ラウナの情景

橋本 かでん

一章 放浪編

プロローグ




 眼下には惨状が広がっている。


 皇国南部から連合国に跨って広がる〇〇の大草原。争いの絶えない大陸において、安全地帯と呼ばれる平和な大地は、悲惨な姿を晒していた。


 その上空、星一つ見えない夜空に重力を感じていないかのように浮遊する人影が一つ。


 黒いローブを身に纏い、目深に被ったフードからその顔は見えない。しかし、ローブの上からでも分かる起伏のある身体つきは女性のものだ。


「……ひどい」


 発した声はやはり女性のもの。未だ寒さの厳しい皇国の寒冷な気候によるものからか、その声は震えていた。


 眼下に広がる大地は、女の記憶していた姿ではない。

 陽の光を存分に浴びて青々と茂った野草で覆われていた地表は大きくひび割れ、自然の力で作り出されたように点在していた木々や岩は無惨に砕かれていた。


 それが、自然災害によるものではないと、付近に燻る火種と七体の大型の魔物の死体が教えてくれていた。


「一体誰が……ッ!」


 答えが返ってこないことを承知で疑問を口にした女の視界に、大地を歩く人影が映る。


 見たところ一人のようだ。ふらふらとした足取りで、死の気配の漂う地表を歩いている。


 女は溢れ出しそうになる感情を必死に抑えた。戦闘において、冷静さを失うのは御法度だ。だいいち、眼下に見える人物が、女の追っている標的であると決まった訳ではない。


 努めて冷静さを取り戻した女は、ローブの下から取り出した面を被る。狐を模した面は、女の所属する部隊の隠密用の装備品だ。


 闇夜に紛れて付近の仲間に合図を送る。常人なら見逃してしまうような合図も、強者のみで構成された女の仲間には十分に伝わっただろう。


 冷たい夜風を身体に受けつつも、女は降下し始めた。標的はまだこちらに気づいていない。目視で確認したところ、どうやら男のようである。

 黒髪かつ平均的な体格の男は一見したところ、どこにでもいるような、特別な力など有していない人畜無害な青年に見える。


 だが、この青年が、今皇国を恐怖に陥れている件の罪人である可能性も大いに残っている。


 音もなく死の気配漂う大地に降り立った女は、男の背後に回り込む。

 上昇する心拍音と警戒を悟らせぬよう、冷静さを装って声をかけた。


「止まりなさい」


 男は一瞬肩を上下にビクつかせ、こちらを振り返ろうとした。

 男の背中、心臓の位置に左手の人差し指と中指を突き立て、警告する。


「——動かないでください。少しでも怪しい行動をしようものなら、貴方の心臓を撃ち抜きます」


 女の警告に、男は振り返りかけていた顔を止めた。リリアの心臓が、大きく跳ねる。


 自分は冷静に言葉を発することができたであろうか?


 女——リリアは、騒つく内心で自分自身に問いかける。


 軍人として多くの戦場に立ったリリアでさえ、男の放つ異様な雰囲気に、身体が震えた。


 荒れ果てた、安全地帯と呼ばれた平和な大地。その大地に幽鬼のように佇む男の姿は、それだけでも異質だった。


 ただなによりリリアが異様さを感じ取ったもの。それは、一瞬だけ確認できた男の瞳。


 黒髪の平均的な体格の男。平凡な見た目とはうらはらに、その瞳は血が燃えるような、真っ赤な真紅を宿していた——



 ——まるで、『魔神イスティフ』のように。


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