高橋怜


 光が満ちた空間の中にいた。


 見渡す限り何もない。


 白と形容すべきかそれとも黄色か、判別のつかない地平線の彼方まで、光が満ちて溢れていた。


(方向感覚がまったく掴めん)


 奇妙な光景に、不満をたれる。

 ここに来るのは初めてでない、と冷静な思考が判断していた。


 しばしの時間の後、空間が歪む。


 歪んだ空間からは、人影が現れた。


(あぁ。——またこれか)

 思い出す。もはや馴染みとなったこの光景を。


 現れたのは老人。


 次に来る言葉は、分かっていた。


——『ラウナの情景』を完遂せよ——


◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇


 片付いてはいないワンルームの一室。高橋さとしは目を覚ます。

 時間を確認すると二十三時を過ぎた頃。今日は珍しく定時に上がれた事をいいことに、家に帰り着くと同時に眠ってしまっていたらしい。


「ちょっと意味がわかんねぇ。ノイローゼなるわ」

 幸せな惰眠を妨害されたことに、一人だけの部屋に向けて悪態をつく。


 ここ一年よく見る夢だ。見ず知らずの老人が、さとしに向かって語りかけてくる。


「情景はまぁぎり分かる。ラウナってなんだよ」


 聞き馴染みのない単語。人なのか地名なのかも分からない。


 奇妙な夢も、一年間も見続けていれば慣れてくる。

 しかし今回、いやここ数日は夢とともに眠りから覚めていた。


「今回はまぁ……いやにはっきりと」


 最初は声で老人だということしか分からなかった。しかし、夢の中でしか出会ったことのないはずの老人の姿は、日を、回数を追うごとに鮮明になっていた。


「どこかで、会ったこと、あるような……」


 彼の記憶に、夢以外であの老人と顔を合わせた記憶はない。

 しかし、ずっとずっと昔、確かにどこかで——


 記憶の海に潜ろうとしていた意識を、スマホの着信音が呼び戻す。


(仕事なら出ない仕事なら出ない仕事なら出ない)


 反射のように心の中で反復しながら、恐る恐る画面を確認する。


『加賀一男』


「お前かよ」

 安堵から一人言を漏らし、スマホを操作する。


『おっすレイ!おつかれー』

 レイ——さとしのあだ名だ。このあだ名で呼ぶ人間は、二人しかいない。


「うぃー」

 気心の知れた幼馴染に、適当な返事を返す。


『今仕事か?何時に終わりそうだ?」

「残業前提で話すなよ。もう終わった。家にいる」

『よし、飲み行こうぜ』


 夜も遅いこの時間に誘えるのは、幼馴染ならではの遠慮のなさか。

 機嫌のよさそうな一男は、もうすでに出来上がっているようだ。


「二人でか?」

『いや、真実と三人。幼馴染同士仲良くいこうぜ』


 明日は休みだ。大人にとって今からが夜も本番かもしれない。

 だが、名前の出たもうひとりの幼馴染に、少し考える。

 真実は一男の嫁でもある。なにが良かったのかお互いに惹かれ合い、高校を卒業すると共に学生のうちに籍をいれた。結婚して十年が経った今でもお互い非常に仲がいい。気持ちが悪いと、ひっそりと思っていた。


「今から行く。どこに行けばいい?」

『よーし、じゃあまぁ駅で待ち合わせな!早く来いよ』

 機嫌の良さそうだった一男の声はさらに上機嫌になり電話が切られる。


 頻繁に連絡を取り合う幼馴染と飲みに行く機会は少ないわけではない。

 仕事が早く終わり、珍しくゆっくりできる今日、いつもなら断って別の機会を用意したかもしれない。


 しかし、なぜだか——今日はあの二人に会っておかなければならない、そんな気がした。


 洗面台の前で、せめてもと髪型を整える。


(嫌な夢みたからな、飲んで忘れてやる)


