転生


(う、うぅ……)


 こめかみに感じる強い頭痛にうなされ、さとしは目を開けようとする。しかし、まぶたが重く上手く目が開けられない。

 やっとのことで目を開いた時、目の前に、光の球がふわふわと浮いていていた。


(……んえっ?……え?……えぇ?)


 突然のことに混乱するさとしの目の前で、浮遊していた光の球体は、しばらくこちらを観察するように静止し続け、パンッと弾けた。


(……ッ!!)

 それと同時に、さとしの体を強い光が包み込んだ。最初は慌てたが、どこか安堵さえ覚える暖かい光が怜を包み込み、やがて体に馴染むようにして溶けて消えた。


「……あぇっ?」

 光が消えると同時に声が出た。あまりの出来事に情けない声を上げ、ただひたすらに呆然とする。


「な、なんだったんだ今の…………ッ!!」

 しばらく呆然としていた怜だったが、意識が戻ると同時にもう一度絶句する。


 目の前には泉があった。直径二十メートルほどの円を描く泉の水は澄んでおり、小さな野鳥が水をついばんでは飛び立っていた。泉の周りには森のように木々が生い茂り、見惚れるほど美しく澄んだ泉を覆い隠すようにして枝葉を大きく広げている。


 パリンッ。


 再び呆然とする怜の意識を戻すように、何かが割れる音がした。

 手元に目を写すと、いつの間にか左手に首飾りのようなものを握っていた。五つの水晶のようなものを装飾していたであろう首飾り。その水晶の一つは砕け散っていた。おそらくこの水晶が割れたのであろう。


「ど、どこだよここ……俺昨日どうした……?」

 立て続けの出来事に混乱しつつも、状況を判断しようと、冷静な怜が理性を取り戻させる。

 何かにもたれ掛かるようにして座っていた怜は、腰元に手をつき立ち上がる。後ろを振り返り、もたれ掛かっていたものが一本のしっかりとした樹木だと確認すると、辺りを見回す。


「森みてぇ……。というかこれ完全に森だよな」

 泉の周りと同じように、辺りには多くの木々が生い茂っていた。


(えーっと、昨日はだなぁ……あいつらと飲みに行った後駅で別れて一人で家まで帰ったはずだ。気持ち悪い夫婦の事思い出して眠りについたよな?)


 昨日の記憶を必死に思い出そうとする怜だったが、昨夜家に帰り着いてからは着替えもそこそこに就寝したはずだ。


「もしかして………夢遊病か?」

 思わず声に出してしまったが、すぐさまそんなはずはないと否定する。これまでの人生においてこのような事は一度もなかった。

 

 しばらく思案にふけっていた怜であったが、ふいに嫌な臭いが鼻をついてきた。そこでふと、自分の体を見下ろす。


「えぇ……。これはひでぇや」

 怜の体を包んでいたのは質素な服。動きやすい軽装ではあるが、上半身から下半身にかけて、何かが飛び散ったように黒いシミを作っていた。


 怜は手に握っていた首飾りをズボンのポケットに突っ込み、無言で上半身を包んでいた服を脱ぎ去ると、泉の方へと歩み寄る。


「まぁせめて上ぐらいは洗っておくか」

 これほどまでに澄んだ泉で、汚れた服を洗浄するのに躊躇いを覚え逡巡するも、仕方ないと判断する。


「まぁ水洗いぐらいじゃどうにもならなさっ…………」

 瞬間。固まる。

 泉の水面には、怜の顔が写っていた。

 黒い髪に蒼玉を思わせる青い瞳。しっかりとした鼻筋。

 パーツの一つ一つは悪くないが、気だるげな目つきが無愛想な印象を与える。しっかりとした造りの外国人のような顔つきに——



 怜は見覚えがなかった。



 一度水面から顔を外し、もう一度覗き込んでみる。しかし、やはりそこには、怜のものではない顔が写っていた。

 数回ぱちぱちと瞬きをし、怜の口があんぐりと開かれる——水面に写る口も、開かれた。


(お、お、おおおぉぉぉぉぉぉい!!どうなってるどうなってる、なんだこれ俺の顔?俺の顔なのか?は?嘘だろおぉぉぉ)


 声にならない悲鳴をあげ、へっ?へっ?へっ?と、情けない声を出しながら自分の顔をべたべたと触り混乱する。


(ちょ、ちょっと待てよ、一回落ち着こう。落ち着いてよーく考えてみよう。俺は高橋怜。二十八歳独身。しがないサラリーマンだ。特に勉強ができるわけでもなく、高校を卒業した後は馬車馬のように働く毎日だったよな。かしこいかしこーい兄貴と姉貴の出涸らしだったからな。うん、俺の頭の悪さは兄貴と姉貴が欲張ったせいだな。……よし、以上だ)


 頭の中で一通り自分の情報を整理した怜は、深呼吸をして気持ちを落ち着ける。

 なぜか汗ばんでいた拳を握りしめ、意を決してもう一度泉を覗き込み——



「じゃあ誰だよこれーーーーーー!!!!」



 絶叫する。



「飲み過ぎた幻覚じゃねぇよな?誰だよこれ外人さん?寝てる間に整形された?いやそんなのいくら俺でも起きるだろ。酒に毒でも入ってた?誰が?なんで?てか俺を整形してなんの意味あるの?」


 混乱する考えを口に出し、否定を繰り返しながら落ち着こうと努力する。


(いやなんでだよ……なんで急にこんな訳分からない事に巻き込まれてるの俺?おかしくね?)

