(六)旅人手記

 子どもの高い声が、きゃあと跳ねる。

 側道を歩いていたソウは植樹ごしの広場へ視線を向けた。フェンスに囲まれたそこは、子どもたちの遊び場になっているらしい。広場はかたい岩盤から大きく張りだしている鉄骨の上にあり、陽光が惜しみなくそそがれている。ほうぼうからつながった橋をかけて、何人もの子どもが集まったかと思うと、彼らはひとつのボールを蹴りはじめた。

 青天井の下で、はつらつと汗を流しながら、年端もいかない少年少女がそれを追いかける。跳ね、高く弧を描くたびに、彼らの瞳は陽光のきらめきを映した。一度止まったボールが、ふたたび動きだすと、それにつられるように子どもたちもめいめいに走りまわる。ボールをあつかっているのはたしかに人間だけれど、全体を俯瞰ふかんしてみると、ボールに遊ばれているようだ。

 あるいは、ぜんぶひっくるめて、それ自体がひとつの生きものみたいだ、とも。

「どこでも、子どもは元気だね」

 ソウは歩きながら、微笑ましい光景を眺める。むきだしの鉄骨、錆びた階段に、ぼこぼこと歪んだフェンス。理由がわからないまま残されている土管。どれもこれも、遊び場というには無骨なものばかりだが、子どもたちにとってはぜんぶが遊具なのだろう。

 きゃあきゃあと無邪気な声をきいていると、つい、自分が置かれている状況も忘れてしまいそうだ。

「ソウくんはどんな子どもだったんですか?」

 ひょいとのぞきこんできたナギに、ソウは「んー」と思いだすように視線をめぐらせた。

「ふつうにやんちゃする子どもだったよ。家のはりにのぼってとびおりたり、庭先で蜂の巣をつついてみたり……母さんに危ないでしょって、よくしかられた」

「え、なんで蜂の巣をつつくなんて危ないことしたんですか」

 ナギは肩をこわばらせ、青ざめた。

「毎年、蜂の巣の駆除を父さんがやっていたから、手伝いになるかなって思って……あと、あの球体の中がどうなっているのか、すごく気になったんだよね」

 ソウは両手で、ひと抱えくらいの円を描いた。

「だから、父さんから教えてもらった殺虫効果のある草を、防火用の袋の中でたっぷりいて、その中に巣を落として、くちを閉じてひと晩放置して………それで、つぎの日に玄関先で解体したんだ。幼虫の数も知りたかったから、端から列にしてならべていたんだけど……母さんが水くみに行ってたの、すっかり忘れててさ。もどってきた母さんが、いままでに聞いたことのない悲鳴あげて、びっくりしちゃった」

「ナギでも悲鳴あげますよ!」

「はは、けど面白かったよ。巣の内部は階層になってて、中に空気が通るように、外皮には隙間があるんだ」

「笑いごとじゃないですよ⁈ ナギはお母さんに同情します!」

 ナギが短い悲鳴を上げる。

「まぁ、母さんには悪いことしたなって反省したから、次からはちゃんと母さんに見えない屋根裏とか、家からすこし離れた空き地とかで……」

「こりてないですね⁈」

「けどべつに食べたりしてないよ?」

 心外だなぁ、と視線を向けると、どうしてか、ナギは「そういうことじゃないです」と半眼になった。

「必要だからと虫を食べるのと、興味本位で蜂の巣をつつくのとでは、動機に天と地ほどのへだたりがあると、ナギは思います」

「そうかなぁ。俺は虫を食べることのほうが、よっぽど信じられないけど」

 と、広場の入り口を通り過ぎようとしたとき、足元にボールが転がってきた。それがちょうどナギの前で止まる。

 植樹の向こうには、子どもたちの姿があった。彼らはこちらに向けて手を振っている。どうやら、投げかえしてほしいと言っているらしい。

 ボールを拾ったナギは、両手を力いっぱいに振りあげると、そのまま投げ――、

「ぶっ」

 鋭角で段差の角に激突。ソウの顔面へ勢いよく、そして不思議なほど真っすぐにとびこんできた。

 おもわず、顔面を押さえながら、ソウはその場でしゃがみこんだ。遅れて地面へ落ちたボールは、所在を失ったようにあらぬ方向へてんてんと転がっていく。しかし不幸はそれだけではなかった。

