(三)白波
夜もずいぶんと深く沈んだころのことだった。
すっかり眠りこんでいたソウを、ガッ、と鈍い衝撃がうった。黒影に蹴りおこされたのだ、と気づいたのは、彼女がいつもに増して険しい表情でこちらをのぞきこんでいたからだった。
声をひそめて理由を訊ねると、黒影は視線だけで、この移動式天幕の外を示した。入口はぴったりと閉ざされていて、外のようすはまるでわからない。
(あまりにも、静かすぎる)
これは異常なことだった。
白い森の夜は、ふつうの森とそう変わらないほど、生命の音であふれていたはずだ。それは風のざわめきであったり、夜もすがら鳴き続ける鳥のさえずりであったり、群れで跳ねまわる虫の羽音であったり――ともかく、それらの多くの音があたりまえに存在していた。
それが、なにひとつない。
夜半の冷えに、身をひとつふるわせて、ソウは外套を
「ナギさんは?」
「知らん」
黒影は、闇を睨みつづけていた。彼女はすでに大太刀を抜いていて、いざとなれば、この天幕の柱ごと斬りとばすつもりでいるのだろう。
「寒いね」
足元の冷えがひどい。ソウはもう片方の手でふくらはぎをさすった。白い森はこんなにも冷えこむのだろうか。息をはくと、呼気が白く広がった。
天幕の中央に座した暖炉の薪はじゅうぶんにあるものの、地面からさしこむ冷気が、その暖かさをおし縮めているようにさえ感じられる。
「嫌な気配だ。かこまれているな」
低い声は、わずかにふるえているようだった。寒いからだ。
彼女はにぃ、と口のはしをつりあげて笑った。
「おもしろい」
「君は病みあがりなんだ。無茶は――、」
刹那。
音が聞こえた。くぐもった音だ。どぷり。一瞬の浮遊感。ぎちぎちと悲鳴をあげたのは
真っ白な波だ。
どろりと重く、なめらかな波が、この天幕をまるごと押しあげている。木組みの壁が押しつぶされ、帆布が食われた一瞬、夜空が垣間見えた。しかしそれも束の間、白い波がぐんと伸びあがる。まるで被膜のように広がって、ソウと黒影を天幕ごと、いっしょくたに飲みこもうとしていた。
艶のない黒髪がわずかに揺らいだとき、ソウはうろたえることもなく、その場に伏せた。黒影の背中が、ぐあ、とひらいて、大太刀が一閃。長い髪が黒影の動きを追いかける。わずかに漆黒が視界をさえぎる。ソウはこの時間を凝視した。黒い刃が、白い波も、崩れかけの天幕も斬り飛ばした。このわずかな猶予に自分がなすべきことは――、
「黒影! 二時の方向に退避!」
間髪入れず、大きく跳躍。壊れた柱を蹴り、呑まれかけの床板を足場に、向こうの岩場へ。飛び石をいくらか跳んで、ゴツゴツと角ばった岩肌に足を掛ける。
二人とも登りきったところで、ようやく、ソウはふりかえった。さきほどまでソウがとっぷり眠っていた場所――補給地点は、白い渦に喰われて、跡形もない。波間のなかに、いくらか瓦礫が見られたが、それも引きずりこまれるようにとぷんと沈んで、以降、水面に上がることは二度となかった。
「ただの波、じゃないよね」
「希少種の
黒影は大太刀をひとふり。はらってから、刃のぐあいをよくよく確認したらしかった。鞘におさめる。彼女は乱れた髪をひとまとめにして、横にながした。
「あれが?」
ソウは外套を脱いで黒影の肩にかけた。黒影はなにもいわず、またつきかえすこともしなかった。横顔は険しく、眼下を睨んだままだ。
「じつに相性が悪い」
「どうして?」
ソウが首をかしげると、黒影はいっそう外套にくるまった。波を斬っても意味がないことを説明する。さらに、あの粘性の白波はモノを溶かす性質があり、その粘液で本体の核――いわば、あの魔種の心臓が護られている、と言った。
「心臓をさがして、潰さなきゃいけないってこと?」
