(五)動転

 ソウは川を見つけると、数日をかけて山をくだっていった。食料の確保を第一にして、無理はしないことを自分に徹底した。いつしかナギに教えてもらった瘴気症に効く薬草のたぐいを見つけては採取し、食事とともにんだ。正直なところ、苦いばかりでなんら美味しいものではなかったが、瘴気症をわずらって白亜化したらどうにもしようがない。

 魔種の巣は迂回して、時に魔種の姿を見つけたら息をひそめ、そっと逃げた。手元にあるナイフ一本で魔種とやりあうなんて、無謀もいいところだ。


 道すがら生えている植物も、ほとんどが瘴気に汚染されていて食べられるものではなかったが、幸い水は瘴気に汚染されていないのか、川魚はどれも本来の色と形をしていた。それを捕まえて、焼いて食べた。だいたいは美味しかったものの、中にはあまりにも臭みがひどい魚もいた。しかし、それらは下処理のしかたでおおよそ食べられる味になるとわかったのは、ここ数日での朗報だろう。

 そして朗報は、もうひとつ。

「人の足跡だ」

 ソウはかけよって、その足跡を見つめた。

 数は二つ。人間の靴底で、片方はもうひとつの足跡よりひとまわりほど小さい。その靴底の模様には見覚えがあった。歩幅の感覚や沈みぐあいを確認し――、

「黒影だ。黒影とナギさんが、この近くを通ったんだ」

 ソウはここ数日で一番明るい声をあげた。

 痕が残っているということは、この足跡は雨が降った一昨日より前のものではない。昨日か、あるいは今日か。ともかく、二人か――もし、そうでなくとも、人がここに訪れた。

 ソウはこのことを心から喜び、安堵した。まだ気を抜いていいところではないが、それでも、この事実は確かな活力をソウに与えた。

「良かった。早く合流して、それから――」

 不意に、足を留めた。

 その瞬間にナギの言葉を思いだしたのは、偶然ではないだろう。


――白の境界線は、ふつうより瘴気濃度が高いので、魔種が多いのですよ。そして、瘴気の濃度が高いということは、つまり、


 ふりかえる。自然と指先にちからが入る。固唾を呑む。


――魔種の気配が瘴気に紛れて、感知しにくい、ということです。


 見上げたそこには、自分よりもはるかに大きい魔獣。真っ白な毛並みをたずさえたそれが、白濁した瞳で睨むようにこちらを見下げている。ソウよりもずっと大きい身体だ。だというのに――、

(気づけ、なかった……⁉)

 瞬間、魔獣のいななきにソウは耳をふさいだ。続けざまに魔獣の前肢が振りあげられ、ソウは跳ぶように退く。

「こんなときに……!」

 二足で立ちあがるその魔獣はふたたび、大きく咆哮をあげた。諸手を振りあげた威嚇は、魔獣をことさら大きく見せる。その様相はさながら真っ白な熊だが、熊というにはずいぶん凶悪な姿をしていた。白い骨のような外殻が頭から尾、肩から手の甲までおおい、まるで白亜の鎧でもまとっているかのような出で立ちだ。とりわけ目をひくのは、長く伸びた骨のような爪だ。串刺しを容易に想像させるそれを、カツカツと何度かうち鳴らして、魔獣は跳び上がるように身体を丸くした。そして、まるで魔導バイクのタイヤのように、上流からこちらをめがけて勢いよく転がってくる。

「勘弁してよ!」

 ソウは下り坂を横切るように逃げながら、叫んだ。前脚の長い爪をもちながらどう移動するのかとは思ったが、まさかあんなふうに転がってくるなんて思いもよらなかった。頭頂部から尾の先までおおう外殻は、そのためのものらしい。

「あんなのまともに相手してられるか!」

 とにかく、どうにか逃げてやり過ごさなければ。

 魔獣は木にぶつかって静止すると、ふたたび立ちあがって二足でこちらに近寄ってくる。途中。邪魔な小木は腕力にものを言わせるようにへし折りなぎ倒して、地面を揺らしながら追ってくる。その一歩は鈍重だが、ソウとはおよそ歩幅がちがう。

