(七)長い夜

 チラチラとまたたいた光があった。

 ソウはわずかに眉根をよせて、薄くまぶたをひらく。

 ぼんやりと開いた視界に広がるのは見慣れない天井で、そこに街灯の光がしつこく反照しているらしかった。カーテンを閉め忘れていた自分にほとほとあきれながらも、起きあがるにはけだるく、気休めに寝返りをうつ。

 向かいの寝台には黒影が腰かけている。常夜灯のわずかな灯りの下で、昼間に購入した書籍をぱらぱらと読み流しているようだった。

(そっか。黒影の夜は長いんだ)

 あまり長く眠らない、ということこそ知っていたが……。


―― 一人で悶々と考える時間は、抜け道のない迷路になりうる。


 低く静かな声が、耳の奥でこだました。

(黒影も、そんなふうに悩んだり、考えつづけたりするんだろうか。心底楽しそうに笑い声をあげながら、魔種を狩る人間が?)

 ソウはまた寝返りをうって、今度は壁際へ身を寄せた。薄い毛布を首もとまでおおうようにかけなおし、身体をまるめる。

(人なみに傷ついたり、不安に思ったりするんだろうか)

 よけいな思考だ。考えたところで、本人に訊いたこともないのだから、わかるはずもないのに。もっとも、訊ねたところで、こちらの意図する回答は返ってこないだろう。舌打ちが、侮蔑か、殺意か。気まぐれに一回くらいは、まともな返答があるかもしれないが。

(考えて、どうするんだろう)

 仮に、黒影にそんな一面があったとして。不安や苦しみを知って、それでいったい、どうするというのだろう。

(仲良くなりたいわけじゃない)

 ただ、帰るまでの間、仲間としてあるていどやっていけたらいい。きっと黒影も……いや、黒影はソウ以上に、なれあいを望んでいないだろう。それは明らかだ。

(早く帰りたいな……)

 書物の頁をめくる音を聞いているうちに、ふたたび眠気の波が思考をおおった。一枚……二枚……それらの音もわからなくなった夢うつつに、なにかが頭に触れた気がした。ぼんやりと消えて曖昧あいまいになる感覚の中で、その気配を追う。

(ああ、そうだ)

 もう、ずっとずっと昔に、母がこうして頭をなでてくれた。

 温かい。

(でもいったい、誰が――……)

 薄い手のひらが、前髪をすくようにして、ゆるやかに触れる。そのうちに、意識はまどろみの奥へ、小さな音を立てて沈んだ。

 かたすみに浮かんだなにかも、どこかへうわすべりして、消えてゆく。



 ――……。


 母はとても美しい人だった。

 口数はあまり多くなく、ひかえめで、いつもそっと父のそばによりそうような、そんな人だった。

 目じりは凛ととがっているが、強気な印象がないのは、きっといつもやわらかな微笑をたずさえていたからだろう。伏し目がちで、横顔にかかる髪を耳にかけるしぐさひとつさえ母が内気なようすを表していた。


 ソウが正式に魔狩として働き始めてから四年。冬のなかでも、いちばん寒いその日。ソウは十八歳になった。そのころにはもう母の背丈をすっかりこえていて、しばらく前に新調した仕事着もすっかりなじんでいた。

 誕生日を迎えたからといって、幼いころのように心おどることもない。外の冷気をにじませる玄関口で、ソウは厚手のコートに袖を通した。靴の調子も整え、姿見を確認する。冬の朝は、色味のうすい自分の顔がいっそう白けて見えるのが、ほんのささいな悩みだった。もし接客業にでもたずさわっていたら、もっと深刻に悩んでいただろう。コートのほこりをとって、ソウは片手に魔導武具を担いだ。――幸い魔狩は、実力と実績があれば、容姿はそれほど重視されない。

「ソウ、ちょっと待って」

 玄関から出ようとしたソウを呼びとめて、母がさしだしたのは、猫の顔を造形した面だった。猫面のぴんと立つ右耳には、数日前に母が「お洗濯ついでにほつれを直すから」と持っていった、八打ちの赤い紐と鈴が、きれいに結ばれている。はりのある猫の瞳のカタチでくりぬかれた穴をわずかに見つめてから、ソウは母のおもざしをうかがった。

「どうしたの、母さん」

「遅くなっちゃったけど、四年ごしの、成人のお祝い――なんてね。本当は、成人の日に渡そうと思っていたのだけれど」

 母はこまったように笑った。

「瘴気症のせいで、街の外にも出られなくなって、ふみのやりとりも、荷物を送ることも、制限ができてしまったから。こんなに時間がかかっちゃった」

 当時、世の中は、ひどく不安定で、人々は恐怖に満ち満ちていた。瘴気症が爆発的に流行していて、まだ一般的に治療法が広まっていなかったからだ。国内外の旅行は禁止され、人と人のかかわりは事実的に断絶されていた。瘴気症対策は後手に回るばかりで、生活必需品の不足や先の見えない不安と終わりのない我慢におしこめられ、最近ではそれに堪えかねた住人によって、各所で暴動が起こることもめずらしくなかった。ふたをかぶせられた街は、いつもどこか鬱屈うっくつとしていた。

