(三)朦朧
ひゅう、と耳にこだました音が、風の音だったのか、それとも自分の呼吸の音だったのかはわからない。
最初に目が覚めたとき、おそらく自分は叫んでいたのだろう、とソウは
どんな言葉を叫んでいたのかは覚えていない。
そもそも、言葉になっていたのかどうか、さえ。
次に目を覚ました時には、地面を這いずっていた。串刺しの状態からどうやって抜けだしたのかはわからない。自力でどうにかしたのか、運よく抜けだせたのか。
ともあれ、魔種の餌になっていなかったのは幸いだろうか。
じくじくと刺さったままの細い枝は、這うには邪魔だった。ハンカチを噛んで、腕に刺さったままの細い枝を抜く。
ひとつ。ふたつ。みっつ。いくつも抜いたが、激痛はそのたびに身体をめちゃくちゃにした。足にも刺さっていたから、それも抜いた。
痛みで気が狂うのが先か、それとも出血で死ぬのか先か、なんて漠然と考える。
身体がうまく動かない。足の感覚も、指先の感触も、よくわからなくなっていった。熱いような気もしたし、寒いような気もした。ひどく疲れていたから、そのまま眠ることにした。
風に揺れる枝葉の音が、うるさかった。
その次に目が覚めた時は、ひどい空腹にさいなまれた。とにかく喉が渇いていて、水たまりの泥臭い水を飲んだ。かろうじて動く身体を引きずりながら食べられるものを探した。てきとうな草を食んで、落ちていた木の実を飲みこんでは、何度も吐きもどした。途中で指先が痺れ、呼吸が苦しくなったことに安堵してしまったのは、生きていることを実感したからだ。しかしその安堵もほんの一瞬のことで、すぐに
死んだほうがマシじゃないか、と吐きながら考えた。
いっそ、殺してくれ。
――……。
舌先が濡れる。
血の味がした。
気がつけば必死にそれを噛みちぎっていて、生臭い味を奥歯で噛み殺しながら、喉を潤して、空腹を満たしていた。それがなんだったのかはよく認識できなかったが、噛むとみちみちと気持ちの悪い音がして、すこしぬめりがあるような舌触りだった。少なくとも、美味しくはなかった。ほかにまともな食べ物があれば、迷わず食べていただろう。
それから木陰に隠れるように倒れこんで、ボロボロの手を見つめていた。醜い手だな、なんて笑う気力もないまま意識を失った。
どれくらいの時間が過ぎたのかわからない。何日、何年? それとも、思うよりもずっと短くて、それこそ数時間ていどかもしれない。何度も日が昇って、何度も夜を迎えたような気がする。
早く、帰らなきゃ。
どこに?
***
嫌な夢を、見ていた気がする。
「痛っつぅ……」
後頭部の痛みに、ソウは眉根を寄せた。片手でさすりながら上半身を起こすと、ざぷ、と水面が揺れる音が響いて、濡れた袖から雫が滴る。どこかで頭でも打ったかな、なんて考えながら、おもむろに手をついた木をたどるように見上げた。
そのとき。
ソウは、目を見ひらいた。
狂い咲く、白。
白。白。白。
花も、枝も、草も、なにもかもが、明瞭とした、白色だ。
枝葉の隙間を抜けた陽光が、その下の幹や苔、さらには草花へ
「……」
ソウは、あまりのまばゆさに目を細めた。
なんてのびやかな白だろう。一歩踏みだすと、泉の澄んだ水面がきらきらと
輝く白色は、とても温かい。
「……、」
ソウはごくちいさな声をこぼした。
こんな景色、想像さえしなかった。白の境界線、と呼ばれ恐れられるのだから、もっとおどろおどろしく、暗くて、死んでいるような恐ろしいところとばかり思っていた。それが、こんなにもうららかで、豊かな白色が広がっている――そんなことが、あるなんて。
そしてこのあまりにも温かな白い世界で、あたりまえに生きている命がある。
くちもとがわずかにふるえる。
目を見ひらく。
ザァ、と風が吹き抜けた。木漏れ日が伸ばした光の帯が重なって、はなれて、交差して、身体に触れて、またどこかへ消えて。同時に花びらが舞いあがって、つむじを巻くように、森の香りをまとって散ってゆく。
