外に出る。西に沈みゆく太陽が、山々を オレンジ色に染めていく。吹き抜ける風が、汗ばんだ肌を優しく撫でる。


 大きく腕を広げ、深呼吸をする。樹々の香り、土の匂い、そして山の空気。それらが混ざり合い、この山だけの特別な香りを作り出している。


「ああ、生きている」


 思わずそんな言葉が漏れた。都会では決して味わえない、自然と一体になった感覚。それこそが、私がこの仕事を選んだ理由だった。


 疲れた体を引きずるようにして部屋に戻る。シャワーを浴び、汗を流す。湯船につかりながら、ふと窓の外を見る。


 満天の星空が、まるで天蓋のように広がっていた。都会では決して見ることのできない、濃密な星の海。その中に、私の未来も輝いているような気がした。


「いつか、私もあの星のように、山で輝ける存在になりたいな……」


 そんな夢を描きながら、私は目を閉じた。明日もまた、新しい挑戦が待っている。



◆夏の頂 ~5年目の炎天下~


 真夏の朝日が昇る前、私は目を覚ました。山小屋の窓から差し込む光が、今日の酷暑を予感させる。27歳になった私、峰子は、もう堂々とした歩荷と呼べる存在になっていた。


 鏡に映る自分の姿を確認する。日焼けした肌に、引き締まった表情。5年間の経験が、私の外見にも内面にも刻まれていた。


「さあ、今日も山と対話しよう」


 いつもの掛け声で自分を奮い立たせる。


 朝食をしっかり取り、作業着に着替える。化粧と呼べるものは日焼け止めだけ。それでも、長年の野外作業で鍛えられた肌は、健康的な輝きを放っている。


 山小屋を出ると、既に蝉の鳴き声が響いていた。深緑の木々が朝露を纏い、光を受けてきらめいている。空気は湿度を含み、肌に纏わりつく。


 今日は特別な日だ。夏山シーズンのピーク時期で、大量の物資を運ばなければならない。


 荷物置き場に到着すると、後輩の渓流(けいりゅう)くんが駆け寄ってきた。


「おはようございます、峰子さん! 今日の配分、確認しました?」


「おはよう、渓流くん。ええ、確認したわ。今日は超大型荷物(*3)よ。気を引き締めていこう」


 背負子に荷物を積み始める。経験を積んだ今では、荷物の重さや形状を瞬時に判断し、最適な積み方ができるようになっていた。


「峰子、この荷物の配分、どう思う?」


 岳男さんが声をかけてきた。今では私も中堅として、意見を求められるようになっていた。


「はい、確認します」


 私は慎重に荷物を観察し、計算を始める。


「登山道の状態と天候を考慮すると、もう少し左右の重さを均等にした方が良いと思います」


「よく気がついたな。さすが峰子、目が肥えてきたな」


 岳男さんの言葉に、内心で喜びを感じる。でも、まだまだ油断はできない。


 いよいよ出発の時が来た。背負子を担ぎ、一歩を踏み出す。5年前とは比べものにならないほどの重量だが、体が自然と対応してくれる。


 登山道を歩き始めると、夏の山の息吹が全身を包み込む。木々の間から漏れる陽光が、まるで黄金の雨のよう。足元には、夏の山野草が咲き誇っている。ニッコウキスゲの鮮やかな黄色、ヤマユリの白。その美しさに心を奪われそうになるが、歩みを止めるわけにはいかない。


 汗が滝のように流れ、シャツが体に張り付く。それでも、私は前へ進み続ける。かつては重荷に押しつぶされそうだった道のりも、今では自分の一部のように感じられる。


 途中、休憩ポイントで新人の雪乃(ゆきの)ちゃんと出会った。


「峰子さん、すごいです! その重さで、そんなに余裕があるなんて」


「雪乃ちゃん、大丈夫? 荷物、重くない?」


「はい、なんとか……でも、峰子さんみたいにはいきません」


 雪乃の言葉に、5年前の自分を重ねる。


「大丈夫よ。私だって最初は本当に大変だった。コツは、山とリズムを合わせること。山の呼吸を感じて」


 アドバイスをしながら、後輩を育てる立場になった自分を実感する。


 再び歩き始める。真夏の太陽が容赦なく照りつける中、私は歩み続ける。汗で視界が滲むが、それでも前を見据える。


 急な岩場に差し掛かる。足場が不安定で、一歩間違えれば転落の危険がある。しかし、経験を積んだ今の私には、それほどの恐怖はない。岩肌の質感、風の向き、自分の重心。全てを瞬時に判断し、最適な動きで岩場を越えていく。


