(八)アップルパイ

 その日は、ナギのおすすめだというマヌーゲルのカフェテリアへ訪れた。

 この街にはめずらしく、水と緑とうららかな陽光に包まれた温室のなかに満ちた豊かな花の香りは、清廉とした水の気配とともに循環している。天然岩石でつくられた小さな滝から落ちる水の音を背景に、ソウはテーブルにはこばれてきた焼き菓子をのぞきこんだ。

 焼き菓子の中心から、薔薇が一輪、二輪と華やかに咲くように敷き詰められた真紅の砂糖煮の林檎コンポートは、陽光でつやつやと輝いている。フチは葉のかたちの生地で飾りつけられ、こんがりと美しい繊細な模様は、まるで芸術品だ。

「これはタルト?」ソウは訊ねた。

 ちっちっち、とナギがひとさし指を左右に振る。

「これは、マヌーゲルのアップルパイです」

 得意げに歯を見せて、ゆるやかな袖をひらくように焼き菓子を示した。

「とても美しいでしょう?」

「うん。すてきだね」

「アップルパイと言えば織国おりぐにのユウメも秀逸ですが、このマヌーゲルのアップルパイは宝石林檎ジュエル・アップルと呼ばれる、透きとおった真紅の皮が美しい林檎をつかっているのですよ」

 ナギはナイフを手にとると「焼きたてのうちに食べちゃいましょう」と刃先をさしこんだ。

「黒影さん、そこのお皿をくださいな」

「……そんなにいらん」

 黒影はナギへ皿を手渡すと、腕を組んでわずかに頭を揺らした。

「いいんですよ。あまったらナギが食べちゃいますから。はい、どうぞ」

 うむを言わさず、ナギは座っている黒影の前に皿を置く。

 眉間にシワを寄せたまま、黒影は大きなアップルパイとにらみ合った。

「嫌がらせか」

「ちがいますよぅ」

 おおげさに口をとがらせたナギ。ナイフを差しこんで、もうひとつ切りわける。

「黒影さんが小食というのも事実でしょうが、ただそれだけではなくて。本心としては、食べものを残すという行為をしたくない――ちがいますか?」

「……」黒影は頬杖をついたまま、視線を流した。ちいさな舌打ちが響く。ふてくされた顔のまま、枯れた指先でコーヒーカップを持ちあげて、飲みくだし、また受け皿に置く。カチャ、と硬い音がたつ。

 ナギは言葉をつづけた。

「なら、そこを言わないと。言葉がたりないんですよ。だから、良くも悪くも誤解されちゃうんじゃないですかぁ」

「どうでもいい。理解される必要はない」

「けど、嫌なんでしょう?」

 黒影はおし黙った。

「そういうの、重ねるとつらくなっちゃいますよ。独りきりなら、その場だけで終わりかもしれませんけど、この旅はナギやソウくんがいます。明日もいっしょなんです」

 切り分けられたアップルパイが、陶磁器の皿にのせられる。精緻せいちに描かれた単色画法カマイユの青色に、真紅の砂糖煮の林檎コンポート。ふわりと広がった焼き菓子の甘い香りが、循環する花の香りとまぐわって流れてゆく。

 なよやかな風だった。亜麻色の髪がかすかに揺れて、ナギは温室の花々を見つめた。

「つらいことは、思うよりもいろんなところからやってきます。自分でどうにかできるものもあれば、どうしようもないこともあって」

 ナギはどこか遠くを見つめているようにも思えた。癖のように左手の紋様をなでて、腕輪に触れる。茫漠とした微光をそのままに、ソウと黒影を翡翠色の瞳に映して、温良とほほえんだ。

「だから、選べるときはつらくならない選択をするのも、ひとつの手だと。ナギは思うのですよ」

 ソウは黒影を見やった。口をへの字に曲げたままのかたい表情で、つやつやと輝くアップルパイとまだにらめっこをしている。そのようすが、小さいころのライと重なってみえて、思わず失笑してしまう。まるで幼い子どもみたいだ、なんて言ったら、もっとふてくされてしまうだろうか。きっと、黒影はこまっているのだろう。

「黒影、どれくらいなら食べられる?」ソウは訊ねた。

 への字に結ばれているくちもとが、いっそう曲がった。かたい表情のまま、数秒の沈黙。その間もさらさらと水のせせらぎが変わらず流れていたが、ソウは次の言葉をじっと待った。

 アップルパイはうららかな陽の光を浴びてつやつやと照っている。

「……半分……いや、三分の一」

 低く、小さな声がぶっきらぼうに響いた。

「わかった」ソウは微笑んだ。黒影の皿をすこしこちらに寄せて、そのアップルパイを小さく切り分ける。「大きいほうは、別のお皿に置いておくね。食べられそうだったら、おかわりしたらいいよ」より可愛らしくなったアップルパイを、黒影の前へ。