 頭の中で神への不満を漏らしている中、怜はふと、新たな可能性へと思い至った。


「俺……まさか……死んでねぇよな?」

 たらりっと、汗が頬を伝い、ハハっと乾いた笑いをこぼす。


「い、いやぁ。ま、まさかな。まさかだよなーそれは!ここが天国な訳ねぇし!」


 目の前には神聖さを放つ美しく澄んだ泉。辺りは緑に囲まれ、聞こえてくるのは野鳥のさえずりと風のざわめき。完成されたような自然の美しさを醸し出す周りの風景は、人の手が加えられた様子がないにも関わらず、人工物めいた美しさを放っていた。

 都市部にて育った怜には自然の美しさはあまり分からない。ただ辺りを覆う光景は、怜のイメージする天国に近いものがあった。


「いーやいやいや!!そんな訳がねぇよそんな訳が!!天国にこんなみすぼらしい格好で招かれるわけねぇじゃん。天国ってのはフラフープみたいな輪っか頭につけて、腰蓑みたいな布巻いて花畑飛び周ってんだよ。だいたい整形されてる意味全然わかんねぇし!」


 捲し立てるようにして自分の死を否定する。汗はもう、滝のように流れ落ちていた。


「と、とにかく人だ!人を探そう!こんなとこいるから変な事考えんだ。人がいたら天国じゃねぇ。天国来れるような清廉な人間なんて、今のご時世そうそういたもんじゃねぇからな」


 バシャバシャと音を立てて、急くように衣服を洗う。黒いシミは完全にはおちなかったが、気にしている余裕は怜にはなかった。

 濡れた衣服を乾かしもせず再び纏った怜は、泉の前から駆け出していった。


◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇


「いでっっ!!——なんだってんだよ」

 後頭部に衝撃を覚え、さとしは頭を押さえながら見上げる。立派な枝葉が視界を遮るだけだった。

 続いて視線を移した足元には、硬そうな謎の木の実が転がっていた。どうやらこいつが怜の頭を強打したようだ。


「これが……自然の脅威!」

 思いがけない自然の罠に、怜の目尻に涙が浮かぶ。


「人ってか全然森からも抜けねぇじゃねぇか。まじでどこだよここ」

 人の手の加わっていないであろう森の中、草木を掻き分けつつもそれなりの距離を歩いたと思っていた怜だったが、一向に森から抜ける気配はなかった。


「人が恋しい……はぁ……。俺まじでどうやってここまで来たんだよ」

 肩を落としながらため息混じりに呟く。引き返して別のルートを辿ろうかとも考えていた時——


「きゃあぁぁぁぁぁぁ」

 女性の悲鳴が聞こえた。


(えっ?)

 突然の事に足を止め、潜伏するように身を屈める。


(何今の悲鳴?ようやく人の気配感じたのになんかやばそうだろ)

 人の声が聞こえた安堵感と、危機的な状況にあるであろう女性の悲鳴に、声が聞こえた方向に向かうか否かを葛藤する。


(すっげぇ気になるけどなにが起こってんの?……いや、虫に驚いたとかそういう可能性もあるよな。一度見に行くか?)

 心の中では逡巡していた怜であったが、判断を下すより先に、声の方へ足を進めていた。


 声の聞こえた場所はそう遠くはない。音を立てないよう少し歩くと、ひらけた場所が見えてきた。

 怜は木の陰に隠れ覗き見る。そこには、尻餅をつき足元にカゴを転ばせた女性と、それと対するように立ちすくむ人影があった。


 見たところ女性はまだ若く十代後半の少女といったとこか。しかしそれに対する人影は性別が分からない。

 足元まで伸びた黒いローブを羽織り、顔は目深に被ったフードで隠れている。怜は胸元を一目見て男性かと推測するが、ローブの上からでは分かりにくい。だがその奇妙ないでたちを鮮明に恐怖に変えているのは、右手に握られた剣であった。


(虫の線は消えた……でもなにこれ?撮影?)


 今日、日本においてこのような場面に出くわす事はまずないだろう。現実と捉えるならば、今目の前で人が殺されようとしている。現実感のなさすぎる光景を怜は、むしろ冷静に眺めていた。


 少女とローブの者の距離は最初よりも縮まっているように見えた。

 慌てふためく少女の姿は、演技というなら迫真のものだろう。


 だが、さとしのなかで直感が告げている。

 これは——現実であると。


「やめて!こないでっ!」

 少女の嘆願の声が聞こえる。

 二人の距離は手の届く範囲にまで縮まっていた。

「いやっ!」

 少女が声を上げ顔を守るように腕をあげる。

 ローブの者は右手に持っていた剣を大きく振りかぶり、そしてそのまま——振り下ろされた。


 ヒュッと鋭く、空を斬る音がする。

 振り下ろされた剣に刻まれ、血の海に沈むはずだった少女の姿はそこにはなかった。

 ローブの者が目測を誤ったわけではない。ただし事実、剣は空振った。


 原因は明白であった。剣が少女の体を切り刻む寸前、体当たりをするように飛び出してきたなにかが、少女を抱え横切っていった。


 ローブの者は視線を動かす。

 先程まで恐怖に震えていた少女を抱え込むように倒れ込む、黒髪の青年。


 目の前まで迫っていた死の気配が遠のき、未だ混乱の中にいるであろう少女の横で、黒髪の青年はむくりと起きあがる。


「あぇ?……え?えぇ?」


 黒髪の青年——さとしは、少女以上に混乱の中にいた。

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