黒影はうなずいた。目の前の惨状に飽きたように視線をはずした彼女は、踵をかえすように、ソウの近くへ寄ってくる。細腕が、外套のすきまからひょろりと覗いたかと思うと、指先がこちらに向けられる。整った爪の曲線は、ソウの腰元よりも、もうすこし下――太ももへ触れるなり、
「あの波を何度も斬ろうものなら、武器が先にやられる」
ふぅ、と息をふきかけて、こま切れになった毛先をとばすと、黒影は舌打ちをした。
「においもひどい、はた迷惑な魔種め」
ひとしきり、よごれた髪を落としてしまうと、黒影はナイフをぬぐい、よくよく確認してからソウの太ももへまた戻した。ていねいに留め具まできっちりとめたところで、「魔鉱石でも食って肥大化したのだろうな」と冷静に。やはり、これっぽっちも興味がなくなってしまったような言いぐさだった。
「俺の雷撃ならどうにかできる?」
「心臓を見つけることができれば、な」
「見つける方法がなにかあればいいんだけど……」
ソウがぼやいたとたんに、黒影がひどく嫌そうな顔をした。まるで汚いものをみたような、あるいは想像したような表情だ。
「あ、あるんだね。教えて」
ソウがなんの
「よく見てみろ」
示されるままに、のぞきこんでみる。眼下にとっぷりと満たされた白は、どろりと重い波を立てながら、不定形に揺れている。よくよく見てみると、それらは半透明だった。そのなかでゆるやかに溶けていく瓦礫のくずは、揺れながらも、引きこまれるようにどこかへ向かっているように思えた。
(あ、そうか)
ソウはまばたきをした。ふたつのことに気がついたからだ。
ひとつは、溶かされていくもののなかには、とうぜん、補給地点にいた多くの冒険者たちもいること。これがおそらく、彼女が嫌そうな顔をした原因だ。ソウはすぐに彼らを彼らとして理解することをやめた。
そして、ふたつめは、それらはみなどこか一か所へ向かっていることだ。
「この流れが、心臓部につながっているんだね」
「むかし、兄が水槽のなかへネズミの死骸をいれて、
「黒影ってさ」
「なんだ」黒影が胡乱げに視線をよこした。
「たまに口数増えるよね」
「だからなんだ」
「お兄さんのこと、好きなの?」
「叩っ斬るぞ」
「ごめんうそ冗談だって」
場にみなぎった殺気をてきとうに、かるく流しながら、ソウは
が、ソウは、
「ナギさんがいる!」
いちばん近くの枝に跳びうつり、さらにひとつ、ふたつと超える。ナギは心臓部の近くのすこし高い倒木の上で泣きじゃくっているらしかった。
「この阿呆!」うしろから怒声がとんでくるが、それは無視する。
刹那。
「ッ!」
鋭い一矢が、眼前をかすめた。身をひねり、とっさに手をかけた枝でぐんと旋回して、樹の影に隠れる。いくつかの矢が樹の皮を貫き、白い矢も、それが触れた樹の一部も、どろりとまざり、こぼれて滴った。
(あんな攻撃まで)
内心、小さく舌打ちをしてから、次の道筋を組みたてる。
どさ。
鈍い音に、目を瞠る。
それは、倒木の上で、ナギがうずくまるように倒れた瞬間だった。
「ナギさん!」
ソウはとびだした。的確に足場を選びながら、舌打ちを重ねる。ここからだとよく見えない。
(矢に撃たれたのか⁉)
即死なのか、生きているのか。もし生きているなら助ける必要がある。しかし即死なら、このまま退いたほうがいい。
「ナギさん! 返事をして!」
ひとつ枝を踏みこえて、叫ぶ。狙ったように、ソウのほほを白色がかすめる。焦げたようなにおいと、生臭い腐臭が立ちこめる。近づくほどに、悪臭は濃密になり、空気はより重く鈍くなってゆく。
(退くべきなのか)
もうひとつ、白が腕をかすめる。ちり、と焼けるような鋭い痛み。
叫ぶ。
「生きてるなら返事をしろ!」
白い波が、ぶるりとふるえた。それらはもったりとのろまに押しあがりながら、ゆるやかに膜を広げて、禍々しい形の影を濃く落とす。その影の下に、彼は横たわったままでいる。
「――……、」
瞬間。
黒紫の紋様が刻まれた左手がわずかに動いた。
(生きてる!)