「ソ、ソウくんごめんなさい!」

 この状況にあわてふためいたナギが、石ころを踏んだのか、それともなにか段差にでもつまずいたのか、ともあれ、その場で「あ」と小さな声をあげて態勢をくずしたらしい。

「大丈夫、ちょっとあたっただけ」

 ソウが顔を上げた瞬間。おたがいのひたいが激突。ゴッ、とにぶい音とともに、頭の骨のさらに奥が揺れ、一瞬の宇宙をかいま見たソウは、痛みのあまり声をあげることもかなわず、しばらく地面に伏せてうずくまった。

「ひゃあああ! ご、ごめんなさいごめんなさいごめんなさい」

 相反して、激突してきた超本人は、必死にあやまっていた。おでこを赤くしながらも、痛みにうずくまるといったようすはこれといってなく。

「……いや、いいんだけど、思ったより痛……ナギさんは石頭かな、うん」

 ソウは苦笑を返した。

 それから、ナギがボールを追いかけ、子どもたちへボールを返すまでのあいだに、ソウは刺繍の入ったハンカチを水で濡らして顔にあて、広場のかたすみで休憩した。

 幸いボールがぶつかったところは腫れるほどではなく、赤みもすぐに引いた。

「もう大丈夫。そろそろ行こうか」

 濡れたハンカチをもう一度よくしぼってから、袋に入れて懐へ。ソウはベンチから立ちあがった。

(戦ってるときはそうでもないんだけど、こういうときって、地味に痛いんだよなぁ)

 まだ痛むひたいをさすって、あたりを見まわす。――黒影がいない。

「ナギさん、黒影は?」

「さっきまでそこにいましたけど……」

 ぐるりと視線をめぐらせたところで、ようやく細い背中を見つけた。墨のような髪が長く揺れたかと思うと、広場の先の交差点の角をまがって見えなくなる。

「ちょっと、黒影。待ってよ」

 あわててその背中を追いかける。遅れてナギがついてくるのを確認して、ソウは黒影の横にならんだ。

「急にいなくなったら心配するから、はなれる前に声をかけてよ」

「ワタシはこまらん」

「なにかあったらどうするのさ」

「斬り伏せればいい」ツンと黒影は答えた。

「ああもう、君はどうしてそう過激な……」

 どういえば伝わるのか、と肩を落とす。

 すこしの間、縞鋼板を足早に歩く音を聞きながら黙考。

 ややあって、ソウは、また口をひらいた。

「君は、俺と殺しあいがしたいんでしょ?」

 ツカツカと足を進める黒影は、なにも言わない。

「たとえばの話だよ」

 ソウは早足になった黒影を追うように、さらに続けた。

「君がかってにいなくなって、それを俺がかってに心配してさがしまわって、……うっかり俺が事故かなにかにまきこまれて死んじゃったら、殺しあいはできなくなる。結果的にこまるのは君自身。そうでしょ?」

 黒影は歩みを止めないまま、舌打ちをした。不服そうだが、たしかに反応がある。

 ソウは息をついた。反応したということは、こちらの言葉をあるていど聞いた――聞き入れてくれたかどうかは別として――ということだ。

「で、どうしたの?」

 あらためてたずねると、こちらを一瞥いちべつした黒いまなざしが次にとらえたのは、脇道にひっそりとたたずむ古書店の看板のようだった。ようだった、というのは、看板の文字が読めないからだ。店頭に並んだ本などのようすから、おそらく古書店だろう、と類推したにすぎない。

 ふいにすれちがった街の住人は、跳ねるような音の響きで会話をしている。声の高さや表情、手足のしぐさや歩調などから盛りあがっているのだろう、とはわかるものの、彼らが話す言葉はソウにとって、不可解な音階をきいているように感じられた。

 なにを話しているのか、どんな理由で盛り上がっているのか。地元にいたころなら、あたりまえに聞きながしていた。そんな他人の会話が、いまこの場所では違和感でしかない。

 目に入る文字は知らない形の羅列られつ

 意味のわからない記号は、我がもの顔で日常に溶けている。

 それらを目にするたび、耳にするたび、ここは自分が生きてきた世界とはちがうのだと否応なく認識させられていくようだった。

「――……」

 ソウはまばたきをした。ガラス窓に映った自分は、自然な表情としぐさをしていて、ところはひとつもない。ほかの国の人間だというのは、きっと誰からもわかるだろうが、そんな人間はいくらでもいる。

