(四)孤独
都市の中にある庭付きの一軒家が、幼いソウにとって世界の中心だった。
庭は季節ごとに色とりどりの花が咲いていた。赤、橙、青、紫――それから、ギンヨウアカシアの黄色。そうやって奇麗に咲くのは、母さんが毎日大事に、庭の手入れをしているからだった。花の名前はよく知らなかったけれど、とても好きな場所だった。とくに気に入っていたのは、午後に母さんが水やりをしたあとの庭で、ひときわ明るい太陽の光が、花びらや草木についた水滴にきらきらと反射するようすは、まるで星を散りばめたみたいで、とても奇麗だった。
「庭で走ってもいいのよ?」
母さんは気遣うように言った。
「やだよ」
ソウは首を振った。
「走るのは、庭じゃなくてもできるもん」
「母さんは気にしないけど」
「俺がイヤなの」
「ふふ、ありがとう」
母さんは家の外へ出るときに、いつもギンヨウアカシアの刺繍をちりばめた
「ソラさん、ソウ」
温かく大きな声が聴こえて、二人そろってふりかえる。歯を見せて笑いながら、父さんが、片手をあげた。かるく片手をあげただけなのに、父さんはとても大きく見える。ソウが目いっぱい手を伸ばして跳ねてみてもあの大きな手に届かないから、それがちょっと悔しくて――なら、高いところからだったら、きっと届くはずだ、なんて考えたのがすこし前。それで今朝、家の梁からとびかかったら、それを見ていた母さんにしこたま怒られた。
父さんは父さんで「おお、よく考えたな」、「さすが父さんの子だ」と笑ったから、よけいに母さんが怒って、最終的に二人でお説教を聞くことになった。
父さんは白い歯を見せて、大きく笑う人だった。あけっぴろげで、豪快で。いつも、声をあげて笑っていた。大人なのに、子どもみたいな、父さん。
ある休日。朝ごはんが終わってすぐのことだった。
父さんはいたずらっ子のような笑みをうかべて、ソウの目の前で手のひらをひらいた。
「ほら、できたぞ」
りん、と鈴の音が響いて、赤色がソウの目にとびこむ。鈴をぶら下げた赤い紐は、いくつもの糸をていねいにより合わせて組みあげていた。しなやかで丈夫そうだ。
「なに、これ?」
「まあまあ」
父さんはにまにまと笑いながら、その紐をソウの頭に巻くと、蝶結び――のような、なにかをしたらしい。それから鏡の前へソウを連れていった。
見ると、いびつな結び目が、不格好なかたちで傾いている。
「ははは、可愛いな」父さんはたえきれず笑った。
「あのさ」
ソウは半眼になって、ちょっとだけ睨むように、やたらでかい父さんを見上げた。
「俺、男なんだけど。それに、そういうふうに遊ぶなら、もっと上手に結んでよ。なんか変だし」
父さんの大きな手をはらいながら、ソウは一度ほどいて結びなおした。しかし、鏡で見ているせいか、どうにも上手く結べない。けっきょく、父さんと同じような不格好な結び目になってしまった。
「ぶわはははははは! 不器用なところは父さんに似たな!」
「うるっさいな。いつもならちゃんと結べるもん」
ソウがほほを膨らませてふてくされると、父さんはわるいと冗談めかして笑って、ソウの頭をぐりぐりとなでまわした。まだ九歳のソウにとって、その手のひらはとても大きかった。中途半端な冗談も、雑なところも思うところはあったが、そのなでかたは嫌いじゃなかった。
「魔狩は、最初に倒した魔種の素材を使ってお守りをつくるんだ。ほら、この前二人で山に行ったとき、小さい長毛兎の魔物を狩っただろ? それの毛をよりあわせて紡いで、赤色に染めて、編んで一本の紐にしたんだ」
「俺、魔狩じゃないよ」
そう言うと、父さんはあんぐりと口をあけて、目を丸くした。
「え、お前魔狩にならないの?」
「知らないよそんなの」