 ソウはできるだけ障害物が多くなるように、あちらこちらと逃げまわった。しかしそれでもまだあきらめてはくれないらしい。

「ああくそ。本当にいつかこの仕事やめてやるからな!」

 叫んだ、そのとき。

 ガッ、と頭を叩く衝撃とともに、ソウの身体はたやすく地面を転がった。視界に火花が散って、意識が朦朧もうろうとする。

(まずい。今、倒れるのはまずい)

 必死に意識をとどめて、ソウはつま先にちからを入れるが、身体が思うように動かず立ちあがれない。眩暈めまいがして、平衡感覚がつかめずに倒れこむ。

 視界に入った影に、ソウは愕然とした。

 先ほどの魔獣より、二回りほど小さい熊の魔獣。ソウを襲ったのは、まだ爪の発達していない幼い――とはいえ、ソウの身長よりもずっと大きい――子どもの魔獣だ。

(魔獣たちの、狩りか!)

 魔獣の多くは、知恵もなく本能のまま魔素と瘴気を喰らう単体の生き物ではあるが、中には、知恵があり、動物と同じように生殖と繁栄を緻密ちみつに織り成し繁殖するものもいる。この魔獣の名前は知らないが、そういったたぐいのものだろう。

 あまりにも、運が悪い。

「笑っちゃうな。本当に」

 乾いた笑みをたずさえて、動かない身体を、枯れた木の幹にあずけるように起こした。後頭部をわずかにぶつけると、ざり、と不快な音が擦って、汗のにじむ首筋に砂を落とす。

 ズキズキと痛みがにじむ足は、打ちつけられたひょうしにひねったらしい。

「俺はアンタらの餌で、練習台にされたわけだ」

 ソウは自嘲しながら、内心舌打ちを重ねていた。――まずった。油断した。

 太もものナイフに触れるが、この刃渡りでは一撃で魔物を殺しきるには足りない。魔獣の攻撃をかわして突きたてようにも、この足ではおそらく思うように攻撃をかわせない。

 情けから魔獣が餌を逃がしてくれるなんてことも、ありえない。

 鈍重な足音が、白い落ち葉を踏み潰した。

 白が迫る。

 死が寄ってくる。

「なんで、頑張ってるんだろう」

 自問。うつむくと、耳にかけていた髪がさらりとこぼれ、視界をわずかにさえぎった。

 きっと、自分には守りたいものがあった。それは確かだ。父が亡くなり、母が殺されて、たった一人の大切な家族を守らなければならないと立ちつづけた。

 前に進むとき、いつだって思いだすのは、小さくて臆病な弟の姿だ。

「知ってる。依存しないと立てなかったのは俺のほうだ」

 立ちあがれなくなるのが、いつだって恐ろしい。

 目の前にやることがあると安心した。目の前のことをやっていれば、他になにも見なくて済んだ。そんなふうに、ごまかして、見すごしているうちに、いつしか、なにも感じなくなった。いつからか、なにもわからなくなった。悲しいも、嬉しいも。怖いも。ぽっかりと抜けおちてしまったようにどこかへ消えてしまって。

 幼いころに夢見たことだって、もう、わすれてしまった。


 ふ、と頭上が暗くなったのは、目の前で魔物の前肢が振りあげられたからだ。衝撃とともに視界が明滅した。簡単に地面に転がった自分の身体は、すでにぼろぼろだ。

(死ぬのか……?)

 いつか死ぬだろう、なんて漠然と考えていた。

 そしてその時がくれば――、


(それはそれで、いっか)


 きっと、自分は受けいれてしまうんじゃないか、とも思っていた。

 ソウは小さく口をあけて、細い息をこぼした。

 だって、もう疲れたんだ。なにに疲れているのか、自分でもわからないくらいに。

 疲弊して。

 摩耗して、

 擦り切れて。

 ただ、おもりのような息苦しさと色せた感情の名残だけが、いつも蝕むように存在している。


(楽に、なれるのか)


――今度こそ。

 口もとがゆるく、ほころんだ。

 ああ、そうだ。

 笑うって、こんなふうに口のはしが、やわらかくなるんだっけ。

 まぶたを――閉じる。


(ずっと、忘れてたな)

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