第3章:梅雨の憂鬱
6月に入り、紫霞女学院の校庭に降り続く雨は、まるで椿凛の心を映し出すかのようだった。凛は図書室の窓辺に立ち、曇天の空を見上げながら、深いため息をついた。
ここ数日、凛は自分の気持ちの整理がつかず、創作の手が止まっていた。ペンを握るたびに、心の中で渦巻く複雑な感情が押し寄せ、言葉にならない。月詠への想い、風花の純粋さへの戸惑い、そして自分自身のアイデンティティへの疑問。それらが絡み合い、凛の心を重く覆っていた。
「椿先輩、ここにいたんですね」
突然の声に、凛は我に返った。振り向くと、風花が心配そうな表情で立っていた。
「あ、風花……どうしたの?」
「先輩、最近元気がないように見えて……何かあったんですか?」
風花の真っ直ぐな眼差しに、凛は言葉を失う。風花の純粋な気持ちが、凛の複雑な心情と対照的で、一瞬たじろいでしまった。
「別に、何もないわ。ただ少し疲れているだけよ」
凛は微笑みを浮かべようとしたが、それが空虚に感じられた。風花は凛の様子をじっと見つめ、何かを感じ取ったようだった。
「先輩、よかったら一緒にお茶でも飲みませんか? 私が淹れますから」
風花の提案に、凛は少し戸惑いながらも頷いた。二人は静かに部室へと向かった。
部室に入ると、風花は手際よくお茶を準備し始めた。その姿を見ながら、凛は風花の成長を感じ取っていた。入部したばかりの頃の風花は、もっと緊張していて、動きもぎこちなかった。しかし今では、自信を持って行動している。
「どうぞ、先輩」
風花が差し出した湯飲みから、ほうじ茶の香りが立ち上った。凛はそっとそれを受け取り、一口すすった。
「美味しいわ、風花。ありがとう」
凛の言葉に、風花は嬉しそうに微笑んだ。
「先輩、私、先輩の詩が大好きなんです。でも最近、先輩が何も書いていないのが気になって……」
風花の言葉に、凛は動揺を隠せなかった。
「そうね……最近は、言葉が出てこないの」
「それって、何か理由があるんですか?」
風花の質問に、凛は言葉を選びながら答えた。
「理由……あるかも、しれないわ。でも、自分でもよくわからないの」
凛は湯飲みを両手で包み込むように持ち、その温もりに慰めを求めるかのようだった。風花はそんな凛の様子を見つめ、何かを決意したように口を開いた。
「先輩、私にできることがあれば何でもします。先輩の詩に出会えて、私は本当に幸せです。だから、先輩にまた素敵な言葉を紡いでほしいんです」
風花の真摯な言葉に、凛は胸が熱くなるのを感じた。風花の純粋さが、凛の曇った心に、小さな光を差し込んだような気がした。
「ありがとう、風花。あなたの気持ち、嬉しいわ」
凛は微かに微笑んだ。その笑顔に、風花は安心したように頷いた。
その夜、凛は自室で再びペンを手に取った。まだ言葉は滑らかに流れ出さないが、風花との会話を思い出しながら、少しずつ書き始めた。
「雨音に耳を澄ませば
心の奥で囁く声が聞こえる
それは迷いか、それとも新しい私?」
言葉を紡ぎながら、凛は自分の中で何かが少しずつ動き始めているのを感じていた。
翌日、凛は図書室で月詠と出会った。月詠の姿を見た瞬間、凛の心臓は早鐘を打ち始めた。
「椿さん、久しぶりね。最近、顔を合わせる機会が減ってしまって」
月詠の声には、少し寂しさが混じっているように聞こえた。
「ごめんなさい、月詠さん。最近は少し……考え事があって」
凛は言葉を濁した。月詠はそんな凛の様子を見抜いたかのように、静かに微笑んだ。
「無理をしないでね。でも、何か話したいことがあったら、いつでも聞くわ」
月詠の優しさに、凛は心が揺れるのを感じた。同時に、自分の気持ちの整理がつかないもどかしさも強く感じた。
「ありがとう。でも大丈夫よ。きっと、すぐに立ち直るわ」
凛は強がりの笑顔を浮かべた。月詠はそんな凛の表情を見つめ、何か言いかけたが、結局黙ってしまった。
二人の間に、言葉にならない何かが漂っていた。それは期待と不安が入り混じった、複雑な感情だった。
その日の放課後、凛は美術室の前を通りかかった。ふと中を覗くと、詩音が一人で絵を描いていた。凛は静かにドアを開け、中に入った。
「こんにちは、詩音さん」
凛の声に、詩音は驚いたように顔を上げた。
「あ、椿先輩。こんにちは」
詩音の表情に、一瞬戸惑いの色が浮かんだ。凛はそれを見逃さなかった。
「邪魔じゃなかったら、少し話してもいい?」
凛の言葉に、詩音はゆっくりと頷いた。凛は詩音の隣に腰を下ろし、彼女のキャンバスを見た。そこには、月詠の肖像画が描かれていた。
「綺麗ね。月詠さんそっくりよ」
凛の言葉に、詩音は少し顔を赤らめた。
「ありがとうございます。でも、まだ完成には程遠くて……」
詩音の言葉に、凛は何か引っかかるものを感じた。詩音の筆のストロークには、単なる技術以上の何かが込められているように見えた。
「詩音さん、月詠さんのこと、好きなの?」
凛の唐突な質問に、詩音は筆を取り落としそうになった。
「え……それは……」
詩音の動揺した様子に、凛は自分の胸の内を重ね合わせていた。
「ごめんなさい、突然こんなこと聞いて。でも、その絵を見ていると、詩音さんの気持ちが伝わってくるの」
凛の言葉に、詩音は深いため息をついた。
「先輩には隠せないですね。はい、私は月詠先輩のことが好きです。でも……」
詩音は言葉を濁した。凛はその「でも」の意味を察した。
「月詠さんは、私に興味があるみたい……そう感じているの?」
凛の言葉に、詩音はゆっくりと頷いた。二人の間に重い沈黙が落ちた。雨音だけが、その静寂を破っていた。
「私……月詠さんのことをどう思っているのか、まだわからないの」
凛は正直に告白した。詩音は凛の目をじっと見つめた。
「先輩、自分の気持ちに正直になることは、時に勇気がいります。でも、それが一番大切なことだと思います」
詩音の言葉に、凛は胸が締め付けられるような感覚を覚えた。自分の気持ちに正直になること。それは凛が最も恐れていることだった。
その夜、凛は再び自室で言葉と向き合っていた。ペンを握る手が震えている。
「雨に濡れた心の中で
芽吹く想いは、まだ名もなく
それでも、確かに在ることを知る」
言葉が、少しずつだが確実に紡がれていく。凛は、自分の内側で何かが大きく動き始めているのを感じていた。それはまだ形にならない、しかし確かに存在する何か。
窓の外では、梅雨の雨が静かに降り続いていた。その雨音に耳を傾けながら、凛は自分の心の奥底にある、まだ名付けられていない感情と向き合い続けた。
それは、新しい自分との出会いの始まりだった。
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