 その時、ふと目に入ったのは、岩の隙間から力強く伸びる一本の松。厳しい環境の中で、たくましく生きる姿に、私は自分を重ねた。


「そうよ、私もこの松のように、どんな困難でも乗り越えてみせる」


 その思いを胸に、私は再び歩み始めた。


 正午を過ぎ、ようやく目的地の山小屋が見えてきた。最後の急斜面に差し掛かる。


「峰子! 後ろの新人に気をつけろ!」


 岳男さんの声が響く。振り返ると、雪乃が足を滑らせそうになっていた。瞬時に判断し、片手で雪乃を支えながら、もう一方の手で自分のバランスを取る。


 無事に二人とも体勢を立て直し、最後の登りを終えた。山小屋に到着した瞬間、全員から拍手が沸き起こった。


「さすが峰子! 見事な采配だったぞ」


 岳男さんが笑顔で言う。その言葉に、これまでの努力が報われた気がした。


 荷物を降ろし、深呼吸をする。振り返ると、来た道が一望できる。遠くの山々が陽炎で揺らめいて見える。その景色に、今日一日の達成感が込み上げてきた。


 夕暮れ時、仕事を終えて山小屋の屋上に上がる。西に沈みゆく太陽が、山々をオレンジ色に染めていく。熱気が引いた風が、汗ばんだ肌を優しく撫でる。


 大きく腕を広げ、深呼吸をする。夏の山の香り、清々しい空気、そして自分の汗の匂い。それらが混ざり合い、この瞬間だけの特別な香りを作り出している。


「ここが私の場所」


 心からそう思えた。5年前は不安と戸惑いばかりだったが、今では山との一体感を感じられる。それは、ただ歩荷としての技術が向上しただけでなく、自然と対話する力を身につけたからだと実感する。


 シャワーを浴び、汗を流す。湯船につかりながら、ふと窓の外を見る。


 満天の星空が広がっていた。5年前と同じ星空なのに、今の私には違って見える。一つ一つの星が、これまでの苦労や喜び、そして未来への希望を語りかけてくるよう。


「まだまだ、登るべき山がある」


 そう呟きながら、私は目を閉じた。明日からは、さらに大きな挑戦が待っている。山と共に生きる喜びを胸に、私は新たな高みを目指す。



◆第三章:紅葉の調べ ~10年目の秋の夕暮れ~


 夕陽が山々を赤く染める頃、私は目を覚ました。山小屋の窓から差し込む光が、秋の深まりを告げている。32歳になった私、峰子は、今や歩荷の世界で一目置かれる存在となっていた。


 鏡に向かい、少し伸びた髪をさっと梳く。年齢を重ねた分だけ自信に満ちた表情。そして、10年の歳月が刻んだ確かな技術の跡が手に残っている。


「さて、今日も山の声を聴こう」


 いつもの言葉で自分を鼓舞する。この言葉は、私の歩荷としての哲学でもあった。


 夕食をしっかりと取る。今夜は特別な仕事がある。秋の紅葉シーズン、夜間の緊急物資輸送だ。化粧は控えめだが、凛とした雰囲気を醸し出すよう心がける。


 山小屋を出ると、秋の夕暮れが私を包み込む。紅葉した木々が、夕陽を受けて燃えるように輝いている。風に乗って舞い落ちる葉が、まるで私の行く手を祝福しているかのよう。


 空気は冷たく、肌を刺すが、それもまた心地よい。深呼吸をすると、木々の香りと土の匂いが混ざった秋特有の香りが鼻腔をくすぐる。


 荷物置き場に到着すると、チームのメンバーが既に準備を始めていた。


「お疲れ様です、峰子さん!」


 かつての後輩、渓流が声をかけてくる。今や彼も一人前の歩荷だ。


「お疲れ様、渓流くん。今夜の作業、緊張してる?」


「はい、少し……夜間輸送は初めてですから」


「大丈夫よ。私たちの技術なら、安全に運び切れるわ」


 自信を持って答える私。しかし内心では、この仕事の重要性に身が引き締まる思いだった。


 背負子に荷物を積み始める。今夜の荷物は医療品。山小屋で急患が出たとの連絡を受けての緊急輸送だ。


「皆さん、注意を! 今回の輸送は人命に関わります。安全第一で進めましょう」


 私は凛とした態度で指示を出す。


「峰子さん、ヘッドライトの予備電池、確認しました?」


 若手の雪乃が、心配そうに尋ねてくる。


「ええ、大丈夫よ。でも良い指摘ね。皆も念のため、もう一度確認しておいて」


 細かい指示を出しながら、私も自ら準備を確認する。何度も経験を重ねてきたからこそ、細部にまで気を配れるようになった。


 夜が更ける頃、いよいよ出発の時が来た。


「全員、準備はいい? それじゃあ、出発!」


 私の声が夜の静寂を破る。緊張が最高潮に達する中、一歩を踏み出す。


 月明かりに照らされた登山道を、私たちは慎重に進んでいく。ヘッドライトの明かりが、道を細く照らし出す。周りの木々が、不思議な影を作り出している。


 夜の山は、昼間とは全く違う顔を見せる。昼間は賑やかだった鳥のさえずりの代わりに、虫の音が響く。時折、夜行性の動物の気配を感じ、身を引き締める。


 急な上り坂に差し掛かる。夜間の視界の悪さが、難度を倍増させる。しかし、10年の経験を積んだ私の体は、自然とリズムを刻む。呼吸を整え、一歩一歩、確実に前進していく。