どうやら父さんは、息子が将来魔狩になるとばかり思っていたらしい。
「じゃあソウは何になるんだよ」
「ええ、わかんない」
「なんかあるだろ? かっちょいい男になるとか、いい女と結婚するとか」
キラキラと瞳を輝かせる父さんにあきれた視線と「そういうの古いんだよ」と言葉を返しながら、ソウは訊ねた。
「じゃあなんで父さんは魔狩になったの?」
「そりゃあ、お前、魔狩が女の子にモテるからだろ」
「それだけ?」
「それだけ」
父は純真なまなざししのまま、コクリとうなずいた。
相反して、ソウは息をつく。不格好な蝶結びを解いた。赤い紐にとりつけられた小さな鈴が、りん、とかろやかな音をたてる。
「父さんは魔狩だからソラさんと出会えたし、ソウも生まれたんだ。ソラさんな、優しいけど最初はほんっとうに相手にしてくれなくて、けっこう苦労したんだぞ」
「俺は母さんの苦労のほうがよくわかる」
「は~、お前、そういうこと言う? おませさんだね。まあ聞けって。ソラさんは美人でなぁ……」
また始まった、とソウはふたつめのため息をついた。
この話が始まると、長いのはいつものことだ。母さんに一目ぼれした父さんは、何回も会いにいってはつきかえされて、それでもあきらめずに会いにいって――……。根負けした母さんと時間を重ねて、それからようやく恋人になれたと思ったら、今度は両親から猛反対を受けて。そのあとかけおちして、母さんの故郷からはなれた、憂国の北方で暮らしはじめた、なんて。
そんな波乱万丈な人生の一部を、父はいつも楽しそうに語る。
「なあ、ソウ。父さんはな、お前よりも早く死ぬと思うんだ。だから、ソラさんのこと、頼むよ」
そりゃ、自分よりずっと長く生きているのだから、そうだろう。なにをあたりまえのことを言っているんだろう、なんて考えながら「大事な家族を守るのは、あたりまえでしょ」と返した。ふと父を見上げると、想像よりもずっと優しいまなざしが、ソウを見つめていた。
どうしてか、それがとても不安に思えた。理由はわからない。
「そんな不安そうな顔をしなくても、ソウなら大丈夫だ。なんたって、俺の自慢の息子だからな」
口を一文字にひき結んで、ソウは「ちがうんだ」と心の中でつぶやいた。
父さんがいなくなることは嫌だったけれど、今、それを想像して不安に思ったわけじゃない。父さんの表情のせいだ。でも理由がわからない。うまく言葉にできない。それがとても悔しかった。
「お前は度胸もあって頭もいい。そのうえ優しくて美人ときた。女の子にモテるぞ」
ソウはおし黙っていた。
「ソウなら大丈夫だ」
ちがう。ちがうんだ。父さん。
――――……。
ソウは寒さにこごえるように、うっすらとまぶたをひらいた。なにか夢を見ていた気もするが、わすれてしまった。それが怖い夢だったのか、良い夢だったのかも、まるでわからない。
ボロボロになった外套からしのんだ冷気に、ソウは身体をぶるりとふるわせた。
(この寒さ。黒影、ふるえてないといいけど)
昼間、あれだけ温かかった森も、夜になればこんなにも冷えこむ。
焚火の調節をしながら、ソウは破れた外套にくるまるようにまたうずくまった。
虫の声がする。風が吹きぬける音がする。木々の梢がこすれて、ざわざわと音を立てる。水の音。なにかの鳴き声。焚火の音――。
自分以外、誰の声もないやけにうるさい夜。
独りは、もっと静かなものだと思っていた。
腰もとに手をあてて、また、猫の面がないことに気がついて、むだに落胆した。なにか考えごとをするとき。自分をなだめるとき、ソウは決まって母と父の形見に触れる。鈴の音がすると、どこか安心した。父の「大丈夫だ」という、ばかみたいに明るく無根拠な言葉が聞こえてくるような気がするからだ。
「まいっちゃうな……」
