(六)蹂躙

 いつも、立っていなければいけなかった。

 そうしなければ、きっとくずおれてしまうから。


――ソウ、お前なら大丈夫だ。

 父さんの声が聴こえる。

――お願い。

 母さんの声が聴こえる。

――兄貴、早く帰ってきてね。

 ライの声が、聴こえる。


 大丈夫だよ。と、伝える。大丈夫。そんなに心配そうな顔をしなくたって、護るから。大切なものが残っているから。だから大丈夫。だから信じて。だから、笑ってよ。もう一度、幸せのカタチを見たいんだ。そのためならなんだってするよ。ほかのなにを犠牲にしたって、護ってみせるよ。大丈夫。

 ちゃんと笑えるよ。ほら。


 ――……。

 音がする。

 自分の呼吸だろうか、と考える。

 心臓の鼓動だろうか、と考える。


――ちがう。


 もっとほかの音だ。異質な音だ。

 森が揺れる音? ちがう。

 魔獣の息遣い? それだけじゃない。もっと別の――、


 ばらばらばらばらばらばらばらばら!

「!」

 異質なその音に、一瞬の思考を奪われる。ひとときの情景は消えうせ、ソウは意識の輪郭をとりもどした。


 目の前に在るのは、いつだって途方もない現実だ。


 見ひらいた世界をおおうのは、大きくひらいた魔獣の口だった。だらりとよだれが垂れて、途切れる。そのすき間の向こう。横たわった森に、破れた革袋と、そこから吐きだされたように、古ぼけた一冊の書物が落ち、開いていた。ぼろきれのように転がっているそれは、ソウの手のひらよりも一回り小さいくらいの大きさで、背表紙は割れ、欠けている。落ちたひょうしに、中途半端にひらいてしまったのだろう。だから、荒んだ風に吹かれて、ばらばらとおびただしい音をたてている。次々とめくられていく紙面に綴られた、なじみのある言葉の群れ。


――約束だ。


 瞬間。小さな閃光が、ぱり、と空気を伝うように弾けた。

 どうして。ソウは目を見ひらいた。


――故郷に戻った折に、キサマはワタシと殺しあう。


「い、や……だ。いやだ嫌だいやだ!」


 なんで今さら、こんなことを思いだす。


「なんでだよ。どうして楽にさせてくれないんだよ! アンタのことなんかどうだっていいんだよ。アンタだってそうだろ。俺たちはおたがいに仲間なんて思ってない。いがみ合って、嫌いあって、利用してるだけじゃないか!」

 眼前で、獣の咽喉が蠢く。視界をおおう濡れた粘膜の色が、ぬらりと輝いた。生温かく、そしてなまぐさい、生きものの吐息。頬の内側からあふれたよだれを、たっぷりと舌先にこぼして、ぎらり。鋭い歯列がその存在を主張する。

 その一挙一動の刹那を、ソウは凝視していた。薄い口もとをわずかにふるわせたのは、目の前の死をおそれたわけではなく。

 ただ――――、


――ワタシは名を呼ばれた覚えがない。


「どうして、なんで俺は」

 地面についた手を、握りこむ。

 目元を歪める。奥歯を噛む。ぎりと軋むほどに噛みしめる。

 そして吐きつけるように、ソウはひとりでに叫んでいた。


「君の寂しそうな横顔ばかり思いだすの!」


 刹那、内側から焼き切るような激痛とともに、身体から雷光がひらめいた。轟音が空を突き抜けるように地面を揺らし、大きく反響する。

「嫌いだ。嫌いだ。君なんて、アンタなんて大嫌いだ! いつも好きかって言いたい放題で、周りのことなんてこれっぽちもかえりみないくせに! そういうの、迷惑なんだよ。 いいかげんわかれよ。もしわかっててやってんなら、タチが悪い! 尻ぬぐいをするのなんてもうごめんだ。一緒にいるとひどい目にばっかり遭う。アンタこそ、一人でかってに――」

 ふいに、言葉をさえぎったのは、眼前にどうと倒れこんだ黒い巨木だった。否、それは巨木ではなかった。焼け焦げたにおいが遅れてたちのぼって、そこでようやくソレを視認する。ところどころ残った白い体毛。焼かれても残った白い歯列。焦げた肉。

 今まさに、ソウを喰らわんとしていた獣であり、そしてその獣が焼死した姿そのものだった。

「な、に……」

 唖然。

 内側からつきぬけるおびただしい光が散乱する。

 雷の蹂躙。焼きつける黒。

 ぶつかり、つながって離れ、幾度も弾けて、空気を裂く。森の木を焼く。地面をえぐる。

 そしてそれらすべての光は、この身の皮を裂きつけるように、肉を焼いて内側から体外へ。ソウを中心にして、枝葉を広げた雷が一帯を蹂躙し、そして今なお、焼き続けていた。

「な……んだよ。だって、魔導武具がなきゃ、雷撃なんて」

 夢だろうか。――そうだ、きっと自分は魔物に喰われて死に体になっていて、それで、こんな幻覚でも見ているんだ。でなければ、こんなふざけた光景なんて、見るわけがない。けれど、夢ならどうして、こんなにも痛い。どうして焼け焦げるにおいが鼻につく。熱くて、痛くて、こっちの都合なんて気にせずに何回も何回も身体中を刺し貫かれているみたいで。咽喉が渇いてしかたがなくて。泣き叫んでやりたいくらい痛いのに、涙さえ出ないほどに焼けていて。