「峰子さん、この先の岩場、どう攻略します?」


 渓流が尋ねてくる。


「うーん、昼間なら右側のルートがいいんだけど、ちょっと遠回りだけど夜は左の方が安全ね。岩の凹凸が少ないから」


 判断を下しながら、私は後輩たちに的確な指示を出す。彼らの成長を見守りつつ、時に厳しく、時に優しく導いていく。それもまた、私の役目となった。


 月が雲に隠れ、辺りが一層暗くなる。その時、ふと目に入ったのは、岩の隙間で静かに輝くホタルの光。厳しい夜の山で、けなげに光を放つ姿に、私は心を打たれた。


「そうよ、私たちもあのホタルのように、この闇を照らす光となるの」


 その思いを胸に、私たちは再び歩み始めた。


 夜も更けた頃、ようやく目的地の山小屋が見えてきた。最後の急斜面に差し掛かる。


「皆、最後の踏ん張りよ! 気を抜かないで!」


 私の声が夜空に響く。全員が集中力を高め、慎重に歩を進める。


 そして、ついに山小屋に到着。扉が開き、待ちかねていた医師が飛び出してくる。


「間に合いました! ありがとうございます!」


 医師の感謝の言葉に、全員の顔に安堵の表情が広がる。


 荷物を降ろし、深く息を吐く。振り返ると、来た道は闇に包まれている。しかし、その闇の向こうに、私たちが踏破してきた道のりが鮮明に浮かぶ。


 夜が明ける頃、全ての作業を終えて山小屋の屋上に上がる。東の空が少しずつ明るくなり始めている。冷たい朝の風が、疲れた体を包み込む。


 大きく腕を広げ、深呼吸をする。夜の山の香り、朝露の匂い、そして仲間たちと共に歩んだ証としての汗の匂い。それらが混ざり合い、この瞬間だけの特別な香りを作り出している。


「これが私の人生」


 心からそう思えた。10年前は不安と戸惑いばかりだったが、今では山との一体感、そして仲間との絆を強く感じられる。それは、単に歩荷としての技術が向上しただけでなく、自然と人との調和を体得したからだと実感する。


 朝日が山の端から顔を覗かせる。その光が、紅葉した木々を照らし、まるで山全体が燃え上がるような景色を作り出す。


 仲間たちと共に、この壮大な朝焼けを眺める。結婚や出産はまだ先の話だが、この仕事に打ち込める幸せを感じている。そして、後進の育成という新たな使命も見出した。


「まだまだ、伝えるべきことがある」


 そう呟きながら、私は朝日に向かって手を伸ばした。明日からは、若い歩荷たちを導く新たな挑戦が始まる。山と人をつなぐ架け橋として、私はまた新たな高みを目指す。


 朝焼けに輝く山々を背景に、私たち歩荷のシルエットが浮かび上がる。それは、自然と人間の共生を体現する、一幅の絵画のようだった。



注釈:

(*1) 大荷物:通常の荷物よりも重量や体積が大きい荷物のこと。

(*2) 背負子:背中に背負って荷物を運ぶための道具。

(*3) 超大型荷物:通常の大荷物をさらに上回る重量や体積の荷物のこと。



◆『山と海を遠く越えて』


 紅葉が深まる10月の夜、私たち歩荷たちは山小屋に集まっていた。窓の外では冷たい風が木々を揺らし、紅葉した葉を舞い散らせている。その音が、懐かしい思い出の扉を静かに開いていく。


 40歳になった私、峰子は、テーブルを囲む仲間たちの顔を見渡した。渓流、雪乃、そして新人の葉月。みんな、それぞれの思いを胸に秘めながら、この夜の語らいを待っているようだった。


「さあ、みんな。今夜の夕食は特別よ」


 私は笑顔で言いながら、大きな鍋を中央に置いた。蓋を開けると、芳醇な香りが立ち込める。


「わあ、すき焼きですか?」


 葉月が目を輝かせる。


「ええ、そうよ。でも、ただのすき焼きじゃないの。これは、岳男さんの思い出の味なの」


 その言葉に、部屋の空気が少し引き締まる。

 岳男さん――私たちの大先輩であり、5年前に不慮の事故で亡くなった恩人だ。


 渓流が静かに口を開く。


「岳男さんのすき焼き、懐かしいですね。あの人が作ると、なぜか特別美味しかった」


「そうそう」


 私は頷きながら、鍋に火をつける。


「岳男さんはね、山の恵みを最大限に活かすのが上手だったの。このすき焼きだって、山菜を入れたり、鹿肉を使ったり。でも、それ以上に大切なのは、みんなで食べること。そう教えてくれたわ」


