名前、、?
土煙が舞い落ち、視界が良好に開けたなかに
「逃げられたか……」
上着の丈を絞ると、水がこぼれ落ちた。
魔法に呑まれる寸前、男はありったけの魔力で水の盾を作り出し威力を弱めた。
男にはどうしようもない状況であると怜は考えていたが、どうやら火属性以上に水属性の扱いに長けていたらしい。
計算違いだったなと呟き、男が去ったであろう方向に目を向ける。
血の跡が続いている。どうやら深手を負っているようだ。どのみちしばらくは傷を癒す時間が必要になるだろう。男がいかに優れた魔術師であっても、すぐに万全の状態に戻すのは難しいはずだ。
(深追いはやめるか……)
ここがどこであるかさえ把握していない現状、男を追いかけ死地へと足を踏み入れる可能性もある。危険を含んだ行為を今は慎むべきと、追撃をやめる。
「ちょっと派手にやっちまったな」
森の一画。先程まで開けた野原あった場所は、付近の木々は倒れ火種が
男に仲間がいる可能性もある中、あれほど目立つ戦闘をしていれば場所は容易に把握できただろう。万が一複数人の刺客を相手取ることとなれば、数的不利も相まり苦戦は必須となる。
「早いとこ俺も退かねぇと」
姿をくらますには都合のいい森の中へと歩を進める。
後ろを振り返り、先程までの戦地を確認するが、敵が駆けつけた気配はない。
このまま進めば逃げ切ることは容易だろう。張り詰めていた緊張の糸が、緩んだのを感じて——
「……んぇっ?……えっ?え?」
「は?……え?…はぁぁ?え、なに俺なんかばちばちのガチファイトしてなかった?あれ俺の力?ふつうに魔法とか使ってたんだけど」
人格が入れ替わったかのように、混乱する。
「いやてかやばいでしょ。俺躊躇なく殺そうとしてたよな?半殺しにして逃したぞ?これ殺されても収まらない恨みかってね?」
冷酷に男の命を刈り取りに行った怜の姿はなく、自身のしでかした事態にひどく動揺した。
「悠長に歩いてる場合じゃねぇよこれ、早くこっから……」
「あ、あの……」
「はいっっ!!」
突然かけられた声に心臓が跳ね上がり、裏返った大きな声が出る。
振り返ると先程逃げ出した少女が、怜の声に驚いたのかびくりと肩を震わせ、不安そうに見つめていた。
「…あ、あぁ…さっきの!」
おそらく敵ではないであろう少女に安堵する。戦闘能力はないだろうが、一人逃げ出すよりは心強い。
「は、はい!……えっと、あの……先程は危ないところを助けていただき、ありがとうございました!」
九十度に腰を折り礼を述べる少女に、また一つ緊張が緩む。
「い、いやいいって。なんか俺も勝手に体が動いたっていうか、訳も分からないまま行動してたから」
「お強いんですね」
返ってきた言葉の意味を図りかねる。戦いのことだと、瞬時には分からなかった。
「あー、あれは……なんていうか……ていうか観てたの?うまく逃げたと思ってた」
「離れた場所から。気になってしまい……わたし、目はすごくいいんです」
自身の目を指差しながら少女は微笑む。怜は何故だか、少女の笑顔に心地よさを感じ、自然と微笑み返していた。
だがすぐに自分の状況を思い出し、焦燥感が湧き上がる。
「って、いや今はそんなことより早く逃げないと!また敵が襲ってくるかも!」
「襲ってこられても、魔術師様なら容易に対処できるのでは?」
少女が不思議そうに首を傾げる。
魔術師様が怜の事を指しているだろうことは分かったが、次戦闘になった時に戦えるか分からなかった。
「いやいや、無理無理!何人かくるかも。リンチに遭うのはまじ勘弁!ほら、とっとと逃げないと!とりあえず森を徘徊してれば外に出られるだろうから!」
少女を横切り、急ぎ逃げようとする怜に、声がかけられる。
「そちらは森の深部へと続きます。外へ出るには遠回りですよ?」
怜は振り返り、少女を見る。
「えっ?……もしかして森に詳しい?」
「はい。……近くの村に住んでいますので。今回も薬草採集の途中、森の深くまで入ってしまい襲われてしまいました。……わたしでよければ森の外までご案内します」
「頼むっ!ここが森ってことしか分かんねぇんだ!正直敵に殺されなくても迷って死ぬ!」
必死に縋り付く怜に、気圧されるように少女の顔が引き攣るが、「もちろんです」とすぐに表情を整え、怜が進もうとしていた方角と逆方向に歩を進め振り返る。
「こちらからが森の外へと繋がる近道です。少し歩きますよ?」
「おーう。たのむー」
迷いなく歩き始めた少女の背中を追いかけるように、怜も駆け出した。
◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇
「ぷはぁっ……いやぁ、助かった助かった。ありがとう!」
緊張の糸が切れ、次に怜を襲ったのは空腹と喉の渇きだった。少女から軽食にと携えていたパンと水をもらい、活力が蘇ってきたのを感じる。
「いえ、命を助けていただきましたから」
意図して起こしたわけではない行動に純粋な感謝を伝えられ、良心がチクリと痛むのを感じる。
「と、ところでお嬢さんに聞きたいんだけどな。この森って名前とかあるのかな?どこの国のどこら辺にいるのかもさっぱりで……」