 やまない轟音。一帯は黒く煙る。白が黒く死ぬ。白が雷鳴に燃える。幾度も幾度も焼かれて、白が黒く焦げて、染まる。

 短く息を切りながら、ソウは無意識に状況の把握を求めた。

 視線をめぐらす。と、視界の端に、たった一羽。ふらりと紛れこんだちいさな鳥がいた。閃いた光。ジ、という耳障りな音。それが小鳥の悲鳴だったのか、それともただ雷に焼けた音なのかはわからない。

 ただ、真っ黒く焦げて、ぽとりと地面へ落ちた。

 まるで、果実が枝から落ちたときのように。

 ただのモノになって、潰れた。

「――――っひ」

 息の仕方がわからなくなる。

 ぽつり。曇天から落ちた雫がほほを濡らした。だがすぐに乾いた。

「い、やだ……」

 ぽつり、ぽつ、ぽつ。

 雨粒はいくつも落ちてくる。次第にその数は増え、勢いがつくほど服に染み、しっとりと肌へはりついた。それでもなお、雷鳴は触れるもの全てを蹂躙し焼きつづけた。

「やだ、やだ。やめろ。なんなんだよ」


 轟音。破壊音。雷鳴。

 焼ける。焦げる。

 黒く。黒く。黒く。


「俺の身体なら、言うこときけよ!」

 両腕で抱くように、しゃがみこむ。

 身体がぐっしょりと濡れてもなお、熱くてたまらない。なのに、寒い。冷たくて、熱くて、焼き切れる。なにが起こっているかまるでわからない。痛い。理解が追いつかない。どうすればいいかわからない。痛い。熱い。苦しい。つらい。熱い。熱い。痛い。寒い。うずくまって、喘いで。息ができなくて。焼けて死んでいく。

 嫌な死に方だ、なんて誰かが言った。それは自分だ。遠くなる意識の片隅が、そんなふうに嗤う。

 死はおよそ理不尽に訪れる。

 ソウはそのことをよく知っている。

 父が亡くなった時だってそうだ。

 母が殺された時だって、そうだ。

 そうして、今まさに、こんなバカみたいな、ワケのわからない死に方を――。


「ソウ!」


 思考を穿つ、地の底を這うような低い響き。それは轟音の中でもたしかに届いた。腹の底がふるえて、意識がかき戻される。かすむ視界に毅然と立つ、細い姿。土を擦るほどの黒い髪が揺れたとき、ソウの思考はひらけた。

 焼けただれた手のひらを伸ばす。


(黒影!)


 声は出なかった。軋む咽喉のどが痛んで、咳きこんでしまったからだ。

 黒影はこちらをさし示して、ナギと言いあっているようだった。ナギの唇が動く。危険です、と。黒影はそれでもこちらを見て、またナギの襟首をつかんで揺らした。

 そのときだった。

 伸ばしていたこの手が、おもむろに、なにかに触れた。触れた瞬間に、それはぼろりと崩れた。

 手の甲に打ちつけた雨が嫌に冷たい。

 肌を汚したのは、ごく小さな焼死体だった。

 地面に散りばめられた、小鳥の羽根。

 視線を横に流すと、すぐさきに、焦げ崩れた魔獣の死骸。

 ソウはまばたきもできないまま、呆然とそれらを見つめた。

(このままじゃ、二人をまきこんでしまう)

 黒く死に絶えたそれらのように。

(止めなきゃ。どうにかしなきゃ)

 必死に打開策を探す。これを止めなければ。


――けれどいったい、どうやって?


「ぐ……っぅ」

 現状にあらがうように身体を起こす。這いずるように土を掻いて、足を引きずるように身体の軸へ寄せた。ふいに、焼けた肌が突っ張るような痛みを覚え、思わず太ももへ手を伸ばす。


 ふるえる指先が、おもむろに右の太腿の武器携帯用革鞘サイホルスターへ触れた。


「――……」

 ソウは固唾を呑んだ。

 雨に濡れているせいだろうか。ソレはひどく冷たかった。しかし、それでも長年使ってきた愛用のナイフはよく手になじむ。柄を強く握り、抜きさった。魔種を殺すには刃渡りが足りなくとも、人間の気管を刺し切るには、じゅうぶんだ。

(迷えない。ひと息で――) 

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