日本人形製作師:瞥景櫻花さん



第一章:桜花の目覚め ~1年目の春の朝~


 朝靄の中、私は目を覚ました。窓から差し込む柔らかな光が、まるで人形の肌のように優しい。私の名前は瞥景べっけい櫻花おうか。22歳になったばかりの新米日本人形製作師だ。


 起き上がると、鏡に映る自分の姿に少し戸惑う。長い黒髪を丁寧に梳かし、まだあどけなさの残る顔。でも、この手は既に職人の手だ。木屑や糸くずが付いた指先を見つめながら、私は深呼吸をする。


「よし、今日も頑張ろう」


 声に出して自分を鼓舞すると、少し気持ちが引き締まる。


 朝食を済ませ、作業着に着替える。化粧は控えめに、ただ唇だけは薄紅色に染める。人形の顔を作る時、自分の唇の色を参考にすることがあるからだ。


 工房に向かう道すがら、桜並木の下を歩く。花びらが舞い落ちる様は、まるで人形の髪を飾る華やかな簪(かんざし)のよう。


 工房に到着すると、師匠の糸織(いとり)さんが既に作業を始めていた。


「おはよう、櫻花。今日は胴繰り(*1)の仕上げよ。気合い入れていくわよ」


「はい、糸織さん! よろしくお願いします」


 私は元気よく返事をしながら、内心では緊張していた。胴繰りは人形の魂とも言える部分。ここで失敗すれば、人形全体の印象が台無しになってしまう。


 作業台に向かい、慎重に木型を手に取る。ヤスリをかけ、滑らかな曲線を作り出していく。その瞬間、不思議な感覚に襲われた。


「櫻花さん、私を大切に作ってくださいね」


 まるで、木型から小さな声が聞こえたような……。私は首を振り、集中を取り戻す。


「櫻花、その手つきはなかなかだけど、もう少し力を抜いて。人形は優しく扱わないとね」


 糸織さんが隣で手本を見せてくれる。しなやかな指使いで、木型を形作っていく姿に見とれてしまう。


「はい、ありがとうございます!」


 私は必死に糸織さんの動きを真似る。男性が多い工房の中で、女性である私たち。周りの視線を気にしながらも、ひたすら作業に没頭した。


 昼休憩。工房の庭で、同期の紬(つむぎ)くんと弁当を広げる。


「櫻花さん、今日の胴繰り、上手くいってる?」


「うん、なんとかね。でも、まだまだ糸織さんには遠く及ばないわ」


「そうかな? 俺から見たら、櫻花さんの方が繊細さがあるように見えるけど」


 紬くんの言葉に、少し照れくさくなる。でも、本当のところはまだ自信が持てない。女性だからといって特別扱いされたくはない。むしろ、それ以上の努力をして認められたいんだ。


 午後の作業は、目入れ(*2)だ。小さな玉を慎重にはめ込んでいく。人形の魂が宿る瞬間。私は息を潜めて作業を続ける。


「櫻花! その目の角度、もう少し上向きにした方がいいわよ」


 先輩の絹代(きぬよ)さんの声が響く。私は慌てて修正する。冷や汗が背中を伝う。


 夕方になり、今日の作業が終わる。全身の緊張が解けるのを感じながら、私は作業台を片付ける。


「お疲れ、櫻花。初日としては上出来だったわ」


 糸織さんが肩を叩いてくれる。その言葉に少し救われる思いがした。


 疲れた体を引きずるようにして帰宅の途につく。家に着くと、まずはお風呂で一日の疲れを流す。湯船につかりながら、ふと目を閉じる。


 湯船に浸かったまま、私の意識は徐々に朦朧としていった。目を閉じると、周りの景色が変わり始める。湯気の向こうに、ぼんやりとした光が見え始めた。その光は次第に形を成し、一人の女性の姿となった。


 彼女は、まるで江戸時代から抜け出してきたかのような装いをしていた。艶やかな黒髪を丁寧に結い上げ、深い紫色の着物を纏っている。その着物には、繊細な刺繍で桜の花びらが描かれていた。年齢は四十代半ばくらいだろうか。凛とした佇まいの中に、柔らかな温かみが感じられる。


 女性は、優しく微笑みながら私を見つめていた。その瞳は、長年の経験と知恵を湛えているようだった。彼女の周りには、かすかに光る粒子が漂っている。それは、まるで人形の魂のようにも見えた。


