(二)懺悔

 焚火の灯りに照らされた横顔を見上げて、ソウは首をかしげた。


――ああ、これは夢だ。だって、となりに父さんがいる。


 街に近い、小さな森で野営をしたことは何度かあった。これは、そのなかでも、星が空いっぱいに散りばめられていて、いっとう輝いていた日のことだ。昼間はとても暑かったが、夜になるとうんと冷えこんだことを覚えている。

 ソウは外套にくるまったまま、父の横顔をながめていた。左の耳に、パチパチと焚き木の音が爆ぜていて、左ほほには、炎の熱気があたっていた。同時に、煙が夜の匂いとまざって冷えていくのを、右のほほで感じていた。

 父が串焼きをくるりと返した。もうすぐ焼きあがる川魚は、熱気とともに香ばしいにおいをたてている。それを見つめるまなざしは、温かなコルク色。ちらちらと火の粉がとぶと、父の瞳のなかに、雄大な星空が広がっていくように思えた。


 父はしばしば、ソウをこうして街の外へ連れだすことがあった。それは休みの日だったり、簡単な仕事のときであったりとさまざまだ。毎回、またかとソウはあきれるそぶりをしつつも、そのたびにもたらされる新しい体験はどことなく楽しいもので、こうした時間を心からきらっているわけではなかった。

 このときのソウは、父の横顔を、しばらくの間、それとなく観察していた。いつもとなにかがちがう気がしたからだ。

「ソウ、できたぞ。ほら食え」

 違和感の正体に気がついたのは、こんがりと焼きあがった串を、父がさしだした時だった。いつもと同じように、後ろでひとまとめに結んだ濃い茶色の髪。その生えぎわに、ひと房の白髪しらがが混ざっていた。

 ソウにもまた、左の生えぎわにひと房の白が混ざっているが、これは生まれつきで、父とはちがう。父はそれまで白髪なんてなかった。けれど、考えてみれば、父はそろそろ三十歳になるか、なったかぐらいの年齢で、それくらいなら白髪がまざりはじめる人もいる、と聞いたことがある。そんなことを考えながら黙々と魚を食べていても、父はおかまいなしに話しつづけていた。

「これで魚の釣りかたも焼きかたも完璧だ。この前は雪山で雪すべりもできるようになったし」

「俺はさんざん、雪の斜面に顔面から激突したけどね」

「ありゃびっくりしたな! 鼻血も凍るんだって」

「そこじゃなくて死にかけた息子の心配してくれる?」

 パリパリの香ばしい皮に歯を立てると、ふわりと広がるやわらかな熱気とともに、ほろりと白身が舌先にのった。ふわふわの身を噛むと、香草のかおりとともに、じゅわ、と魚の味がいっぱいに広がる。おなかがぺったんこだったソウは、たまらず食欲をかきたてられて、頭のほうから尻尾の身までいっきにかじった。口いっぱいに旨味をほおばって、のみこむ。おなかのなかに落ちた熱が、じんと広がって、ほぅ、と息をはく。

「海も楽しかったなぁ。あの奇麗な魚群は、ソラさんにも見せてあげたかった」

「親子そろってサメに食われかけたの、もう忘れたの?」

 串をくるりとかえして、もう一口。ほおばりながらも冷静に返すと、相反して父は、ぶわはははは、と豪快な笑い声をあげた。大人三人ぶんぐらいの声量があるせいで、父が笑うたびに、木々で休んでいた鳥が逃げていく。今夜だけで、星空へ羽ばたいていく鳥を何回見ただろう。

 いつ見ても、楽しそうに笑っていて、危機感がなさそうで、お気楽でお調子者で、それから、ちょっとヘタレで、たまに、母に本気で怒られると、子犬みたいにしゅんとする。父は、ソウがふだん見ているまわりの大人とはすこしちがうような人だった。

 ほかの大人は、みんな変な顔をしていた。不細工だとか、そういった美醜の話ではなくて、もっとこう――まるで、半透明の薄皮を、はりつけたような。どことなく疲れていて、みんなどこか遠くを見ているような目をしているのに、なにも見ていないような。いつもなにかを気にしているようにも見えた。

 ソウにはそれが見えなかった。みんな、そのを気にして笑ったり、それとなく離れたり、なにかに合わせるように顔を整えている。きっと、そこには目に見えないたくさんのものがあるのだろう、と見はじめたころから、ぶあつい空気に押しつぶされるように、息苦しくなった。その時期から、ソウには父と母、そしてライ以外の人間の顔が、よくわからなくなってしまった。