 肉がジュージューと音を立て始め、部屋中に香ばしい匂いが広がる。


「いただきます」


 全員で手を合わせ、食事が始まる。最初の一口で、懐かしい味が口の中に広がる。


「ああ、この味」


 雪乃が目を閉じる。


「岳男さんが最後に作ってくれたすき焼きの味そのものです」


 私は静かに頷く。


「岳男さんは、食事の時間を大切にしていたわね。どんなに忙しくても、みんなで食べる時間は絶対に作った。『山で働く者同士、食事を共にすることで絆が深まる』って」


 渓流が思い出したように言う。


「そういえば、岳男さんが教えてくれたんですよ。『山を知るには、まず自分を知れ』って」


「ああ、あの言葉ね」


 私は懐かしく微笑む。


「岳男さんは、自然を敵対するものとして見るんじゃなく、共生するものとして接することの大切さを教えてくれたわ。だからこそ、あんなに多くの遭難者を救出できたのよね」


 鍋をつつきながら、みんなで岳男さんの思い出話に花を咲かせる。厳しい訓練の日々、危険な救助活動、そして時には笑い話になるようなハプニング。一つ一つの思い出が、岳男さんの優しさと強さを浮き彫りにしていく。


「でも」


 雪乃が静かに言った。


 「どうして岳男さんは、あんな形で……」


 部屋の空気が一瞬重くなった。

 そう、岳男さんは5年前、海でのカヌー遭難事故で命を落としたのだ。

 山の男が、なぜ海で……。

 その疑問は、私たちの心の中でずっと燻り続けていた。


 深呼吸をして、私は静かに語り始めた。


「岳男さんはね、『挑戦することを恐れるな』って、よく言っていたわ。山での経験を活かして、海でも人々を助けたいと思ったんでしょう。最後まで、人を救うことに命を懸けていた」


 渓流が頷く。


「そうですね。岳男さんは、境界線を作らない人でした。山も海も、自然の一部。だから、どこであっても全力で向き合おうとしていた」


「そう」


 私は続ける。


「岳男さんが最後に私たちに残してくれた言葉、覚えてる? 『自然は厳しいけど、人の心ほど複雑じゃない。だから、自然と向き合うことで、人の心も理解できるようになる』って」


 みんなが静かに頷く。

 その言葉の重みが、今も私たちの心に深く刻まれている。


「岳男さんが教えてくれたことは、山での仕事だけじゃなかったわ」


 私は鍋をかき混ぜながら続ける。


「人との接し方、自然との向き合い方、そして何より、命の大切さ。岳男さんの背中を見て、私たちは本当に多くのことを学んだ」


 雪乃が静かに付け加える。


「岳男さんが救った人たち、今でも山小屋に訪ねて来ますよね。みんな、岳男さんへの感謝の気持ちを忘れていない」


「そうね」


 私は頷く。


「岳男さんの存在は、救われた人たちの人生を大きく変えた。そして、その人たちが今度は他の人を助ける。そんな連鎖が、今も続いているのよ」


 鍋が空になり、お腹も心も満たされていく。

 窓の外では、月が雲間から顔を覗かせ、山々を銀色に染めている。


「えっと……」


 葉月が恐る恐る口を開く。


「私、岳男さんには会ったことがないけど、みんなの話を聞いていると、なんだか会ったことがあるような気がしてきました!」


 私たちは思わず笑みを浮かべる。


「そうね、葉月ちゃん。岳男さんの精神は、きっと今もこの山に、そしてこの山小屋に生き続けているのよ」


 テーブルの上に、岳男さんの古い写真を置く。

 笑顔で山を背景に立つ岳男さんの姿に、みんなで黙祷を捧げる。


「岳男さん、私たちは今日もあなたから教わったことを胸に、山と向き合っています。これからも、見守っていてくださいね」


 静かな夜が更けていく中、私たちは岳男さんの遺志を継ぎ、明日への決意を新たにしていった。山の風が、まるで岳男さんの優しい手のように、山小屋を包み込む。


 そして私は思う。


 岳男さんが海で命を落としたことは、悲しい出来事だった。でも、それは同時に私たちに大切なことを教えてくれた。山であれ海であれ、自然と向き合う勇気、そして命の尊さ。その教えを胸に、私たちは今日も、明日も、山と共に生きていく。


 窓の外の満天の星空を見上げながら、私はつぶやいた。


「ありがとう、岳男さん。あなたの教えは、これからも私たちの道標であり続けます」


 その夜、山小屋は温かな思い出と、未来への希望に満ちていた。


(了)

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