「笑うな。不快だ」

「ごめん、あんまりにも子どもみたいだったからちょっと意外で。悪気はないんだ」

している」

 黒影は小さくなったアップルパイを、フォークの先でつついた。ひとかけらを口にふくんで、一度まぶたを閉じる。

「成人は?」

 思わず訊き返すと、対して黒影は片目を薄くあけた。黒い瞳がわずらわしそうにこちらを映す。

「ワタシはもうすぐ十六になる。キサマはどうなんだ」

「俺は三十二歳だけど」

ソウは答えた。

「って、黒影。もうすぐ十六ってことは、いま十五歳ってこと? まだ成人して一年も経ってないの?」

 目を丸くして訊ねる。しかし、黒影とナギもまた、目を丸くしてこちらを凝視ぎょうししていた。ナギにいたっては、指先をわなわなとふるわせている。

「……ソウくん」

 神妙な面持ちで、一歩。

 水路の流れよりも、さらにゆっくりとにじり寄ってくる。

「その顔で」さらに、もう一歩。

「うん?」ソウは首をかしげる。

「さんじゅうにさい?」

「うん。三十二」

 さらりとうなずいてみせる。

 黒影は小さくまばたきをして、それからすこし考えるように視線を流しアップルパイを口にはこんだ。

 ナギはテーブルにナイフを置いた。

「あっりえないんですけど⁉」

 ばん、ばん、ばん、ばん! テーブルを何回も叩きながら、ナギが叫ぶ。

「ナギさんお行儀悪いよ?」

「その顔で三十路ですって? ふざけるのもにしてくださいよ。え、嘘でしょ嘘ですよね嘘だって言ってくださいよ! ナギはてっきり十六、七くらいだとばかり思っていましたよ!」

「俺は黒影が十五歳ってことのほうが驚いたけど」

「いやナギもそれは驚きましたけど、って、そんなこたぁどうでもいいのですよ!」

 ナギはがっしりと肩をつかみ、まじまじと見つめてきた。指先が身体の造形をたしかめるようになでまわしてくる。

「ちょっとナギさん、近いって。あと手つきが妙に生々しくてすごく嫌」

 がし。ナギの両手がソウの両頬をつかんだ。

「このさらりとなめらかな肌つや……骨格は確かに男性ですが、まるで成長途上の男子のように華奢で、首筋のシワもない」

なひひゃんおひふいへナギさんおちついて

「ヒゲ! ヒゲは!」

 ソウはナギの手をひきはがし、

「成長期に期待したけどひとつもえなかったよ」

 と嘆息した。

「んがあああああああああああ」

 頭を抱えてその場にくずれおちたナギ。

「えっと、ナギさん大丈夫?」

「なんっなの本当にもう頭がバグりそうですよ! ソウくんちゃんとイチモツついてるんですか! ああもうこんな美人なのになんで女の子じゃないんですかもぉぉぉぉおおヤダァァァァアアアアアアッ女の子成分がたりないんですよおおおおおおおおおおおおおおオオオ!」

「食事の前にそういう話はどうかと思うよ?」

 ソウはあきれ顔で襟元を整え、かるく肩口をはらった。まわりの視線がすこし痛い。

 芝生の上でごろごろと転がりながら、奇怪な声をあげて騒いでいるナギ。――さて、どうなだめるべきか。

「……じゃあきくけど、ナギさんは何歳なの」

 ぴたりと、ナギが静止する。一秒、二秒、三秒。ばっと身体を起こして、振り返るナギ。芝生の短い草の切れはしがついたまま、あっけらかんと笑い、口を大きく縦にかえけて申告した。

「忘れちゃいましたぁ」

「アップルパイ、食べよっか」

「そうですね」

 おたがいににっこりとほほ笑んで、うなずきあった。



 それから、ソウはお茶をいれなおし、黒影はコーヒーの二杯目を注文した。黒影はすでにアップルパイを食べおえていたが、もうお腹がいっぱいになったらしく、それ以上手を出すつもりはないようだった。

 ソウはまだ一口も食べていなかったアップルパイを前に、ようやく腰をおちつけ、ナギと合わせて「いただきます」とカトラリーを手にとる。

 思えば、アップルパイはもうずいぶんと長い間、食べていなかった。それこそ、母が亡くなってから今までの十三年ほどだ。

 母が亡くなってからしばらくの間は、街でアップルパイを見かけても、とてもじゃないが食べる気にもなれなかった。

 母がいないことをしてしまう気がしたからだ。

 目の前で殺されたのだから、受けいれるほかなかったというのはまぎれもない事実で、なし崩しに始まった母のいない生活が過ぎてゆくうちに、否応いやおうなく母がいない現実を理解させられたフシはあった。それでも、実感してしまうのが怖かった。

 そして同時に、母以外の人間がつくったアップルパイを食べてしまったら、母が殺されたことを容認してしまうような気がした。

 だから怖くて、とても恐ろしかった。

 やがて時間が過ぎ、弟も日に日に大きくなり、母のいない生活があたりまえになって……そのうちに、世の中はそういうものなのだと諦めがついていった。仕事と家事で忙しく、それほど考える時間もなかったことは、ある意味幸いだったのだろう。