 だから、

 大丈夫だ。

「……」

 ソウは横髪を耳にかけて、ガラス窓の向こうをのぞきこむように指さした。

「ねぇ黒影。どれも魔幽大陸の本ばっかりで――、」

「古書店ですか。ナギちょっと奥から見てきます~!」

 後ろから、ソウと黒影を追いこして、ナギが古書店に突入していった。

声をかける間もなく、その背中はたちならんだ本棚の奥へ消えていく。

(ナギさんって、けっこう自由奔放だよなぁ)

 ソウはくす、と小さな笑みをたずさえた。そのうちに、黒影もまた扉をくぐった。合わせて、ソウも狭い古書店へ。すると今までの雑踏がうそのように、店内はしんと静まりかえっていた。みっしりと詰まった本が、外の世界から古書店を隔絶しているように思えた。

 ソウにとって、本がある場所といえば、北方の家にあった父の書斎や学校の図書館、魔狩協会の資料室で、いずれも整然としていた。基本的に、勉強や調べもののために利用するだけで、特別な感慨もなじみもない。最近にいたっては、協会支部にある検索機ですませていたから、こういった場所はずいぶん久しぶりだ。

「すごい本の数……」

 深閑とした古書店の内部は、ひどく雑多な印象だ。書架にはみっちりと本が詰めこまれていて、そこからあぶれたものは手前に山積している。さらには、書架にとどまらず、床から低い天井までぎっしりと本が積み上げられ、崩れた山にそのまま本を横積みにしているようすも散見された。古びた革のにおいが隙間なくはびこっていて、ほこりがじっとうずくまっている。

「黒影、本に興味があるの?」

 痩せぎすの背中に声をかける。やはり返答はない。

 おもむろに、ツンと尖った鼻先が左右をざっと一瞥した。細い指先を伸ばし、一冊。それからまたつかつかと歩いて、今度は別の書架しょかからもう一冊。どちらも、黒影の手のひらと同じくらいのものだ。近くで棚を整理していた若い店員へ、二冊の本と共に貨幣をつきつける。

 店員は小さな悲鳴をあげた。手もとの本をばらばらととり落とし、黒影を二度見する。

 それもそうだろう。ふりかえったときに、なんの気配もなくあの青白い顔が現れれば、誰だって驚く。ソウはたわいないやりとりを黙視した。

 店員はあわてて本を拾いながら、へこへこと腰を折り、頭を下げる。そんなことをすれば、拾ったばかりの本がまた落ちて、また同じように謝りながら本を拾うことになるだろうに。想像するまでもなく、今まさに、それが目の前で現実になっていた。しかも、黒影は片腕を腰にあて、斜にかまえた状態でいらいらと上半身を揺らしながら、店員を睨みさげている。痩躯といっても、それなりに上背がある。本を拾うためにかがんだ状態で見上げたとしたら――、ソウは視線をかるく流して、息をついた。

 店員はやや青ざめたようすで貨幣を受けとると、本とおつりを急いで手渡し、逃げるように店の奥へひっこんでしまった。ややあって、灰色のひげをたくわえた老爺ろうやが、ヤニのにおいとともに奥から出てきたものの、こちらを胡乱げに一瞥するなり、興味を失ったようにため息をついて、またカウンターの奥へもどっていった。

「なにを買ったの?」

 手もとをのぞきこむと、黒影は一冊をソウの胸にぶつけた。

「痛いって。なに? ああ、もしかして見せてくれるの?」

 ち、と小さな舌打ち。こちらをひとつ睨んで「これはキサマが持っておけ」とひと言。視線を外して、店の外へ。

「くれるの? 俺に?」

 同じように外へ出て、壁際でしずかに腕を組む黒影のとなりにならんだ。

 街は訪れる夜をまえに、すこし騒がしくなってくるころあいで、人の往来おうらいも増え、足もとの影が長く伸びる時刻にさしかかろうとしていた。橙色と影の色の二色に塗り分けられた街は、空の色よりもずっと赤らんで見える。

 先ほどおしつけられた書籍は、無線とじの並製本ソフトカバーで、ソウの手のひらより、ひとまわり小さい。厚みも小指ていどと持ちはこびやすい大きさだ。さえわたる青空の下で遼遠と広がる草原を装画に、『旅人手記 分冊版』と表記されている。『旅人手記』は、暗黒時代の唄が記されているという、有名な書物だ。魔幽大陸にも、こういった本はあるらしい。