「よし、飲み会のお時間だ」


 誰にともなく声に出し、高橋さとしは玄関を出た。


◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇


「おげえぇぇぇぇぇぇぇ」


 都会の喧騒を避けた路地裏だった。さとしは嘔吐する。


「気持ち悪いよぉぉ」

 三十近い男とは思えない、情けない声を出しながら、ペットボトルの水を口に含む。


「飲み過ぎだろ……記録にでも挑戦してるのか思ってた」

 背後から一男に声をかけられる。

 幼馴染三人のこぢんまりとした飲み会は、気心知れたもの同士、気を使うこともなく話が弾み、酒が進んだ。


「どうした?嫌なことでもあったか?前の彼女引きずってんのか?」

「うわあぁぁぁぁんおげえぇぇぇぇ」

 傷を抉られ、泣きながら嘔吐する。

 うわぁ……と、一男の引いたような声が聞こえた。


「もう、飲み過ぎだよレイくん。あんまりお酒強くないんだから」

 豪快に吐き続けるさとしの前に、しゃがみ込んだ真実が新しく水の入ったペットボトルを差し出す。

 さとしをレイと呼ぶのは、幼馴染のこの二人だけだ。


「おばさんも心配しちゃうよ?こんなに飲んじゃって。早くしっかりとできた彼女みつけないとね。わたしみたいに」

「俺はいいんだよ。兄貴と姉貴が頑張ってるから。孫も見れて幸せだろ。今度姉貴のとこにも子供が産まれる。俺は自由に生きるぞ」

「ダメな子ほどかわいいものでしょ。かわいいかわいいレイくんの子どもなら余計かわいいよきっと」

「ん?……うん?おいどういう意味だこのくそ女」


 さとしの暴言を気にした様子もなく、くすくす笑いながら頭を撫でてくる。

 女としての魅力はなにも感じない。萎えた。


「そのろくでなしにかわいさなんてあるか?」

 不機嫌そうな言葉を投げる一男は不貞腐れているように見えた。

「ん?なぁに?やきもち妬いてるの?」

 対して真実は、嬉しそうに笑う。

(あっ……きもい)

 アルコールにかき乱された思考でも、口に出さない理性は残っていた。


「べつにそんなんじゃねぇよ。わざわざ真実が介抱してやらなくてもそんなやつ——」

「ほーらよしよし、一男もかわいいよ。一番大好きなのは一男だけだからねー」

 立ち上がった真実に頭を撫でられ、一男はアルコールで紅潮した頬をさらに赤くする。

(うわ…やっば…)

 甘い言葉を囁きあう二人に、熱いものが胸から込み上げる。


「おげえぇぇぇぇぇぇぇぇ」


「おいお前なんで吐いた?言ってみろおい」

 胃袋に溜まっているもの全部を吐き出した怜を立たせ、胸ぐらを掴んで揺さぶる。

「気持ち悪いよぉぉぉ」

「酒か?酒だよな?よし、すっきりするよう全部吐き出させてやる」

 呻き続ける怜を更に強く揺する一男を見て、真実は楽しそうに笑っていた。


◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇


「あー痛ってぇ。頭が弾けるうぅ」

 朝日が昇りはじめた頃、自宅に戻ったさとしは、着替えもそこそこにベットに倒れ込む。

「散々だったぜ。覚えとけよ。今度絶対泣かしてやる」

 一男を脳内で数回殴り、気を落ち着ける。


「あいつら今日も人前でいちゃつきやがって」

 二人とは駅前で別れた。

 いい歳して手を繋ぎながら歩く二人を、いつもは恥ずかしく思っていた。ただ今日は——


(幸せそう、だったな)