「一年前にさ」

 父の話題が変わって、ソウははっと我に返った。

「ライが生まれたとき、ソウが魔狩になるって言ってくれて、父さん本当に嬉しかったんだぞ」

「べつに。ほかにやりたいことないし」

「照れるなよ。父さんのこと大好きなくせに」

「自意識過剰うるさいくっつかないで」

「ははは、すなおじゃないなぁ」

「うっさい寄るな離れろ」

 父のあごが頬にあたるたびに、硬くとがったあごひげがざりざりと擦れて痛い。しかも、焚き火をするときは乾燥するからと、いつも木の実から採れる油を塗っているせいで、べたっとする。それがくっつくのも嫌だった。いくら嫌だとつたえても、父はおかまいなしに、ベタベタとくっついてくるものだから、とくべつ反抗期でもないのに腹が立つ。

 父はだらしなく目じりをさげたまま、ソウの頭をわしゃわしゃとなでまわした。

「だってな、ソウ。子どもはこう、つい触りたくなるんだって。大人とはおおちがいよ。肌はもちもちすべすべ。髪はやわらかくて、なんていうか、この存在は愛されるためにあるんだって思っちゃうんだよ。もうね、最高に可愛くてしかたないんだよ。ね、許して」

 ね、ね、と大の大人が可愛らしく小首をかしげる。ソウはそれを押しかえして、二つ目の串をかじった。

「その子どもにも快・不快はあるし、あと、それ事案になりかねないから発言と行動には気をつけてね」

「ソウお前、年々ソラさんに似てくるよなぁ。そのさげすんだ表情とかそっくり」

「誤解をまねく言いかたしないでくれる?」

 食べ終わった串を一本、投げつける。ソウは、父がのろまではないことをじゅうぶんに知っていて、これを器用につかむことだってわかっていた。そうでなければ、こんなことはしない。

 父は、つまんだ串を得意げにゆらして、にっと白い歯を見せた。

「キレやすいところもそっくり」

「うっさい」

 ソウはもう一本、食べおわった串を投げた。「ほい」父はなんの気なしにつかんで、あたりまえのように焚き火へほうりこむ。

「怒った顔も可愛いぞ? 父さんソウのこと大好き」

「そういうところほんと嫌い」

 ソウは乱暴なため息をまじえて、父を半眼で見つめた。水筒に煮出したお茶を入れて、ひと息。しばらく焚き木が爆ぜる音を聞いていた。よくしゃべる父とちがって、ソウはしばしば、ふと黙りこむクセがあった。それはたいてい、考え事をしているときだ。

「ライのこと、気にしてるのか」

 おもむろに、父は言った。

「ずっと前は、魔狩なんてならないって、言ってただろ」

「べつに」ソウは短く否定した。「ちょっと考えなおしただけ」

「そんなに心配しなくても、なんとかなるよ」

 明るい声で笑う父は、こういうとき、心からそう思っていて、しかも、どうにかなるという未来を微塵みじんも疑ってすらいない。母はよく言っている。――あの人、能天気すぎて、ほうっておけないの。そんなのが好きなんだから、本当、わたしも馬鹿よね。あきれて自分でも笑っちゃう。きっと、そういう人だから、わたしは手をとったのね。だって、本当にどうにかなる気がしちゃって。

 ぱち、と焚き木が弾けて、ソウはとなりの父を見上げた。優しいまなざしをした横顔。いつも大きくて温かい父の姿。

 けれど、また、違和感。

「他に教えてないことはあったかな」

 先ほど投げいれた串が、燃え落ちていくようすを、コルク色のまなざしはそっと見つめていた。

「父さ――……、」

 次の瞬間、ソウは立ちつくしていた。

 目の前にあったのはつるりとした無機質な冷たい箱だった。フタは気密性を保持するために、弾力のある素材をフチに挟んだガラス製。箱の中は透明な液体でたっぷりと満たされている。

 同じような箱はいくつもあるが、どれも壁面に正しく収納されていて、壁面にはアンプルナンバーが整然と表記されていた。消毒液の冷めたにおいが、にごりも継ぎ目も極力排除されたようなこの場所に濃く充満している。ここはお前の居場所ではないから早々に帰れ、とでも言われているようだった。生きものの気配はなく、異様に静かで、かすかに聞こえる音といえば、魔鉱技術による緻密な駆動音だけだ。


――ああ、夢を見ていたんだった。


 ソウは視線をさげたまま、ひざをつけた。

 冷たい空気だった。たしかにこれは夢だ。本来、夢に感触なんてあるわけがない。においだってない。けれども、こんなにも冷えきっていて、無機質なにおいがするのは、これが現実だからだ。