 静寂が流れる中、女性がゆっくりと口を開いた。その声は、まるで遠い時代からの反響のように、柔らかく、しかし確かに私の心に届いた。


「櫻花よ、人形作りは魂を込める仕事。技術だけでなく、心も磨きなさい」


 その言葉は、まるで古の知恵のように響いた。女性の口元が動くたびに、周りの光の粒子が波打つように揺れる。


 私は言葉を失い、ただ聞き入るしかなかった。女性の眼差しには、慈愛と期待が混ざっているようだった。まるで、遠い未来を見通しているかのように。


 そして、女性の姿が徐々に霞み始めた。私は思わず手を伸ばしたが、指先をすり抜けるように、女性の姿は光の中に溶けていった。


 目を開けると、そこは再び普通の浴室だった。湯船の湯は少し冷め、指先がしわになっていた。しかし、胸の内には不思議な温もりが残っていた。


 まるで、遠い過去からのメッセージを受け取ったかのように。


「いつか、私も魂のこもった人形を作れるようになりたいな……」


 そんな夢を描きながら、私は再び目を閉じた。明日もまた、新しい挑戦が待っている。



◆櫻花の開花 ~5年目の夏の日~


 真夏の朝日が昇る前、私は目を覚ました。窓から差し込む光が、今日の酷暑を予感させる。27歳になった私、櫻花は、もう堂々とした日本人形製作師と呼べる存在になっていた。