 街の足音はどれも重く、あるいはいらいらと急いでいて、道ばたにうち捨てられたモノを見るまなざしは、嫌悪と恐怖、そして諦観さえ漂うようになっていた。

 そんな中で、母はどうにかやりくりをしたという。

「知り合いの職人さんにつくってもらったの。世界で一つ。あなたのためのものよ」

「嬉しいよ、母さん」

 ソウはすなおに喜んでそれを受けとった。どうして猫のお面なのか、という疑問は多少あれども、母が人よりずれているのは、今に始まったことではない。もともと山育ちで、父との婚姻をきっかけに、こうして都市部で暮らしはじめたという。周囲の都市的な住人とは価値観が合わずに悩んでいることも母はたびたび口にしていた。

 母が変わっていることは、ソウにとってほんの些細ささいなことで、とくべつに気にしたことはない。物心ついたときから母は奇麗で優しくて、こうして大きくなっても、変わらず自慢の母だ。

「ありがとう」

 ソウは微笑んだ。

 なによりも、自分のことを思って行動してくれたことが……かけてくれた手間と時間が、嬉しかった。

 しかしそれと同時に、すこし申しわけなく思うところもあった。

「けど、どうして? 俺に、そんなお金使わなくても」

 ソウが働き始めていくらか生活は楽になったが、それでもまだ心もとない。お金に余裕があるわけでもない。弟はまだ六歳で、これからのことを考えれば、すこしでも貯金しておきたいはずだ。

「大切な息子のことだもの。母さんはね、ライも大事。けれど、それと同じくらい、あなたのことも大事で、愛しているから」

「わかってるよ」

 ソウは照れ隠しに苦笑した。

 母は日常に追われていても、ライのことと同じくらいにソウを気にかけてくれている。もう十八歳なのだから、そんなに心配しなくてもいいのに、とも思うが、母はこういったことを、とても大事にしているらしかった。

 お面を受けとったソウの手に、母は水仕事で荒れた手を重ねた。

 さげられた鈴が、りん、と音を立てる。

「このお面はね、あなたを守ってくれる。だからあなたは、ライを守ってあげて。ライはふつうの子だから」

「あたりまえだよ」

 なにを今さらとソウは笑った。

 母は時折、寝入ったライに「ごめんね」と謝っていることがあった。ソウはそんな母を、しばしば見てきた。母が自分たちに負い目を感じていることは、知っている。

 それでもソウは、母のことが好きだった。そして、こうして大事に自分たちを育ててくれた母へ深く感謝すると同時に、深く尊敬している。

 だから、そんなふうに謝る母を見るのは、すこし悲しかった。

「ごめんね、ソウ」

「謝らないでよ。俺は、他にやりたいこととか、欲しいものとか、あんまりないんだ。こうやって働いてるのも、俺がやろうと思ってやってるだけだし」

「優しいあなたが誇らしいわ。けれどね……ソウ、無理はしないでね」

「無理なんかしてないよ」

 ソウは苦笑した。

「お父さんが死んでから、ソウは……なにも言わなくなったでしょう。それが、心配なの。泣いていいし、笑っていいの。好きに生きていいの。だからね、だから……」

「母さん」

 ソウは、母の言葉をそっとさえぎった。――俺を信じてよ。そんな言葉を呑みこんだから、会話は途切れてしまった。

 儚くて繊細な印象ばかり覚えているのは、きっと母が、いつも壊れてしまいそうだったからだ。

「じゃあさ、わがまま言っていい? 今度の休みに、母さんがつくったアップルパイが食べたいな。俺、好きなんだ。あれが一番好き」

 たぶん、母とはすれちがっている。

 母は、息子ソウが子供らしく本音を吐露とろすることを望んでいる。そして、抱えている負い目を許されたくて、いくらか責められることを望んでいる。

 そして、自分はそれを望んでいない。否、本当は、そうしたい気持ちもあった。けれど、母が壊れてしまうことが恐ろしかった。父が亡くなって、それでも家を守ろうと無理に微笑む母が、家族のカタチが壊れてしまうことが、ひどく恐ろしかった。

 だから、こんな見えすいた我儘うそを言う。

「だめ、かな?」

 ソウは眉じりを下げて、わずかに首をかしげだ。

「もう、わかったわ……そういう言いかた、本当にお父さんにそっくり。ずるい」

「息子だからね。甘え上手でしょ?」

「そういうところはちがう。あの人は無自覚だった」

「それはそれで、タチ悪いと思うんだけどなぁ」

「ふふ、」

 母が小さく笑って、ソウもまた笑みをこぼした。すこし元気になった母のようすをみて、安堵する。我儘というのは追及を逃れるためのわかりやすい嘘で、母もきっと、このことをわかっているだろう。けれど、母の作るアップルパイが好きだというのは本当だ。

 母と、幼い弟と、三人で焼きたてを食べながら、なんてことのない話をする。

 そんな小さな幸せのカタチが、なによりも大事だった。

 きっと母も、こういう時間を、とても大事にしていた。しかし、このなにげない約束は、あたりまえの時間は――……。



「おかあさん!」 

母の遺体を目の前に泣き狂う弟を、ソウは抱きとめた。

人の目から逃れるように、外套で隠して、六歳の弟を大人の力で無理やりに路地裏へ連れていった。

 怒って、泣いて、叫ぶ弟を抱きしめ続けた。

 母が怒りよりも、弟がいっしょにことのほうが恐ろしかった。

「どうしてお兄ちゃんは、泣かないの!」

 道ばたで踏み潰された林檎を気にとめる人間は、きっと誰もいない。

 その日を境に幸せな家族のカタチは、あたりまえの幸福は、なくなってしまった。

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