「ここはエルセナ皇国と周辺諸国国境沿いに構えるミタマヤ大森林です」
知らない国名に知らない森。なんとなく感じていた疑惑がほぼ確信に変わる。
ここは、怜の元いた世界ではない。
しかし、多少の動揺は感じるものの、それ以上の感情は湧かない。もっと取り乱していいはずだと思うが、疑惑がほぼ確信に変わったことに安堵さえ感じていた。
「大森林……ここも森の一画ってとこなのか?」
「一画も一画でございます……あのまま魔術師様の向かおうとされた方角に進みますと、数週間は森の中を彷徨われたでしょう」
独り言のつもりで呟いた言葉に返ってきた衝撃の回答に、絶句する。
「うそだろ……ありがとう少女、神に感謝だ……」
「ふふっ……私のことはリアとお呼びください。魔術師様」
少女はクスリと笑い、名を告げてきた。
「おーう。ありがとうなリアちゃん!……それで俺の名前は……名前、は……?」
『
泉に映った見知らぬ顔におよそ現実のものと思えない魔法の数々を使いこなす自分。未知の世界に一人投げ込まれ、不可思議な状況に本来なら我を忘れて取り乱してもおかしくなかった。
しかし、命の奪い合いにおいても冷静さを保ち、今は少女に笑顔さえ見せている。
意識では高橋怜として思考している。だが、自分はもう『高橋怜』ではないのかもしれない。
そんな疑惑が、自身の名前を名乗ることを躊躇わせた。
だが、それだけではない。感じるのは違和感。
高橋怜は確かに自分の名だ。生まれてこの方この名を名乗ってきた。ただ何故か、忘れているような気がする。大切なものを——自分の“本当の名前″を。
「わかりました」
思考の渦に飲まれそうになっていた怜の意識を、リアの声が現実に引き戻す。
「へっ?……なにが?」
「魔術師様の状態が、でございます。……
「あ、はい……わるいな……」
セーフだ、と怜は安堵する。どうやらこの世界で魔術師とやらは自分の名前も名乗れない変人どもの集まりらしい。
自分以外では一人しか知らない、この世界の変人たちに心の中で感謝を述べ、隣を歩くリアを盗み見る。
(この子もなかなか豪胆じゃね?)
初めて見た時には命の危機に腰を抜かしていた。しかし離れた場所からではあるが戦闘を見守り、自分の命を奪おうとした魔術師と同じ類の人間と、今は談笑しつつ隣を歩いている。少なからず、信頼のようなものを寄せている、そんな気さえした。
(村娘ってことは田舎の高校生みたいなものだよな?……この年齢の子ってこんなに肝が据わってるものか?……もしかしてこの世界ってめちゃくちゃ過酷?)
この年頃の少女の精神を鍛え上げたであろう世界の過酷さに想像を膨らませ、震える。
「陽が落ちてきましたね」
リアの声に辺りを見る。木々が鬱蒼と生い茂り、ただでさえ薄暗かった森には、夜の気配が近づいていた。
「……やばそう…完全に暗くなる前に出られる?無理そう?」
「大丈夫です。そろそろですよ」
怜の情けない声に、微笑みながらリアは返すと、小走りに駆け出した。
慌てて追いかける怜に、リアは少し進んだところでこちらに向き直る。
「ほら。出られたでしょ?」
怜がリアに追いつき足を止めると同時に、視界が開けた。
「おぉ!……出られた!」
目の前には草原が広がる。まばらに木々や岩が確認できるが、空を覆うように広がっていた樹木の障害が無くなった開放感は、怜の心を軽くした。
「陽が沈む前に抜けれてよかった。ありがとうなリアちゃん」
「いえそんな……。蛇行しつつ森を抜けて来ましたので、街道からはちょっと離れたところに出ちゃいましたが」
「森から出られただけでもほんとよかったよ。……あのままじゃ野垂れ死んでたとこだ。まじで」
「魔術師様ほどのお力があっても遭難してしまうものなのですね」
クスクスと笑うリアは、
(そりゃこの世界のまじもんの魔術師とやらは森で遭難しても魔法でちょちょいと脱出できたりするかもしれねぇけど……魔法ってすげぇな。完全想像だけで知らないけど)
この世界のまだ見ぬ魔術師を恨めしく、羨ましく怜は思う。
(こっちは森抜けるだけでも一苦労だったってのによ……てかリアちゃんいなきゃ確実に俺死んでたぞ。……せめて街道まで連れて行ってくれないかな……そしたらなんとか人里にはたどり着けそうだよな)
「もしよろしければ街道までお付き合いいただいてもよろしいでしょうか?……陽は落ちてしまうと思いますが、街道沿いなら街灯や宿舎も点在していますし、魔術師様の旅も再開し易いと思います」
「うん!頼む!任せたぞ!」
こちらの胸の内をよんだかのようなリアの提案に、怜は全力で乗っかる。いつのまにか旅の魔術師だと思われていたようだが、些事な事だ。
微笑みを浮かべ、「それではお願いします」と歩き始めたリアの背中を再び追いかける。
森の中では気づかなかったが、背筋を伸ばし姿勢良く歩くリアに、怜はどこか、気品を感じた。
歩きながら後ろを振り返る。先程まで彷徨っていた森には、
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