 鏡に映る自分の姿を確認する。少し伸ばした黒髪に、引き締まった表情。5年間の経験が、私の外見にも内面にも刻まれていた。


「さあ、今日も人形たちと対話しよう」


 いつもの掛け声で自分を奮い立たせる。


 朝食をしっかり取り、涼しげな浴衣に着替える。化粧は控えめだが、目元だけはしっかりと整える。人形の表情を作る時、自分の目の輝きを参考にすることがあるからだ。


 工房に向かう道すがら、蝉の鳴き声が響く中を歩く。今日は特別な日。年に一度の人形供養祭(*3)の準備だ。


 工房に到着すると、後輩の紗良(さら)が駆け寄ってきた。


「おはようございます、櫻花さん! 今日の準備、確認しました?」


「おはよう、紗良ちゃん。ええ、確認したわ。今日は古い人形の修復と供養の準備よ。心を込めて行きましょう」


 工房に入ると、すぐに作業の準備に取り掛かる。古びた人形たちが、まるで私を見つめているかのよう。


「櫻花、この人形の補修、どう思う?」


 糸織さんが声をかけてきた。


「はい、確認します」


 私は慎重に人形を手に取り、傷んだ部分を観察する。


「胴部の継ぎ目が緩んでいますね。木工用接着剤(*4)で補強し、表面を木粉(*5)で整えれば……」


「よく気がついたわ。さすが櫻花、目が肥えてきたわね」


 糸織さんの言葉に、内心で喜びを感じる。でも、まだまだ油断はできない。


 昼頃、蒸し暑さが増す中、供養祭の準備が佳境を迎える。古い人形たちを丁寧に清め、新しい着物を着せていく。


「櫻花さん、この帯の結び方、教えてください」


 後輩の絹衣(きぬい)が困った様子で声をかけてくる。


「ああ、この結び方は少し難しいのよね。こうやって……」


 私は優しく手本を見せながら、絹衣に教える。後輩を指導する立場になった今、自分の成長を実感する。


 午後、いよいよ供養祭の儀式が始まる。私は白装束に着替え、深呼吸をする。


「みんな、人形たちの魂を敬う気持ちを忘れずに。彼らは長年、人々に寄り添ってきたのよ」


 私の声に、全員が静かに頷く。一つ一つの人形に向き合い、感謝の言葉を捧げていく。その瞬間、不思議な体験をした。


「ありがとう、櫻花さん。私たちの想いを、次の世代に伝えてください」


 まるで、人形たちの声が聞こえたような気がした。私は目を閉じ、その想いを心に刻む。


 儀式が終わり、工房の片付けを始める頃には日が暮れかけていた。疲れきった体で帰宅の途につく。家に着くと、まずはシャワーで汗を流す。


 冷たい麦茶を片手に、縁側に腰掛ける。庭に置いた風鈴の音を聴きながら、今日一日を振り返る。


「まだまだ、極めるべき道がある」


 そう呟きながら、私は目を閉じた。すると、またあの古風な女性が夢に現れた。


「櫻花よ、あなたは着実に成長している。でも忘れてはいけない。人形は単なる物ではなく、人の想いが宿るもの。その想いを形にする、それがあなたの使命よ」


 目を覚ますと、風鈴の音が優しく響いていた。明日からは、新しい人形作りが始まる。人々の想いを形にする、その責任と喜びを胸に、私は夜空を見上げた。



◆櫻花、時を超えて ~10年目の秋の夕暮れ~


 紅葉が深まる頃、私は工房の片隅で古い箱を見つけた。32歳になった私、櫻花は、今や日本人形製作の世界で一目置かれる存在となっていた。しかし、この箱の発見が、私の人生を大きく変えることになるとは、その時はまだ知る由もなかった。


 箱を開けると、中から一体の古びた人形が現れた。その瞬間、不思議な風が吹き、私の意識が遠のいていった……。


 目を覚ますと、そこは江戸時代の工房だった。着物姿の私を見下ろし、にっこりと微笑む年配の女性。


「やっと来てくれたのね、櫻花」


「え? あの、どちらさまでしょうか?」


「わたしは楓(かえで)。あなたの先祖で、人形師よ。あなたをずっと待っていたの」


 驚きに言葉を失う私に、楓は優しく語りかけた。


「櫻花、あなたには受け継ぐべき技があるの。それは、人形に真の生命を吹き込む秘技よ」


 そう言うと、楓は一つの人形を取り出した。その人形に触れた瞬間、不思議なことが起こった。人形が動き出したのだ。


「これが、私たちの家系に伝わる秘技『命吹き込みの術』(*6)よ。でも、これを使うには大きな代償が必要。自分の寿命を削るの」


 楓の言葉に、私は戸惑いを覚えた。しかし、人形に命を吹き込む。それは、私が長年夢見てきたことではなかったか。


「どうすれば、その技を習得できるのでしょうか?」


「心を開き、人形の魂と対話すること。そして、自分の生命力の一部を捧げる覚悟を持つこと」


 楓の指導の下、私は必死に修行を重ねた。時の流れが現代とは異なる中で、日々が過ぎていった。


 ある日、楓が私に告げた。


「櫻花、もう十分よ。あなたは技を習得した。さあ、自分の時代に戻りなさい」


 別れを惜しみつつも、私は現代へと戻った。目を開けると、そこは工房。手には、あの古い人形が。


「櫻花さん、大丈夫ですか? 急に倒れたので……」


 後輩の紗良が心配そうに声をかけてくる。私は、ほんの数分しか経っていないことに気づいて驚いた


 その日から、私の人形作りは一変した。命吹き込みの術を使い、人形たちに真の生命を与えていった。しかし、その代償として、私の体は少しずつ衰えていった。


 ある日、糸織さんが私に尋ねた。


「櫻花、最近の人形たち、まるで生きているようだけど、一体どうしたの?」


 私は躊躇した。この秘密を明かすべきか。しかし、糸織さんの眼差しに、私は心を開くことを決意した。


「実は……」


 全てを打ち明けると、糸織さんは深く考え込んだ。


「櫻花、その技は素晴らしいわ。でも、あなたの命と引き換えなんて……」


「わかっています。でも、これが私の使命だと感じるんです」


 その後、私の評判は瞬く間に広まった。「命を持つ人形」を求めて、多くの人々が訪れるようになった。しかし、その分だけ私の寿命は縮まっていった。


 ある夜、再び楓が夢に現れた。


「櫻花、よくやったわ。でも、もう十分よ。これ以上続ければ……」


「大丈夫です、楓さん。私は覚悟しています。人々に希望を与えられるなら、この命、惜しくありません」


 楓は悲しそうな顔をしたが、最後にはうなずいた。


「あなたの決意、わかったわ。でも、忘れないで。あなたの命も、かけがえのないものだということを」


 目覚めると、私の髪に一筋の白髪が混じっていた。しかし、私の決意は揺るがない。


 これからも、命を吹き込んだ人形たちと共に、人々の心に寄り添っていく。たとえ、それが私の寿命を削ることになっても……。


 工房の窓から、紅葉した木々が見える。その美しさに、私は人生の儚さと豊かさを感じた。そして、静かに微笑んだ。


(了)


注釈:

(*1) 胴繰り:人形の胴体部分を形作る作業。

(*2) 目入れ:人形の目を取り付ける作業。

(*3) 人形供養祭:古くなった人形を供養する儀式。

(*4) 木工用接着剤:木材の接着に使用する特殊な接着剤。

(*5) 木粉:木材を細かく砕いた粉末。補修作業などに使用される。

(*6) 命吹き込みの術:この物語の中で登場する架空の技法。人形に生命を与える神秘的な技。




◆彼女の穏やかな最期


 櫻花が病いに伏して人形が作れなくなってからもう1年の月日が経った。


 薄れゆく意識の中で、櫻花の目の前に一筋の光が差し込んだ。その光は徐々に広がり、まるで桜の花びらが舞い散るように、色とりどりの光の粒子が空間を埋め尽くしていく。


 やがて、その光景は幻想的な宴の場へと変化していった。そこは現実とも夢ともつかない、時空を超えた特別な空間だった。


 目の前に広がるのは、広大な日本庭園。満開の桜の木々が立ち並び、その枝から零れ落ちる花びらが、淡い光を放ちながらゆっくりと舞い降りている。庭園の中央には、月光を映す大きな池。その水面には、無数の蛍が光の軌跡を描いている。


 池の周りには、櫻花が生涯をかけて作り上げた人形たちが集っていた。彼らは皆、生命を宿した姿で、華やかな着物を身にまとい、優雅に歩き、話し、笑っている。


「あぁ……」


 櫻花は声にならない声を洩らした。


 人形たちの中には、櫻花の初期の作品も、最後の力を振り絞って作った作品もあった。幼い少女の姿をした人形は無邪気に踊り、凛々しい武士の姿をした人形は威厳を持って立ち、しとやかな花魁の姿をした人形は艶やかに微笑んでいる。


 そして、宴の中心にいるのは櫻花自身だった。彼女は若かりし日の姿に戻り、最も美しい着物を纏っていた。その着物には、彼女が作った全ての人形の姿が刺繍で描かれている。


 人形たちは次々と櫻花の元へ寄ってきては、感謝の言葉を伝えていく。


「櫻花さん、私に命を与えてくれてありがとう」

「あなたの愛情が、私たちを生かしてくれたんです」

「櫻花さんの想いは、永遠に私たちの中で生き続けます」


 それぞれの言葉に、櫻花は優しく微笑みかけ、時に涙を流しながら応えていく。彼女の表情には、深い満足感と、生涯をかけた仕事への誇りが滲んでいた。


 宴は次第に盛り上がりを見せ、人形たちは優雅な舞を披露し始めた。その動きは生きている人間よりも流麗で、まるで風に乗って舞う花びらのよう。櫻花も人形たちに混じって踊り出す。彼女の踊りには、人形作りに捧げた人生のすべてが込められていた。


 池の水面に映る月が、ゆっくりと形を変えていく。それは次第に、櫻花の先祖である楓の姿となった。楓は穏やかな笑顔で、この光景を見守っている。


「よくやったわ、櫻花」


 楓の声が、風のように空間全体に響く。


「あなたは、人形に命を吹き込むという、私たちの家系の使命を見事に果たしました。そして、それ以上のことをやり遂げたのよ」


 櫻花は楓の方を向き、深々と頭を下げる。


「楓さん、ありがとうございます。あなたの教えがあったからこそ、私はここまで来られました」


 楓は優しく頷き、「さあ、もう十分よ。安らかに眠りなさい。あなたの作った人形たちが、あなたの想いを永遠に伝え続けてくれるわ」


 その言葉とともに、宴の光景がゆっくりと薄れていく。人形たちは最後まで櫻花に向かって手を振り、感謝の言葉を口にしている。櫻花は穏やかな表情で目を閉じ、深い眠りに落ちていった。


 現実の世界では、櫻花の工房に飾られた数々の人形たちが、不思議な輝きを放っていた。それは、櫻花の魂が永遠に生き続けることの証のようだった。外では桜の花びらが舞い、まるで櫻花の魂を天上へと導くかのようだった。


 そして、工房の片隅に置かれた古い箱の中で、楓の人形がかすかに微笑んだ。それは、新たな世代の人形師の誕生を待ち望むかのような、慈愛に満ちた笑顔だった。


 櫻花の人生は幕を閉じたが、彼女が作り上げた魂のこもった人形たちは、これからも人々の心に寄り添い、喜びと慰めを与え続けていくことだろう。


 そして、いつか、また新たな才能ある人形師が現れ、この神聖な技を受け継いでいくのを、楓はきっと見守り続けるに違いない。

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