第3話 ツグ
「こっちに良い店があるんだ。バーなんだけど、フードメニューも充実してる」
そう言ってノウは指をさす。
「そりゃいい」
ジブンが軽くそう答えて、ジブンたちは夜を盛り上げる店を決めた。
あたたかな街灯に照らされる少し不思議な裏路地を歩く。開けている店と閉めている店が入り混じった深夜。人なんて滅多に通らないお陰で非常に静かな夜を歩いていた。
「なぁ嬢ちゃん、名前は?」
「……ん? 名前なんて必要か?」
名乗りたくない訳では無いが、何故かその時は面倒に感じていた。
「必要だから嬢ちゃんが聞いてきたんだろ……。教えてくれないとフェアじゃないぞ」
こちらをじっと見て、ジブンを威圧するように灰色の瞳を覗かせる。
「名前がたくさんあると、どれを名乗ればいいかわからない。そんな感じ」
「じゃあ嬢ちゃんが一番気に入っている名前か……よく呼ばれている名前、教えてよ」
諦めてくれないことに困惑していた。魔法使いどもはこういえば「よくあるよね」みたいな感じでさらっと流してくれるのに、ノウだけはいつまでも引いてくれない。
「嬢ちゃん」
「そうじゃないって……」
呆れ諦めると思っていた。頑なに教えなかったら、ずっと「あなた」とか「きみ」とか「嬢ちゃん」って呼ぶしかない。
なのに、この男はいつまで経っても諦めてくれない。しぶとく、何度も何度も、ウザイくらいに聞いてくる。わざわざ目を合わせて話しかけて来たり、目の前に立ちふさがったり。
「うざい」
「教えてくれない嬢ちゃんが悪い」
「……はぁ」
数ある名前の中でただ一つ気に入っている名前がある。
たった一人しかいない、そしてこれからも増えることのない、唯一無二の家族。その人がジブンを呼ぶときに使ってくれている名前。
「ツグ」
「……え? 今、名前」
「わかった? 二度目は無いよ。それよりお腹空いた」
驚いた表情で、灰色の目を大きく開けて口を驚きのあまり開けたままでいる。
確かツグと言う名前は、ジブンが家族に対し本名を教えた時に聞き取れなかったことで生まれたあだ名だった。人間の、特に日本人の耳には優しくない言語だったらしく、苗字も名前も何一つとして聞き取れず、唯一聞き取れた部分が「ツグ」だったようだ。
その時のジブンは聞き取れない家族に対し、笑い飛ばしたはずだ。
ここまで聞き取れないとは! ……そんなことを思っていたような気がする。
「ツグの嬢ちゃん、か。本名じゃないだろ?」
「本名由来のあだ名だね」
「これで呼びやすくなったところで……ここだ、ここ」
そう言ってノウは一軒のバーの前で足を止めた。
店の前に置かれているボードには「last forest」と書かれている、お洒落なバーだった。
店の外見は全く違うが、かつてエンドシティを訪れた時に何度かこのバーを訪れることがあった。確かその時はダンディなお年寄りの男性と、その奥さん二人で経営していたはず。前に来た時からだいぶ時が経っている。もう彼らはいないだろう。
となれば、同じ名前と同じ場所でやっているこの店は一体何なのか。きっと、子供が受け継いで二代目とかをやっているのだろう。
「確かにここは良い店だったな。老夫婦がやっていた店だ、今は二代目とかだろうな」
「なんだ、来たことがあったのか」
ノウはあからさまにガッカリする。その気持ちは理解できる。
昔のこの店は本当に美味しい料理を振舞ってくれた。子供がそれを継いでいるかどうか知らないが、期待するのも悪くない。
「作り主が変わったら何もかも変わってしまう。来たことが無いのと同じだ」
「俺はその老夫婦の時代を知らねぇから、何とも言えねぇや」
そんな会話をしているが、二人ともこの店に違和感を抱いている。
扉が少し開いたままで、ドアノブ周辺には引っ掻き傷があった。
「ジブンが思うに、中で人が声を出せないほどの恐怖に襲われているんだ。きっとね」
扉の隙間から店内を覗く。案の定そこには狼人間が二人いて、若い女性が尻餅をついている。バー特有の雰囲気を出すために照明が多少落とされていて、ざっくりとしたことしかわからなかった。
「……俺は見ての通り兎だ。俺なんかが行っても逆に食われるだけで、ツグの嬢ちゃんが行ったところで魔法技師がマトモに戦えるとは思え……」
ノウの話が長いと判断したジブンは早速バーの扉を勢いよく開け、物音を立てた。無駄だ、と言われんばかりのわざとらしい足音もオマケにつけて。
「ちょっと待てよ! はぁ、嬢ちゃんは一体何を考えてんだ……」
背後で呆れられたような気がした。一時の呆れに怯えている暇があったら、正々堂々ヒーローの真似事をした方が良いと思うが。
「グルルルル……」
狼人間の二体いる内、一人が唸る。事故か事件か、もしくは、もっと大きな災害に巻き込まれているのか。その一片に過ぎないのか。できれば事件であってほしい。ただ切実に願う。
「助けてほしい? そこの女の人」
ジブンが意地悪をしてそんなことを言うと、藁にも縋る思いなのか必死に頷いてきた。声も出せないほどの恐怖か、取り除くのが面倒になりそうだ。
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