ソウは自分の膝に顔をうずめて、小さく息をこぼした。
時々、父の夢を見ることがある。記憶の中の父も、夢での印象でも、父はたいてい笑っていた。
父は、ソウが十五歳の成人を迎えるより早くに亡くなった。
魔狩にはよくある話だ。
たとえば、仕事中に高所から転落し、打ちどころが悪くて死亡する。魔物から致命傷を受け、そのまま息をひきとる。遭難して帰らぬ人となる。
魔種から受けた傷から、瘴気に蝕まれ、白亜化し、死亡する。
白亜化してしまったら、即座に白く蝕まれた部位を切り落とすしか、生き残るすべはない。そしてもし、白亜化したまま死亡した場合。その遺体を即刻焼却処理しなければ、遺体から新たな瘴気がまき散らされ、新たに瘴気症の被害が出ることになる。だから、遺体は親族の元に帰らない。
けっきょく、父の遺体は、家に帰ってはこなかった。
文面だけの死亡通知は、今も自宅のひきだしに保管されている。
「帰る。帰らなきゃ。ライが待ってるんだ」
きっと、ライの元にはすでに、ソウの行方不明通知が届いているはずだ。そして、一定期間を過ぎれば捜索されないことも、死亡扱いになることも、ソウはとうぜん知っている。
「あいつ、ちゃんと野菜食べてるかな。掃除とか、大丈夫かな」
人見知りで不器用な弟だけれど、とても優しくて、奇麗なものや可愛いものを見つけるのが得意で。そんな弟の良いところを見つけてくれる人がいるだろうか。
「いればいいな」
言いながら、ソウは膝を抱える手に自然とちからをこめた。
もしかしたら、家に帰るころにはなにもかも変わっているかもしれない。弟は働きはじめて、恋人ができたりなんかして、いつのまにか、ソウのことも必要がないくらいに、立派に社会人として生活しているかもしれない。
帰るころには、帰る場所がなくなっているかもしれない。
家族のカタチが、なくなっているかもしれない。
「はは、なんか嫌だな。こういうの」
ぐしゃり、と前髪を握りつぶして、かるく笑った。いつも見すごしてきた、不必要な考えごとが、こんな時ばかり次々と襲ってくる。思えば、一日以上誰にも会わないなんてことは、いままでになかった。父が死んで、母が殺されても、なんだかんだ弟とずっと一緒にいた。単独で仕事をこなしてきたとはいえ、報告や情報交換に日常生活。ほかにもいろいろな理由で人と関わってきて。魔幽大陸に来てからだって、ずっとナギや黒影と一緒で。
いまここでは、誰も名前を呼んでくれない。
自分が自分でいられなくなるんじゃないか。
――暇ができたときに読め。
ふ、とソウはかたわらの革袋に触れた。濡れては読めないからと、用心して革袋に包んでそのままにしていた書物だ。こんなときに黒影の言葉を思いだすなんて皮肉もいいところだな、なんて苦笑しながら、ソウは書物の表紙をなぞる。
一枚。ソウはページをめくる。
序章から始まるこの書物は、元々何冊もつらなって出版されているものを再編集して、抜粋したものらしい。他人の残した詩にそれほど興味があるわけではなかったものの、文字を一つずつ認識する作業は、思うよりも心をなだめてくれる気がした。焚き木が爆ぜる小さな音に耳を傾けながら、ソウは無音の字を追い続けた。小さく音読した声は、途方もない白い夜へ消えていく。
どうせなら誰かの声でこれらの言葉を聴きたいと思ったが、ナギが朗読する声も、黒影が口にする音もまるで想像がつかなかった。我ながら、こういった想像力のなさに呆れてしまう。
誰かの声をこんなにも聞きたいと願う夜が訪れるなんて、考えたこともなかった。そして、なんの変哲もない故郷の文字が、これほどに愛しいものだ、とも。
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