優先順位は、決定された。
「ナギさん!」
ソウはとびこんで、白波を斬りはらった。しかし波は、すぐに形をかえて、おおきく立ちあがる。まるごと吞みこんでやる、といわんばかりに。
曲刀をかまえる。ここで餌になるつもりはない。二人で退避するための順路はすでに見つけている。運動が苦手で、機敏に動くことができない彼でも、どうにかなる最善の道すじ。
(問題は)
二回目。ソウは白波を斬りはらう。雷撃ではらってしまうほうが早いだろう。しかし、四方八方、どこからでも襲ってくる波だ。ナギをまきこんでしまうしまうから、ここでは使えない。
(逃げる隙ができるまでに)
三回目。ソウは白波を斬りはらう。
跳ねた飛沫が、ソウのほほに散った。じ、と嫌な音がした気がする。じりじりと焼かれていくような痛みと熱が、刺すようにいすわった。たちこめた腐臭が、肺の奥にしみついてゆくようだ。咽喉が軋む。目もとがチクチクと痛む。
(身体と武器がもつかどうか)
四回目。ソウはさらに切りはらった。――まだ、大丈夫。
しかし次に眼前をおおったのは、まるでちがうものだった。それまでは、なめらかで重い皮膜のような、分厚い白波だったが、今度は頭上のはるか高くをめがけて、水面から白い塊が放出された。まるで風船のように膨らんで、中空で、破裂音をたてて弾けた。
「!」
白い雨が、降ってくる。
逡巡。頭上をさえぎるものはない。細かく弾けた白い雨は、とうてい、この両手でさばききれるものではない。遮蔽にできるものもない。直撃はさけられない。
――俺は生きて帰ることが目的だから、万一に……本当にどうしても、ナギさんか自分の命を選ばなきゃいけない状況になったら、たぶん自分を選ぶことになる。
――命を懸けてまで守ってほしいとは思いません。
選択をまちがえれば、どちらも死ぬ。
ソウはわずかにふりかえった。ちょうど、彼は身体を起こしたところだった。ひどく咳きこんでいる。それは、たちこめる腐臭のせいだろう。咳くたびに、やわらかな亜麻色の髪が肩からこぼれ、枯れた樹皮に袖が擦れた。
「っ……を、」
彼は顔をあげた。
そこには明哲な光をたずさえた、翡翠色の瞳があった。
「雷撃をはなて!」
ソウは目を見ひらいた。そして、起動をためらったこの一瞬を見抜いたように、たてつづけに声がつきぬける。
「
「――、」
ソウは視線をもどすまでのあいだに、魔導武具の柄をやわく握りなおした。白い雨の向こうに、ずっと遠くに、どこまでも美しい星空が垣間見える。
「
こぼれる声は、いつも平坦で、おもしろみもないものだ。
ピリと刺激が走り、泡立って逆流するような感覚が体内を侵していく。刻々と近づく白色をかぞえながら、ソウはうすく口をひらいた。雷撃をはなつまでの、ほんのわずかな時間にある、長い空白。魔導武具を起動させると、いつもこうだ。肌の表面では、すきまなく虫が這いずりまわっているような感覚が絶え間なくあって、ナカは乱暴に引き裂かれながら、ひどく掻きまわされるようだ。
だから嫌いだった。
不快でたまらない。
(やっぱり、苦手だな)
目を細めて、
(嫌いだ)
息を吸う。そして吐き捨てるように、雷撃を放たんとした、そのときだった。
ソウは目を
(焼き尽くす)
光が、爆ぜた。
頭を割るような、轟音と振動。まともにたっていられないほどの衝撃が大地をおびただしくふるわせ、焼きつける光がすべてを蒸発させる。
一瞬の灼熱を超えて、脈動。雷撃が走る刹那よりも、ずっと長い時間をかけて、ようやく、五感がもどってくる。生きていることを実感しながら、身体を動かして、ソウは視線をあげた。
唖然。
「な……」
ソウは目を見ひらいたまま、ぐるり、と見わたした。――いままでにこんなことはなかった。なぜなら、どれほどちからをこめて雷撃をはなったとしても、大型の魔種を焼き殺すのがせいぜいで、そのていども、範囲も、およそしれたものだったからだ。だがしかし、目の前に広がるのは、想像を絶する現実であり、そしてこれが現実であることなど、とうてい信じられるものではない。焦げた熱気が、肌をひりひりとなぜる。ソウはまばたきもできないまま、呆然と立ち尽くした。
白い森の一端。周辺の大地は、見渡す限りの焦土と化している。
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