 否。

 、だ。


 なめらかなガラスの表面に指先を這わせると、ひやり、と冷たさだけが返ってきた。けっして触れることの許されない乳白色の造形はまるで彫刻のようで、ソウは無感動にソレを見つめていた。けれども、彫刻というには、眉の一本一本からその根元、笑いじわの名残も、唇の縦すじも、指の節くれも、細かな傷痕も、なにからなにまで、どれも精細すぎる。


 父だ。

 それは父だった。


 魔狩になると、はじめに契約内容の確認をおこなう。そしてそれにともなって、選ばなければならないことがある。それは職務中、万一に死亡した場合、後の自分の遺体を、どうするか、というものだ。

 遺体を魔狩協会へ提供するか。

 それとも、親族の元へ帰すか。

 どのみち白亜化すれば、親族の元へ帰ることはなく、即刻焼却処分されるのだが――父は、自らの遺体を〈魔狩協会へ提供すること〉を選択していた。だから父の遺体は、焼却処分されることもなく、魔狩協会の研究施設で丁重に保管され、こうして死後も、白亜化の解明のために、人類の未来へ貢献している。

 ソウは、魔狩になって数年後――ランクBへ昇格することで、ようやく、一度だけ研究施設への立ち入りが許された。

 再会した父は、まるで今にも動きそうなほど精細にその姿を遺していた。

 すこし揺らせば、このほつれた毛先がさらりとこぼれて、目覚めるんじゃないだろうか。

 ガラス越しに目を覚まして、

 太い腕でフタを押しあげて、

 咳きこみながら起きあがって、

 いやぁよく寝た、なんてバカみたいに能天気な笑みをうかべて――……。

 いま、この胸の中にある不安も重圧も、なにもかも笑いとばしてくれるんじゃないだろうか。びっくりしただろ、なんて、イタズラが成功した子どもみたいに、そんなふうに、この頭をなでて、今までがんばったな、さすが父さんの子だ、なんて、飽きるくらいに言って――、


 ただ、白く。

 白く透きとおっている。


「父さん」

 触れたガラス板は、あまりに冷たい。

 ソウの温度はつき返されて、指先から冷めていく。

「父さんごめん。俺、約束したのに」

 父は目覚めない。

「母さんを護れなかった」

 父は答えない。

「目の前で殺される母さんを、俺は見捨てたんだ」

 ソウはずっと、考えつづけていた。

 ライを護るために選んだ行動は、正しかったはずだ。そして、それ以外に生きてゆく道はないと、確信すらしていた。

 だけれど、もし、あのとき、魔導武具を抜いていたら。――母さんが首を吊られる瞬間にとびこんで、ライも母さんもまるごと抱えて走っていったら。それはきっと、正しくないことだ。死刑が決まった罪人をさらってしまおう、なんて。現実的じゃない。それでも、逃げて、逃げて、逃げて、誰も知らない場所へ行って……都市部から離れたら暮らしは大変だろう。けれど、ご飯だって用意できるし、雨風をしのげる家だって、きっとつくれる。父さんが言うように、きっとどうにでもできたのかもしれない。もしかしたら、そのために父さんはたくさんのことを教えてくれていたんじゃないかって、思うくらいに。

 けれど、それを選ばなかった。


――ライを、お願い。


 母さんの言うとおりにした? いやちがう。あのとき、一瞬でも考えたんだ。髪が白いってだけで、こんなふうに、母さんを悪と決めつけて、ろくに真実も確かめようとせずに、自分の感情の矛先と目先の安心感だけを求めて正義を振りかざし、罵声も怒りも正当化してとうぜんのように人を殺そうとする、なにもかもまちがった奴らなんて、黙らせてやればいいって。だって簡単じゃないか。魔導武具を抜いて、たったひとつ数える間に、ここにいるやつらなんて全員殺せるんだ。それができてしまうんだ。それだけの力が、この武器にはあるんだ。

 考えて、考えて、考えて、考えたのに――、選んだんだ。


 母さんを、見殺しにすることを。


 社会のなかで生きるための正しい選択をして、

 なにも悪くない母さんを見殺しにする、最悪の選択をした。

 それはつまり、なにも悪くない母を、罪人と容認してしまうことに他ならなかった。


「父さん」


 これは夢だ。

 ただの夢だ。

 夢でしかない。

 けれども父は、いつだって白く透きとおったまま、死んでいる。

 これは過去だ。


 これが、現実だ。


 どんな夢を見て、どれほど父といっしょに過ごした温かい日々を思いだしても、父の姿は、決まってここに終着する。そして、ソウもまた、この夢のなかの現実で、ずっとずっと、おなじことをくりかえしている。

「父さん、ごめんなさい」


 父が詰まったアンプルに、ソウはそっとひたいをつけた。

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