 長い付き合いにも関わらず、お互いを好き合う二人を、微笑ましく、嬉しく思えた。


 別れ際、手を繋いで歩く二人を思い出す。

 もうそろそろ子どもも二人の元にやって来るかもしれない。その時は祝儀も弾ませないとな、と不本意ながら思う。


「そういえば、真実のやつ今日は全然飲んでなかったな……まぁいいか」

 さとしと同じであまり酒に強くない真実であるが、今日はいつもより控えめだった。まったく飲んでいなかったが、楽しそうであったから調子が悪かった訳ではなさそうだ。


「悔いはない」

 ふと口をついて出た言葉に、さとし自身も驚く。

 意識したわけではない。ただ唐突に、口から滑り落ちた。

(酔い過ぎて死にそうではあるけどな)

 酔いのせいか、意味の分からない発言をする自分自身に苦笑いを浮かべ、ふと夢の事を考える。


 今回やけにはっきりと姿の浮かんだ老人。

 低い背に曲がった腰。無造作に伸びた白髪に負けず劣らず伸びた髭も白かった。言う事を聞かないであろう体を支えるように右手に握った杖は、身長よりも高かった。


(魔法使いかよ)


 我ながらうまく例えたと思い満足感に浸る。


(魔法が使えたら幸せだろうな)


 何がとは思わないが、さとしの勝手な想像で断定する。

 どことなく懐かしさを感じる老人の正体は全く分からない。『ヴィゼラの情景』の意味さえも。

 ただそれは——なにかとても大切なものであったような気がする。

 どうしても実現すべきもの。感じるのは——使命感。


(考えても無駄だよな。兄貴や姉貴みたいに、俺は優秀じゃねぇんだから)

 答えの出そうにない考えを早々に諦め、机の上に飾ってある写真を見る。五人の男女が笑っていた。さとしの父親のために撮った家族写真だ。


 二年前に病気で他界した父親。母親に兄と姉、そして怜。

 病気が判明し、先が長くないと分かった父親のためにと撮った写真は、今では大切な宝物となっている。


 最近、まじまじと見る機会は少ない。

 父親が他界し、しばらくは元気のなかった母親もかわいい孫のおかげで元気を取り戻していた。

 小学生の頃から、勉強もできず模範的な生徒でもなかったさとしとは違い、上二人は優秀だった。

 名門大学を卒業し、絵に描いたようなエリート街道を進む兄と姉は結婚もし、兄にはすでに子どもがいて姉も妊娠中だ。

 実家に姉が帰省してるのをいいことに、はやくお前も結婚しろと母親から電話があったのは一昨日のこと。

 話を逸らしたくて、適当に母親への感謝を口にしたが、満更でもなさそうにしていたので親孝行ポイント一だ。


「かっこいい父親だったよ」

 今では思う。

 仕事人間の父にほとんど遊んでもらった記憶などないが、家族を養うために必死だったのだろう。

 兄の子ども、初孫をこれでもかと愛でる父親に、厳格なイメージが崩れ去り目を丸くしたのはよく覚えている。

(父親孝行なんてできなかったな)

 父が亡くなってからずっと抱いていた罪悪感。

 自分が幸せになることが親への手向けと言われたが、そう簡単に割り切れる感情でもない。


 どうしようもない感傷にしばらく浸っていると、眠気がやってきた。


(今日は休みか、ゆっくり眠れるな)

 休日ということが怜の心を軽くし、もう一度写真を見る。

 いつもはしない。だが今日は就寝前に声をかけて眠りにつこう。そんな気分になった。

 重い瞼に逆らいながら、声を出す。


「行ってきます」


 漏れ出た言葉は、就寝の挨拶とは違っていた。


(またかよ。そうとう酒にやられてやがる)


 二度目の間違いに、呆れたように口角を上げる。


(今は、まぁ幸せ、かな)

 なんとなくともそう思う。恋人はいない。仕事は忙しい。友人とはうまくやってる。未来に悲観はない。

 今はそれで十分幸せに思えた。


 もう重い瞼に逆らえそうにない。濃密な眠りの気配に身を任せる寸前——


(父親孝行ポイント一だな)




 高橋さとしとして、それが最期に思ったことだった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る