「すごく、」
――奇麗だ。
言いかけたとき。ぴちょん、と水が弾ける音が響いて、ソウは はっと我に返った。
「そうだ。俺、崖から落ちて」
あらためて自分の身体を確認する。服は血と泥に汚れている。いくつも穴があいていて、さらに、どこかに引っかけたようにそこかしこが裂けていて、裾はほつれ、よくわからないところから糸がとびでていて、見るにたえないありさまだった。
「……うわぁ、ぼろっぼろだぁ。防具も……これ修理代いくらかかるだろう……新しく買ったほうが早いかな?」
ソウは頭を左右に揺らして、うんうんと
そもそも、〈
「装備は水瑠地方に着いたら作り直そう……」
頭の中で計算した大体の費用にげんなりしつつ、ソウは一度頭まで水に沈めた。おどろいた小魚の群れが一様に身をひるがえし、銀色の腹で陽光を反射しながら、樹の根の影へ逃げていく。ソウは泉の中を見渡したが、目当てのものは見あたらなかった。
ひと息に水面へ顔を上げて、新鮮な空気を吸う。
「お面も武器もない。これはいよいよこまったなぁ」
もはやいちいちうなだれるのも面倒くさくなってきたソウは、どうせ水に濡れているなら、ここで落とせる汚れはあるていど落としてしまおうか、と雑に考えると、その場で防具外し、服を脱いだ。と、手のひらほどの袋がおちる。ソウはあわててその袋を拾った。いくらか水気をはらって、そっと中身を確認する。――濡れていない。大丈夫だ。
ソウは胸をなでおろして、また袋のくちをかたく縛った。濡れては読めないからと、念のため防水用の袋に包んでおいて正解だった。正解だったのだが、
「本は、食べられないもんなぁ……」
とほほ、とソウは肩をおとした。
ひと通り洗い終わったころ。
あらためて周りを見まわしてみたが、やはり目につく色は白ばかりだ。
「白の境界線は、霧が晴れても、ふつうより瘴気濃度が高いんだったっけ」
となれば、早いうちにここから離れたほうがいいだろう。瘴気症を発症すれば、早ければ一日以内に白亜化が始まり、白亜化が始まればその部位を切り落とすしか、生き残るすべはない。そんなことはごめんだ。
「よいしょ……っと」
木の根を足場に、泉から這いあがって、洗った防具を枝にぶら下げる。そのあたりに伸びていた丈夫そうな蔓をいくらか拝借して、しぼって広げた服を干した。思っていたよりも温かくて風通りが良いから、数時間もあれば乾くだろう。
思案しながら、自然と腰もとに指先を伸ばし――ソウは苦笑した。
「ほんと、いろいろこまったなぁ」
頬をかいて、ため息をつく。大事にしていた形見も、ゆいいつの武器も、こうやって簡単になくなってしまう。
「とにかく、動ける状態で良かったって、思わなきゃね。前向きに」
ソウは誰に言うわけでもなく、笑みをうかべて、うなずいた。
「さて」
す、と視線をめぐらせる。「どうするかな」
着替えの入った背負い袋は、ナギを助けるときに放りだしてしまったからあるわけもなく。太ももに固定していたサバイバルナイフと、防水用の袋に包んでいたこの書物、それから平編みのアンクレットが、現状、手もとにある道具というわけだ。
「とりあえず、目指すなら一番近くの補給地点かな。食料と水、それから安全な寝床の確保と、今いる場所がどこか把握できたらいいんだけど……薬草もあったら、それも採集しておきたいね。瘴気症も怖いし……。魔物の痕跡はよくよく確かめて、できるだけ危険を避ける方向で……武器とお面は、そのあと。それから……」
ふいに、揺れた。
ぐにゃり。視界が湾曲して、ほんの一瞬。ぐらり。平衡感覚を失った。とっさに膝をついて、ぐわんぐわんと回る視界に揺られたまま、ソウはくちもとをおさえる。
耳鳴りがする。いっきに身体が熱くなって、冷や汗がふき出た。
「うぇっ……」
心臓がドクドクと嫌に脈打つのを感じながら、ソウはその場で吐きもどした。胃酸のいやなにおいがする。
血の気が引いたまま、気持ち悪さだけが胃を押しあげる。
?