「これ、有名だよね。読んだことはないけど……でも、どうして?」

「なじみのある文字は心のよりどころになる」

「へ?」

 おもわず、見つめてしまった。信じられない言葉が、黒影のくちから出てきたような気がしたからだ。聞きまちがい、だろうか。

 ツンと尖った横顔は、夕暮れにほの赤く染められてもなお白く、下まぶたのクマはいっそう暗く見える。

 黒影はすげなく言った。

「いちじるしい環境の変化は、本人が思うより負担が大きい。旅になれて、暇ができたときに読め。一人で悶々もんもんと考える時間は、抜け道のない迷路になりうる」

「もしかして、心配してくれてるの?」

 くちをついて出た疑問だったが、その答えは返答を聞くよりも先に、黒影が怪訝けげんな表情を浮かべたものだから、そういった意図はまるでなかったのだろう、ということをソウは理解した。

 黒影はさも面倒くさそうに視線を外した。

「殺しあいをするよりまえに、うっかり身を投げられてはこまる」

「それは怖い話だなぁ」

 苦い笑みを浮かべ、ソウは横髪を耳にかけなおした。

「ありがとう」


 しばらくの間、壁際に二人きり。

 ならんだまま、ナギがもどってくるのを待っていた。

ひとりぶん、ひらいたこの距離をつなぐ言葉はない。だが、それでいいと思えるのは、黒影が特に会話を必要としていないからだろう。

 ソウは人々の往来おうらいをただ眺めた。銭湯へ向かう鉱山師たちの笑い声。仲むつまじげに歩く若い男女の、色をひそめた話し声。ひとり歩く者は黙々と足をはやめ、二人以上で歩く者は、それとなくおたがいの歩調につられている。

 もし、となりにいるのが、黒影でなく、他の誰かだったなら――それこそ、後輩のモモなら、以前彼女が楽しそうに話していた料理のコツをためしたことを話題にしただろうし、憂国うれいぐにで買い物につきあったときに、彼女が興味をもっていたことについてあらためて訊ねてみてもいい。

 もし、となりにいるのがトビだったなら、最初はてきとうな軽口をおたがいにかわして、それからトビはいつも通り、彼は恋人や結婚などの話題を投げかけてきただろう。そうして、最終的に仕事の愚痴になって、ほどほどのところで、また軽口にもどって――。

 ソウは街の雑踏を聞き流しながら、目の前の情景をぼんやりと眺めていた。

 いつもなら、あれこれと話題を探し、共通点をさぐりながら話をつなげようと努めていたはずだ。服装や視線の動き、重心のかけ方。しぐさを観察し、声の高低を聴き、顔色を見て――。

 なにも必要とされないこの距離は、どこか気楽だった。


「ねぇ」

 おもむろに、『旅人手記』の背をなぞる。すこし日に焼けた小口を見つめたまま、色せたひっかき傷に触れる。

「黒影が自分のために買った本は、魔幽まゆう大陸のものだったよね」

「気色悪いぞ、キサマ」

「見えてたんだから、しかたないでしょ」

 ソウは息をついた。

 いっしょに行動する人間がどんなものに興味があるのか。なにをするのかは、自然と目に入るものだ。それはおそらく、多くの人間が意識的にしろ無意識にしろおこなっている、または少なからず感じとっていることで、むしろ黒影のように他人といながらも、それらをいっさい気に留めずにいられることのほうが、ソウにとってはめずらしいことに思えた。

「で、君はいいの? 心のよりどころ、ってやつ」

「ワタシは殺しあいができればそれでいい」

 予想していた回答ではあった。しかし、想像よりもずっと静かな声に、思わず目をみはる。

 ツンと尖った横顔は気難しそうなままでいた。黒のまなざしが追ったのは、風に落ちる木の葉だ。見渡すところに街路樹はない。さきほどの広場から、風にさらわれてきたのだろう。夕暮れに伸びた影を追いこして、子どもらが道向かいに手を振りあっている。

次に薄い唇から紡がれたのは、空虚さを緩慢かんまんとたずさえた独り言のように思えた。

「……元より、ワタシに帰りたい場所はない」

 それっきり、黒影は黙ってしまった。

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