 拒否感や恐怖はしだいに薄れ、感傷に浸ることもなくなったころには、わざわざアップルパイを買って食べる理由もないことに気がついてしまった。

 母がつくってくれていたから日常的に食べていて、家族ですごすあの時間が好きだったから、つくってほしいとねだっていただけだった。

 そうしていたら、いつのまにかこんなにも時間が過ぎていて。

(十三年か……良くも悪くも、前に進んでる、ってことでいいのかな)

 切りわけたアップルパイに、ソウはフォークを立てた。ふわりと甘い匂いがたちこめ、ティーカップを満たすカモミールティーの香りとやわくまじわる。

 たしかに、食べ物につらなって、母のことはそれとなく思いおこされる。母の死はやりきれないものだったし、思うところがないわけではない。しかし今は、場所も、匂いも、まわりにいる人間も、なにもかもがちがう。だからこそ、母との思い出はそれとして、今は今として、こうして過ごせるのだろう。

 ソウは冷静だった。

 このことを薄情だと責めようとする自分がいないわけでもないが、それにたいして、いくらでも返す言葉はある。微細な感情を不要に増大させられるほど、過去ばかりを見ているわけでもない。

 アップルパイのひとかけらを、口にはこぶ。

 サクサクのパイ生地の上でとろける温かなクリームと、林檎のみずみずしい食感……。

(あれ……?)

 この違和感は、はじめ、母の味と比べているから生じているものだと思いこんでいた。

(こんな、味なのかな)

 口の中でぐちゃりと潰れたのは、おそらくクリームだろう。

(なんか、おかしいな。アップルパイってもっと、こう、甘くて……)


 


 奥歯に引っかかるような食感を残してり潰れたのは、きっと林檎だ。どろりとあふれるようにほどけて、咥内が生暖かいで満たされ、薄い皮の食感が細々とちぎれて舌にザラつく。

 一回。二回。咀嚼して、サクサクした軽やかな焼きたての生地と、温かくてなめらかなクリームを噛み潰す。三回、四回。五回……。回数を重ねれば重ねるほど、それらはカタチを崩し、ぐちゃぐちゃとまみれ、最初のカタチすらわからなくなっていく。

 

 そんなことはないはずだ。甘そうな香りも、なめらかな舌触りも理解している。

自分の記憶には、母が作ったアップルパイが、どんな香りで、どんな食感で、どんな味がしていたかだって、覚えている。頭の中で、理解はしている。

(味が、しない……?)

 それを呑み下したとき、口の中に残った、油分と水分を練り合わせたような奇妙なものが、ぐちゅりと這いずったような気がした。

「……――」


 気持ちが、悪い。


「美味しいですねぇ。焼きたては、なんだか安心するような味がしますよね」

 まったりと笑うナギの声で、ソウははっと我に返った。残りを呑み下して、おもむろにカトラリーを置く。「そうだね」共感めいた微笑をうかべて、ティーカップをかたむける。カモミールの独特の香りを感じて、すこしの安堵。

「焼きたては、やっぱり美味しいね」

 経験したことがある。知っている。だから嘘ではない。

 ソウはさらりとたれた横髪を耳にかけた。


 それから何度も言葉を重ねながら、ソウは同じことをくりかえした。切りわけて、フォークを立てて、口にはこんで、咀嚼をして、呑みこむ。それらは常日頃から毎日毎回くりかえされるあたりまえの動作だ。

 切りわけて、フォークで刺して、口にはこんで、噛み潰して、呑みこむ。

 切りわけて、フォークで刺して、咥内こうないに押しこんで、噛み殺して、呑み下す。

 それを執拗しつように何回もくりかえせば、そのうちにそれらは皿の上から消える。

「美味しくて、お腹いっぱいになっちゃった」

 ソウは苦笑した。これじゃあ晩御飯が食べられないな、なんてあたりまえのような言葉を口にして、「ナギもです」と同じ答えがかえってきて、朗らかに笑いあう。

汚れたカトラリーと、空っぽになったティーカップを見て、ソウは少し安心した。

 瞬間。

 音がこもるような、耳鳴り。まずい、と瞬間的に理解する。冷や汗が全身ににじんで、心臓が嫌に脈動する。みぞおちのあたりが、ぐ、と誰かに押されているような不快感がして、しきりにせりあがってくる。

「お皿運ぶね」

 身体のふるえをごまかすようにソウは立ちあがって、使いおわった皿を手早くまとめた。手伝いを申しでるナギに、ゆっくりするようにそれとなくうながす。理由はなんだって言える。「いつもナギさんに任せっぱなしだから」「たまには俺にさせてよ」「食べすぎちゃって、ちょっと散歩したいんだ」なんでもいい。あるていど納得できる言葉であれば、あとはいつも通りの声、表情、しぐさ……そうやっていつも通りを重ねれば、仮に多少の違和感を覚えたとしても、だいたいは見逃すか、気のせいだと思いこんでもらえるからだ。

 そうやって、毎日、毎秒、ふつうを重ねてきた。

 あたりまえをこなしてきた。

 眩暈めまい。食器をどうにか運んで、ソウはすぐ手洗いへかけこんだ。


 美味しい味はしないくせに、気持ち悪さと嫌な酸味だけが残るアップルパイだった。

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