ソウは、ソレを凝視した。
「なんだ、これ……」
白い植物の破片と、生臭い血のような液体と、ドロドロに溶けた肉の塊。
そして、それらにきらきらと紛れる、
それは、父が昔食べさせてくれた砂糖菓子の欠片のようにも思えた。だがそんなものがここにあるわけがない。
脳裏をよぎったのは、ある光景だ。魔種の腹を裂くと、魔鉱石の欠片が無数に散ることがままある。それはいままでに何度も見たから、あたりまえに覚えている。魔種には瘴気の濃い場所に集まり、魔素をふくんだものを本能的に食らう性質があるからだ。
魔種は、魔鉱石を喰らう。
「まって……」
ソウは一歩、二歩と身をひいた。尻もちをついて、そのままさらにずるずると後ろに下がった。ごつ、と背中が白い苔に覆われた岩にぶつかる。擦れて、苔が落ちる。
「魔鉱石……」
岩肌にへばりつく、透きとおった輝き。
首を振る。そんなことあるわけがない。
ありえない。
「俺は、こんなの食べてない……」
嘘だろ、とこぼれた言葉に返答があるわけもなく。
吐瀉物に混ざった魔鉱石の硬い輝きがただ目の前で沈黙している。
「――――ッ!」
ソウは自分の指を喉の奥へつっこんで、とにかく胃の中のものを吐きもどした。信じられない。気持ちが悪い。なにを食ったのかわからない。わかりたくない。あれはなんだ、なんなんだ。これは夢だろうか。そうだ。きっと悪い夢だ。悪い夢を――――。
ひらり。風にはためく、裂けてぼろぼろに汚れた、厳正な青色の上着が目に入った。穴のあいた防具を見つめた。それから、ふるえる手のひらを見た。この手は崖から落ちるときに、擦りむいたはずだ。だが、古い傷跡が残っているだけで、いつもの自分の手となんら変わりはない。
――肩は?
――腕は?
――脚は?
――脇腹は?
いずれも、いつも通りの自分の身体だ。
そう、
「なんだ、これ……」
おもむろに、ナイフを抜いた。片手を地面にそえるように置いて、もう片方の手で、ナイフを振りあげ――一息に、下ろす。
「あっぐ……ッう……」
痛みに悶絶して、うずくまる。刺したのだから、痛くて当然だ。赤い血が次々とあふれ出るのも、あたりまえだ。なんらおかしいところはない。奥歯を噛みしめ、刃をつきたてたままの手のひらを、まばたきもせず凝視した。十秒――……二十秒、一分。どれくらいそうしていただろう。燃えるように傷口が痛みはじめて、傷口が丸ごとひとつ心臓になってしまったかのように、ドクドクと血を吐き出し続けた。白が赤色を吸う。熱くにじんで滴る。
おかしいところはない。
ない。
「はぁ……」
そのことにすこし安堵して、ようやくナイフを引き抜いた。刃へ付着した血を片手間にはらう。ずいぶんとばかなことをしてしまった、と、なかば他人事のように考えながら、ソウは外套の裾を破って手のひらにきつく巻いた。
「夢と現実の区別がついてないのは、まずいな……」
よくよく考えれば、魔鉱石なんて食べられるわけがない。あんなものを食べようものなら、この身体が真っ先に瘴気に侵されて、白亜化まっしぐらだ。その時点で、こんなふうに目覚めることもない。だからあれは、魔鉱石のはずがない。
(あってたまるか)
ソウは冷然とそれらを見下ろして、それから一度目を閉じた。
息をついて、ゆるやかに吸って、細く吐いて、それをいくらかくりかえす。
鈴の音は、ない。
(とりあえず、やることをやりながらおちつこう。まずは、食料と水の確保……)
ソウは立ちあがった。
もし、立ち止まったら。
ふりかえってしまったら。
よけいなことを考えてしまったら。
もう二度と、立ちあがれなくなる気がした。
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